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2021-06-28 12:51

#274 アート組織におけるFunny、悪ふざけの重要性について

アート組織舞台裏の会議でFun、Joy、Funny、特にFunny、悪ふざけが重要だという話があり、改めて今後のアート組織のあり方について対話をしてみた内容を共有します
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みなさんこんにちは、Rayです。
Ray Wow FMの時間がやってまいりました。
本日なんですけれども、社内の会議でですね、アート組織舞台裏という会議を行いました。
このアート組織舞台裏というのは、いわゆる6月1日に行ったアート組織宣言。
そのアート組織宣言を踏まえた上で、今後、どのようなですね、芸術を行っていくのかっていうのを、舞台裏を公開していくっていうアプローチで、
その物語っていうのをですね、紡ぎながらいろんな人たちを共犯関係に巻き込んでいくっていう、そういう狙いを持ってやっていくんですけども、
今日ですね、話していた中で、
なかなか面白いなと思ったことがあるので、そこをちょっと共有できればなと思っています。
で、今回ですね、そのアート組織っていう中で、
社内におけるビジネス活動というものを、ある意味、社外の人から見たときに、
社外の人を観客として、そのいめいめのビジネス活動そのものが、
社会における問いや投げかけになっていくという、
働き方や会社の在り方っていうものをですね、
ある意味、ちょっと作品性を持った上で、問いかけるアートにしていこうっていうのが、
大きな大きな、一番外側の文脈としてあるんですけれども、
その中でですね、メンバーの一人であるリオリオが言っていた言葉がちょっと印象的だったんですけども、
結構、今の耳だと、そのナンセンス。
ナンセンスって何ですか?
ナンセンスっていうものが、なかなか肯定はされにくい文化が、風土が、ちょっとまだあるんじゃないかな。
そのナンセンスというものを許容できる組織があると、
組織としても、新たにですね、バージョンアップできるんじゃないかなっていう話をしていました。
その場合に重要になるのが、いろんなパフォーマンスを行っていく中で、
それを周りがどう解釈していくか、その観客性。
その観客性というものが重要視されそうっていう話をしていました。
で、ナンセンスであったり、あるいはハプニングと呼ばれるものは、コンセプチャルアートと呼ばれるものから来ているんですけれども、
これはですね、その作り手と受け手が合わさって成立するものですと。
ちゃんとそのナンセンスを見た人が、しっかりと反応することによって、世界観を完成させて価値を作り出すというものがあります。
で、1960年代に、そのコンセプチャルアート宣言っていうのがなされたみたいなんですけれども、
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その時のキーワードが3つあって、
fun、joy、funny。
fun、joy、funnyなんですね。
で、その中でも、funnyっていうのが重要で、
それがこう、ハプニングとか、ナンセンスを許容する気持ち。
っていうのをですね、リオリーが言ってたんですね。
ああ、なるほどと。
で、その中でも思ったのが、funとかjoy。
これってよくわかりやすいんですよね。
で、まさに僕が尊敬というかすごいなと思っている組織が堀場製作所なんですけれども、
そこの社税がまさに面白おかしくなんですね。
ビジネスにおいて面白おかしくっていうのが、
結果成果も出ると。
で、従業員も幸せだと。
っていうので、この社税すごい根源的だなと思っていて、
その社税面白おかしくを英語にすると、
fun&joyだと。
fun&joyなんですよね。
fun&joy。
リミミもこのfun&joyって大切にしてるんですけれども、
一方で、
fun、joy、funny。
このfunnyっていうのがなかなか、
リミミでも多分、
浸透しきってないんですよね。
で、じゃあ、
funnyって日本語で言ったら何なのかっていうのを聞いたところ、
ニュアンス的には、悪ふざけっていうことなんですね。
悪ふざけ。
悪ふざけかー。
と思ったときに、
なかなか悪ふざけをしたときに、
やるなーみたいな感じで、
それを許容するっていうのが、
まだまだ、
まだそうではなくて、
どちらかというと、
そんな、何その意味ないこと、
ナンセンスなことやってんの?
みたいな感じで、
周りがちょっとしらけた反応する人の方が、
まだちょっと声は上回ってるかな。
あるいは、
何それ?みたいな、
意味ないよね?みたいな感じで、
無視をしてしまうとか。
そこに反応する人って、
なかなかちょっといないなーって思ってます。
例えば、
ナンセンスっていうものがどういうものか、
悪ふざけっていうものがどうなのかっていう中で、
例として挙がってたのが、
2019年に、
イタリアのカラヤンっていうアーティストの人が、
ペロタンっていうギャラリーで、
バナナ1本をテープで貼ってですね、
それを飾るっていう、
そういう作品を出展したんですけども、
そのバナナが何千万みたいな感じで、
たくさん売れたんですよね。
で、値段自体は1ドルのバナナなんですよね。
で、実際そのアートの展示をしている中で、
そのアーティストの人が、
バナナ食べちゃうと。
で、みんなこの作品ね、買いたいだろうから、
近くのスーパーでバナナ買ってきて、
もう一回テープで貼り直して展示するみたいな。
で、これが、
なんでそんな高値で売れるかという話なんですけども、
実際にこれはですね、
作品を買うときには、
購入証明書と共に、
展示指示書と呼ばれる、
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スコアと呼ばれる指示書というのが 特にあるらしいんですけども、
そのアーティストの、
このバナナ自体は、
もう腐っちゃうから、
別に意味がなくて、
そのバナナを飾るという、
その展示指示書っていうものに基づいて、
実際にマラノンを貼り付けると
それ自体が同じアートっていうのを
再現することができると
そういう指示書自体っていうものに価値がつくと
それがただ資本主義のマーケットの中で
ある意味陶器的に扱われてしまって
もしかしたら将来その指示書
あるいはコンセプチュアルアートと呼ばれる考え方
僕が組み込まれたアート作品っていうものの
指示書っていうものが陶器的に扱われて
異常な値段をついてしまうと
そんなことがいいんですかっていうものを
ある意味アンチテーゼとして
アート作品にしたものがこのバナナなんですけれども
ある意味ちょっと悪ふざけっちゃ悪ふざけなんですよね
これが悪ふざけって言うと
悪ふざけにならずにちゃんとアートになるには
いやそれいいよねっていうふうに
それを理解して買う人ですよね
購入者がいて初めてそれがアートとして成立するんですけど
これが買う人はいない
売れなかったらただの悪ふざけにしかならないと
なので大事なのは
今後に耳が行うこのアート組織における
パフォーマンスとか
行動営みアクティビティ作品性を持った行動というものが
悪ふざけにならずにしっかりとアートになるには
そこに対してちゃんと応答する人反応する人
そのナンセンスとかファニー悪ふざけというものを
しっかりと意図を受け取って反応する人っていうのが
いないといけないなっていうふうに思っていて
そういうのが大切だよねっていうふうに話を
知っていました
ただとはいえものの
そこにやっぱりどうしても
なんだよそれくだらねえっていうふうに
しらけた形で反応してしまう人も必ず
やっぱりいるはいると思うんですよね
だからそういった反応する人自体を
ある意味観客ではなく
あなた自体も舞台袖の演者なんですよっていうふうに
設定してしまう
っていうのが私が考えている
その総合芸術的な演出として捉えていて
ある意味こう悪ふざけをします
例えば私が悪ふざけをします
それに対してくだらないな
あれはナンセンスだなっていう人に対して
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いやいや本当はその意図がわからないから
そういうふうになんかこうでもなんか反論したくなるから
言ってなんか意味がないよねって言ってるんだけど
どうなの?
悔しいんじゃないの?みたいな
でもそういうことを隠して
なんか批判してるってちょっとお茶目だねみたいな感じで
その人自身をお茶目な人っていうのに仕立て上げることによって
ある意味笑いに昇華したりとかするっていう
そういう劇ですよね
劇として耳の内部の活動っていうものを
アート作品にしてしまう
その耳の内部で起こるその寸劇みたいな
劇自体をアート作品にしてしまうと
それに成立させるにはそういう
ともすると何それ仕事なの?
それ会社でのあり方なの?っていうものの問いですよね
耳見て一体アート組織って一体何をしてるの?みたいな
その悪ふざけをしてそれに対してくだらないっていう人がいて
そのくだらないということをお茶目だねっていうふうに仕立て上げるっていう
その寸劇っていうかパフォーマンスっていうのは一体何なのか
でもそれでイメミ自体がビジネスとしてうまくいっている?
いや一体それはどういうことなんだろうか?
というのをイメミの外の外部の人から見て
そのイメミの営み佇みというものが
問題を提起するアート性になっているっていうことを目指していこうとすると
結局のところ
外部の人の観客性っていうものも大切になっていくなっていうふうに
最終的にはやはり感じたんですよね
なので今後外部の人も観客として巻き込みながら
イメミの組織としての在り方っていうものを見てもらうことで
時には面白く時には深く疑問を感じ取って
そこから何かを考える契機になってもらえればなっていうふうに思っている次第です
この辺りは非常に複雑な文脈が入りくるんでいるので
なかなかすぐにはなかなか理解できないんですけども
そういった部分を現代アートになぞらいながら
ある意味批評家としてしっかりと解説をしてもらう役割を
リオリオにやってもらったり
実際に悪ふざけしたときに
いち早くレスポンス
しらけた形ではないレスポンスをしてもらうパフォーマーとしての役割を
さらにうめちゃんにお願いしたりなどっていうのを
しながらその舞台裏っていうものを今いろいろ話し合ってたんですけれども
このファニーですね悪ふざけっていうものは
ある意味何かを考えさせる契機になる一方で
もしかしたらお客さんとの会議においても
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そういった悪ふざけ的な部分っていうものが
もしかしたらビジネスにおける場の空気を大きく変えたりするかもしれないし
社内における会議の場の空気をですねうまく変えたりするかもしれないので
これをですね一概に否定するわけではなくて
この悪ふざけというものに意味を持たせていくっていうものをですね
ちょっと模索していきたいなと思ってるんですけども
今日感じたことっていうのはこのファニー
悪ふざけの大切さっていうところを改めてですね
ちょっとかみしめながらいろんな施策をしてみよう
実際にやってみようかなっていう風に思っております
という風に思いました
本日はですねアート組織における振る舞い
ファニー悪ふざけについてでした
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