迎合と自己主張の考察
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。今回のテーマはですね、迎合か貫くか。
そういうですね、生き方としてですね。生き方の話なんですが、要は世に迎合というかね、従うみたいな感じですか。迎合って別に悪い言葉だけでもないと思うんですけど、
他人や社会に対して、社会に合わせて生きていくみたいな。適用を悪く言う言い方ですよね。
なのか、それとも自分という個があったり、もしくは個がなくても自分はこうなんじゃないかなというふうに思って生きていくみたいな。
この二択ではないけども、けどもですよ。二択ですって言ってたら話は違うんですけど、二択じゃないんだけどっていう前提で、
そのバランスを取りながら生きてますよね。そのあたりの確認ではないんですが、少しフレーズとして出てきたんで、このまま喋っていきたいと思います。今回もどうぞよろしくお願い致します。
はい、しごくりラジオの大橋です。今回ですね、生き方として迎合する、人や他者や社会に迎合するか従うか、それとも自分を貫いていくか、
己を貫くのか、この二択ではないんですがっていうところから何か話をしていきたいなと思います。このフレーズが出てきたから喋ってるんで、めちゃくちゃ深い意味はないんですが、
まずですね、経験が浅いとかあまりやったことがない、人生経験みたいなのがありますが、若い方だとね、20代とか30代の人もそうだと思いますが、別に偉そうに言うわけでもなく、単に選択肢がないんですよね。
あと思考としていろんなものをつなげられないと、ブリコラジオとよく言ってますが、今ある手持ちにあるもので何とかやるっていうのが、いわゆる場当たり的というか、その場しのぎみたいなものになりがちで、ブリコラジオというのはそういう意味ではないと思うんですが、
企業貧乏、企業貧乏という言葉があるように、貧乏って言うからよくないなとブリコラジオって言ってるんですけど、その捉え方があるわけですよね。つまり、いろんなことができるんだけど、それをできるだけだよねってやって、それをうまくいかせてないという時に、
ある種自虐とは言えないですけど、ややネガティブに見えるのが企業貧乏かなと思うわけですね。で、企業貧乏であるって思っている人ですね、まさに言っている人がいたら、その人は不器用でいいから金持ちになる。
俺しかできないっすって言って、タコを作る職人さんがいたとして、タコを作る職人さんを別にどうこう言ってるわけじゃないですけど、何がいいんだろうな、例えば文章にしましょうか。
しゃべることしかできないですよって。そんな人いないとは思うんですが、仮に本当にその人がしゃべることしかできないんです、だからしゃべってなんかやっていくんですって言ったら、それは不器用じゃないですか、たぶんね。
だけど、しゃべるっていうふうに決めてるから、もう別にできなくていいやと。ある種の割り切りがあると。それで別に芸能じゃなくてもいいですけど、成功して有名な人になったりとか、有名にならなくてもいいんだけど、それなりに生きていけるようになったという、成功ストーリーがあるとして、そんなあるかもしれないですけど。
そっちのほうがいいっすっていうね。っていうのが、器用貧乏の人が不器用金持ちに憧れるんじゃないかみたいなことを今しゃべってて思ったんですけど、そんなことあるかどうかわかんないですよ。
要はバランスの問題ですよね。今器用から入りましたけど、逆もありますよね。不器用貧乏っていうのもあると思ってて、今しゃべれるって言いましたけど、同じことで。しゃべることしかできないから、いやできないじゃないですかみたいな。よくあるキャリアじゃないけど、自分は人に自慢できるもんないです。しゃべることしかないです。自慢でもないし、しゃべること誰でもできるし、コミュニケーションできるし。
で、うまくいってないです。だから、器用金持ちになりたい。いろんなことをこなしてできる人。プログラミングから創作、仕様を書いたりとか、アート活動みたいなこともやるし、あらゆることに興味があったり。それこそ宇宙ロケットを作るとかもやる一方、農業もやりますみたいな。
そんな人よりかは知らないですけど、とりあえず器用ってことで、ハイパー器用みたいな。超器用っていう人ですけど。で、あれば、毎日違うことやってるよって。1ヶ月31日あって、30日でもいいですけど、毎日違うことやってる。だから1ヶ月で30個仕事をしてるとか、もしくは300プロジェクト回してるとかね。わからないです。
適当に言ってますよ。本当にあるかはわからないです。でもそういう人がいてもおかしくはない。AIもありますしね。
どちらにしても僕が言いたいのは、極端じゃないですか。どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、あなたが、もしくは自分がいいと思ったことでやりたくないですか。それがある種の物差しかなと思うんですよね。
例えば誰かの生き方を見て、別にその人を批判するとかは置いておいて、自分にとってはちょっとリスキーだよなぁみたいな。で、いうのを思ったら、じゃあそのリスキーじゃないところはどこですか。
もしくはチャレンジしてるなぁ、チャレンジしてないなぁと思ったら、リスクとチャレンジって比例すると思うんですが、チャレンジしてないならチャレンジするところはどこかなぁ。リスクから考えなくてよくて。
チャレンジしてるってのはどこかなぁ、トライしてるってのはどこかなぁっていう風に考えてみるっていうのはありですよね。だけどそれは結局僕もですが、僕とあなたっていう関係性があった時に、関係性というかリスナーとあなたって関係の時に、僕がいいなと思うのと、あなたが思ういいバランス、さじ加減は違うわけですよ。
味覚と一緒で言っていいでしょう。塩っけが強いのがいいのか、それともそこまでないのがいいのか。辛さとかも出ますよね。辛いのか、辛すぎるのか、適切な辛さなのか、甘いのか、そもそも甘いとか辛いのがないのか。
そんな感じでバランスじゃないですか。よくバランスだとか中庸的って言いますが、これが別に何かをごまかしてるわけじゃないんですよね。考えないっていう意味での中庸じゃなくて、考えた上で、極端にやると他人とか社会に合わせすぎれば自分が壊れますよね。
期待と自己表現のリスク
全然笑い話じゃなく、あるのかもしれませんが、他人が思う理想の自分を演じる。例えば僕であれば、僕は別にそんなことないんですけど、仮に僕がやってたとして、ITが得意だからということで、ITが得意な人を演じるみたいな。
演じてはなくて、自分も面白いと思ったからやっていた。それが重なってプログラマーになったとか、プログラミングとかITの仕事をやったっていうのがあるわけです。実体験として。それもいいですけど、でもそれを演じてしまったら、
AI使ってるっていうのがかっこいいと思うから、やるのは別にいいと思うんですよ。それくらいは全然いいと思うんですけど。っていうことを演じることで、いい人に、すごい人に思われたいから演じようだと、それ演じてるじゃないですか。
演じるのはきついと思いますね。お勧めしないです。きっかけぐらいはいいですけど、演じ続けてるのはちょっとなって思います。で、まあ、仮に演じてても問題にならないケースがあって、演じることが仕事っていう、役者の人は全然問題になられてます。
で、役者でさえ演じてるから、よくあると思いますが、演じているドラマであるとか、舞台であるとか、その役が憎い、その人が憎くなるってことあると思うんですよ。でもその人はそんな性格じゃないんだけど、演じることができる。それが役者じゃないですか。すごいなと思いますが、
そういう、その役を演じるとかは例外ですが、それは違いますよね。やっていいですよね。で、もう一個は、あ、すみません。役者の人でさえ違いますからってことです。戻しますよね。それが正常じゃないですよ。
気の強い役をやってたけど、別に気が強い人じゃないなんてことは、ザラにあるというか、それが普通なのかなと、よくあることかなと思います。で、その役を演じて、役というか、自分はそういう人になりたいわけじゃないんだけど、そう思われてるからってことで、期待された人を演じることで、いわゆるうつ病じゃないけど、ちょっと精神的に病んでしまうとか、
要は、もう続けられないみたいな、疲れたみたいなね。疲れちゃったよ。で、休んでも回復しないみたいなところは、まあ、なんていうの、やりすぎですよね。っていうぐらいです。僕は別にカウンセリングツールとかそういうことはないので、そこは言いっぱなしになっちゃうんですけど、それはやりすぎですよねってことで、やめたほうがいいんじゃないかなと思います。
でも、まあ誰かに、これがまずそのね、社会とか他人に迎合するパターンの、最大のものの良くないパターンではありますよね。要はその誰かの期待に応えるっていうのも一つの例かもしれませんが、期待に応えるのはいいんですけど、期待を応えようするのはいいんですけど、それが別に望む自分じゃなかったらとか、そんなことまではしたくないよねってなったら、どうです?やっぱ体って壊れませんか?僕は壊れると思う。
食べたくないものを無理矢理食べさせられているような感じとか、いわゆる日本人が好きか嫌いかわかりませんが、義務という言葉がありますが、義理とかね、義があるんですよね。本来いい意味のような気がするんですけど、なんかはまらない感じもしてますね。
僕もあんまり好きじゃない感覚ですけど、義務だよなんて言ったらね、なんだそれってなりますけど。そういう極端な誰かに会わせるみたいなのがあります。
でも一方で逆もあるわけですよね。自分はアートをする、自分で見出したものを見てもらうのがいいし、自然に出てくるからそれをやりたいんだ、芸術家とか画家とか何でもいいです。やっていきたいんだ。もしくは会社員とかっていうことをやってもいいんだけど、自分のやりたいことは主張して通す。
自分がやりたかったらその中で通していくみたいな。これもある種の画を通しているとか、自分を貫くみたいなのもあるかもしれないです。それはもう極端なことであると、ご飯は食べられないみたいな感じ。苦しくなっていって、生活は苦しくなるんだけど、そんなことはできないってことでプライドが高くてできないみたいなパターンもあるんじゃないかなと思います。
これはなるほどなと思います。要は自分がやりたいことを追求しすぎて、いわゆるモラトリアムとかっていうところの、モラトリアム猶予期間っていう意味ですが、そういう、一通昔前、最近全然聞かないですけど、フリーターという言葉がありました。フリーアルバイターというリクルートが作った言葉だと思いますが、
当時は1980年代ですか、70年代かわかりませんが、最先端の働き方だってことで、要は学校卒業、大学とか出て、定職という、いわゆる今で言う正規雇用ってやつですよね。会社員とか公務員とか、そういう定職につかずにアルバイトをこなす。アルバイトは非正規もしくは短期雇用ですよね。長期雇用ではない前提として。
フリーターの現状
誰でもできると言ったら怒られますが、そんなにスキルを求めないような仕事でできるものをやる。例えばレジバイトを下に見てるわけじゃないですか、レジをするバイトにすごい高いスキルってあんまりいらなくて、持ってきたお客さんの商品をスキャンして、いくらですと言ってお金をもらいっていうことをやるんですよね。
あと、最近だとセミセルフレジですか、半分、レジもセルフになっているので、バーコードだけやればいいっていうんですよね。
ここでレジのその人にお客さんがこれはどこにありますかって聞かれたときに対応するかどうか問題はあると思っていて、ちょっと僕はわかんないですけど、お店によるしやり方によるんでしょうけど、そこで対応せずにもうそれは他の店員さんに聞いてくださいっていうふうに回すっていう対応をしてたら、後でいいやとか。
それでサービスが良い悪いとかは知らないですよ。置いておいて、それでレジでバーコードするっていうことを仕事にするっていうことです。別にフリーターの人は全部それやってるわけじゃないですよ。
でもそれこそ今で言うタイミングみたいなもんなんでしょう。要は自分でやりたいことを隙間で選ぶと。隙間って言ってるだけであって、本質が別にパラレルキャリアみたいな感じで副業って言ってもいいし、起業をして自分でやりたいことをやるとかでもいいし、設計というか考え方は別に自由なわけですよね。フリーターのフリーって自由だと思うんですが、そういう感覚があると。
演劇じゃないですけど、役者やりながらアルバイトしながらやるっていうのも別に全然ある話だし、それを全然否定するとかはないんですが、その夢を追うみたいなのがあるわけですね。
バンドをやってそれで売れるまでやるみたいなのがあって、ストーリーというかパターンみたいなのがある。だけど当たり前ですけど、売れて目立つ人ってごく一部なわけですよ。
前に宝くじの話をしましたけど、宝くじって1万分の1とかじゃなくて1000万分の1とか100万分の1とかかなり当たらないですね。まあまあそれを置いておいて。
それほど確率は低くないけど、そういうのがいいかどうかを置いておいて、それを夢を追うということで、美化しがちなのもありますよね。
だから別にバンド活動をしてやりたいという人を否定しているわけじゃないですよ。そういうのがあると。
ここで正解がないなと言っているのは、バンドで成功するバンドマンがアルバイトをやって日々練習してますでいいんですよ。でやっていくじゃないですか。
だけどそれを70歳死ぬまでやれないわけですよね。なんでやれないのっていうのは、シンプルに雇用主にしましょう。
雇ってくれる会社とか店舗がずっと雇ってくれないですよね。少なくともその子で20歳の人が50年アルバイトするわけにはいけないというか、アルバイトするってことはないと思うんで。
僕は聞いたことないだけなのでやってる人がいるかもしれませんが、その場合でも雇用主が50年間契約しますというわけにはいかなくて、じゃあ1ヶ月ごとねみたいな感じで1ヶ月を更新してやり続けるかって話なんですよ。
あと単純に稼ぎで食べていけるかっていう問題もありますよね。あとはその人が飽きずにバンドをやれるか。たぶん50年もあってバンドの活動をずっとやれるかっていうと、プロでさえ辞めてそうな感じもしますよね。
夢と現実の葛藤
だからそこまで生涯というか一生やるっていうものになっているかは非常に怪しくて、言ったけど3年くらいやってうまくいかなかったから辞めるくらいの方が割とあるんじゃないかなっていう。
しかも様々な要因があるわけですよ。自分でシンガーソングライターじゃなかったら、バンド仲間との練習とか関係性もありますし、自分のその技能がギター、ベース、ドラム、何でもいいですけどボーカル、それがうまくなっていくことは確かなんでしょうけど、その限界も感じるわけじゃないですか。
練習してみんなうまくなっていって、他の人も同じようなことやってて、このままでは良くないからバンドの方針じゃないけどジャンルを変更しようとか演奏するね。
お金をもらってやるのか、お金をもらわずにやるのか、バンド活動みたいなやつで。ただ演奏してるだけで面白くないから、トークを磨こうとか。
そういうのはめちゃくちゃあるじゃないですか。つまり、バンドで音楽でメジャーデビューみたいなことを夢見て、今はそんな時代じゃないかもしれませんが、SNSあげる、YouTubeあげる、音楽専用のやつあげるみたいなところで、
それをやり続けるのかっていうところに、僕は大いに疑問を持ちながら、別に僕がやってるわけじゃなくて、それをやり続けるって言っても、特に若い人はやり続けられなかったり、他の人に興味がいくじゃないですか。
だから、そこって上手くできてるのかなと思ったりするわけですよ。結構飽きるし、上手くいかないと。
例えば10年くらい頑張りました。20歳くらいで、自分のやりたいことをやるという風にカードを切って、周りが会社とか働いてるけど、自分はバイトしながらバンドをやって10年経って今30歳ですみたいな人がいて、
自分も目は出てないし、全くできなかったわけじゃないんだけど、今どうしようか悩んでるとか考えてる人がいるとして、そんな人がいるかどうか分からないですよっていう相談があったわけでもないですよ。どうするんだろうねって話になるじゃないですか。
別にバンドをやったわけだし、数をやったわけだし、それが20歳でやってない時だったら何も分からなかったし、経験として積んだわけじゃないですか。
今はまだ火種というかバンドをやりたいというのがあればやればいいんでしょうし、あとはバンドをやるということが別にメジャーデビューして夢になることだけじゃなくなるじゃないですか。
これをたまに夢を諦めたみたいな人っていう風に扱われたり、失敗みたいな風に扱う人がいると思うんですよ。分かるんですよ。
失敗って言ってもいいけど、でもそれはチャレンジというか目標設定の話で、確かにゴールがメジャーデビューという風に来て、商業レベルというところか会社から声がかかったり、
そこからCDというか配信があったら契約したらそれでプロに上がったから、それがなかったとするわけですよね。アマチュアのままだったってことだからできなかったわけですよ。できなかったんだけど、だからダメでした。
社会の影響
っていうのは確かに失敗ですよね。でもそれを目標に捉えずにそれまでの過程10年があってやってきたんだから、それって結構僕はすごいことだと思うんですよね。別に励ますというよりもシンプルにすごいと思います。
自分がやりたいと思ったことをやった。それいいじゃないですか。という風に自信を持てよということは、簡単に言いますけど、本当に自信を持ってほしいなという風に思うわけですね。
じゃあ10年経って20歳から30歳になりました。じゃあその人はどうしたいの?どうするの?ということになるんですけど、その人が会社とかで仕事が今からできるかわからないけどとりあえずやっていこうと思います。
だったらもうそれやればいいじゃないですか。別に付き合い話してるわけじゃなくて。つまり僕が言いたいのは1ヶ月ということは言わないですけど、1年とか年経てば興味変わるし、今言ったように20歳の時は自分を貫いてバンドだって言ったけど、
30歳の今は家庭を持つというか、別にシングルというか単身だけど、彼女がいたりもしくは付き合っている、彼女と結婚するみたいなことが前提としてあったりしてて、チラチラしていて、さすがにこれ俺このままじゃまずいよねみたいなのが現実問題。
これは男性目線というか男性口調になってますが、別に私でもいいわけで女性の方でもいいわけですが、そういう社会の風潮なり習慣、慣習なりを受けつつ生きているわけですよ。全く影響を受けていない人は僕はいないんじゃないかなというふうに社会学ではないですが、社会的に見たいのでバイアスがかかっているかなと思いますけど。
人間じゃなくなりますよね。みんな誰からの影響を受けていないというのがあると。ロボットでは違います。ロボットでさえ学習しているから違うのか。だから20歳の時は自分を貫きました。30歳ではゲイゴーとは言わないけど、昔はゲイゴーだと言ってたが10年前はですよ。
今はそういうことはないからそれでやっていかなきゃいけないなという考え方がだいぶ変わったかなって。実際に車のディーラーじゃないけど、車の整備工場じゃないけど、興味があるからそういうところで、未経験だけどやっていって、とりあえず整備士とか車いじるの好きだったよなっていうのを気づいて、その人がバンドと車好きが繋がるかわかりませんが、そういうのは自己認識してね。
最初は微分かなと思ったけど、やってみると持ち込める部分が見つかって、バンドとは違うんだけど、お客さんの車を直して喜ばれるのが楽しいですよねって気づいたわけです。
これだけ聞いたときに別に僕がワケしてる顔で何か語るわけでもないんですけど、この人にとって整備士になるために働くとかっていうのが別に負けではないわけじゃないですか。なぜか勝ち負けみたいなのがどこかにあって煽ってくるわけですよね。
もうさすがにそれなくなってるなと思いますね。昔は勝ち組負け組って言葉がありまして、大分王を引いてたような気がしますが、勝ち負けっていうのはもう意味がわからなくなっているような感じがしますよね。
なぜかというとやっぱりコロナ禍が大きかったんじゃないかなと思います。もう開けたからいいやっていうふうにさすがに気軽に言える人はまだまだいなくて、もう開けたね、何かあったねっていうには行っててもやはり残ってて10年ぐらいかかるんじゃないですか。
まだ。それぐらい人の記憶とか影響って強いんですよね。って思いません?って僕は思います。だからめちゃくちゃ影響を受けてるんです。だから特に今の20代とか30代の若い人なんていうのが影響をめちゃくちゃ受けてるし、行動制限もさせられたろうし、自分がやりたかったことができなかったなんていうのもあるから、
特に今を生きる、今やりたいとか何かとかを重視したい人はやっぱり重視するんじゃないかな。一方逆もありますよね。社会で求められるということもしくは周りがどうかということをやっぱり気にして、っていう行動を典型的に取りやすいというか、同調圧力もしくは社会、みんながやってるってやつですね。
変わらないと思います。そんなに変わらない。みんなやってるからやるっていう風に言ってないだけで、みんなが言ってるやってるが単にSNSでなっててみんなやってるっていうのってあるわけじゃないですか。それに乗らないとどうなのっていうのがあって、僕はちょっとよくわからないですけど、別にそれがダメでもないし、みんながやってるからやるっていうのもいいんですよ。
いいと思うんだけど、それだけを全部自分に埋めていくと、あなた何色ですか?みたいな話になって、他の人の色で埋めてみたけど、自分がぴったりの色とかっていうんじゃないかな、みたいになるわけです。そこで虚しさを覚えないなら全然それでいいんですけど、なんか虚しくなったりするわけです。
自己のアイデンティティ
自分の色ってなんだろうね、みたいな。そこの一つの解決策にはならないし、お勧めしないのが考えないことですね。それを考えずに自分の色はなんだろうねって考えずに生きることで乗り切ろうとされる方がもしかしたらいるかもしれませんが、全くお勧めできません。
病むんですよね、たぶんそれやるとね。逃げるみたいな感じですよ。逃げることを、別に逃げてもいい時もありますから、逃げてもいいんですけど、逃げ続けて、逃げ続けて、いつまで逃げますか?みたいな話。
あと逃げるのが、誰かから逃げてるわけじゃなくて、自分から逃げてるから、自分ってずっといるんですよね。そうそうそうって感じです。
だからさっき言った話でバンド活動をしてメジャーデビューするぞっていうのも自分だし、性別向上で勤めてやっぱり社会人として働いていこうよねっていうのがあるっていうのも自分じゃないですか。
これ真逆じゃないですか。10年前のその人だったら言わなかったことをやっている。それが人間って思考も変わるし考え方も変わるし興味も変わるしってことで、数年単位で変わるんじゃないかなと思うんですよね、僕は。
僕は思ってます。それが早い人もあれば遅い人もいる。適応が早ければ飽きやすいし、適応が遅ければ飽きないかもしれないです。
もしくは適応してもさらに違うものを求めることができたり、もしくは改善したり、改革というか、変えていくことができたら飽きづらいのかなとか思ったりしますけど、
そんな感じでフリーターでバンド活動でメジャーデビュー、バンドメジャーだ、メジャーデビュー目指すっていう謎のペルソナじゃないですけど、
勝手に生成して、僕が勝手に生成してるわけなので、そんな人がいるかわかりませんが、考えてみましたけど、やっぱり変わるわけですよ。
一人の人の人生の中でも何度も変わるし、何度もってことは本当に何百回もってくらい言っておいてはいいですか。
年の一年の中でも変わるし、もしかしたら一日の中でも変わるかもしれない。
でもさすがに毎日この仕事辞めようかどうかなんて考えてるっていうのはもう末期というか、もう辞めた方がいいかもしれないんで、それを考え続けるのやればね。
社会とのバランス
そうやって次のステージに行くとか、毎度考え方を変えてやってみるっていうのは非常に大事なわけですよ。
タイトルの方に戻っていくと、他者への迎合ではないんだけど、最初の3つは貫くのか、他者社会に迎合するかっていうところに行くと、
別に両方あってもいいよねっていうのが僕の感覚なんですよ。
感覚としてはそうなんだけど、なぜなら社会に生きてるってことは結局迎合の要素があるわけですよね。
法律守りますよね。人を謝めたりしないじゃないですか、普通は。むしろ人を助ける。詐欺しないじゃないですか、普通は。
してる人いますけど。それも置いといて、そういうルールの中で生きていくと。
もう一歩貫くとはいえ、人を傷つけて、あえて傷つけたい人も多分いないと思うんですよね、普通は。
でもコミュニケーションのミスとか、そういう意図はなかったんだけどみたいなこともいっぱいあるわけですよね。
呪縛の罪に続かれて文脈を切り取られて文字だけ持ってこられたら、やられるっていうのがわかるよね。
それを切り取りの怖さっていうことで、昔からありますし言われてますよね。
そういう時に結局このバランスの取り方っていうのは、自分の中でのバランスですよね。
今は右というか左とか上下でもいいんですけど、どっちに傾いてるんだろうとか、どっちを今やってるんだろうっていうのがあった時に、
最初はやっぱり見えないから、要は距離感がわかんないですね。距離感なりフィールドの大きさがわかんなくて、
まず右に行ってみて、ぶつかるところまで行こうって言ってやっていく。壁にぶつかるっていう例でもいいし、
違う考えで出会ったっていうのにぶつかるでもいい。今度は左に行ってみて、何か違うものがあるんだなっていうことで、
その領域っていうのがどれくらいあるのか、幅の広さみたいなのがまさにこの探索活動みたいなね。
探求よりも探索ですね。横に広がるみたいなイメージですね。探求は上下というか深掘ってそのままに行ってどんどん高めていくって感じですけど、
そんな感じがします。そのバランスっていうのはその広さに比例するのかなと思います。
だからさっき言ったフリーターで何かやってたっていうのも全然いいし、そういうことを引きこもってて何か全然仕事してないっていうのも
引きこもりの体験があるっていう風に、アドラー心理学じゃないですけど、ポジティブに捉えられるんです。全部経験なんで。
僕が別に僕の仕事に引きつけるわけじゃないんですけど、アイデアを出す時も個人の方とかが多いので、
もしくはその相談する人、もしくはその企業でなると、その人がどういう持ち味があって何をしていったらいいだろうねっていう風に半分になってるんですよね。
その人のやってきたことが他の人と一緒ってことはまずないわけですよ。抽象化すれば一緒ですよね。
会社員で営業やってましたっていうのも、営業だったら営業やってる人はいっぱいいるかもしれない。
プログラマーだったらプログラマーいるかもしれない。さっきの整備士の人も整備士でいっぱいいるかもしれない。
保育士とかいろんな人いるかもしれないけど、全く同じ仕事やってないじゃないですか。
あと同じ保育士でも全く意識が違ったり、整備士でも意識が違うと全く違うじゃないですか。
そこで何を仕事として得たのか、要はありがとうと言われる整備士とありがとうと言われない整備士みたいなのがあるのか。
別にそれは適当にやってるわけじゃなくて、ビジネスとか仕事の仕組みとして、さっき言ったレジ打ちの人で別にバーコードはAPPってやればいいって思う人はそうだし、
自己啓発っぽいですけど、でも実際そうなんですよね。
その時にレジ打ちじゃなくて、社会学者がたまにやっているフィールドワークでレジ打ちのバイトをやって、それでどういう状況かを調べるみたいな、
自分が入っていくやつあるんですけどね。そういう実証というか検証の方法がありますが、座って入っていくみたいなやつでやると、
その人はあくまでも学者として研究者として入っているわけじゃないですか。
それを研究されると嫌だという人がいるかもしれませんが、実際に現場に入って自分が体験してそこの中の声を集めるということは非常に興味深いことですし、
出てこない現場の声がわかるかもしれませんよね。
で、複面調査みたいなミステリーショッパーみたいなのもありますし、それはわかりませんが、少なくとも意識が全てとは言いませんけど、
その人がどう仕事をしてどう考えて、仕事だけじゃなくて生きるということですけど、どう生きて、それこそ意味をどこに持たせるかで、
バーコードをピッとやるリズムで新しいゲームを作ってもいいし、リズムをよく小気味よくやるんだけど、その間にお客さんと話をして、
それが認められているとか、推奨されているとかはしていないですよ。
だけど、それで自分なりの仕事の仕方をアレンジしていったら、もしかしたら行列ができるレジ店員さんみたいなのができるかもしれませんよね。
そんなことを狙わなくてもいい。狙うとか狙わなくても全くよくて、そのレジ店員さんが何をしたくてどうしたいか、
こういうふうにしたら面白いんじゃないかなっていうのが認められたり、職場がもしかしたらやっていいよって言ってくれる人がいたり、上の上司とかリーダーとか店長がね。
それを受け入れてくるお客さんがいて、それを嫌だなとかあまり私にも話したくないって人は別に来なくていいですみたいなのがなんとなく分かってね。
そんな仕組みはちょっと置いておいて。
それはレジ店員というかレジでバーコードをピッてするっていう仕事ではもはやなくお客さんもね、その人の話をしに来てるんだというふうになるわけです。
これが僕は仕事づくりだと思うし、その人の仕事の価値だと思う。それは多分大体言って結構難しいって思ってます。
それがどこにもかしこもみんなレジで喋るようになりましたみたいなのが起きたら、それはそれでなんて言うんだろう、もう社会は変わってますから認識も変わってません?
レジって喋るとこだよねみたいになってるはずなんですよ。
そういうところがあるんじゃないのかなと思います。仕事づくりって思ってます。
だから、それ戻すと結局その極端なものっていうのは僕は続かないんじゃないかなと思うわけです。
天職の概念
社会に迎合なのか個人を貫くかみたいな、二択じゃないよねってことをまず言っておきたいしそう思ってます。
だけど、実際にはどちらかの選択肢とか何か自分の今はこうだなって選んでそれをやってみるしかないっていうのが実情じゃないですか。
選択肢が2つ3つ4ついくつあってもいいんだけど、選ぶのは自分じゃないですか。どれか一つしか選べないという状況があって、
もちろんそれを全部4つを満たす何かがあるかもしれませんが、まずそういうのはないというふうにしましょう。
もしくは、したところで中途半端になると4つ全米ランダムになるので、どれも中途半端でスタートすらできなかったりするってもあるから、
それはやめましょうみたいな時に選びます。選んでやってみてどうかっていうところが一番のポイントになるかなと思います。
それを踏まえて次にやる。そうやって真副じゃないんだけど上下とか左右というかバランスをとっていって何やっていったらいいんだろうねっていうのは探求というか探索か活動というのは長くなるんじゃないかなと思ったりします。
これは別に僕がどうだろうとか決まっているわけでも正解ではもちろんないですけど、結局これをやったらいいみたいないわゆる天職といわれる天の方ですね。
この仕事はいいなって思えるようなことって自分で見つけていくしかないんですよね。これやったら天職じゃないみたいなのがあって、それをやるっていうわけじゃないですよね。
今やっている仕事に不満がなかったり、不満がないし満足していて、給料じゃないけどお金も別に満足で、やっている関係性もいいし学びもあるしみたいなのって天職かもしれないですね。
だけどそんなお金とか学びとかの条件とかってぶっちゃけどうでもよくて。
なんでかっていうと、今は天職って言ってるからお金を稼ぐってことがノエントにあるんですけど、逆でそういうの全部取っ払って自分が満足しているものがない。
もしくは学びがないとか不満であるってことが全部不満じゃないよ、全部いいよっていう風に全部100%が考えるのは難しいとはもちろん思うんですけど、実際問題ね。
だけどお金だけじゃないってことなんですけど、自分がこれがいいよっていう風に思ってしまえばそれが天職なんですよねって話なんですよ、結局は僕の感覚では。
自分の価値観探求
だから天職って言葉も怪しいというか、要はその人が誰かがこういうの天職だしいいよって言って自慢というかいいよって言ってるんだけど、全然自分にとってそうでもないから、もしくは自分はそういう満足できるものなかなか見つからないですよって時に焦るわけですよね。
そういうのはない、自分は良くないと。でも焦るのは分からないでもないんですけど、焦ったところでやっぱりないですよね。見つからないじゃないですか。
あの人がすごいとか言っても結局自分の行動とかを変えて見つけていって自分なりに探っていくことでしかない、要は他人は他人自分は自分になりませんかっていうのが僕の感覚ですね。
なのでバランスをとってくださいっていう風にはもちろんなるんですけど、自分の中での考えも変わるしっていうところがあります。
最近これはもう長くなるから言わないんですが、結局僕にとってですね。じゃあ大川さんあなたはどうなんですかって言われた時に、結局自分が微妙だなとかちょっと違うなみたいなことってあるわけですよ。
っていうことって小さいこととか大きいことっていうのは、あなたもしくは他の人にとっては、僕じゃない人にとってはそんなことでって思うかもしれませんが、結局そんなことでが一番大事だったりしません?
例えば職場で挨拶誰もしない職場って嫌じゃないですか。だけどものすごい業績がいいとするじゃないですか。あんまりないと思うんですけどね。
そういう時って心理的に矛盾するわけですね。こんなにいい職場パフォーマンス上げてるんだけどコミュニケーション全然ないよなみたいなものがあったりします。楽しいですか?みたいな時に。
だったら別にそこまで業績上げてなくてもコミュニケーションを取る方がいいわってなる。これは別に僕がコミュニケーションを取りたいって言ってるだけだから。
コミュニケーションを取らなくても業績がいいってことを欲してる人たちが集まってそれをやってるんだったらそういう集団になるから、もしそういう人でコミュニケーション取りたくないけど業績が上がっているところに行きたい、そういうところでやりたいってなったらそういった方がいいですよね。
でも僕はあんまりって感じですね。っていうだけです。考え方の違いがあるわけです。
僕があんまりコミュニケーションを取らないようなところに行ったら多分あんまり面白くないと思うし、想像しただけでストレスになって胃が痛くなってくるんで、それはやらないですよ。僕はね。
それだけです。だから選ぶことも違うし考え方も違うということになるというところで、じゃあそういう場に僕がいてやり続けるかって言ったら、なんか業績いいんだけど微妙だよねって誰も喋ってないんですよね。
気持ち悪いっすわっていう言葉を選ばずに言うと自分の中でいいですよ。合わないなってなって、それを仮に頑張って改善しようとしても、なんかみんなそんな興味ないっすみたいになるから、まあいいかってことで違う道を探るってことになるわけですよ。
この時にそんな挨拶するとかどうでもいいよねとかコミュニケーションすることってどうでもいいよねっていう人もいらっしゃると思うんですよ。全然あると思う。だけど僕はそれ重要だからそこは譲れないっすってなって、まさに自分が譲れないポイントっていうのをたまに言ってますが大したことないよねチェックっていうことで僕は言ってますが、
自分が大事にしているかもしくは何か大事にしているようなものっていうのを一回否定してみて自分の中で検討してみて、誰かに批判されたら罵倒されろってことじゃないんですよ。
で時になんかやっぱりちょっと違うのは譲れないやんとかなんかイラッとするとか感情が動くって感じですよね。なんかこだわっちゃうというかこうしないといけないんじゃないのかなと思っちゃったりとかする。その感情が動くっていうのがポイントで動いたら多分それは本物っていうのはその一流っていうような意味じゃなくて全然ね。
自分にとって大事なことって意味の本質であり本物ってことですね。大事なんだよねってことがわかると思います。だから今ね僕が仮に喋ってますけどコミュニケーションがないようなそういう仕事場って相当辛いっすよね。黙々と何かやってはい終わった。
自分がその要は小さなこだわりとかじゃなくてこだわっているってこと自体を大事にしましょうってことでもあります。っていうそのこだわりがもしそのこだわりが絶対できなかったらもう生きていけないとかそんな極端に考えずにそういうこだわりはまず大事にしましょう。
そういうこだわりはまず大事にしつつさっきのバランスを取るってことを組み合わせていくとなんかいい感じになるのかなっていう話です。だから別にそれだったら絶対いい感じになるかどうかわかりませんけど少なくとも小さなことっていうのも小さなことだから大事なことじゃないよねって思いがちですが
じゃあ大きなことを大事にするのかって言ったらじゃあその大きなことって何って言ったら結局小さなことです。小さなことを積み重ねるじゃないですかアイディアもそうだし仕事もそうだし生活もそうだし小さなことから始まるみたいなにはなりますよね。
もちろんその小さなことも人によって違うからその小さなことは無視した方がいいよねっていうのもありますしいやもうこれは正解がないですよだからわからないです。だから別に他人に迎合しろ社会に迎合するというわけでもないし自分を貫いてやらないといけないとも僕も思わないです。
だけどその人なりのバランスというかさじ加減というところでこれぐらいだといい感じに伸び伸びできたり動きやすいなっていうのは多分ある。多分あるです。多分あるとしか言いようがない。
適切なバランスの探求
だからそのいい感じで伸び伸びできるポイントテニスとかのいわゆるスイートスポってあるんですがテニスのラケットのちょうど中央もしくは上ぐらいかなその力をいい感じでボールにラケットから与えて飛んでいくインポケットするみたいなのがあるんですけどそこに当たるとすごい飛ばしやすいんですよね。
じゃないところに当たると良くないです。無駄な力がいるしガットが結構切れますね。ガットというのはテニスラケットの張ってある糸というかね。糸ですね。超強い糸みたいな。弾きますよビーンって。弦か弦みたいなもんですけど太さがありますね。
というわけでそんな最適なところってないよとかもしくはコンフォードゾーンみたいなのありますよね。ぬるま湯みたいなのもまた違う。ぬるま湯っていうのはどっちかというと温泉でこうなんていうのを使ってゆったりする感じですよね。
温泉っていいけど温泉使いながら仕事はちょっと違うじゃないですか。リラックスみたいな意味で言えば大事ですけどね。じゃなくてじゃあ厳しく洗わねばならぬとかもちろんないんですが自分にとって学びとか成長してないなっていうのはまさにそういう刺激がないっていう感覚がまさに僕の感覚では強いんですがその刺激がないのはあんまり良くないかなと思うんで
最後にすごく簡単にまとめると社会にゲーグをするとか個人を貫くっていうような二択、一つの二つの選択しかないわけじゃないです。で、仮に一つ選ばざるを得なくてもそれが多分ずっと続くわけでもないよなっていう話です。興味って変わりますからね。
変化していく中で結局それをやり続けるのは難しくて変わっていくんでその時って結局自分が寄りどころって結局自分みたいなもしくは他の人との関係性で寄りどころになることもあると思うんでコミュニティとかで繋がりとかあると思うんですが少なくとも何か寄りどころみたいなのがないと大変というかフワフワするんですよね。
でもそのフワフワするんだけどかっこたる意思とか、意思は全然筋があるっていうのは前回言ったんでもう言わないですけど、転職だとか最適解とか自分の軸みたいなものがあるかどうかっていうと正直よくわかんないですね。変わるし。
だから今はこうだよねってぐらいで言っとくぐらいで、じゃあそのさっきのバンドマン、メジャーデビューまでずつバンドマンの話しました。20歳の時にバンドだーって言ったけどフリー隊だったけど30歳になって違うなーって思って、でもそれ勝ち負けじゃないじゃんっていうね。
その評価自体がちょっと物差し自体がちょっとポンコツというか微妙なんじゃないですかって話なんです。物差しを何で測ってるのかっていうところにはやっぱり自覚的でありたいですよね。それなんで良い悪いって言うけど誰が言ったのみたいな。社会なのって社会に何みたいな。特定の人じゃないのとかね。
そんなもんですよ多分。物差しをいじってみたり物差し変えてみたらいっぱいあるじゃないですか。誰かが捨てるようなものでも誰が喜ぶみたいなのあるわけじゃないですか。いくらでもあるのでそれって視点の移動ではあるんですよね。見方を変えている。
で視点の移動とか見方を変えることができるってことは、すなわちさっき言ったようにバンドオーマンでフリーターで経験してて、さっき話ではなかったんですけど30歳から整備してて言ったのは車の工場とか整備みたいなことが関わるようなことがチラッと出てきたり車のね、いわゆる何だっけあれ名前出てこない。
カーケア用品かそういうところで働くことがあった時にちょっと面白かったみたいなね。っていう経験があって別にそれいいんですよ後付けね。興味があってやってみて実際に整備してて面白かったっていう。
なっていったら何でも経験だから経験があるから体験があるからそれがあなた自分ですよねを形作っているわけですよ。だから同じような仕事とか同じようなものが仮にあったとしてもやっぱりそこはですね自分、あなた、あなたですね。
あなたもそうです自分僕もそうですけど自分は自分でやっぱり違うわけですよね。物差しも違うし考え方も面白いほど違う。だからそのやっぱ違いを楽しんで自分なりにわからない必要はあって言いながらそのバランスですよね。
未来の可能性
だから真ん中にぴったり分けていくっていいんでグラグラしながらでいいんで。安定する位置っていうのが多分ある。多分ですよ。絶対あるとは言えなくて多分あるんじゃないかなぐらいです。それを探ることがもう嫌だっていう人は全くこのラジオが面白くないんですがその探るの面白いかもしれないなとか探ってて自分はこんなこともできるんだ。
もしくはこんなことが苦手なんだなってことが気づいていくことが僕は最後に面白いと思ってます。それがアイディアとかアイディア出すとか企画を作ったりするところから攻めてるのが僕が飽きない理由なのかなと思っててこれをもっと機械的にやれって言われたら途端に飽きて嫌になるんでしょうね。そこには気をつけながら楽しんでやってるかなと思います。
今回は以上となります。ぜひですねその物差しとかね考え方、聞き方ですよね。ところで悩むよりも考えてどうしようかなぐらいの人はいると思うんですが何かヒントになれば幸いです。
四国にラジオ大橋でした。ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。以上失礼いたします。