1. うちあわせCast
  2. 第百二十二回:Tak.さんとアナ..

目次

村上春樹さんの新作について
はい、打ち合わせキャスト第122回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
まずはライフハックニュースなんですが、ライフハックに全然関係なく村上春樹さんの小説の新作が、
長編の新作が何年ぶりやったかな、5、6年ぶりかな、それぐらいに出るということで。
4月でしたっけ。
4月ですね。タイトルはまだ発表されてないんですけども、非常に楽しみにしておるのが僕で、
たぶんたくさん楽しみにされてるんじゃないかなと思います。
順番的に短めな小編ですかね。
今までの感じだとわかんないですけど。
いやでも、間に…え、待ってよ。
岸田…ん?岸田町…岸田町殺しがあって、確か女のいない男たちが後に出てませんでしたっけ?
どっちが避けたか。
岸田町の後に、三人称単数…
あー、はいはいはい。
認証のやつ。
っていう短編集があって、その後は特に出てないんじゃなかったかな。
一人称単数か。
一人称単数か。
どうなんですかね。売り方的に長編っぽい感じがしましたけどね。
ちょっとわかりませんが。
大長編じゃなくて、中長編ぐらいの順番じゃないかなと。
わかんないですけどね。
これほど長期間にあずけて一人の作家をフォローしているというか、
ウォッチしているということはなかなかないんでね。
こういう体験も結構レアでしょうね。
これ同じ左向きの作家と。
リアルタイムでこれだけ長期間一人の作家を追いかける経験っていうのは
たぶんなかなかできないんで、ラッキーなことじゃないですかね。
そうですね、きっとね。
その辺はちょっと、僕は大人になった、高校生ぐらいの時からもハルキさんって言えば
ちょっと等格、もう有名やったかな、
ネイジマキクロニクルが出てたので、もう人稼働の人ですね。
たぶんノルウェーへの森が出るまでは、
徐々に等格を表しつつある作家ぐらいの位置づけやったと予想してるんですけど。
そうでした。
結構有名やけど、さすがに一般児がみんな呼んでるっていうことはなかったんですけど、
文学に親しんでる人はみんな知ってるっていうところからの付き合いやったんで、
だからある程度村上ハルキは当たり前世代ではあるんですが、
でもこの歳になってまだちゃんと新作を出すっていうのはすごいですよね。
そうですよね。
このペースで、しかも普通は若い頃すごい長いもの、だんだん枯れてくる。
はいわかりました。
年齢と生まれ枯れてくる感じがすると思うんですけど、
だんだん大きくなる人って珍しいかもしれないですね。
まあそうですね。そういう仕事の仕方を意識されている。
ヘミングウェーみたいな作家っていうのは早晩仕事ができなくなるみたいなことを
ハルキさんも言及されてましたけど、
やっぱ無理があるんでしょうね。
肉体と仕事の求めるものが追いつかないというか。
ただ個人的には岸団長でちょっとあれっていうのがあったので、
ちょっとこの次どうなのかそれも含めて楽しみにしてる感じですね。
Posthawkというウェブツールについて
そうですね。
予期にして亜式にしてもとりあえず読んでから考えようという。
読む、間違いなく読むでしょうね。
そういう、まあそうですね、こういうのを現代で、
音楽と文学だけでしょね。
こうやって長期的に付き合えるオーサーがいるというのはきっとね。
そうですね。
ありがたいことですし、楽しみにしているというところで、
次にさっきこっちかな。
たびたび紹介してるPosthawkというアプリがありまして、
アプリというかウェブツールがありまして、
ウェブブラウザーで使える付箋を使ったコミュニケーションツールみたいな位置付けなんですけど、
iOSアプリが一応ストアに並んでるんですけど、
使える人がベータ、ベータ的というか、
もともとPosthawkでアカウントを持ってる人が使えるっていう感じかな。
だからアプリだけダウンロードしても多分使えない感じだと思います。
きっと。
まだ詳しくは分からなくて。
面白いんですけど、Posthawkって要するに平面型のビューで、
そこに付箋もポチポチ置いていくというのがメインなんですけど、
PosthawkのiOSアプリは初期画面がチャット風なんですね。
はい。
あのまあ、LINEとかメッセンジャーとか、
ああいう感じの。
で、下に入力画面があってテキスト入力すると、
ポチっと新しく付箋がパテンになる。
要するに時系列に並んでると。
で、付箋ビューにしたら、
そのが通常のPosthawkみたいなビューに変わって配置されてると。
で、つまりLINE上に最初は並べるけど、配置したいときは配置にできるし、
でもまたビューをチャットモードに戻せば、
また時系列でパテン並んでるという感じになってまして。
まあ、おそらく外出だけでちょっと思いついたことがあったときに、
まずそのチャット型でアイデアを入力しておくと。
Notion AIというツールについて
で、家帰ったときとかに大きい画面開いて、
その付箋で作成された付箋がどこにふさわしいのかを再配置しようという、
多分使われ方をイメージされてると思うんですけど。
こういうのに、シチュエーションによってビューが変わるっていうのは、
結構、こう、しゃべってると当たり前なんですけど、
ツール的には結構珍しいですね。
珍しいですね。
で、そういうのって、要するに、
リュウザイが実際にどう使ってるかをちゃんとイメージしてデザインされてるんだなというのを感じておりまして、
まだテストの段階なんですけど、個人的には良い感触を覚えてます。
はい、そうですね。
で、ツール系で言ってもう一個、
Notion AIというのがベータ版が開放されまして、
通常版、多分全員、誰でも使えるようになったんですけど、
多分有料?
ある程度テストに使うことはできても、
AIを活用したノートテイキングの可能性
本格的に使う場合は多分サプスクリプション、アッドオンの機能としてサプスクリプションを支払わないといけないというイメージだと思います。
で、月額が無料でNotionを使ってる人は月額10ドルで、
課金プランのどのプランでもいいから入ってる人は月8ドルのプラスと、
2ドル分得するか3損するかの差があるぐらいですけども、
まあちょっと高いですよね。
2ドル分しか差がないというのもありますね。
背景で動かしてるもののコンピューティングがすごい、あれ、
負荷がかかるからなんでしようけども、
さすがにちょっと高いなと思いつつも、
でも多分これなら払う人はいるんじゃないかなと、
個人的にはちょっと思いましたね。
つまり、エヴァノートとかのプランっていうのは、
言っても使えるノートの容量が大きいとか、
アップロード条件が10倍とかあるとかいうのって、
そこまで深刻な、深刻というかクリティカルな便利さではないというか、
機能ではないんですけど、
通常使っているノートアプリにAIとのインタラクションが導入できるというのは、
まさに付加価値ですし、
どう頑張ってもアナログノートでは実装できない機能なので、
だからデジタルツールをわざわざ使う意義がそこにあると思うんですよ。
だからもしエヴァノートか、もし火事を切るとしたら、
こちらに火事を切ってお金を取るモデルの方がきっと、
まあ後の祭りですけど、よかっただろうなという気はしますね。
まあちょっと時代がそれをやるには早かった。
まあそうでしょうね。
だからいいタイミングでノーションがいい位置にいたということなんでしょうけども。
だから何にお金を払うのかという感じで考えたときに、
ノーションのこのやり方は個人的に成功しそうな気がしますね。
うん、そうですね。
でも、使用画面とかを見てたんですけど、
例えば、このチャットのノーションAIにほにゃららでおすすめのスポットを5つ紹介してくれって言ったら、
もう勝手に開業されて、下に自動的にコンテンツがダー、ダー、ダーって増えてくるんですね。
で、ノーションですから、例えばそれらをデータベースに変換したりとかでできるわけですよ。
これはもう超便利なわけですね。
いいでしょうね。
本家のチャットGPTが月額2600円ですから、それを考えればまあ半額以下で使えると。
それぐらいのものが。
それなりに早いと。
で、そうなってくると、ノートっていうものの位置付けが変わりそうな気がするんですよ。
で、例えばチャットGPTは普通に使えますし、
例えばブラウザでアクセスしたら過去履歴は残ってるんですけど、
一応そのOpenAIのサイトに自分の書き込みデータが残ってる感じですね。
だから今僕やったら全部コピペして、スクラップボックスに貼り付けたりして、自分のノートにしてるわけですね。
でも、そのノーションが実装すると、むしろだから自分のノートとAIが作るノートの境界線がなくなっちゃうわけですね。
だからAIの情報を保存するためのノート、
プラスちょっと自分もコメント書けるよぐらいの、
四十眼客定自身のような現象が起こって、
それが良いことなのかが僕にはわからないんですけど、
根本的に使い方が変わるでしょうね。おそらく。
そうでしょうね。
そもそも今までのように、自分のノートツールに情報を溜め込もうというインセンティブ自体が減ってるかもしれないし。
ノートとAIが同じノートへ
減ると思うよ。だからAIの結果を一時的に表示するもの、つまりコンソールログみたいなもの。
そういう位置づけになってしまう。
もちろんそうやってAIが入ったデータをさらに加工して自分なりのアウトプットにするという道のりとしてはあるでしょうけど、
いわゆる僕が読んでるノート、自分の注意の結果としてのノートというものでは、
多分どんどんなくなっていくだろうなと。
わかりますわかります。
だからいいことが悪いことが別として、いわゆるノートテイキングとかノートテイキングとか、
僕が言い方でノーティングとは別の使われ方のノートになっていく。
それぐらいのインパクトがこのノートツール+AIにはあるんだろうなと思いますね。
そうですよね。だからそのノートツールにAIがくっついたようでいて、
ノートとは何かというのを根本的に寄せぶっちゃうようなところがありますよね。
例えば歴史の勉強をしようと思って、これまでのノートツールやれば調べてきて、
特画を癒すから、最後の題までの特画を自分で書き留めていって、
それぞれの人の注略を書くみたいなことがいわゆるノート、テイクノートだったわけですけど、
そんなことする意味ない。
チャットに歴代の特画を書き出してくれって言ったら、
シュワーって書き出されるわけですから。
それはもうノートじゃないと思うんですけど。
そうですよね。
だからそうなると結局ノートに何を書くかっていうと、
じゃあ自分は例えば「特画は吉宗は嫌いである」と書く意味はあるかもしれないけれども。
そうですね。
だからこういう意味的な情報は自分のノートに書き留めとこ必要なくて、
それに付随するコメントだけを残せばいいっていう。
役割分担としては適切な気がするんですけど、
でも自分のノートにそうやって意味的な情報を書き残して、
手を動かして書き残していくことの意義はあると思うので。
あると思いますね。
おすすめのキャンプ状5つ教えてくださいは別にいいんですけど。
ただ研究者の方が同じようなスタイルで研究ができるのかなーっていうと、
たぶんそうじゃないような気がするんですよね。
そうじゃない。
まあもしかしたらある種の分野の研究はもしかしたらできてしまうかもしれないけど、
もしできてしまうんだったらもうそれは研究分野としては成立しなくなるのかな。
わかんないですね。
手作業を重視した知的生産
知的生活の方法の中で、著者の渡部先生が、
一冊の本を読んでいって、気になることを一つ一つカードに取っていけと。
それを全部集めたら必ず自分の論文の論点になるものが見つかるはずだということを教授に教えてもらったという話をされていて、
これは結局手作業でやるしかないと思うんですよね。
手物をかかることをするからこそ見つかる論点というのがあるはずで、
自分が研究すべきものを教えてくださいってAIに投げても答えが返ってこないはずですし、
帰ってきたとしたらそれだけ研究の話するテーマではないはずなので。
こういう意味では、何かを深めるという意義でのノートっていうと、
そういう使い方のAIとはあまり良くはない。
逆に自分が書き留めたものを読んでもらって問題点を指摘してもらうということはできるかもしれないので、
その場合自分のノートが主であってAIのサポートは重であるべきですね。
そこがどう崩れて変わっていくのかっていう、ノートの思想とかノートの手作ってのが確立されていないので、
AIを活かした知的生産の可能性
批判的な視点っていうのもまだちょっと張ってないのかなっていう気はします。
何年か後にやっぱりAIの時代にも、やっぱり全てはノートから始まるという本を書く必要が出てくるじゃないですかね。
そうですね。
僕は第2弾としてはデジタルに注目したノートっていうのを考えてたんですけど、
現代においてAIとの関係性の中でノートを最定義していくっていう仕事が急速に必要になってるって感じですね。
その1年ぐらいでね。
いや、面白い。
以前ゴリゴさんとも話してたんですけど、
ここまで面白いと思ったらインターネットに出会ったぐらい以来やっていう話をしてたんですけど、
それぐらい変化があるので、今後はいろいろ変わってくるでしょうね。
そうですね。
インターネットに出会った時、インターネットが一般の人がわーっと使えるようになってきた時代は僕は20代だったんで、
その面白さとかワクワク感はよく覚えてるわけですけど、
多分今それと同じぐらいのインパクトがあることがおそらく起こってるんだと思うんですけど、
そのワクワク感とか面白さよりも不安とか恐怖の方が強くなってるっていうのが、
これが年を取るってことかなって思いますよ、やっぱりそれは。
ああ、そうか。
だから今年を取ると、自分の中に世界の枠組みっていうのが確立されて、それが崩れるかもしれないけど、
若い頃は枠組みそのものができてないから、期待感とかワクワク感の方が強く出てくると。
おそらくそういう感じなんでしょうけど、
今若い人がどうせこの文献に注目してて楽しんでるんであれば、期待ができますし、
僕らが注目してる知的生産系のツールも、
その点さえ理解していれば、おそらく圧倒的なエンハンスしてくれるツールが生まれるんじゃないかな。
文書を勝手に書いてくれるとかは全然ダメですけど、知的生産としては。
それ何も生産してないですから。
でも例えば自分が書いたアウトラインの問題点を指摘してくれるとかは、
十分あり得ると思うんですよね。論点を見てここが弱いっていう。
こういう使い方をされたときに、多分個人の知的生産はより強めるものになる。
なぜならば知的生産って基本的に個人的な作業なんで、
自分が立てたアウトラインおかしいですよって言ってくれる他社がほぼいない状況で行われるものですから。
そういう意味での他社制の導入とか、
多くの方はこういう風にしてますっていうようなサンプルを見せてくれて叩き台を作るとか、
そういう助走をつけるとか、
行動修正の機会を与えてくれるっていう意味で、
AIを使えるようなツールが出てきたら、もっとパラダイスになるでしょうし、
そうじゃなくて、知的生産はAIがすればいいんじゃないっていうここに行けば、
AIを使いこなせる人との格差
非常にディスティペラーが舞ってる気がしますね。
まあそうですね。
ただ世の中のある部分はそっちの方向に必ず向かっていくでしょうから。
ただ向かっていかない部分ももちろんあるだろうし、
それの比率がどのぐらいになるかですね。
そうですね。
だからそれぞれのツールは自動化を伸ばす部分と、
あくまで人、あるいは主導にこだわる部分とっていう切り分けを、
少なくとも自分なりには持ってたいなという気がしますね。
あとソートライン的な話し相手としてはどう思います?
そういうふうにプロンプと命令文を調整したらかなりやるという話を
独自のザルさんはされてましたね。
はいはい。独自のザルさんやってましたね。
ナチュラルに言うとそこまではないですけど、
質問せよっていうふうに枠組みを与えるとちゃんとしてくれるらしいです。
だからある種のセッティングが必要なんですけど、
それができるんであればおそらくは使えるでしょう。
でもそのセッティングの妙が人によって別れてしまうので、
全般的にうまくいくわけじゃないと思いますし、
現状でも、GPDでも質問がうまい人と下手な人の差っていうのは
歴然としてあるので、
そういう意味での格差というかディバイトというか、
AIをうまく使える人と使えない人の差が現状は生まれやすいでしょうね。
逆に言えば、そのセッティングの妙味とところ部分は
やっぱりこれからの適正さんの技術として成立するでしょうね。
おそらくそうでしょうね。それはそうやと思います。
適切な答え。でもそれは思うんですけど、
例えばAIにうまいことを質問しようと思ったら、
断片的な言葉じゃなくて、文脈を踏まえた説明をするといいんですよね。
私は例えば、今HTMLでウェブツールを作ってますとか、
状況説明した上でこれはどうしたらいいんですかって言うと、
適切な答えの度合いが上がると。
そうやって結局、人間に質問するのと同じだと思うんですよ。
そうでしょうね。
だからAIをうまく使えるようになるというのは、
AIと知的生産技術
ひっくり返して人間とうまく対応できるということだと思うので、
ここは結構原理的に知的生産の技術に接続してる気がしますね。
しますね。
あとね、あのAIがデタラメ言うとか嘘を言うみたいな話だって、
考えてみればそれは人間と同じじゃないかってこともありますしね。
結局は資料を渡ったりとか、
その資料の信頼度を自分で測るっていう能力が必要で、
だから人間の能力が問われますし、
いわゆる知的生産と言われる技術がもっと原始的な形で求められる、
論文を書くとかいうアウトプットに近いものというよりもっと入り口の近いところで必要とされるっていう感じがしますね。
確かに、確かにそうですね。
まあ、そんなとこですかね。
結構だから、僕は別にNotionをそれほど本格的には使ってないですけど、
もちろん似たようなサービスが出てきて、
恐らくどのサービスもそこの部分にお金を払ってもらうという設計になっていくでしょうから、
そこが開かれてないという、でも必要ですからね、そのお金を取るのは。
そうですね。
ちょっとGPDは遅いのを共有すれば別に無料でも使えるんで、
そっちを使えばいいのかなと。
それと自分なりにNode2を組み合わせるという感じで使っていけばいいのかなというところで、
まあそうですね、ニュース的にはそれぐらいで、
今後もちょっと注目したいところなんですが、
今回本題テーマを決めないんで始めたんですけど、
先に取り上げておきたいのが、
Revisionの売り上げと連載のメリット
Revisionが発売して1年+α経ったと。
+α、1年、すごいですね。
もう経ったかーという感じで、
で、2人とも多分あんまり売り上げみたいなものは予測せずにスタートしたと思うんですけど、
先日1年間の売上データを整理しまして2人で共有したんですけども、
思ったより売れたなと。
売れましたね。
ありがたい話で。
で、すごい儲かったわけではないですけど、
2人がかけたテーマと1年間で得たリターンと、
おそらく今後も発生するであろうUnlimitedの売り上げっていうのを考えたら、
悪くない仕事やったなという。
いや、悪くないですよ。
感じがすごいしまして。
僕的にはこの本の作られ方がとても良くて、
やっぱり1人で作ってる時にはハマり込む地獄というか、
永遠とこねくり回してしまう地獄を避けて作ることができたので。
だから、かけたコストというか、
で、自分がこれに使った心理的とかメンタル的なテーマの大きさと、
あと売上の規模っていうのを3つ並べたときに、
非常にバランスのいい仕事ができたなという感じです。
そうですね。
クラシタさんが編集部門をやったんで、
クラシタさんの負担の方が今の段階では多くなってるんですけど、
それは別にして、労力が全然かからなかったとは決して言わないけれども、
あんまり心が止むような形の労力はなかったんですよね。
やっぱりね、それが一番重要なと長年やってて思うわけですよ。
一冊一冊全力を込めますけど、
2年に1回心を止みますでは継続性がないわけですから。
もちろん全力ではやるものの、
ある種の有限性を持ってそのときそのときのアウトプットを生み出していく。
しかもそれがちゃんと評価されて売上に繋がっていくというのは、
経営という視点においては非常に健全なプロダクトの作り方だったなと思いますね。
だからこれをできれば続けていけたらいいんですけど、
それはそれでまだ難しさがあるんですが、
でもやっぱり連載というのが強力だなとは改めて確認しましたね。
そうですね。
この内容を、2人でやるかどうかは別として、
この内容を連載じゃなくて書き下ろしで普通に作ったら結構パワー使えますよね。
使えますね。
書き下ろしには魔物が住んでると読んでもないと思うんですけど、
書き下ろしならではの構成の自由さはありますけども、
やっぱりそれが個人に手に負えない領域に広がってしまうので、
例えばこれまでもブログで書いてきたことをまとめるとか、
ある程度素材が、バックポーンがあった上で書く本っていうのはそれなりにまとめやすいというか、
形になりやすいんですけど、
完全に書き下ろすとまずまとまらないということが多いので、
そこを考えたときに何かしら連載の形を持って進めていく。
しかもただ連載だけじゃなくて相手がいたっていうところも多分大きくて、
それぞれ相手の出方を見てたので、
出す点につく出す点で自分でも収集がつかないってことにはならなかった点も、
多分最終的に原稿をまとめる上でのメリットになったんではないかなと。
そうですよね。意図はしてないんだけど、お互いがお互いを起動修正するみたいな感じになるんですよね。
すごく長い紐でつながってる感じがあって、
ある程度ゴムのように伸びるんですけど、自由に動けるんですけど、
宇宙空間に放り出されるようなことはないっていう感じ。
そういうのは、雑誌で連載するときも、雑誌という場があって、他の連載があるから、
ここまでこういうのは書かないっていうのがたぶん生まれる気がしますね、きっと。
そうなんでしょうね。
そういうバナガ持つ有限性っていうのが、
その書くことをエンジンかけてくれるみたいなところがあって、
だからそういうのを今後自分の書き方において活用していくには、
どうしたらいいのかというのは考えてるんですが、
有料マガジンと共同連載の厳しさ
現状共同連載っていうのも、今たくさんがご自身で有料マガジン持っておられるので、
簡単じゃなくなりつつあるわけじゃないですか。
共同連載に書いてる暇があったら、こっちを書きなっちゃう話になっちゃうわけですから。
まあそこは、今家庭事情でキャッパが減っているという理由でちょっと厳しいのがあります。
そこが外れれば、とは思ってますが。
その辺をもうちょっと考えてはいるところなんですよ。
もちろんキャッパが開いたときに、
第2弾として編集者を逆にして二人でやるっていうのはもちろんあるんですけど、
もう一個メディアみたいなものを僕が自分で作って、
それをサブスクリプション的にお金払ってもらって、
で、二人で連載を書いて、相手方にちゃんと現行料を払うと。
途中の段階で連載で。
で、まとまったらまた本にするっていう段階を振れば、
一応経営的にはそこに書くのも合掛が出やすいかなとは思ってて、
そういう新しい連載の場っていうのをイメージはしているところです。
できるかどうかわからないけど、イメージはしているところです。
あと連載しながら途中段階で、わかりやすい話。
途中段階である程度収益が返ってくるということも大事ですよね。
そうそうそう、僕も思います。
当たり前ですけど大事ですね。
でも僕らブロガー世代はやっぱりそこを停止する嫌いがありまして、
無料で公開することは良いことっていうのはもちろんそうなんですけど、
継続性とか、結局他に使う時間をそこに当てるということの意味があるわけですから。
だから好き勝手はできないし、家計を共にしている人に間接的に迷惑をかけるわけですから。
なので何かし途中の連載でも現行料を支払えるような形で、
文章エディターと文章エディター的な緩さについて
しかも本になってさらに、要するに雑誌ですよね、みたいなことが、
個人である小さい集団で成立したらいいかなというのを、
これを一つの成功例としてそういうふうにできたらいいかなというのは今考えています。
まあ、そっか。
一応はそのところからリビジョンの次があるのかないのか、あるとしてはどんな形なのか。
ちなみに今、仮にやるリソースがあったとして、やるとしてはどんな企画を考えます?
共同連載。
共同連載的なものでやっとしたら。
僕も前から思ってたのは、文章エディターというものについてというのを一つ考えてたんですけど、
それはもしかすると共同というよりも個別にやった方がいいのかもしれないなという気もしているので、
そういう意味では今具体的に、
共同連載に適したネタというのは特に頭にはないですけど。
文章用のエディターっていうことについては僕結構ノーアイデアだったんですけど、
先日言ったようにコットエディターを使い出すようになって、これはあるなと。
コードエディターは便利な部分が重なってはいるけど、これは違うなっていうのがやっぱりあったので、
答えは出てないんですけど、何か言えそうなことはありますね、きっと。
だからその文章、以前からテキストエディター、コードエディターもそうですけど、
テキストエディターで文章を書くといいよっていうのは昔から理由がある。
特に文章をたくさん書く人は昔からそういう人が多いですけど、
テキストエディターと文章エディターは同じじゃないよっていうこともずっと思っていて、
じゃあ何が同じじゃないのかっていうことをあんまり突き詰めて考えたものはないなっていう気がしているので。
本当はそれがワープロのはずなんですけど、
本来は文章に特化したエディターがワープロだったはずなんですけど、
現実のワープロは必ずしもそうなってないので。
そうか。確かにでも、いつだろう使ってないんで僕はなんとも言えないですけど、
普通のオフィスのワードを見る限りではあれで書きたいとはあんまり思わないですね。
そのワードには文章エディターとして名乗れる資格があるとは思うんですけど、
ただそうじゃない部分に追い隠されちゃっていて、よくわかんなくなってるし、
必ずしも文章エディターとしての部分が使いやすくなってはいないという部分もありますよね。
フリブナーは一応カテゴリーとしたら文章エディターとかの中身入ると思うんですね。
コードと文章の違いっていうのは流れの一方向さというか、
つまり文章側に絶対流れがあると。
コードエディターはコードの流れはあるけども、もっとトゥイトゥイじゃないですか。
あっち行ったりこっち行ったり。
だから少なくとも文章エディターは流れをエディットできなければいけないと。
スクリーナーは一応その機能がバインダー側にはあるけども、あれで十分なのかどうか。
そうですね。
コードエディターと文章エディターの違いを、
原始的だけど示してるものの一つがやっぱりプロセス型のアウトライナー。
アウトライナーの原型がコードエディターだという話がありますけど、
その原型となったコードエディターっていうのは、
リスプのコードの構造に合わせて折りたたむわけですよね。
リスプってカッコカッコカッコカッコになるじゃないですか。
あれもコード自体がインデントですよね、インデントで意味付けしますよね。
コードのコードに合わせてインデントされる。
インデントする代わりに折りたたむ。
もしくはリスプに限らず、パートパートで折りたたんでいく。
その折りたたむ根拠はコードの構造なわけですよね。
だけどアウトライナーっていうのは、文章の構造と関係なく
インデントして折りたためるわけですよね。
だけど何のためにインデントして折りたたむかっていうと、
文章の構造を作るためっていう。
もちろん構造のある文章を折りたたむこともできるけれども、
あれって単にインデントして折りたためるのと構造と関係なく折りたためるわけですよね。
だけどその緩さ、その論理的な緩さが文章エディターに必要な部分だと、
個人的には考えていて。
あとワードのアウトライナーの第一回想の下に第三回想を作れちゃうみたいな、
緩さが多分文章エディター的なんですよね。
あれは論理的にはあり得ない。
そうですね、論理的にはあり得ないですね。
けれどもできちゃうんですよ、ワードだと。
コードエディターと文章エディターの違い
ワークフローイみたいな正当なアウトライナーは第一回想の下には第二回想しか作れないわけですね。
作れないですね。
だからそのあたりの緩さが一つの文章エディターのポイントじゃないかと。
ロジカルな構造に束縛されないってことですね、要するに。
そうですね。
ロジカルな構造を作るために使えるけれども、
ロジカルな構造に基づいているわけではないというか。
そうですね。
まあそうか、これをコードエディターでやったら破綻しますからね。
コードそのものが破綻しますからね。
例えばそんな違いですよね。
それだけじゃないですけど。
もちろんそれだけじゃないです。
畳めることの意義っていう、
もちろん見えなくするということなんですが、
畳めることの意義っていうのはなんなんでしょうね。
畳めると何が嬉しいと言いかえた方がいいかな。
畳めないと何が困るかな、逆に言うと。
やっぱり長くなると把握できなくなる。
っていうのと、大きな塊を操作するときに、
論理構造と関係なく操作したい塊を畳んで、
一行にしちゃって操作した方が楽じゃないかみたいなところもあるし。
論理じゃない操作単位を作れる。
まあそりゃそうだよな。
アウトラインがやってるのはそういうことですよね。
普通に使ってたらわかりませんけど、
どっかで開業すると行が新しく作られなくて、
オブジェクトが1個新しく作られるんで、
1個1個が情報の単位なんですよね。
日本語で書いてるとあまりわからないんですけど。
操作の単位を作っている。
だからまあ、逆にオブジェクトの単位と文章の単位を一致させるような書き方が、
例えばパラグラフライトニングといわれるようなものですけど、
別にそういう書き方じゃなくても、
アウトライナーっていうのは、
詩意的に範囲を決めて詩意的に折りたたんじゃうことができるわけですよね。
そこはたぶんあんまり伝わってない感じが僕はしますね。
なんとなく、ある種の意味、
これ何て言うのかな。
先ほど言ってた「構造」っていう言葉の範囲にのぞきて難しいんですけど。
操作単位なんですよね。
そうですね、操作単位ですね。
操作単位が必ずしも意味構造と一致してる必要はないんですけども、
一致させないといけないような気持ちで使える人が多くて、
その場合アウトライナーの充電性は活かせないっていうか、
それほとんどプロダクト型を使ってるのと変わらない感じに。
それでもいいのはいいんですけど、
ちょっと誤解があるようなと感じますね。
だからそれを、例えばとりあえず使わないパーツを見しようという見出し立てを
その下に入れておくっていうのは典型的な使い方であって、
これは論理的に何の見楽もないものを一つの見出しの下に入れて折りたたんじゃう。
ただに邪魔だから折りたたんじゃうっていう形ですよね。
それは全然ロジックとは関係ないんですよね。
単なる操作上の便利なんでしかない。
だけどそういう使い方もできるし、
だけども最終的にはもしかしたらガチガチのロジカルな文章になるかもしれない。
それを機能を使うことによって。
逆に単に全然ロジックとは関係なく、非常に文学的な、
極めて情緒的な並びのものをアウトライナーを使って作っても全然いいわけであって。
そこが一番伝わってないと自分でも感じます。
やっぱり背景にツリー構造があって、
そのツリー構造を実現するためのツールに見えるというか。
ツリー構造を操作するのに便利代用ぐらいにしか捉えられてなくて、
ツリー構造を脱構築するとは思われていない気がしますね。
アナログ的な操作
見えにくいせいなのか。
そもそも日本人がツリー構造に慣れていないせいなのか。
タブをしてインデントにするっていう操作が、
一つ上の行に対してどんな意味を持っているのかっていうことも、
たぶんわからない。
俺も説明できるかって言うとちょっと難しいですけど。
だから別に何の意味も持っていなくてもインデントしていい。
それを許容してくれるのがアウトライナーであって、
逆にコードエディターのアウトライン機能だったらおそらくそれは許容してくれない。
文法的に間違ったコードを書いていたら、
たぶん折りたたんでくれなかったりするかもしれないし。
折りたたんでくれないというか、折りたたんでくれない普通のエディターでも、
コードの整形機能みたいなじゃないですか。
あれって正しく書いてないとちゃんと整形してくれなかったりするわけじゃない。
それと同じことで、
文章だったら正しいとか正しくない関係なく、
整形したいように整形したいばいいわけで。
コードだったら正しくないものを整形したいと整形したいところで、
たぶんコンパイル取らないわけだよね。
だからそういうアナログ性といっていいのか、非存利のゆるさを。
人間の感覚の処理に近い、より近い2つ、対極を考えたときに、
非常にアルゴリズム的、機械的、デジタル的な処理と、
人間的、感覚的、アナログ的な処理を仮に2極置いたときに、
アウトライナーはどっちかというと、
半分より人間側に近い処理を許容してくれるという感じがしますね。
アナログ的情報カード
だからついこの間もツイートしましたけど、
昨日か、アウトライナーっていうのはすごいデジタルツールだけど、
やってることをアナログ的な操作だっていうことですよね。
それに似たものが、逆バージョンで情報カードという話なんですけど、
多分アナログ的やって言って、はいはいってわかる人がいると思うんですよ。
ここですね、多分アナログ的ってどういうこと?
1つはさっき言った論理構造で情報を操作できるというのは間違える1つあるんですけど、
もう1個は自分で情報を置かなければならない、
排除しなければならない、手動であるっていうことがもう1個あると思うんですけど、
多分それだけじゃなくて何かある気がするんですけど、
アナログ的と呼びうるもの。
多分資質性、自動貯成、プラス直接性というか。
直接性はありますね、確かに。
要するにマウスでつまんで置きたい場所に置くという意味での直接操作というか。
データそのものを自分が触っている感じっていう。
一般的にはデータベースツールは、間に壁があってそこに何かを投げ込んだら
最初のオブジェクトが変わるみたいな、どうしても間が1個開くような感じですけど。
ワークフロリはそういう感じ。実際は後ろでデータベースが動いてますけど、
使っててそんな感じはしないですからね。
そうなんですよ。
そこの直接性とC性っていうものが組み合わさったものじゃないかなと思うんですけどね。
C性、意思の反映と言いかえてもいいんですけど、
こういうものが何によって露出するのかというか。
なぜデータベースはそれがないのか。
もちろんそれはデータがそうとされるからなんでしょうけど。
並びが問題かな。
並びでしょうね。並びか配置。
並びを仮に拡張したら語りになりますかね。
語りも並びの必要性がある。
上が並びか。上が並びでそこに語りが入る。
例えば語りというのは語りを成立させるように並べることによって作られるわけですよね。
だから語りという言い方もあるだろうし、説得という言い方もあるだろうし。
つまり語りというのは、人が人にある内容を伝えるときに、
時間というものに縛られた人間という存在が、
いかに有効に伝えたいことを伝えるかという、
意志の中で作り上げられてきた方法だと思うんですね。
その中で例えば気象転結みたいなものもあるだろうし、
印象深い重要なことを一番頭に持ってくるとか、後に持ってくるとか、
徐々にティーザー的に開示していくとかいろんなやり方。
全部語りの方法だと思うんですけど。
そういうものって詩意的に並べられないと作れないんですよね。
そうですね。詩意的に並んでいないもの。
多分データベースの検索結果は何も語ってないし、
それで語ることもできないですよね。
語るためにはもう一段別の操作が上に必要ですね。
そう、データベースの処理結果を見て何かを語るってことはもちろんできるんですけど。
データベース自身は何も語らない。
当然そこには意志がないからですけども。
すごいわかりやすいのが、例えば前職で、今もですけど、
アンケート結果の分析みたいなやり方ですね。
そうするとこういう質問をしたとすると、
例えば男性では回答詞の1番が70%で、
次が5番が何%と並ぶわけじゃないですか。
そのときに並んでる順番に説明してもあんまり面白くないですよね。
なんと、一番最下位はこれでしたってことから
始めても決めた方がいい場合もあるわけです。
そのなんとをつけて一番最下位から語り始めるっていうのが語りですよね。
そのなんとっていうのはおそらくその語りが行われる
文脈によって必要になる何かですよね。
でもそれが相当されてしまうと、小順か高順にしか並べられないですね。
一番最下位から語りたいんだったら小順になれば一番最下位が先になるでしょうけど、
じゃあなんとかが第3位に入りましたっていうところから語りたいとしたら、
もうそれは詩意的に並べようかなと。
そうですね。組み替えが必要で、組み替えの作業には意思が働いてて、
語りはその意思を一番効果的に実現するための手段であると。
文章エディターっていうことを名前は聞いてて考えてて、
全然別のところから語りやなとこれは。
文章ってすごく広いじゃないですか。対象がね。
僕が考えたのはストーリー1本の流れを編集するものだし、
それはもっと言えば語りだなと、ナラティブエディターだなと思ったわけですよ。
これは根本的にデータベースと相性が悪いなとも思ったんですよ。
どれだけデータを断片的に保存して並べて一発で引っ張り出せても、
そこにはナラティブが介在しないのではないかと。
だからデータベース思考、もっと言うとオブジェクト思考でも一緒なんですけど、
そこに語りが入らないものって、文章の作成の補佐にはなるけど、
そのものにはならないだろうと。
だからナラティブを支援するものを、その言うエディターには求めたいなと。
ナラティブって言うとちょっとカッコつけすぎてる感があるんで、語りでもいいんですけど。
まあ流れでもいいんですけど、
でも流れっていうとデータが流れていくストリームみたいなイメージもあるから、
もうちょっと申請が欲しいんですけども。
文章エディターとは何か
それをナラティブと呼ぶべきなのか。
別の色がついちゃう部分もあるんですよね。
ナラティブはね、そういうこともあるんですけど。
ただ、物語。
ストーリーというか、頭から終わりまでの流れがあるものを作るのを支援するというイメージが、
僕には文章エディター的なものには欲しいなという感じですね。
だから僕が文章エディターって言ってた時にイメージさせたのは、
例えばテキストエディターはテキストを効率的に扱うための機能を持っているものだとすると、
文章エディターっていうのは文章を効率的に扱うための機能を持っていると。
ていうぐらいの違いなんですね。
ただやっぱりテキストエディターは当然テキストを編集するための強力な機能を持っているわけなので、
ワープロなんかより全然いいぜって言われることが昔からよくあるんですけど、
それは一面で真実なんですけど、
でもそれだけじゃない。
テキストを効率的に編集する機能が必ずしも文章を効率的に編集するとは限らないよっていう、
そういう問題意識がある。
なるほどね。テキストエディターとの差異としての文章エディターってことね。
その一つの原始的な形がプロセスワーカーのアウトライナーだと思うんですけど、
ただそれがイコール文章エディターかっていうとそうも思わなくて、
全然それじゃ足りないと思うんですよね。
文章エディターとその呼称について
でも文章エディターってなんだろうって問われると、自分でもよくわかってない。
その文章エディターを仮に英訳してくださいってどうなります?
なんでしょうね。
ドキュメントになります?
いや、ドキュメントじゃないです。
ドキュメントだと書類になっちゃうので。
難しいのはテキストエディターっていうときのテキストってテキストファイルのことなんですよね。
そうですね、プレイなテキストファイルのことですね。
だけど文章エディターを仮にテキスト、日本語表記はテキストって言われることが多い。
もっと同じテキストなんだけど、テクストエディターって言ってもいいのかもしれない。
B級商品のパクリみたいなことになるよね。
なぜかね、テキストエディターはテキストエディターだけど、文学のテクストって感じ。
急にフランス現代ストーファイルが感じますね。
エリクチュール?
エクリチュール。
ルエディター。長いな。
まあ、そういう感じですね。
まあ、エクリチュール。
というと、英語的に言えばライティングエディターってことですね。
でもライティングエディターが一番フラットですね。
まあ、かもしれない。
文章って言っても、実は日本語の概要が広くてですよ。
まあ、そうです。
ドキュメントを誘う場合もあれば、言うたら一段落のセクションとか、センテンスを誘う場合もあって。
何が目標とされているのかっていうのが見にくいですけど、
ライティングっていうと、書くことないなっていうのはそれで広いですけども、
なんとなくコードを書くというのでは違うなっていうのが逆にくっきりしますかね。
そうですね。
まあ、コーディングに対するライティングですよね。
テクスティングっていう言葉はないような気がするんで。
でも、折り物をするっていう動詞があるんかな。
その場合はそういう使い方をするような気がしないというか。
多分英語でテクスティングっていうか、ショートメッセージを送ることになるかなって。
なるほどね。
ライティングエディターもしくはライターズエディターなのかな。
今のところそのぐらいしか見つからないですね。
ライティングエディターが収まりが良さそうですね。
逆にテクストエディターはかっこいいかもしれないですけどね。
ただ英語で書いたら全くわからないですね。
わからないです。
大倉さんがライティングエンジンって言葉を使いますよね。
アウトライナーは必然的に語りを支援するものに絶対になりますよね。
だって自分で並べないといけないですから。
語りに慣れてないとアウトライナーも使いづらいんかな。
自分で順番を決めていいっていうことの居心地の悪さを感じる場合って逆に使いづらいかもしれないですね。
かもしれないですね。
もちろんガチガチのツリー構造を作るためにももちろんアウトライナー使えるんですけど。
確かにガチガチマインドやと一番上に置くのはどれが正解だろうみたいなことになってしまって。
正解はあなたが決めるんですよっていう視点の転換がないと、結局その構造を脱す構造ができなくなってくるので。
プロセス型を使う意義がだんだん薄れてきますよね。
あと整理的に整ってない状態がどうしても耐えられないっていう人も一定数いて、
それはもうしょうがないですよね。
それがいい悪いの問題じゃなく、我慢できないものを我慢する必要はないんで。
結構当たり前に使ってますけど、
例えばフリーライティングを誰かにしてもらうとするじゃないですか、アウトライナー上で。
じゃあ整理しましょうと。
タブを押してインデントをつけていきましょうって言われて、
多分手が止まる人がいるんだろうなと最近思うようになりまして。
何を下に置いたらいいのかっていうことって、
なんていうか説明的じゃないじゃないですか。
感覚的なものじゃないですか。
それをある程度僕らが訓練してるからできるんであって、
あまりナチュラルなものではないのかもなとは最近ちょっと思いますね。
まあ自命ではないですよね。
うんそうそう。法則とか法定式があるわけじゃなくて、
基本的にナチュラルな判断、感覚的判断でしかないですからね。
後から説明したら、なぜこれをこう目にしたんですかって言ったら、
これはこういう関係でって、後から説明はできますけど。
でもそういう説明が先に頭に浮かんで、そういう構造を作ったわけではないと思うので。
だから僕もそれを見出しをつけるって表現しちゃうことが多いんですけど、
必ずしも見出しじゃないんですよね。
単なるまとまりの名前にすぎない。
しかもそれはいつでも変えちゃっても、意識しちゃってもいい。
ただ今ざっと見た感じ、このまとまりはこういう内容だよね。
例えば今話してる話だと、
例えば見出し的には、分かんないですけど、文章エディター論助説って、
かっこいいかもしれないけれども、
フリーライティングとかこういう喋った結果をテキストに起こしたものに見出しをつけるとしたら、
仮につけるとしたら、倉下さんと文章エディターについて話したみたいなのでいいわけですよね。
その内容を下にバカッと送って。
その中で、プロセス型アウトライナーの話、なんとかな話みたいな。
とりあえずそれっぽいことを書いて折りたたんでみると、なんかわかるんで、
分かった結果、とりあえず見出しを変えて、もっと適切なもので変えればいいっていうことなんですけど、
とりあえずの感覚を持てればいいんですよね。
まず必ず適したものを書かなければならないとすると、
当然認知的負荷は大きくなりますし、
例えばTwitterとブログの違いでよく言われるのが、
タイトルをつけるのがブログが面倒くさいって言うんですよね。
結局、見出しをつけることの認知的能力がハードに要求されるということなんですよね。
きっと。
情報カードのアナログ的操作
慣れてないとそれが多分できない。
仮でいいっていうことをどこまで本気で思えるかというと、
ちゃんとした見出しを立てないといけないという場合、
グループそのものも多分作れないか。
作るにしても、ありきたりな分類がまず先に立つでしょうね。
立つと思いますね。
もしくは、しょぼいありきたりな分類と大量のその他になっちゃう。
その他。
だからそう。
例えば、仕事で、
書き起こしを、2人の対談とかの書き起こしをしたとしたじゃないですか、原稿を。
それも並べたのではさすがにちょっとありやなと思って、区切りを入れたりするわけじゃないですか。
普通に、例えば、分量的にこの辺かなみたいな意味的な区切りとかを見つけながら、
適当にやるわけですね。
あとで合わせることもできる。
でも、よくやったらこれ結構高度なことをしてるわけですよね。
文章と見出しの対応っていうのを読んだり経験してないとなかなかつけがたいんじゃないですかね。
滑脳でも技法に名前をつけてくださいっていう欄をあえて設けたんですけど、
あれやってみると案外難しいって声をよく聞くんですよ。
名付けの難しさなんですけど。
簡易であってもっていう堀をつければそれがどれくらい簡単になるのかわからないですけど、
たぶん僕らは普段から見出し的なことでその内容を捉えようとしている。
捉える訓練ができている気がしますね。
だからこれ結構練習がいりそうな気がしますね。
もちろんこれを人の人が読むものであれば当然きちんとつけないといけない。
だけど自分だけがわかればいいというものを、
それでもやっぱりきちんとしなきゃいけない。
いう感じはたぶんあるんじゃないですかね。
あるでしょうね。
それが良い悪いでは全然ない。
けれども、その主法としての向き不向きにはつながるかもしれないですよね。
仮の適当につけたものが耐えられないっていう感覚があるとすれば、
それはやっぱりその方が向いてないかもしれない。
そうですね。
慣れた方がいいっていうマッチャーな感じに言ってもいいんですけど、
まあ不向きを克服するのはかなりハードですから、それもどうしようもないですけど、
意識してちょっと苦手ぐらいであれば、
Uコーナーはアウトライナーで白紙の項目をつくってその下に書い付けるというやつなんですけど、
この最初めっちゃ抵抗感あるんですよ。
でも空白やった後からつけたらいいかみたいな感じになって、
最初の仮置きとしての白紙から後で付け替えるというのが、
練習としてできるんかなという気がしますけど。
あとまとまりに見出しって言いましたけど、まとまりである必要なくて、
1行に見出し付けてもいいし、
1行に見出し付けると見出しの内容ってほとんどその1行と同じ内容になったりするんですけど、
それって本でそうなってたらおかしいですけど、
自分だけが見るなら全然それでもいいわけだし、
1行でも2行でも見出し付けていいし、
同じ見出しがたくさんあってもいいし、
民視である必要は全然ないので、
あと6,000字に1見出しと40字に1見出しが混在していてもいいし、
それも本でそうなってたら嫌ですけど、
自分のためのアウトラインなら別に全然、
折りたたんじゃえばみんな1行なんで。
そこがすごいですよね。
デジタル的・アナログ的操作の違い
その操作感はどう考えてもデジタルでないとできないですからね。
そうなんですよ。
だけどやってることを極めて感覚的にはアナログ的ですよね。
やっぱり操作の並びの姿勢って言ったことを、
直接操作感が多分一番ダイレクトにアナログ感を出してますね。
だから対して出てきた情報カードは、
少などの情報カード法ではカードは配列でただ並べるだけだとおっしゃってるわけですね。
これはもう一緒に語りをカードで作るなということですね。
その段階では。
非常にデータベース思考。
ルーマンのテッテルカステンは、カード法でありながら流れを作ってるんですね。
打ち付けてるんですね。
あれ実はちょっとアナログなんですよね。
僕そこの違いに最近気がついたんですけど、
梅沢のカード法はデータベース思考。
でもあっちの方はもうちょっとナラティブ思考、流れ思考なんですね。
自分の中で議論を組み立てろと。
その適切な場所にカードを置けっていうような話なので。
だから同じカードを使っても実はちょっと違うんですね。
違いますよね。
違うと思います。
カードもアナログ的に寄せることもできて、
デジタルに突きつけることもできるっていう。
やっぱり紙が汎用的なだけですけど、汎用ツールの素晴らしいところですね。
だから情報カードは紙しかないアナログの時代に、
今デジタルでやっているような操作をなんとか実現するために使われてきたという意味で、
立上さんがトイートされていたんですけど。
ただそこのカードはデジタル的なアナログツールという中には、
そのデジタル的っていうのは2種類あって、
その中にまたデジタル的な操作とアナログ的な操作に分かれるんですよね。
だから梅沢っていえば兄弟式カードはデジタル的な操作の方で、
小佐音がアナログ的な操作を使っている。
とすると、徹底化している点はどっちでもないというか、
中間的な、中間的っていいのかわかんないけど、
ちょっと違うんですよね。
カード操作の分離
少なくとも梅沢のように、小佐音とカードを使い分けるという手法は紹介しておらず、
カードだけでやってる。
とりあえずカードの中で流れを組み立ててるからですね。
だから手法が分離していないカードだけで全部やるという。
それは成立しますけど、
本来は分離をさせた方がいいはずですけどね、こういう感じはきっと。
だからルーマンは文章をそのものを書く補助としてはしてないわけですね。
論理を組み立てる補助にしていくわけで。
小佐音は本当に……。
カードを使うことでデジタル的なことが可能になったと言ったとしても、
例えば情報カードに変えたからってキーワード検索できるわけじゃないじゃないですか。
つまりそこで求められるデジタル性って何かっていうと、
多分情報量の多さなんですね、きっと。
人間のオーダーで扱えるものを超える情報を扱うときは語りでは対処できないっていうことですね。
なので語りとは分離した形で保存しておけばいい。
の代わり、ある語りの中で情報を扱う、自分の認知が及ぶ範囲で扱う場合は、
実は語りはもっと有効な方法で。
しかもさっき言ったように、それを誰かに伝えるためには、
おおむね語りの手段を取らされないわけで、語りの手法も持っておいた方がいい。
扱うデータが小規模の場合は、多分データベースいらないと思うんですけど。
おそらく一つのファイルに並べておくだけでこと足りると思いますね。
改めてデジタルとアナログ…
デジタル操作とかデジタルっぽさみたいなことを考えやすくなりましたね。
いろいろ考えることがあるなと思いますよね。
片方ではAIが大躍進しつつも、もう片方では人間が操作することの重要性。
積生産というのは人間がやるから意義があるんであって、
何をかもをポイ投げできるんであれば、
そもそもそういう活動を人類がやる意義がないわけですから。
でも積生産だけじゃなくて、たぶんアウトラインを使って日記を書くと整理がしやすいみたいなことが、
アウトライナーを使った日記の書き方
いわゆる日常の技術になりますけどね。
最近、割に日記を書いてるんですよ。
日記書かないタイプだったんですけど。
いつも普段使ってるアウトラインに組み込まれてるんですか?
そうですね。単純にDaysの日付のアウトラインのあそこにメモを書くんですけど、
そのメモのタイトルを書く代わりに、そこにダイヤリーって書いて、その下に日記を書いてるんです。
メモのアッシュみたいな感じなんですか?
メモの一つとしてダイヤリーって書いてるんですけど。
イメージとしては、パッと思いつくと、
まずそのDaysの中に日記っていう項目を立てて、その下に書くみたいな。
それをテンプレートにするみたいな感じがイメージされやすいですけど、
そういうわけじゃないですね。
そのDaysは日記のつもりで書いてる中で、
これは日記というよりもメモだなと思ったら、
上のレベルに持ち上げて、別のタイトルを付けてメモにしちゃうっていう感じですかね。
だからメモと同じレベルですね。
メモの一つとして。
こういうのもやっぱり細かいんですけど、ちょっとある種のコツな感じがしましたね、聞いてて。
やっぱりアウトライナーで日記を書こうって言うと、
テンプレートを作って日記の項目をっていうのが、
いわゆるこの界隈では標準的な作法なので。
そうですね。
でもそうするとさっき言ったように、日記からメモの彫約が生まれにくいですね。
生まれにくくなるんですよ。
なるほど。
日記っていうのがまた、日記といいだからフリーライティングみたいになっちゃうことがあって、
そしてその日記じゃない、別の独立させた方がいいことをしつつまで書いてることがあるんで、
ツールの適性と特別さの関係
書いた後で、これは日記というよりも、
こういうタイトル付けたメモの方がいいなっていうふうに思うことがあるっていうことですよね。
先輩、その入り口の緩さというか、
構造的、データベース的に書いて、
後でその属性を自分なりに変えていくというのが、
ここまでで通定してるやり方だと思うんですけど、
その感覚が多分わかると、アウトライナーだけじゃなくてデジタルツール全般に親しくなれる気がしますね。
そうですね。
だからデジタルツールでこういう考え方が合うものと合わないものがありますよね。
ノーションとかって合わないんじゃないかと思うんですよね。
データベース形式はそうですね。
一回入れてまうとあれは難しいかもしれないですね。
形の変換は難しい。
気楽に作れるという点はあらゆるデジタルツールが言えることで、
ノーションは一応データベース形式を変換したりとか、
エクスポート、インポートしたりすら別の形にできると思うので、
絶対に無理というわけではないと思いますけど、手軽ではないですね。
そうか。
そうやな、確かに。
自分で作り変え方、
肩にはめて使うというよりは自分なりのその時その時でアドホックに方法を作っていくというやり方が向いているツールと、
それがしない方がいいツールはありそうですね。
そうですね。
その前者のようなツールのことを思考のOSと呼んでたんですよね。
なるほど。
そうか。
思考のOSというのも、だから何なのかということなんですけど。
でも形を作れるということは間違いなくその位置要素にはあるでしょうね。
そうですね。
アウトライナーが向いてなかったら、単なるテキストエディターで同じようなことをやっても多分いいと思うんですよね。
逆にその記号の使い方とかを工夫して、
タグみたいな感覚で記号をその行につけていって、
後で検索してそれを抜き出せるようにするみたいなことでももしかしたらいいかもしれないですよね。
そうですね。
最近のテキストエディターは本当に偉くていろんなことができますし、
マークダウン記号を対応してるのもありますから、
文章と仮上書きを混ぜてっていう書き方もできるんで、
これはこれでなかなかリッチな体験ですけど。
特別なツールは必要ないというか、
ちょっと極限すれば特別じゃないツールの方がいいかなという気はします。
そうなんですね。特別じゃない方がいい場合もある。
特に初期の段階は、つまりアウトプット一連の初期の段階は特別じゃない方がいい気がしますね。
そうですね。
で、結果的にできた仕組みを、
もしかしたらこれでもう決まりと思ったらどこかに作り込んでもいいのかもしれないですよね。
確かに確かに。
この辺の話はいくらでも広がりそうですけども。
アナログ性とデジタル性について
でもちょっと、アナログツールのデジタル性、デジタルツールのアナログ性っていうところから、
そのアナログ性ってなんやねんっていうところは考えていきたいですね。
いろいろ考えられそうな気がしますよね。
しかも最近誰もそんなこと考えてない気がするんで。
穴場ですね。
アナログ、そうですよね。
アナログっていうか、身体感覚とつながった感じと言ったらいいのか。
そうですね。
意志で並べるのと直接操作できる感覚っていうのが、
言うたら道具として使える。
つまり、よくバットが手足のように触れるみたいな。
そういう意味で身体化された道具としては、
そのような操作性、意志性とか操作性がないと多分成立しにくいんじゃないですか。
だからノーションを手足のように使える段階になるには、
すごい年月が来てる気がしますね。
そうなんですよね。
最初の設計からうまくやらないと、っていう感じになっちゃうんですよね。
で問題は、3年後も使ったら、
その設計が自分の現状と崩れてくるというところにあって。
だから5年間も10年間もずっと自分の興味関心領域とか、
重要度のバランスが変わらない場合はいいんですけど、
そうじゃない場合、細かいメンテナンスが必要で。
ということは、思考の道具としては使いづらいかなと。
情報置き場としてはいいですけど、
思考の道具としては、若干いろいろ課題が多いかなという印象ですね。
そうですね。
まあ逆にAIが思考の代わりに情報を集めてくれますから、
ますます遠ざかっていく傾向にある。
だから思考のための道具と、
思考のための道具という二極化に向かってる感じかな。
って感じですかね。
それはどっちも使っていきたいですが、
やっぱり思考のための道具っていうのを改めて、
自分のテーマとしてはそっちに向けたいですね。
今回話が散らばったんですが、
アウトライナーで困ってることとか、
こういう使い方ができてないっていうコメントがあれば、
打ち合わせキャストをひらがなで、
打ち合わせキャストまでいただければと思います。
あと話を聞いてて思ったんですけど、
こんなアウトラインでも引用事例っていうのがあったら、
多分いいかなと。
さっき言った1行しかないのと4000行しかないのが、
同じように並んでるとかっていう例があれば、
こんなんもいいんやっていう感じです。
僕らが見るアウトラインって、
基本的に完成した本の目次しか見てないんで、
アウトラインと未使用の取り扱い
アウトラインでこういうものやって、
すり込みが多分あると思うんですよ。
だからそのアウトライン像を刷新すれば、
実現的にアウトライナーの使い方も変わっていくんじゃないかな
っていうのを聞きたいなと思いました。
だからみんな途中段階のアウトラインを見せようよ、という気がしますね。
そういうのって全然ありと思いますね。
こんなんもいいんやっていうので、
やっぱり言われてみないと気づかないことってたくさんあるので、
そこが可能性を広げるっていうことはありえるでしょうね。
だからその例で僕、例の未使用、
使ってない断片を入れる未使用を文章の末尾に置くといいですよって書いたんですよね。
はい。
そしたら、長い文章になると末尾だと遠くてちょっと使いにくいです。
っていう質問をいただいたことが何とかあって。
はい、わかります。
そしたら近くにもう一個作っときゃいいじゃないですかってことを答えたら、
え、いいんですかって言われるんですね。
いいんですよって。
結果的に7個も8個も未使用がファイルの中にあるっていうことがあって、
それはもう一段落したときに未使用だけ全部一番末尾に持ってって、
未使用の下にまた未使用、未使用、未使用、未使用って入れちゃえばいいわけですよね。
そうですね。
だからそういう雑さというか、そういう例はたぶんたくさんあると思うんですよね。
逆に未使用に関しては自分は割にそこは柔軟にできてるけども、
逆に自分が先入観にとらわれてできてないこともたぶんどっかにあるはずなんですよね。
それは別の人がやってるかもしれない。
アウトラインナーパターン集みたいなのがあればいいわけですね。
いろんな事例が、別に本にしなくてもいいんですけど、
事例に触れられる環境があれば簡単に啓蒙されるわけですね。
そうですね。
でもそういうのってあんまりアウトプットされることが少ないけど、
実はそういうのが大事だったりするので、
それは見たいですよね。
いろんな人のそういう。
しかもさっきのやりとりがすごい良かったんですけど、
つまり下にあったら使いにくいという問題がある。
じゃあ下に直接下につければいいという解決が提示されるっていうのが良くて、
つまりこの方法をしてるのはこういう問題を解決するためだっていう事例があれば、
アウトライナーの使い方について
より深く深い理解ができると思うんですよ。
ただ単に「こっちにも使ってます」っていうようなサンプルとしてだけじゃなくて、
ある種の問題に対する解決を提示されることで、
多分応用も効くようになると思うんで。
これこそ語りにくい必要ですね。
「雑に使う」っていう。
たぶん千葉さんが「アウトライナーは雑に使う」って言われてたと思うんですけど、
まさにその通りですよね。
多分多くの日本人が不得意としてることですね、きっと。
雑とちゃんとしてるが対立概念なんですけど。
だから「雑に使う」っていうタイトルの本やったら買いますね、きっと。
アトリーニタイトルですね。
Tak.さんとアナログ的デジタルとデジタル的アナログについて
雑にでもいいし、雑に使うでもいいですけど、
ちょっと思想性を感じられるタイトルですね。
お知らせしたいこととかございますかね。
大丈夫です。
今回はこれまでにしたいと思います。お疲れさまでした。
お疲れさまでした。
01:20:01

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