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2021-08-05 1:26:42

第七十八回:Tak.さんと『ライティングの哲学』について

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はい、打ち合わせキャスト第78回ということで今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、二連ちゃんでございます。
二連ちゃんですよ。しかも長かった、昨日の。
いやーなんかね、話してる時盛り上がりすぎて止めるポイントがつからなくてね。
いやーでも面白かったですね。
うん。やっぱりいつもと違う人と話すっていう面白さもありますし、自分よりはるかに若い人と話す面白さもありますし、
まあこうやって対話していくっていうのは、このポッドキャストの一つ目標でもあるんですけど、やっぱりいいですよね、一人で地面上考えてるよりも。
あとやっぱりね、いろんな人と話すっていいですね。
いろんな引き出しが自分を空いていく気がします。
し、やっぱ世代の違いも結構あるなと思って、
で、もっこはだから倉下さんよりかなり上なわけじゃないですか、年齢的には。
で、え、セシモンさんは?
30ちょっとぐらいかな、だから俺と僕と10ぐらい違うぐらい。
あ、じゃあ僕と倉下さんぐらい違う。
そう、だから3段階の階段があるからね。
3段階。
で、まあこうやってそれぞれが倉下さんと喋るというのをやってると、あれですね、やっぱり当たり前ですけど、高校生とかで1年上の先輩の言うことが絶対とか馬鹿みたいですけどね。
まあ、それは。
でも、それぞれのメディア環境が違うという中でもやっぱ共通点というか同じ関心とかあるよなというのが面白いところでもあります。
そうですね。
はい。
はい。で、今回は引き続きライティングの哲学についてお話ししたいんですけども、
だから僕自分の本が仮に同時発売されたかったら、この本について大いに語っているところだと思うんですけども。
ですよね。
まあ一応僕の軽い掴みというか感じは昨日前回語ったんですけど、たくさんこの本で、まあ面白かったという評価は絶対面白かったと思うんですけど、どこに注目されたみたいなところってありますかね。
どこに注目されたというのも難しいほど注目点がたくさんあったんですけど、
やっぱり思ってたのと違ったのは、やっぱりもっと、何て言うんでしょうね。
最初の座談会、この元になった1回目の座談会、次世代でアウトライナー座談会という名前でやってたのが、
やつがこの本の中でいうと、最初の方ですよね。
座説と苦しみの疾弁論の部分の座談会に相当すると思うんですけど、
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この感じでずっと行くのかなと予想してたんですよね、読む前に。
そうしたら結構構造が面白くて、その座談会を経て、この中間部分で、その座談会以降の書き方がどう変わったかという話を、
この4人の著者の方がそれぞれに座談会じゃなくて原稿として書いてるんですよね。
筆筆実践という風にロゴが振られてますけども。
そうですね。筆筆実践のパートがあって、それを踏まえて、しかも全員でその全員のその筆筆実践パートの原稿を共有した上で、2度目の座談会をやっているという、
大変面白い構造になってて。
構造が独特ですよね、確かに。
ちょっと見たことない構造ですよね。
それが座談会の良さというか、この座談会の良さも出てるし、座談会の位置づけもよくわかるし、
あと結構時間的に長いスパンの中でできてるので、変化っていうのが当然わかるように作られてて、そこがすごく面白いなと思ったんですけど、
事前に予想していた内容と随分違ったなと思いました。
座談会をまとめてそれぞれの語りを膨らませて1冊の本にするのかなとなんとなく思ってましたけど、
それぞれの人の文章を書きつつ、もう1回座談会が挟まれているサンドイッチな形で、
やっぱり捉え方はいろいろあるんですけど、歴史、短いながらも歴史というか経路が示されてるっていう点が結構珍しくて、
この辺のノウハウって、ある時点での著作の完成したノウハウを語るみたいな話が多いわけですが、
それは結局、停止的なんですよね、どうしても止まってしまうんですけど、
動いているし、おそらく今後も変わっていくだろうというような感じ方があるので、
こういう提示の仕方、座談会ベースから起こせたのか、のうかわからないですけど、
こういうのはノウハウとしては非常に面白い構造で、たぶん役に立つのもこういう感じだろうなという気はします。
そうなんですよね。やっぱりこういう構造じゃないと、これだけ違う4人の方のノウハウを新書サイズの本に入れるって多分不可能だと思うんですけど、
おそらくはね。
だけど、結構なんていうか、あんまりキチキチに作った構造になってないにもかかわらず、
すごくこう、構造的にゆるっぽい感じに作ってあるにもかかわらず、
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すごい、なんていうんでしょうね、メモ取りながら読んでいるところ、
どのページめくっても線引っ張るところがあるような感じで、結構なんでしょうね、実用書としてもお買い得な感じがするんですけど。
エッセンスが多いのは間違いなくて、でもこう、なんか直にダイレクトに使えるというよりは、応用して、自分なりに応用して使うタイプの本ですよね、これは。
そうですね。でもこの執筆実践のところっていうのがまた、その4人が、
それぞれの強力な武器を開示しているというか、
直接的な実用書っぽい作りじゃないんだけど、僕はすごくここから実用的なあれを、実用的なあれってなんだって思いますけど、
実用的なものを受け取りましたね、この一人一人、これだけ違う人が、やっぱりこう、違う言い方で同じことを言っているところがあったりとか、
逆にこう、4者4行なところもあったりとか、でもやっぱりそれぞれに自分の中で取り込める文がある。
なんだけどそれぞれに対して逆に、こう自分が読む、自分の立場で読んだときに、いやいやいやって思わせられるところもありつつ、でも受け取れるものもあるっていうか、
あんまり普通の本では得られない読書体験みたいな感覚をね、今のところも、今ね僕2回読んだんですけど、まだちょっと消化できないんですけど、ちゃんと。
これ、執筆実践の部分だけを見れば結構カーソルと似ているんですよ。僕らは自分が著者だから、たぶんこういうような読んでる漢字はあんまりしないと思いますけど、
全くの第三者が読んだときにはたぶん似たような漢字を受けるんですけど、やっぱり座談会が前後に挟まれてることによってね、やっぱりその通じているものが見えてくるというか、どう言ったらいいんかな、たとえばカーソルを編集掲示板あるじゃないですか。
あれをセットでカーソルを読んだらこんな感じになるんやろうなっていう。
あーなるほどなるほど。それはすごくわかりやすい。
あの人たちがこういう感じで共鳴してこういうのを書いたんだなっていうのがたぶん見えてくるっていうのを、1つ新書の形で、それわかるっていうのはカーソルの編集メンバーだけやと思うんですけど、そういうのに近いなっていうのをちょっと今思いました。
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聞いてる方のために補足をすると、カーソルの編集メンバーの共有スクラップボックスみたいなものがあって、ケージ版代わりに使われてるわけですよね。
そこで、直接的にカーソルに関わることもあれば関わらないことも結構書き込まれてやり取りがされてたりするんですけど、結構あれ大きいですよね。
ああいうのがあるおかげで、全員バラバラのことを書きつつも、なんか繋がっていたりとかあえて違うことを書くみたいな距離感の取り方ができてるはずですよね。
うん、そうですね。しかもその距離感の取り方に対して2回目の座談会でそれぞれが指摘し合ってました。
うん、なんかそうですね、4人の、なんだろうな、それぞれの独自性もあれば、その独自性を踏まえた関係性みたいなものが、本の中で見えるようになってて。
だから、それぞれの人を読むと非常に具体的で俗人的なんですけど、複数の人の方法論が並んでいるので、
没頭をできないというか、自分をそこに重ね切ることができずに強制的に相対化されてしまうんですよね。だからそこが多分その距離感のつかみ方としていいんかなという気はしますね。
そういう意味では、何でしょうね、強調ならではというところもあるし。
だから例えば、たくさんが進められている名前のないシリーズを、一説にまとめたとしたら似たような感じになるんかなという予感はしますが、
そうですね、そうですね。
僕もあれ、全員分終わった後でまとめを作るという壮大な構想を持ってたんですけど、その場合でもまとめるのは僕だったりするとまたちょっとこういう感じにはならなくて、
多分対象者同士でインタラクションがあるという、確かにそういう面白さがありますね。
僕でもこれ読んだだけで、割に速攻的に書き方が変わっちゃったところがあって、
例えば?
段落を細かめに区切るようにしました。
普段は長い感じなんですか?
普段は、今書いてるやつで、パラグラフまでは行かないけれども、割に意味ごとに段落を区切ろうとしているところを、
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ちょっと重いんだけどどう直したらいいかなと思ってたところを、割にラフなエッセイっぽい段落の区切り方に変えたら、ちょっと楽にそこが通り抜けられるようになって、
結果としてその3段目の見出しまで本部に表示してたのを3段目やめて全部繋がった文章に変えちゃったとか、
割にちょっと一読みしただけで、そういう影響を受けたところがありますね。
確かにね、段落を細かくするっていうことと、僕は見出しに深いのはいろんな意味でやめた方がいいと思ってたから、
やめた方がいいってコントロールしにくくなるんですよね、あれ深くなると。文章の前後の調整が難しくなるというか。
そうなんですよ。見出しと見出しでどうしても線が入るので。
そうですね、ここはもう難しい。文章の書き方として難しいですけど。
でもここまで赤裸々に書けないって言ってるのは結構少なくて、
むしろ書ける人たちが俺のノウハウを見せびらかすみたいな本が割りかし多いというか8割ぐらいやと思うんですけど、
こんだけ文章を書いてる人たちでも書けないと言ってると。その書けなさも個性があるんですよね、これね。
ありますよね。
多分年齢とかこれまでの執筆経験によって書けなさの現れ方が違うんで、
多分、共感を覚えるポイントって人によって結構違うと思うんですけど、
僕振り返った時に、セシモさんの、なんていうかな、自己欲圧によって書けないっていう部分がね、やっぱりそうだなとは結構思いましたね。
まあやっぱり一番直接的に共感を覚えるのはセシモさんのところですよね。
あと山内さんもありましたけど、
ちょっと自分の形とは違うんだけど、やっぱりありありと想像できるという感じはありましたね、セシモさんのところにも。
やっぱりこう残りの3方は、なんか悩んでるとは言っても、なんとかやってるっていう感がまだあるんですけど、
セシモさんはまだリアルタイムでそれに格闘してる感じがすごく伝わってきて。
でもその昨日のセシモさんの回、打合せキャストのセシモさんの回、ちょうど午前中聞いてたんですけど、
やっぱり想像以上に逆に編集者視点で自分の文章を見てるんですよね。
編集者だから当然なんですけど、でも逆にそのことによって書きにくくなっちゃってるところもあるのかもなと。
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どうなんですかね、だからセシモさんの文章、タイトルの中のセブンでいきなりエディターに向き合うと、
さあこの真っ白な紙に君の作家性をぶつけてごらんみたいなことを言われる気がしてきて、
何も書けなくなってしまうんですよねっていうのがあって、だから僕らが書けなくなるのは、
その同じメッセージかどうかを目指して、似たような心の声によって書けなくなるんですよね、これは。
編集者視点を持ち出すことによってこれが柔らぐというのは多分あると思いますよ。
結果的にセシモさんがそれを回避するために作り上げた書き方っていうのは完全に、
原稿を書くことを結局構成することに全部置き換えちゃったっていうような言い方をされてましたけど。
そうですね、だから自分の主体が立ち上がるという言い方をされてますけど、
直接文章を書き上げてそこに主体を立ち上げるっていう、ダイレクター結びつきじゃなくて、
素材を集める人間がいて、それらを使って編集する自分が主体を立ち上げるって、
1回ワンクッションを挟むことでこの書けないを回避しているっていうのがあって、
発生する規範性っていうのは人によって違うと思うんですけど、
なんかやっぱりそのような間を入れることによってグッと書きやすくなるっていうことは多々ありまして、
千葉さんがおっしゃられた、ゲラの赤入れって止まることがなくてスムーズにできるっておっしゃられてまして、
構築設計したものをベースに直していくとかもスムーズにできるっていう話があって、
全て同じことなんですね。やっぱり直接何かを立ち上げようとすると途端にできなくなるんですよね。
で、これと逆の話で、先にアウトラインを作ってもこれ書けなくなるんですよね。
だからそれ逆の話なのかどうかっていうのが難しいところで。
でももしそれと同じことなんかなという気もしますよね。
いや、同じことだと思ったんですよ。
なるほど。
要するにアウトラインを、先にアウトラインを作るっていうのは結局その完成された全体を真っ白いところに立ち上げようとする行為と言えると思うので。
だから、でも情報的に見たら真っ白じゃなくなってるわけじゃないですか。
その文字が、アウトラインっていう文字列が増えてるわけじゃないですか。
で、それは正約としても働くはずなんですよね。でも書けなくなるんですよね。
だからこれは何かって考えたときに、自分の内側の声、自らの規範性みたいなものがそこにもう現れちゃってるんですよね、きっと。
そうでしょうね。
でも面白いのは、真っさらなワープロなりエディターの画面に書けないっていうのは非常に感覚的にわかるんですけど、
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逆に誰か別の方のスイートで、テンプレートがあることによって書けなくなるみたいな話もある。それもわかるんですよね。
その違いって何なんだろうというのをすごい今思ってて。
テンプレートって言われるものは、例えば、ウィキペディアってテンプレートがあるじゃないですか。この順番に書きましょうみたいな。
そういうのと、例えば役所に提出する書類はフォーマットが決まってるじゃないですか。
たぶん役所のやつは誰も書くのに困ってはしないと思うんですよね。
例えば、ウィキのような、あるいはブログ記事ではこんな風に書いた方がいいみたいな感じのテンプレートの場合、たぶん手が止まることが起こるんですよね。
そうですね。個人的に一番その感じが自分でよく理解できるのは、会社員だった時に部下の評価みたいなのがあるんですよ。
上司の評価もあるんですけど、評価項目が一応いくつ並んでて、
この、わからないですけど、協調性とか何とかみたいな項目があって、そこのそれぞれの項目の中身を書いていくというわけですよね。
でも書けないんですよ、それが。
逆に、例えば評価する相手の人がいたとしたら、AさんならAさんを頭に浮かべて、Aさんこうだよね、こういうところあるけどちょっとこうだよ、こういうところがいいですよねみたいなことを書いた後で、その枠に移していくみたいなことをやってたんですよ。
だから例えば協調性という枠に書かれるべきことが、協調性というその枠、協調性としては自分の中から出てこないみたいなことがあって、
書いた後で結果的に、これは協調性の話だと言えるなと思うとそこに移せるんですけど。
そうかそうか。だから有限性の言い方で、機能する有限性と機能しない有限性がこの場合はあるわけですね。
だからそのテンプレットがあることによって書けないくなるっていうのはそういうことかなと解釈してたんですよね。
協調性というものの、難しいなどう言ったらいいのかな。自分がそれを協調性と思ってないから協調性というキーワードでは出てこないけど、
その人に感じていることはあって、そこの中に協調性と呼べるものが含まれているっていうのは書いた後に発見できるっていうことですもんですけど。
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そうですね。
協調性というフレーズが換気しないものがある。だからそれを広く捉えられたらいいんかな。
その人が協調性という言葉をより広く解釈したら書けるようになるのかな。
ちょっとね、それがわからないんですけど、自分の場合すごくそれが強いんですよね。
なんか不思議な話ですね。だから絶対に書くためにその有限化というか設定というか制限というのは必要なはずなんですよね。
それはもうこの本だけじゃなくて、僕は全体的にそう思うんですけど。
かといってそのテンプレートという制限の切り方ではうまくいかないこともあるとか、
さっき言ったようにアウトラインを先に立てて有限化したはずなのにうまくいかないことがあるっていうことも考慮しないといけないんですね。これは。
そう。だから多分有限感の2問って種類があるんじゃないかなと思っていて。
で、ライティングの哲学でいうと、例えば、そのセシモさんはこの真っ白なところに書けないと言うけれども、
じゃあテンプレート的な枠を作ってるかっていうと作ってないですよね。
そうですね。
いろんな、要するに、例えば、これすごい実践的だなと思ったんですけど、要するに執筆をしようという感覚を設定するのが全部メモなんだと。
メモにもブロックと走り書きがあるみたいな。
そういう自分の中で、自分の中でしっくり作る区分けを作っていって、それを溜めていって構成するっていうやり方をするわけじゃないですか。
それすごいアウトライナー的だと思うんですけど、決して真っ白いところに書けないからって、真っ白いところに何か枠を付けて有限化してその中で書こうとしているわけじゃないんですよね。
確かに。
だからそこにすごいヒントがあるような気がしながら読んでたんですよ。
自分にしっくりくるというのが先ほどのキーワードになるとは思うんですけども、だから協調性というキーワードがしっくりこなかったわけですよね。
その時の僕はね。
でも例えば協調性とは何か答えてくださいっていう文章やったら多分答え書けますよね。
書けますね。
あなたがあの人に依頼している印象の中で協調性と呼べるものを書き出してくださいと言われとった瞬間に無理になるというわけで。
だからなんやこれは。
辞書的な文章をしているわけじゃなくて、たくさんの心の中にあるものを引き出そうとしている、その引き出すトリガーとして協調性という言葉がマッチしてないということですね。
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まあそうだったんですね。その協調性に関しては。
もしかしたら何か別の言葉であれば書き出すべきことが出てきた可能性はありますよね。
まああると思います。
ただそのもうちょっと不遠的な話で言うと、いつも出てくる話で、やるべきことを書かなきゃいけないときに、タスクを書く場所とプロジェクトを書く場所が2つあります。
そういう状態だとすごく書きにくいっていう、あの話とも似てる気がするんですよね。
タスクなのかプロジェクトなのかわからない。
タスクでもプロジェクトではないものが居場所を失うみたいなことが当然あって、
まあ区分けを最初から作らないフリーライティングっていうのがそれを全て許容できるとは思うんですけど、
一方でその有限化っていうことを考えたときに、だから別の名前であれば機能するんであればそれはそれでいいかなと思うんですよね。
プロジェクト、タスクという名前を使わなくて、その人がスッと書き出せる形であれば、それはそれでいいのではないかなと思う。最近考えてるんですけど。
それがね、名前を変えただけで成立する場合もあれば、これはだからそれこそ人によって違うのかもしれないんですけど、枠があることによってダメになっちゃうっていうことがあるんですよね。この狭い枠の中に書けと言われるだけで。
でも枠がゼロっていうのはありえないわけですから、現実的に何かの制約はあるわけじゃないですか。紙に書くにしろ、iPadにしろ、何か制約が。
その枠がしっくりこない枠っていうことなんでしょうね、きっと。
しっくりこない枠だと、だいたいだから、その狭さ、ツイッターの良さとか、あるいはマンダラートとかの制限性とか、枠をうまいこと使ってて、もしくは枠なしでは成立しないじゃないですか、ツイッターも。
だから枠っていうのは必要なんですけど、その枠があればなんでもいいというわけではなくて、自分にとってのしっくりくる枠があるっていうのはいいんですけど、それって何なんだろうなという、しっくりくる枠って何なんだろうなという疑問が、難しい疑問が立ち上がりますけども。
でも例えばツイッターって書きやすいですけど、例えばその企業の公式アカウントの中の人としてのツイッターが、今のその個人としての自分が感じている書きやすさで、ツイッターに向き合えるかっていうと多分違うじゃないですか。
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そうですね。
それはツイッター、ツイートという144文字の枠に、その何だろう、物理的な文字数のとか、いわゆる一般的なツイッターの押さ法というのはあるけれども、基本的にそこに何を書くべきかは決まってない。
だけど、あの枠に収まるように小さく書くっていう、そういう決まり、その有限性はすごく有効だと思うんですけど、だけどここに企業アカウントの中の人としての発言をしなさいって言われると、僕はやっぱ書けないと思うんですよ。すごくつまんないことしか。
発言内容に関する自由さがあるからですよね、きっと。
まあそうだと思います。
例えば広報を担当してる人がアカウントの中の人やとして、プレスリリースならすぐ書ける人でもツイートなら難しいっていうのはやっぱり内容の規定の薄さですよね、きっと。
でしょうね。
だから形式に関する制約と内容に関する制約があるっていうのが、とりあえずここまでの議論で明らかになります。
そういうことですね。
とりあえず。
そうか。
だから多分ここの瀬下さんが書いてるのも、多分内容に関する制約を課してるわけじゃないですよね。その枠をはめてるわけじゃないですよね。
確かに。
自分がそのすんなり自分の中のものを出していけるいろんな場とかツールとかっていうものを見つけてきて、そこに、要するに原稿を書くぞっていう姿勢で出すんじゃなくて、
出しやすいそれぞれの場に出しやすい形で出していって、それを後から集めてくるっていうか、
ことを多分言われてると思うんで。
はい。
やっぱり枠ははまってないんですよね、きっと。
テンプレート的な意味での。
そういう意味での枠組み、だから、より強い外部性を持った枠組みというのに従って書いてるわけではないですね。
どっちかっていうと、大量に材料を集めてそこから絞り込んでいくっていうやり方だったと思うんですけど、
半分ぐらいの文字数じゃわ。倍の素材を用意してそれを半分にするみたいな話だったと思うんですけど、
だから、倍集めてから絞り込んでいくっていうことは、もう内容はそこが上限というか、
集まったものから作ればいいっていうわけで、もうそれ以上広がらないですよね。
だから書き足していくと逆に再現がないというか、
有限性がないんです。だから集めてから絞り込むっていう、
その集めて、よし、ここから行こうってその決める瞬間にそこが有限感になってるわけですね、きっと内容に関して。
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それが多分文字数っていうある種客観的というか、自分の主体性の判断を超えた母流文字数って純粋な物理数なんで、
だからそこがかなり強い制約になってるんでしょうね、きっと。
なるほど、そうですね。
十分に集まったらみたいな感覚的なものであったら多分これダメなんですね。有限性にならないというか。
だから1万字書くんだったら2万字くらいのそういういろんな素材が集まったらっていう。
だって有条件ルールを設定することがそれが実は有限化になってるっていう。
はいはいはいはい、それはよくわかりますね。
結構有限化の作り方もいろいろあるっていう話ですよね。
だと思いますね。
さっき内容と形式の有限化というか制約みたいな話しましたけど、その2つをブリッジするものがツールなんですよね。
メディアと言ってもいいけど。だからやっぱりツールの話を抜くことはできない。
実践においてはやっぱりツールの話を抜くことはできないんだなと、もう1回改めて思うんですよね。
どちらの制約にもツールが関わってくるんですよ。内容と形式というのは基本的に直接じゃないんですけど、間接的にリンクしてるんで。
それを表現するものとしてのツールというのがあって、だからツールがどう制約を作るのかっていうのが形式と内容の両方に影響してくるんで、やっぱりツールってすげえ重要なんだなと。
それは本当だと思いますね。
全部の話で言えることは、こだわりを持ちすぎるな、ステロっていう話は当然通常としてあるんですけど、博士から始めないってことなんですね。どの話も。博士から始めたら始めようとしてはいけないっていうことなんですね。
そうですね。博士から始めない、かつ、自分の中にある、なんなのかな、理想というか、その神秘願というか、そういうものを満たそうとしすぎないっていうところも皆さん共通してるのかな。
それが着手を遭めたりとか、関税を避ける要因には間違いなくなるんですけど、かといってそれはゼロにはできないものだよなと思うんですよね。
思いますよね。
良いものを作ろうとか、この話を人に聞いてほしいっていう気持ちが皆無で執筆が駆動するかっていうと、それがいささがやっぱり僕は怪しいなと思うので。
でもやっぱりその辺り書いて…。あ、ごめんなさい。
そういう声との付き合い方、無視するんじゃなくて、どう斜め透かしてそれを落ち着かせるのかっていう技法の方が多分重要かなという感じた次第です。
33:07
その辺り山内さんが結構書かれてましたよね。
山内さんの文章は結構ガッツリ読んだのがこれが初めてだと思うんですけど、非常に論理的な話を進められるんですけど、
非常の空論じゃないんですよね。全部身体的な感覚がベースにあって、それを言語化されてるという印象で、非常に魅力的というか結構ファンになりましたね。
魅力的ですよね。
文学を読んでいるような気分になりながら読みましたね、山内さんが。
結構ね、グッときますよね。
グッときます、グッときます。その点結構、独自のさささんは割かし、その対比で言うと、なんていうんかな、システマティックと言うとちょっと言い過ぎですけど、
あんまりそういう文学的要素を抑え目に書かれてる感じでしたね、割かし。その人間性がないわけじゃないですけど、割に技術的な話に重き置かれてたような感じがしましたが。
逆に、その人間的な部分をあんまり出さないようにしてるような印象も受けますけどね。
やっぱ結構すごいこと書いてるんですよね、独自のさささんも。
結果的に最速の方法はこれまで書いた言葉を一旦すべて捨てることって書かれてるところがあって。
同じようなことを言ってる人、多分カイムじゃないと思うんですけど、
今まで書いてきた経験はテキスト自体を捨てても好みのどこかに残っているっていうところがすごく大事だと思うんですよね。
だから捨てるのって怖いじゃないですか。せっかく今まで積み上げてきたの。
だけどそこまで書いてきた時に、その一番重要な部分は自分の中に残ってる。
それを信じろということが重要です。
残っているっていう論証はできないじゃないですか。証拠を出せと言われても困りますけども、でもそれを信じれるっていうことですよね。
ここのその部分を読んでて思ったんですけど、これバザール執筆法じゃんとか思いながら読んでたんですけど、
全く同じことをやってるなと思って。
やってるじゃんって。
やっぱりその無能フィルターっていう話も出てきたんですけど、やっぱり自分が空でなぞれないアウトラインは複雑すぎるんですよね。
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どう考えても。それは僕が一番思ったんですけど。
アウトラインを見てたらわかる構造って複雑すぎて、自分が空で書き直した時になぞれるぐらいの構造が一番読者にとってもわかりやすい構造になるなっていうのは、
今回の本を書いて思いましたね。
はいはい。
たぶんそれが書いた、書かれたものにも出てますよね。その漢字が。
なるほど。
だから、なんだろうな。
この読書ザルさんのこの部分、そのバタル執筆法に共通してるっていうのももちろんあるんですけど、重要なポイントですよね。
あんまりいい言葉は思いつかないんですけど。
これね、文章だけの問題じゃないなと思ったんです。
昨日、誤解を招くなと思いつつツイートしちゃったのが、昨日だったかな?
全体的に仕事術に置き換えられるなと思ったんですよ。
で、やっぱり、その今まで書いてきたことを捨てて、それでも残っているもの、その残っているものの厚みが、例えば仕事をする場合、文章、文章を書く場面だったら、
その捨てちゃっても残ってまた書ける、その部分が文章だったらその骨子になるってことなんですけど、
仕事の文脈で言うと、結局その残っている部分っていうのがその人の実力なわけですよね。
マニュアルを捨ててもできる。体が動く、判断できる。
これってね、ものすごい大事なことだと思ったんですよね。
仕事ができる、できないの境目みたいなところだと思うんですよ。
すごい脱線してますけど。
でも頭の中からに残っているものってね、その身体性とか身体感覚としてそこにあるものということで、だから仕事の他の技術においても言えることでしょうし、
ということをこれだから、まあいいなテクニックでは埋められないものがそこにあるという結構悲しい話になってしまうわけですけども。
だからそうか。逆に言うと、だからいかに身体情報とかを身体化して残していける方がやっぱり重要で、
時短1時間あたりに最速で情報処理していくことよりも、多分そっちの方が何やろ、
価値を生む上では結構大切なんだろうなということなんですね、きっと。
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というふうになんか受け止めましたね。
まあでもそうか。繰り返してやったことは手順書、マニュアル抜きでやったときもその重要な部分だけはちゃんと手順として残っているからだと、
まあ手に残っているというか、そういう感じになるし、それが仕事のコアになるか。
まあそうやな。でもこれはだから、何やろ、バズアップしっぴそうもそうなんですけど、
まあ明らかにその時代にそぐわないというか、なんと言ったらいいんですけど、
効率でもないし速攻でもないし、ある種の汎用でもない、
まああとも汎用という言い方おかしいか、何やろ、何て言ったらいいんやろな。
誰でも即すぐに成果を得られるものではないという意味で、ちょっと非現代的というか、
ある種古臭いようなニュアンスもあるんですけど、でもまあそこは変わらないんでしょうね、きっと。
古臭いことは古臭いですよね、きっとその植林仕事じゃないという。
という感じがちょっと匂いますよね、そこは。
だけど結局はそういうことなんじゃないかなという。
そういうこと。なんかね、いやマニュアルじゃないんで背中を見て覚えるんだっていう世界に戻る必要はないと思うんですけど、
マニュアルは当然必要だと思うんですけど、
だけど結局マニュアルをどれだけ整備したところで、出だしはもちろんそれはすごく役に立つけれども、
結局その仕事をするその人として、どれだけやれるのかっていうのは結局その身体にどれだけ染みついたかっていうことになっちゃうんじゃないかなと思うんですよね。
もちろん仕事の種類にもよりますけど。
それが一番低い時給でやらされている仕事にそこまでコミットする必要は僕はないと思いますけど、
まあでも同じ時間を使うんであればその自分の身体に残るような形で仕事ができた方が、なんか嬉しい感じはしますよね。
話がずれてきましたけど。
いやでもまあ捨てる、捨て残っているものが大切だという話にしても、捨てるのが難しいんですよね。
そこが、だからそれはもうほとんど勇気っていうそのマインドセットのあり方でしかないと思うんです。
僕がバザールシップスをしたのは、勇気というよりもその複雑になった構造を操作する認知的負荷の高さに耐えきれなかったからなんですけど、
自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が
42:25
そういうのがあるときに捨ててしまうというところがあって、だから簡単には捨てられないですよね。捨てた方がいいと言われたとしても。
捨てられないです。
捨てられないですね、これは。
だから捨てることも多分技術。
確かに。
だからやっぱデジタル時代であればあるほど捨てるのが難しくなってきてるというのがやっぱり僕の問題意識としてもちょっとあって、
最近の本、この本の中で、最近の本はその論理展開がスムーズでなければならない傾向が出てきているという問題提起で、
それってデジタルツールによっていくらでもコピペとあれができるようになったせいじゃないですかっていう話が、つまりテクノロジーがメディアの代用に影響を与えてるって話だと思うんですけど、
だから同じことが僕らの情報管理、内部の情報管理でも起こってて、日に日に捨てにくくなってるというか。
もちろんその保存しておけるっていうメリットはめちゃくちゃ強いんですけど、もうなんか捨てるという行為をかなり意識的にやらないとできない、できなくなっているというか。
そうですね。
昔やったらもうプロピリスクがいっぱいやからなくなく削除するみたいな有限化があったと思うんですけど、
テキストに関してはほぼゼロに近いですかね、そういう有限性っていうのは。
捨てるためのそう考え方っていうか、だから押し出しファイリングがすごかったのも、
あれ整理するだけじゃなくて捨てる判断材料を提供してくれたってこともあるんですよね、あれ。
そうなんですよ。
でもあれを全く同じこと押し出しファイリングをデジタルでやった場合って捨てないんですね。
だから検索せりゃいくらでも見つかるから別に捨てなくていいっていう話は半分そうだとしても、
僕らの技術の中で捨てる技術っていうのが結構な勢いで失われていくし、
だから少し前にコンマリ流が流行ったっていうのもそこの技術を埋めるためだったとも多分位置づけられるんでしょうね、これは。
そうですよね。だってあれは結局ときめかないものを捨てるという、その捨てる基準を提示してるわけですよね。
そうですね。
だから捨てるのも技術だし、そのためのツールの使い方みたいなものもあるし。
45:01
だから人間ほっとくと多分溜め込む性質があって、外部から強制的に捨てるっていう何かを申し込まない限りは多分普通に増えていくもんなんでしょうね。
よほど変わった性格でない限りは。
増えたら増えたでいいっていう情報は多い方がいい理論でいうと増えたらいいんですけど、
扱う僕たちの人間の有限性というのが必ずあって、増えすぎると扱えなくなってくると。
扱えないものを溜めても仕方がないと。だからいかにその情報を限定するのかっていう話で、やっぱりアウトライナーはその一つを示してると思いますし、
エヴァのアウトは最近結構有限の方に向かって、無限の方に向かっている感じはありますが、
ツールの補助というか、ツールそのものが情報をたくさんあればいいわけじゃないよっていうある種の思想を持っていてほしいなという感じはありますね。
それはありますね。
検索でできるからいくら溜めてもいいんですと言っていられる時代では多分もうないはずなんですけど。
ないですね、それは。
ちょっと関係した話なんですけど、このブログ社はこのポトキャストで結構何回か紹介している、
のらってツーラボっていうブログの最新記事にGitを使うようになって、メモがすごくうまく扱えるようになったという話が出てきまして、
まずGitとは何かみたいな話をしないとわからない人はわからないと思うんですけど、
ファイルの履歴を残しておけるというバージョン管理ツールで、最近はドロップボックスが似た機能を持っていて、過去のデータに戻れるんですよ、タイミングスリップできるというか。
その機能を使うことによって、あふれ替えるインボックス問題を一つ解決したっていう、勝手に思ってるんですけど、
テキストファイルをホワイトボードのように使うっていうタイトルで、これわからない人は全くわからないと思うんですけど、
ホワイトボードを書いた後にデジカメでスキャンするとか、新しい最新のやつっていうのをそのままホワイトボード上のデータをプリントアウトして残しておくことができると。
それと同じようにある瞬間のあるインボックスのスナップショットをGitの中に履歴として残しておくと、そうするといつでも安心して消せるっていう話で、
そうやなって僕は。
いや、そうですよ。
いくつか関連する話があって、スクラップボックスで自分書き込むじゃないですか。
48:02
これいいなって思ったものを一回リンク取得してワークフローリに移しておくんですよね。気になるメモとか言って。
そうするとね、いらなくなったらすぐ消せるんですよ、そこ、ワークフローリ上で。なぜならスクラップボックスに残ってるから。
もう一個はね、最近Evernoteに思いついたものを送信するという形のEvictus Captureっていうのをほぼやめてまして、
大体思いついたことは、作業記録を取っているテキストファイルか、あるいはもうそこにアクセスするときが面倒くさいように用意している、
ドロップボックス直下にあるテキストファイルのどっちかに日付とともに書くようにしてるんですよね。
それぞれ両方とも役割としてはログなんですよ。
ある、だれば、今日は?8月5日にホゲホゲ思いついたって作業記録に書くとか、あるいはタイムスタンプ打ってホゲホゲ思いついたって書くっていうことをする。
これはログなので、ログっていうのは基本的に一度書いたらもう基本的にはアンタッチャブルなんですよね。
5時立つ時は別に編集してもいいんですけど、そこのデータをどうにかやりくりして何かにするっていうプロセスの中には直接置かれないものなんですよ、ログというのは。
そうして使うものだけ1回コピペするっていうようにすると、ひどく楽になりましたね。
これはGit的な使い方じゃなくて、メモをインボックスに入れるんじゃなくてログにしてしまうっていうやり方で、常に過去に送っていくんで、どんどんどんどん。
それでインボックスの重たさから解放されてるんですよ。
情報としては同じものが残ってるんですよ。インボックスの中にある大量のアイデアノートもログとして残っているアイデアメモも一緒じゃないですか。
でも心理的な動き方が全く違いますね。
それはあれですよね、要するに日付インボックスをやめて日付ごとのアウトラインでもいいんですけど、日付デイリーノート的なものの中にその日に入ってきたものを入れて、どんどん過去に送っちゃうというのと、原理的には同じことです。
操作するときにアウトライナーやったらその項目を動かしてメインのところに移動させるってことはできると思うんですけど、それもしないと。移動した方は一回ディプレケートしてからみたいな。
ディプレケートもしませんね、今やったら。うちのそことか重要理論を持ってるんで。過去のメモを参照しながらもう一回アイデアを扱う場所に書き直す、書き写すっていうことをしてて、タスクじゃなくてアイデアはこのように扱わなければならないというのはわかりました。
51:00
無限増殖はダメなんですよね。
ダメなんですね。30とか50ぐらい並んでるうちをまだギリ対応可能ですけど、それを超え始めると何もかもが嫌になりますね。
やっぱりね、紙の時代に1枚の紙に書ききれなかったら新しい紙を出すしかないっていうのはすごく意味のあることだったと思うんですよ。
その頃に僕らが認知的に慣れ親しんでるから、それ以上の情報に慣れてないだけかもしれないですけど、もうだって僕らもう20年以上それでやってるわけで、脳がそれに最適化してることはありえるわけで、今の人たちは違うかもしれないですけど、やっぱり僕らは紙の有限線に慣れきってきたんで、それ唐突に線でも二線でもって言われてもやっぱり困るわけですね、これは。
そうですよね。
僕の場合は、でもそうか、一緒か。僕は片方は1日ごとに切り替えられる作業記録じゃないですか。
で、1日ごとに白紙になるんですけど、もう1個のそのドロップボックスに直下に置いてるやつも全部じゃなくて、適当な量になったら新しいファイルにするんですよね。
あれも僕もこれもなんですけど、テキストファイルやったら別に2,000行でも30,000行でも保存できるんですけど、多分それは違うなと。
そればっきりしてた方がいいなっていう思いがあって、だからログとして保存しておくっていう気持ちの持ち方。
だからGitのコミットするっていうのは、だから一旦ログ化するってことですよね、あれは。
で、その上で扱いたかったら探したら見つかるよという定義にしておくっていう感覚によって、結構ある種の捨てないで捨てるっていうのが実現できてるなと。
だから、消せない状態、なんかもったいないな消せないなってなってたら、多分そのツール使っているうちにどんどん重たくなってきますよね、きっと。
ですよね。
だから、ほんまに消さなくても見えない場所に送るとかいう感じで、その移動したものを活用してやろうという気持ちっていうんですか。
それがダメなんですよ。
そうなんですよね。
そういう色系を出してしまうと、結局その捨てたことになってないんですよね、気持ち的に。
全て今マインドの話をしていますけど、捨てた気持ちになってるということが重要なんですね、これは。
54:01
だからやっぱりその今の、なんだろう、ワーキングメモリーかわかんないけれども、今使えるあたるの領域を広くしたいわけですよね、こうして捨てるっていうのは結局。
だけど、目の前から見えなくしたけど、あれをどこかで使ってやろうっていうのは結局メモリーの中に残ってるわけですよね。
でも野良鉄さんの、野良鉄さんって、ちょっと人と違う斜め下みたいな角度から非常に光を当てるのが上手くて、アウトライナーの時もそうだったんですけど、すごくいろんなヒントになりますよね。
でもやっぱりそれはご自身が、自分で考えて実践されてるからでしょ、自分なりに考えて実践されてるからで、言われた通りにやってみました、ピリオドみたいにはなってないっていうところが、多分その独自性になってるんでしょうね、きっと。
そうだと思う。大変今のネットでは貴重な。
そうですよ、ああいう記事は。
あれを読んで、やっぱりそういうメモ管理の方向は間違ってないなっていうか、デジタルの場合はきっとこういう形にした方がデジタルの力が活かせるというか、本当に捨ててしまったらデジタルの旨みってなくなっちゃうわけじゃないですか。
そうやったらアナログと一緒なわけ。だから残しつつ捨てていくっていう、意識から捨てていくっていうやり方をいかなる方法で実践するか。
Gitは多分一ついい回やと思うんですけど、導入がちょっと難しいというか、別に難しくないんですけど、全然難しくないんですけど、ちょっとコマンドライン触ったりする必要があったりとか、GitHubにアカウントを作る必要があったりとか、そういうのがあって、ハードルが高い部分があるんですけど、
アウトライナーの、ミシオじゃないな、しっくりくる名前をつけた項目を作って、そこに移動させるとか、僕みたいにある分量で1日ごととか100個ごととかでファイルを切って、ほとんど見返さないままに、後にどんどん送っていくみたいなことをしていて、
自分がその時に扱いたいというか、目に入るものの量を制限していくっていうのは、頭を自由に働かせるために結構有効感なという感じですね。
そうですね。今目の前にあるものはできるだけ少なくっていう原則って多分ありますよね。
デジタルでは特にありますね。ほっとくと増えるんでね。
そうだから、Scrubboxの場合はもう上部に目に入るページの総数しか、結構少ないですよね。
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画面サイズによりますけど、15ページくらいしか目に入らないですよね、ホームを開いたときに。
それぐらいでも別にいいんですよね。
大抵の場合はいいでしょうね。
そこの15ページの中にプロジェクト的なものが入ってたりとか、何か今気分が興味持っているものが並んでて、
ワンスクロールして20とか、それぐらいで多分1週間とかの生活全然事足りますよね。
そうですね。
押し出しワイリングも結局ほとんど手前で見つかるっていう話で、奥まで探すことはほとんどないって言われてますけど、
結局だからそういうことなんですよ。人間が常時に扱っているもので、そのほとんど手前の部分だけで解決してしまうっていうことがあって。
そうですね。
で、稀に手前の部分で解決しないことが稀にあったとしても稀だから、それは探すときにコストをかけても許容範囲じゃないかっていうことですよね。
じゃあデイスターの場合はその奥行きという概念がなくて全部示してくるじゃないですか。
ほら、これ情報ですよという感じで。そこがやっぱりちょっと認知的に重たいんですよね、あれは。
うん。
そうですね。
だから片方では白紙から始めないっていう話があって、もう片方は溜めすぎてはいけないっていう話があって。
そうそうそう。
中間にしか答えはないんですね。
そうですね。
で、今この独自の話から、一旦すべて捨てる話からそっちに行きましたけど、そういう、なんだろう、今捨てる話からこれだけ話が広がるのと同じで、そのレベルの広がりのある話題が千葉さんのところにももちろんあるし、山口さんのところもあるしっていうね、そういう本なんですよね。
うん。
ごめんなさい、ちょっと戻っていいですか、一瞬。
はい、どうぞ。
千葉さんの話で戻っていいですか。
はい、戻りましょう。
千葉さんのところはやっぱり、僕は千葉さんにインタビューもさせてもらったんで、ある程度その当時の書き方は聞いてたんですけど、
あの時に書かないで書くって言っていたことが、今回のライティングの哲学の中で、それは言い換えれば脱凝縮であって三分化である、三分化であるという言い方をしていて、
これはね、聞きたかった答えが聞けたみたいな感覚があって、個人的に非常に嬉しかったところがありますね。
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書かないで書くって、わかるんだけど、わかるんだけど実際どういうことなんだろうっていうのがずっと自分でも考えてたところがあって、
その中で、特にこの三分というワードが結構個人的に刺さったところがありますね。
これは、千葉さんにとっての文章を書くって、執筆するっていう行為がすべて論文的なもの、論で固められた文章を書くっていうこととずっと一緒というか、もう癒着していたのが、そこでその三分を書くという意識で書くことによって、より自由に書けるようになったということだと思うんですけど、
だから三分を書くのが難しい人もいるじゃないですか。
だからこの言い方が普遍的かどうかは別だと思うんですけど、普遍的なものを書かないで書くっていう方がはるかに普遍的だと思うんですけど、でも感覚としてはわかりますね、この三分を書くっていうの。
まあというか、なんて言うのかな、自由に書くというと、結局何も説明してないことになるか。難しいな。
千葉さんが千葉さん自身でこの執筆実践のところの千葉さんの原稿で、それをわりに露骨に形にして見せてくれてるんですけど、
あれはかなりわかりやすく、整えない状態ではそれが見えるように書いてると思うんですけど、
あれでいいんだっていうか、僕の書くための名前のない技術のインタビューの中では、例えばもっとみんなゴダールみたいにすればいいんですよ、みたいな言葉が千葉さんされていて、
要するに滑らかに繋がなくてもいいということですよね、わりにブツ切れになったブロックを並べていけば人はそういうものとして読んでしまうっていう、ああいうところも含めて、
それを具体的にどうやるのかっていうのは現実にはすごく難しいと思うんですけど、それを形にして見せてくれてるところもあって、
でもじゃあ3分書くぞって構えてやったらできるのか、多分そうじゃないですかね。
千葉さんにとっての3分というのはある種の解放の象徴みたいなものだと思うんですけど、結局人間って書くときにツールを使うのと同じように、書くときに何を書くのかっていう意識が必ず伴うんですよね。
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読書感想文を書こうと思ったら読書感想文を書くんですけど、そこはだから読書感想文っぽいと自分が思ってるものに沿って書くっていう行為に絶対になってしまうんですね。
そういう意識なしに書くっていうのはほぼ無理だと思うんですよ。
やっぱりその本、文章が書けないと本が書けないっていうのはそういうものが強く出すぎてて、自分の中から流れ出てくる素材の流れと、うまく合致しないから書けないっていうことで、自分の中から自然というか流れ出てくる流れをいかに活かせるのかという観点で、
どのような文章であると思えばそれが流れてくるのかっていうのを見つけた方がいいですね。
人によっては読書感想文ならスラスラ書ける人もいるかもしれないし、
人によってはね。
わからないですけど、自分これならスラッと書けてしまうなっていうのを一つの自分のフォームにして、他の文章を書くときでもそれを書くようなつもりで書き始めればいいと。
で、結局書いた後にそれっぽさにしたらいいんですよ、基本的にはね。
うん、そうですそうです。
で、この三文角では形態と状態が混ざってるんですけど、そのことについて後半の座談会で独自のスラスラさんが途中で変わってしまったら、
そのブルドゥーザーのように頭から直してしまうんですっていうことをされてて、
わかるなってちょっと思ったんですけど、
わかりますよね。
形態と状態って変わりますよね、文章を書いてるときに。
変わります。
しっくりくるあれが変わるんですよね、そのときによって、モードが。
やっぱそれを揃えようとしてしまって筆が止まるっていうことが、やっぱり他の座談会もあるんだなっていうのをこの本をちょっと読んで勇気づけられたところがありましたね。
そう、勇気づけられるという言葉が一番近いのかもしれないんですけど。
ブルドゥーザーのように頭から書き直すでもいいし、ある部分の表現が気になって、前後関係を直してしまうとかっていう、
その袋工事がやっぱりいくらでも生まれるんですよね。
そういうのを考え始めると。
だから一旦はそのノンフォーマットの形で書き出す、フリーライティングって言われてるもので書き出して、そこからそれっぽく整えていくっていう順序が多分一番いいんですけど、
だから本来はフリーライティングという名前すら必要ないはずなんですよね。
本来はね。
でもやっぱりさっき言ったように人間って何かのフォーマットに沿って書こうとしてしまうんで、
だからここはあえてフリーライティングっていう名前がついてた方が多分いいんですね。
そうですね。
僕の直感ですけど、だから自由に書きなさい書いたらいいんですよっていうのは一番真理なんで、多分正論ですけど、多分役に立たないんですね、これって。
1:06:06
それで書けるぐらいならもう書けてるっていう感じがするんで。
そうですね。だからもう要するにフリーライティングだよって言わないとフリーには書かないわけですね。
書かないっていう、うんそういうことだと思います。
うん。
それはもう自分が待ったりそうなんで、それはわかりますね。
でもまあ千葉さんはね、そのフリーライティングと本番の区別がなくなってきたっていうふうにも書かれていたので、
まあそういうなんだろう、最終的にそのそうやって統合していけるのかどうかっていうのは人にはよると思うんですけど。
まあこれね僕はいけると思いますね。
僕のその最近、あの初行じゃなくてプロトタイピング校という言い方、これも結局言い方とマインドセットの問題なんですけど、
で結局あれだから原稿書いてるようで書いてないみたいな感覚になってくるんで、だんだん。
だから結局それは自分が元々持ってた、その執筆っていうものに付随する規範性みたいなのが変質してきてるんでしょうね、徐々に。
うん。
だから、うん書こうと思ってて書いてるっていう、で書けてるみたいなとこに最終的には行くんじゃないですかね、きっと。
それってあれですかね、誰でもできることだと思います。
いやーそれはわからん、結構だから千葉先生は自分のそのマインドを分析的に捉えられてる方やから非常に進みやすかったと思いますけど。
だから、今自分が規範性に捉われてるなっていうのをまず気づかないと、これを一歩は進めないと思うんですよね。
書けないっていう時に自分はなんで書けないんだろうなって思えないとなかなか一歩進めないんで、でもそれがもし可能であるんやったら行けるんじゃないですか。
うん。
だから何かこのアウトライナーの使い方って、ある意味では規範性に縛られた、規範的な文章をいかに規範的じゃないプロセスで書くかみたいなところがあるんですよね。
うんうんうん、確かに。
だけど、そのなんだろう、最終形態、そのアウトプットがその規範的なものである必要もないかもしれない。
実はない。はい、そうです。
じゃあ、その自分のそのフリーライティング段階のものをそのまま使えるかっていうと、でも使えないわけですよね。
そこまではいかないですよね。そこまではいかないんですけど、結局その整えられたアウトプット像っていうのがあるじゃないですか。
まあ、シェイクで言うと上位概念に当たるようなきれいな構造っていうもんですけど、それですらその当人の思い込みじゃないですか、結局は。
うん、そうだと思います。
だから、それは変えていけるものやと思うんですよね。
変えたいという言い方をしてもいいんですけど、だから別にそれとは違う形の整った形があるということですね、どういう風に。
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うん。
だから書き出したままの…
違う形はありますよね。
うん、そう、書き出したままを変えていくんだけど、変えていき方がよくある整った形になっている必要は全然ないよということですね。
うん、はいはいはい。
だからシェイクをするんだけど、出来上がるものが案外整ってないっていうことがあり得ると。それで成立していくっていう。
まあ、それは当然ありますよね。
だからやっぱりシェイクでも何でもいいですけど、書いたものを直していくときにやっぱりその見出しのレベルを整えようとかいう規範性がやっぱり動くから整うわけですけど、その規範性その実はいらない可能性があって。
あれはもうちょっとゆるくするっていうか、だからやっぱり論文みたいにその正立て1、1、1、1、1、1、2みたいなにしなければならないっていうところを一回別に見出しなくてもいいやっていう文書もあるわけじゃないですか、世の中には。
はい、はい。
そういうのを一個一個引き出しで増やしていけば、いろんな書き方が可能になるのではない仮説。
いや、でもこう…
いや、だから僕…
はい、すいません、どうぞ。
いや、自分の今回の本も正立てってありましたけど、なんかそんなにきれいに切れてるわけではなくて、一応便宜的には切ってありますけど、話題は結構繋がってる話で、いわゆる名詞的にきれいに切断されてるわけじゃないですよね。
はい。
で、間々にコラムも入ってきて結構文脈がプツプツ切れたりするわけですけど、それでも一応ちゃんとした、ちゃんとしたっていうか、読める本にはなってるわけなんですよ。
で、最近木字案作ってるんで知的精査の技術の木字だけもう一回見てたんですけど、別にそんなきれいに流度が揃ってるわけでもないんですよね、あれ。
あ、あのね、ないですよね。揃ってないですよね。
なんか片方では道具の話してるし、片方ではなんかある行為の話をしてるしっていうんで、なんか見出しの整合性もそんなにないんですけど、じゃあそこ突っ込む要素があるかっていうと、まあ別にないんですよね。
そう考えたときにやっぱり僕たちが意識的に行動を整えようとするある種のイデアというか理想像もやっぱり一つの自分の思い込みでしかなくて、もっと違った整い方があるって思えたら、より柔軟なシェイクも可能になるのではないかというふうに思いますね。
なるほどなるほど。
僕、すごい自分、昨日今日ですごい自分が縛られてたなと思ったのはさっきの、今描いてるのって、だいたい長さは前と同じ6万5千字ぐらいだと思うんですけど、最終的に。
で、前の例えばOutline Processing Lifeって見出しが3何回あったんですよ。小説校ぐらいのレベルの見出しがあったんですね。
なので同じ分量だし同じような描き方だから、当然3段階になると信じてやってたんですよ。
1:12:06
ところが、それをこう、やっぱりどうもうまく流れないところがあって、直してる。で、さっき言った段落をちょっと細かく分けてみたりとかってやっているうちに、あ、これ、この3段目の一番下のレベルの見出しいらないんだなということに突然気がついて。
で、だから同じ6万字なんだけど見出しのレベルが一つ減ったんですよ。
だけど、なんで今の今までその3段階にこだわってきたのかっていうのがわからない。だけどやっぱりそれは縛られていたとしか言い方がないことで。
いや、だから自分の中にあるんですね。こういう形であるべきだっていうのがもう無意識で働いてて、で、それに向かって進んでいこうっていうのがシェイクの切り返しの方やと思うんですよ。
で、そういうのは人それぞれに当然あって、だからこそ個性的な本ができるんですけど。でもやっぱり一つの制約であって、そこには本当は本来はバリエーションというかパターンがあるはずなんですけど、あんまり検討されないんですね、そこって。
だから、やっぱりその流れベースで考えると見出しってめっちゃ減りますね、基本的には。
減ります。減ります。減りますしね、その文章の中で自分がそう書いてるんですよ。書いてるのに逆のことやってるんですよね。
まさに今倉瀬さんが言ったことを僕は書いてるんですよ。
他人のことならわかるけどという。
そういうことが起きるんですよね、人間というのは。
これはね、やっぱり他人の意見を聞くというのはもっと当たり前のことですよ。
他人の意見を聞くっていうのは、他人の言いなりになるということじゃなくて、自分の思い込みの部分に気づけるっていう効果がかなり強いですね。
だって思い込みだから自分だけでは一生気づけないんですね、それって。
こんでるんだからしょうがないですよね。思い込んでる。
そうか。いやだから、そうですね。
見出しが多いか少ないか、どっちか言うと論理構造がはっきりするのは見出しが深い方だと思うんですけども、その分流れが切れてしまう。
流れが切れても成立するように書かれていると言うべきかもしれませんが、流れをベースにしたときに、見出しって僕は本当に少ない方がいいなと思ってて、最近は特に。
たぶんリビジョンでも僕は一見出しで多分書いてたと思うんですよ。確か。
1:15:01
そうでしたね。
あれもあの辺ぐらいから結構僕も、ブログ書くときとかも見出しの2回目のレベルってよほどの長い文章でないか出てこなくなりましたね。
だから書き換えられるって気づいたってことかな。
深さが3のやつはこう書かなければならないってずっとこういう書き方しかないと思ってたんですけど、
案外レベル上げても普通に話して読んでいけるなっていうのをちょっと気づいたっていう感じですね。
だからね、読んで違和感がなければいいわけですよ。
そう、すべてはそこに基着しますよね。
そう、ちょっとね、続編意識が強くて、同じ書系意識になってなきゃいけないみたいなちょっと、あれが知らないといけない。
それはあるでしょう。一応シリーズものじゃないにしてもそこは揃えたくなりますし、基本的にこの本は見出し何レベルでいこうって事前に検討することはほぼないですからね。
ないですね。
もちろんね、制御するときにその必要な見出しっていうのはあるんですけど、そうだ、そういうことがあるんだなと思いましたね。
これは執筆の受ける見出し論で多分論じられたことがほとんどないと思うんですけど、基本的に執筆本って論文ベースか小説ベースが多いと思うんですよ。
片方は見出しがかっちり決まってて、片方は見出しなしっていうか、番号しかないみたいなのが多いんで、
間の話って実はあんまり論じられない。僕読んだことないですね、その言い見出しの付け方みたいな話は。
あとなんか新書なんかだと結構編集者が見出しを後から付けてたりするケースってあるみたいですね。
だから逆にそれは執筆陣にはなかった見出しなんですよ。
あ~、そっか。だから編集者さんの方が見出しに眼蓄があるかもしれませんね。
そもそもでも本当、見出しが多くなりすぎるっていうのはアウトライナーで文章を書くときの気をつけないと陰害なので、気をつけましょうねって書いてるそばから見出しが多かったっていう。
だから多いと思ってないから気が付きようがないですよね。
そうなんです。なるべく見出しを少なくするっていう見出しをつけてたんです。
これもさっき言ってたんですよ、通量を本来は出した方が客観的になるっていうか、
でもそれはあまりやりすぎるとちょっとフォーマットになってしまうんであれなんですけど、
でも見出しが3回そうになってたら1回注意しましょうみたいな提言の方が自分にとって取り入れやすいでしょうね。
1:18:01
自分で書いてるときにふからふから感じないっていう問題からして、客観的な数字の方が多分振り返りを呼びやすいというか。
見出しごとのその中身の分量がどう調整しても極端に変わっちゃう、同じレベルの見出しの下に1000文字あるところと300字しかないところが出てくるようだと、
多分そのレベルの見出しはいらない可能性が高いということなんですけど。
これは結構重要な話で、書いてる本人としてはそこは見出しは1個下になってるべきと感じるんですよね。意味的に。
感じてる。
うん。だからそこでもある種の自分の中でこうあるべきっていうのが強く出てて、こうあってもいいっていうのが検討されてないっていう形で、
結構似たような構図の話じゃないかなという気はしますね。
自分の言い方で言うとアウトラインが最終的に目字に変化するっていうじゃないですか。だからアウトライン段階ではその目字は必要だったのかもしれないけれども、完成段階の目字の段階ではそれは必要なくなってるんですよね。
その切り替えがうまく多分いってなかったということでしょうね。
だからこの本の文脈で言うと、1回作ったアウトラインを捨てろということですよね。目字作る前に。目字を目字で1回立ち上げた方がいいんじゃないかっていう提案にもできるんじゃないですか。
1回全部フラットにした後で目字をつけていくっていうことしたら、あまり深くなりにくい可能性がありますね。
そう。
そう書いてます。
そういうことを書いてるのに。
書いてるのに。
書いてるのに。
書いてるのにっていうか、たぶん切り替わりのポイントがそこにあったんでしょうけど、そこは本来だったらもっと意識的によしここで切り替えようってやりたいところだったんですよね。
なんかうまくいかないなってモヤモヤして悩んだ逆に取ればいいのかって気付くよりももっと本当は簡単にできるべきところだったような気がしますけど。
チェックポイントみたいなのを作っておいて、出筆に止まったらこれを確認しましょうリストみたいなのを作っておけば良いのかもしれないですが。
これはまあでも冗談じゃなくて結構有効やと思いますけど、他者の視点を入れるという意味でチェックリストって結構便利なんで。
そうなんですね。
見出し位置で初めから文章を書きましょうっていうのはさすがにちょっとこう、なんすか、制約がきつすぎるっていうか、人のノウハウを強要しすぎてるところはあるんですけど。
1:21:00
ある程度きれいに揃うように浅くしていきましょうという提案ぐらいなら取り入れやすいアドバイスかなという印象はありますけども。
見出し一つとっても奥が深いなと。
奥が深いですねそれは確かに。
まあ初めからそういうところを考えないようにしておくっていう有限感はもちろんあると思うんで、見出しは1レベル以上使わないっていうやり方も僕はありだと思いますけど。
ありですね。
必ず3作るっていうのと1個だけやったら1個だけの方が多分いいと思うので。
そうでしょうね。
僕はこのスクロップボックスの使い方、倍独自をさるさんのやつも結構面白かったんですが。
あれも面白かったですね。
どの辺やったかな。
結構近い使い方をしてて、僕が今ちょっとその論点でまたまとめたいなという話があるんですけど。
とりあえずプロジェクトを新しく作って、細かいことを考えてどんどんページを増やしていくというやり方で、ある程度カードが増えてきたらページを読み返すっていうところまではありきたりというかよくある方法なんですけど、
4番目にまとめないでまとめるっていうのがあって、これがクリティカルに重要なんですよ。
例えばスクロップボックスに100とか200ページ集まったとするじゃないですか。
そうすると人は一気にそれを目的化しようとするんですね。その300ページを。
これは一番やってないことなんですね。
これは結局、KJ法が志しているのとはまるで逆のことをしてしまっているんで、
本来はあるページと仲間のページをいくつか作っていく。
また別の仲間のページを見つけていくっていうゆるいハブを複数作っていくってアプローチしないとダメなはずなんですけど、
どうしても全部を1個のアウトラインに置いて、それを何とかしてやろうとしてしまうんですよね。
アウトライナーであればそういうツールやから別にいいんですけど、スクロップボックスってそのためのツールじゃないじゃないですか。
それを無理にやろうとするのが、これね、過ちのスターズなんですよね。
地下紙、ページを記述でつないでいって、なんとなく浮かび上がっていくぼんやりを捉えるっていう使い方ができるスクロップボックスなんで、
そういう使い方をね、ちょっと啓蒙していきたいなというふうに思いました。
あとやっぱり全部使おうとしちゃダメですね。
しちゃうね、確かに。
それはアウトライナーでもそうですけど。
全部使おうとすると、最終的に使われないものまで入ってきて、その中で構造をさせようとしてしまうから、やっぱり歪になるっていうことはあるでしょうね。
1:24:06
そこからこの半音の話はちょっとやりだしと長くなるんで、一旦これまでにしたいと思いますが、
何かたくさんお知らせすることがあれば。
お知らせは特にないですが、
はい、進んでます。
結構だから、ハキの話聞いてるといい感じに前進したような雰囲気を受けましたが。
前進してると思います。
僕の方は、まだカーソルが発売しているんですけど、
Kindleに2週間ほど経っても並んでないという悲しい状況でございまして、
結構面白い話を書いてるんで、ぜひとも読んでいただきたいんですけども。
長いですね。時間かかりますね。
来週ぐらいにはまた告知できたらなっていうのと、あと、本日8月5日の夜8時からTwitterのスペースっていうリアルタイムイベントで、
またまたセシモさんとお話するということになっておりますので。
その時は、編集者さんが、それぞれの編集者さんがついて、4人で対談というか会話するということになってるんで、
話は違う話になるんじゃないかなと思います。
これ、スペースは見方としてはあれでしたっけ?
リンク先から普通に見れるんでしたっけ?
か、その8時以降にTwitterのモバイルアプリとかやったら、上の方に今やってるスペースとかが表示されるんで、
開催してる人をフォローしておかないとダメですけど、その場所から入るかどうかどっちかですね。
なるほど。
よろしければ、まあよろしければっていうか、ちょっと連日喋りすぎてるんで、もうちょっと飽き飽きされてるかもしれませんけども、
ご興味があれば聞いてくださいと。
今回の感想とか、ライティングの哲学そのものについての感想等あれば、
ハッシュタグ打ち合わせキャスト、ひらがなで打ち合わせ、アロベトルキャストまでいただければクラスターがキャッチしたいと思います。
というわけで今回はこれまでにしたいと思います。お疲れ様でした。
お疲れ様でした。
ご視聴ありがとうございました
01:26:42

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