はい、しごくりラジオの大橋です。今回ですね、生き方として迎合する、人や他者や社会に迎合するか従うか、それとも自分を貫いていくか、
己を貫くのか、この二択ではないんですがっていうところから何か話をしていきたいなと思います。このフレーズが出てきたから喋ってるんで、めちゃくちゃ深い意味はないんですが、
まずですね、経験が浅いとかあまりやったことがない、人生経験みたいなのがありますが、若い方だとね、20代とか30代の人もそうだと思いますが、別に偉そうに言うわけでもなく、単に選択肢がないんですよね。
あと思考としていろんなものをつなげられないと、ブリコラジオとよく言ってますが、今ある手持ちにあるもので何とかやるっていうのが、いわゆる場当たり的というか、その場しのぎみたいなものになりがちで、ブリコラジオというのはそういう意味ではないと思うんですが、
企業貧乏、企業貧乏という言葉があるように、貧乏って言うからよくないなとブリコラジオって言ってるんですけど、その捉え方があるわけですよね。つまり、いろんなことができるんだけど、それをできるだけだよねってやって、それをうまくいかせてないという時に、
ある種自虐とは言えないですけど、ややネガティブに見えるのが企業貧乏かなと思うわけですね。で、企業貧乏であるって思っている人ですね、まさに言っている人がいたら、その人は不器用でいいから金持ちになる。
俺しかできないっすって言って、タコを作る職人さんがいたとして、タコを作る職人さんを別にどうこう言ってるわけじゃないですけど、何がいいんだろうな、例えば文章にしましょうか。
しゃべることしかできないですよって。そんな人いないとは思うんですが、仮に本当にその人がしゃべることしかできないんです、だからしゃべってなんかやっていくんですって言ったら、それは不器用じゃないですか、たぶんね。
だけど、しゃべるっていうふうに決めてるから、もう別にできなくていいやと。ある種の割り切りがあると。それで別に芸能じゃなくてもいいですけど、成功して有名な人になったりとか、有名にならなくてもいいんだけど、それなりに生きていけるようになったという、成功ストーリーがあるとして、そんなあるかもしれないですけど。
そっちのほうがいいっすっていうね。っていうのが、器用貧乏の人が不器用金持ちに憧れるんじゃないかみたいなことを今しゃべってて思ったんですけど、そんなことあるかどうかわかんないですよ。
要はバランスの問題ですよね。今器用から入りましたけど、逆もありますよね。不器用貧乏っていうのもあると思ってて、今しゃべれるって言いましたけど、同じことで。しゃべることしかできないから、いやできないじゃないですかみたいな。よくあるキャリアじゃないけど、自分は人に自慢できるもんないです。しゃべることしかないです。自慢でもないし、しゃべること誰でもできるし、コミュニケーションできるし。
で、うまくいってないです。だから、器用金持ちになりたい。いろんなことをこなしてできる人。プログラミングから創作、仕様を書いたりとか、アート活動みたいなこともやるし、あらゆることに興味があったり。それこそ宇宙ロケットを作るとかもやる一方、農業もやりますみたいな。
そんな人よりかは知らないですけど、とりあえず器用ってことで、ハイパー器用みたいな。超器用っていう人ですけど。で、あれば、毎日違うことやってるよって。1ヶ月31日あって、30日でもいいですけど、毎日違うことやってる。だから1ヶ月で30個仕事をしてるとか、もしくは300プロジェクト回してるとかね。わからないです。
適当に言ってますよ。本当にあるかはわからないです。でもそういう人がいてもおかしくはない。AIもありますしね。
どちらにしても僕が言いたいのは、極端じゃないですか。どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、あなたが、もしくは自分がいいと思ったことでやりたくないですか。それがある種の物差しかなと思うんですよね。
例えば誰かの生き方を見て、別にその人を批判するとかは置いておいて、自分にとってはちょっとリスキーだよなぁみたいな。で、いうのを思ったら、じゃあそのリスキーじゃないところはどこですか。
もしくはチャレンジしてるなぁ、チャレンジしてないなぁと思ったら、リスクとチャレンジって比例すると思うんですが、チャレンジしてないならチャレンジするところはどこかなぁ。リスクから考えなくてよくて。
チャレンジしてるってのはどこかなぁ、トライしてるってのはどこかなぁっていう風に考えてみるっていうのはありですよね。だけどそれは結局僕もですが、僕とあなたっていう関係性があった時に、関係性というかリスナーとあなたって関係の時に、僕がいいなと思うのと、あなたが思ういいバランス、さじ加減は違うわけですよ。
味覚と一緒で言っていいでしょう。塩っけが強いのがいいのか、それともそこまでないのがいいのか。辛さとかも出ますよね。辛いのか、辛すぎるのか、適切な辛さなのか、甘いのか、そもそも甘いとか辛いのがないのか。
そんな感じでバランスじゃないですか。よくバランスだとか中庸的って言いますが、これが別に何かをごまかしてるわけじゃないんですよね。考えないっていう意味での中庸じゃなくて、考えた上で、極端にやると他人とか社会に合わせすぎれば自分が壊れますよね。
っていうのは確かに失敗ですよね。でもそれを目標に捉えずにそれまでの過程10年があってやってきたんだから、それって結構僕はすごいことだと思うんですよね。別に励ますというよりもシンプルにすごいと思います。
自分がやりたいと思ったことをやった。それいいじゃないですか。という風に自信を持てよということは、簡単に言いますけど、本当に自信を持ってほしいなという風に思うわけですね。
じゃあ10年経って20歳から30歳になりました。じゃあその人はどうしたいの?どうするの?ということになるんですけど、その人が会社とかで仕事が今からできるかわからないけどとりあえずやっていこうと思います。
だったらもうそれやればいいじゃないですか。別に付き合い話してるわけじゃなくて。つまり僕が言いたいのは1ヶ月ということは言わないですけど、1年とか年経てば興味変わるし、今言ったように20歳の時は自分を貫いてバンドだって言ったけど、
30歳の今は家庭を持つというか、別にシングルというか単身だけど、彼女がいたりもしくは付き合っている、彼女と結婚するみたいなことが前提としてあったりしてて、チラチラしていて、さすがにこれ俺このままじゃまずいよねみたいなのが現実問題。
これは男性目線というか男性口調になってますが、別に私でもいいわけで女性の方でもいいわけですが、そういう社会の風潮なり習慣、慣習なりを受けつつ生きているわけですよ。全く影響を受けていない人は僕はいないんじゃないかなというふうに社会学ではないですが、社会的に見たいのでバイアスがかかっているかなと思いますけど。
人間じゃなくなりますよね。みんな誰からの影響を受けていないというのがあると。ロボットでは違います。ロボットでさえ学習しているから違うのか。だから20歳の時は自分を貫きました。30歳ではゲイゴーとは言わないけど、昔はゲイゴーだと言ってたが10年前はですよ。
今はそういうことはないからそれでやっていかなきゃいけないなという考え方がだいぶ変わったかなって。実際に車のディーラーじゃないけど、車の整備工場じゃないけど、興味があるからそういうところで、未経験だけどやっていって、とりあえず整備士とか車いじるの好きだったよなっていうのを気づいて、その人がバンドと車好きが繋がるかわかりませんが、そういうのは自己認識してね。
最初は微分かなと思ったけど、やってみると持ち込める部分が見つかって、バンドとは違うんだけど、お客さんの車を直して喜ばれるのが楽しいですよねって気づいたわけです。
これだけ聞いたときに別に僕がワケしてる顔で何か語るわけでもないんですけど、この人にとって整備士になるために働くとかっていうのが別に負けではないわけじゃないですか。なぜか勝ち負けみたいなのがどこかにあって煽ってくるわけですよね。
もうさすがにそれなくなってるなと思いますね。昔は勝ち組負け組って言葉がありまして、大分王を引いてたような気がしますが、勝ち負けっていうのはもう意味がわからなくなっているような感じがしますよね。
なぜかというとやっぱりコロナ禍が大きかったんじゃないかなと思います。もう開けたからいいやっていうふうにさすがに気軽に言える人はまだまだいなくて、もう開けたね、何かあったねっていうには行っててもやはり残ってて10年ぐらいかかるんじゃないですか。
まだ。それぐらい人の記憶とか影響って強いんですよね。って思いません?って僕は思います。だからめちゃくちゃ影響を受けてるんです。だから特に今の20代とか30代の若い人なんていうのが影響をめちゃくちゃ受けてるし、行動制限もさせられたろうし、自分がやりたかったことができなかったなんていうのもあるから、
特に今を生きる、今やりたいとか何かとかを重視したい人はやっぱり重視するんじゃないかな。一方逆もありますよね。社会で求められるということもしくは周りがどうかということをやっぱり気にして、っていう行動を典型的に取りやすいというか、同調圧力もしくは社会、みんながやってるってやつですね。
変わらないと思います。そんなに変わらない。みんなやってるからやるっていう風に言ってないだけで、みんなが言ってるやってるが単にSNSでなっててみんなやってるっていうのってあるわけじゃないですか。それに乗らないとどうなのっていうのがあって、僕はちょっとよくわからないですけど、別にそれがダメでもないし、みんながやってるからやるっていうのもいいんですよ。
いいと思うんだけど、それだけを全部自分に埋めていくと、あなた何色ですか?みたいな話になって、他の人の色で埋めてみたけど、自分がぴったりの色とかっていうんじゃないかな、みたいになるわけです。そこで虚しさを覚えないなら全然それでいいんですけど、なんか虚しくなったりするわけです。
そうやって次のステージに行くとか、毎度考え方を変えてやってみるっていうのは非常に大事なわけですよ。
タイトルの方に戻っていくと、他者への迎合ではないんだけど、最初の3つは貫くのか、他者社会に迎合するかっていうところに行くと、
別に両方あってもいいよねっていうのが僕の感覚なんですよ。
感覚としてはそうなんだけど、なぜなら社会に生きてるってことは結局迎合の要素があるわけですよね。
法律守りますよね。人を謝めたりしないじゃないですか、普通は。むしろ人を助ける。詐欺しないじゃないですか、普通は。
してる人いますけど。それも置いといて、そういうルールの中で生きていくと。
もう一歩貫くとはいえ、人を傷つけて、あえて傷つけたい人も多分いないと思うんですよね、普通は。
でもコミュニケーションのミスとか、そういう意図はなかったんだけどみたいなこともいっぱいあるわけですよね。
呪縛の罪に続かれて文脈を切り取られて文字だけ持ってこられたら、やられるっていうのがわかるよね。
それを切り取りの怖さっていうことで、昔からありますし言われてますよね。
そういう時に結局このバランスの取り方っていうのは、自分の中でのバランスですよね。
今は右というか左とか上下でもいいんですけど、どっちに傾いてるんだろうとか、どっちを今やってるんだろうっていうのがあった時に、
最初はやっぱり見えないから、要は距離感がわかんないですね。距離感なりフィールドの大きさがわかんなくて、
まず右に行ってみて、ぶつかるところまで行こうって言ってやっていく。壁にぶつかるっていう例でもいいし、
違う考えで出会ったっていうのにぶつかるでもいい。今度は左に行ってみて、何か違うものがあるんだなっていうことで、
その領域っていうのがどれくらいあるのか、幅の広さみたいなのがまさにこの探索活動みたいなね。
探求よりも探索ですね。横に広がるみたいなイメージですね。探求は上下というか深掘ってそのままに行ってどんどん高めていくって感じですけど、
そんな感じがします。そのバランスっていうのはその広さに比例するのかなと思います。
だからさっき言ったフリーターで何かやってたっていうのも全然いいし、そういうことを引きこもってて何か全然仕事してないっていうのも
引きこもりの体験があるっていう風に、アドラー心理学じゃないですけど、ポジティブに捉えられるんです。全部経験なんで。
僕が別に僕の仕事に引きつけるわけじゃないんですけど、アイデアを出す時も個人の方とかが多いので、
もしくはその相談する人、もしくはその企業でなると、その人がどういう持ち味があって何をしていったらいいだろうねっていう風に半分になってるんですよね。
その人のやってきたことが他の人と一緒ってことはまずないわけですよ。抽象化すれば一緒ですよね。
会社員で営業やってましたっていうのも、営業だったら営業やってる人はいっぱいいるかもしれない。
プログラマーだったらプログラマーいるかもしれない。さっきの整備士の人も整備士でいっぱいいるかもしれない。
保育士とかいろんな人いるかもしれないけど、全く同じ仕事やってないじゃないですか。
あと同じ保育士でも全く意識が違ったり、整備士でも意識が違うと全く違うじゃないですか。
そこで何を仕事として得たのか、要はありがとうと言われる整備士とありがとうと言われない整備士みたいなのがあるのか。
別にそれは適当にやってるわけじゃなくて、ビジネスとか仕事の仕組みとして、さっき言ったレジ打ちの人で別にバーコードはAPPってやればいいって思う人はそうだし、
自己啓発っぽいですけど、でも実際そうなんですよね。
その時にレジ打ちじゃなくて、社会学者がたまにやっているフィールドワークでレジ打ちのバイトをやって、それでどういう状況かを調べるみたいな、
自分が入っていくやつあるんですけどね。そういう実証というか検証の方法がありますが、座って入っていくみたいなやつでやると、
その人はあくまでも学者として研究者として入っているわけじゃないですか。
それを研究されると嫌だという人がいるかもしれませんが、実際に現場に入って自分が体験してそこの中の声を集めるということは非常に興味深いことですし、
出てこない現場の声がわかるかもしれませんよね。
で、複面調査みたいなミステリーショッパーみたいなのもありますし、それはわかりませんが、少なくとも意識が全てとは言いませんけど、
その人がどう仕事をしてどう考えて、仕事だけじゃなくて生きるということですけど、どう生きて、それこそ意味をどこに持たせるかで、
バーコードをピッとやるリズムで新しいゲームを作ってもいいし、リズムをよく小気味よくやるんだけど、その間にお客さんと話をして、
それが認められているとか、推奨されているとかはしていないですよ。
だけど、それで自分なりの仕事の仕方をアレンジしていったら、もしかしたら行列ができるレジ店員さんみたいなのができるかもしれませんよね。
そんなことを狙わなくてもいい。狙うとか狙わなくても全くよくて、そのレジ店員さんが何をしたくてどうしたいか、
こういうふうにしたら面白いんじゃないかなっていうのが認められたり、職場がもしかしたらやっていいよって言ってくれる人がいたり、上の上司とかリーダーとか店長がね。
それを受け入れてくるお客さんがいて、それを嫌だなとかあまり私にも話したくないって人は別に来なくていいですみたいなのがなんとなく分かってね。
そんな仕組みはちょっと置いておいて。
それはレジ店員というかレジでバーコードをピッてするっていう仕事ではもはやなくお客さんもね、その人の話をしに来てるんだというふうになるわけです。
これが僕は仕事づくりだと思うし、その人の仕事の価値だと思う。それは多分大体言って結構難しいって思ってます。
それがどこにもかしこもみんなレジで喋るようになりましたみたいなのが起きたら、それはそれでなんて言うんだろう、もう社会は変わってますから認識も変わってません?
レジって喋るとこだよねみたいになってるはずなんですよ。
そういうところがあるんじゃないのかなと思います。仕事づくりって思ってます。
だから、それ戻すと結局その極端なものっていうのは僕は続かないんじゃないかなと思うわけです。
だから天職って言葉も怪しいというか、要はその人が誰かがこういうの天職だしいいよって言って自慢というかいいよって言ってるんだけど、全然自分にとってそうでもないから、もしくは自分はそういう満足できるものなかなか見つからないですよって時に焦るわけですよね。
そういうのはない、自分は良くないと。でも焦るのは分からないでもないんですけど、焦ったところでやっぱりないですよね。見つからないじゃないですか。
あの人がすごいとか言っても結局自分の行動とかを変えて見つけていって自分なりに探っていくことでしかない、要は他人は他人自分は自分になりませんかっていうのが僕の感覚ですね。
なのでバランスをとってくださいっていう風にはもちろんなるんですけど、自分の中での考えも変わるしっていうところがあります。
最近これはもう長くなるから言わないんですが、結局僕にとってですね。じゃあ大川さんあなたはどうなんですかって言われた時に、結局自分が微妙だなとかちょっと違うなみたいなことってあるわけですよ。
っていうことって小さいこととか大きいことっていうのは、あなたもしくは他の人にとっては、僕じゃない人にとってはそんなことでって思うかもしれませんが、結局そんなことでが一番大事だったりしません?
例えば職場で挨拶誰もしない職場って嫌じゃないですか。だけどものすごい業績がいいとするじゃないですか。あんまりないと思うんですけどね。
そういう時って心理的に矛盾するわけですね。こんなにいい職場パフォーマンス上げてるんだけどコミュニケーション全然ないよなみたいなものがあったりします。楽しいですか?みたいな時に。
だったら別にそこまで業績上げてなくてもコミュニケーションを取る方がいいわってなる。これは別に僕がコミュニケーションを取りたいって言ってるだけだから。
コミュニケーションを取らなくても業績がいいってことを欲してる人たちが集まってそれをやってるんだったらそういう集団になるから、もしそういう人でコミュニケーション取りたくないけど業績が上がっているところに行きたい、そういうところでやりたいってなったらそういった方がいいですよね。
でも僕はあんまりって感じですね。っていうだけです。考え方の違いがあるわけです。
僕があんまりコミュニケーションを取らないようなところに行ったら多分あんまり面白くないと思うし、想像しただけでストレスになって胃が痛くなってくるんで、それはやらないですよ。僕はね。
それだけです。だから選ぶことも違うし考え方も違うということになるというところで、じゃあそういう場に僕がいてやり続けるかって言ったら、なんか業績いいんだけど微妙だよねって誰も喋ってないんですよね。
気持ち悪いっすわっていう言葉を選ばずに言うと自分の中でいいですよ。合わないなってなって、それを仮に頑張って改善しようとしても、なんかみんなそんな興味ないっすみたいになるから、まあいいかってことで違う道を探るってことになるわけですよ。
この時にそんな挨拶するとかどうでもいいよねとかコミュニケーションすることってどうでもいいよねっていう人もいらっしゃると思うんですよ。全然あると思う。だけど僕はそれ重要だからそこは譲れないっすってなって、まさに自分が譲れないポイントっていうのをたまに言ってますが大したことないよねチェックっていうことで僕は言ってますが、
自分が大事にしているかもしくは何か大事にしているようなものっていうのを一回否定してみて自分の中で検討してみて、誰かに批判されたら罵倒されろってことじゃないんですよ。
で時になんかやっぱりちょっと違うのは譲れないやんとかなんかイラッとするとか感情が動くって感じですよね。なんかこだわっちゃうというかこうしないといけないんじゃないのかなと思っちゃったりとかする。その感情が動くっていうのがポイントで動いたら多分それは本物っていうのはその一流っていうような意味じゃなくて全然ね。
自分にとって大事なことって意味の本質であり本物ってことですね。大事なんだよねってことがわかると思います。だから今ね僕が仮に喋ってますけどコミュニケーションがないようなそういう仕事場って相当辛いっすよね。黙々と何かやってはい終わった。
自分がその要は小さなこだわりとかじゃなくてこだわっているってこと自体を大事にしましょうってことでもあります。っていうそのこだわりがもしそのこだわりが絶対できなかったらもう生きていけないとかそんな極端に考えずにそういうこだわりはまず大事にしましょう。
そういうこだわりはまず大事にしつつさっきのバランスを取るってことを組み合わせていくとなんかいい感じになるのかなっていう話です。だから別にそれだったら絶対いい感じになるかどうかわかりませんけど少なくとも小さなことっていうのも小さなことだから大事なことじゃないよねって思いがちですが
じゃあ大きなことを大事にするのかって言ったらじゃあその大きなことって何って言ったら結局小さなことです。小さなことを積み重ねるじゃないですかアイディアもそうだし仕事もそうだし生活もそうだし小さなことから始まるみたいなにはなりますよね。
もちろんその小さなことも人によって違うからその小さなことは無視した方がいいよねっていうのもありますしいやもうこれは正解がないですよだからわからないです。だから別に他人に迎合しろ社会に迎合するというわけでもないし自分を貫いてやらないといけないとも僕も思わないです。
だけどその人なりのバランスというかさじ加減というところでこれぐらいだといい感じに伸び伸びできたり動きやすいなっていうのは多分ある。多分あるです。多分あるとしか言いようがない。