概要は以下のページからどうぞ。
サマリー
ウェブサイトで見つけた新刊『自分の「声」で書く技術』は、フリーライティングについて書かれた本であり、著者はピーター・エル・ボー。文字が詰まっており、1週間かかる程の内容の濃い本である。 フリーライティングの意味や目的、書くことに対する恐怖や不安を探求しながら、自己検閲から自由になるためのプロセスを学ぶ。 ライティングのプロセスとしてグローイング(育てる)とクッキング(整える)の2つのモードが分かれており、またその後半ではティーチャーレスライティングクラスという教師なしの文章作成グループについても触れられています。 タイプライターを使ったライティングとワープロによる新しいライティングについての議論が展開されています。書くことに困っている人には、自暴自棄にならずに始めることが大切だと言われています。 「自分の「声」で書く技術」とフリーライティングについての話。文章を書く際、最初にフリーライティングして終わりとするのは簡単だが、力強い言葉を見つけるためには要約する作業が必要である。自分自身の文章に対して感じた違和感を言語化することで文章の構造や動機がより自覚され、ライティング力が向上する。 他人の目や意見を取り入れることの重要性や文章を生成するAIとの共存について言及されました。本の最後の部分では、信じることと疑うことについての論理的な話がされ、2024年の傾向としてビリービングゲームの強調が指摘されました。 フリーライティングの重要性と難しさについて話しました。文章を書くことに疑いを持つことの使い方についても触れました。
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うちあわせCast、第百四十七回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
二、三週間無理なので、ニュースが溜まってるので、ざっと追いかけたいんですけども、どっか行こうかな。
まず今日か、今日のニュースから行きましょう。
三菱鉛筆が、ラミーを買収というネタが、日経なんで飛ばすかもしれないですけど、日経から出てて。
そんな買収あんねんやっての、ちょっと驚いたんですけども。
ラミーと言うと、日本で言うと万年筆のブランドとして多分有名やと思うんですが。
三菱鉛筆は、ボールペンでいうと、ユニ系のユニボールワンとか最近人気で、業績が好調なのかどうかは知らないですけど、あんまりハイブランドを持っていないのかな。
全球ブランドを三菱鉛筆は持っていないかもしれないですが、それを補うというような感じなのかもしれません。
どうなるのか全然わからないですけども、大きい買収だとこれは結構思いますね。
そうですね。
で、あと全然知らなかったんですけど、三菱鉛筆って三菱グループじゃないんですね。
そうなんですよ。
今日まで知らなかった。
ロゴマークも一緒やから三菱グループなんかなと思ったけど全然別で、ロゴが共通なだけで別のグループということらしいです。
豆知識ですね。
朝日新聞と朝日ビールは関係ないみたいな。
これもまたいくつか複数あるんですけど、ブルースカイというTwitterに対抗するSNSが今まで招待制だったんですけども、オープンになりまして、
誰でもアカウント、電話番号があれば参加できるということになりまして。
で、あと、もともとTwitterみたいなクローズなのよりはオープンな連合システムを採用するぞということが言われてたんですが、
初期状態は全然なかったんですけど、そのまま連合機能みたいなのも徐々に開発されているという発信があったのと、
あと強化機能か、ハッシュタグ機能という、Twitterではごく当たり前の機能なんですけど、今までなかったんですが、
追加されたということで、今まで似た話題を喋っている人を見つけるのが難しかったんですけども、
今後このハッシュタグが活用されることで、新しい人とか話題とかの出会いにつながっていくんじゃないかなということで、
結構一歩前進したというところで、ますますTwitterっぽくなってきたというようなところでしょうか。
ちなみに、僕もアカウントありますし、たくさん先日見かけたんで、興味がある人は探してください。
そうですね。1年ぐらい前からあったんですけど、ほぼ使ってなかった。
Twitterとか別のやつをやっていると、一箇所につぶやくということになって、
あんまりマルチポストを使いに限りというのはなかなか同時で複数使うのは難しいんですが、
僕は本当に日常のつぶやきしかしてないんですけどね。
つぶやきっていう感覚じゃなくなるんですよね。使い分けようとすると。
そうですね、確かにね。投稿みたいな感じなんですね。
そこにどこにやるべきかという思考が介在してしまうので。
なるほど。だからメモ的というよりちょっと能動的な感じになっちゃうという感じですね。
一段階意思が入りますよね、そこに。
そうですね。最終的にXが本当にダメになったら皆さんブログに行きましょうということでございます。
ツール系でいうと、一時期無料ユーザーの追い出しをしたEvernoteなんですけど、
その次の展開として、これまでフリーは機能制限があって、有用な機能がかなり制限されていて、
課金プランになると使える機能っていうのがあったんですけど、その課金が消えまして、
フリープランでも課金機能が使えることになったんですが、結局50ノートという制限は変わってないんで、
ますます50フリープランはお試しというか、こんな機能も使えますよと、
これ以上ノートを使いたかったら課金してくださいという料金体系になったということで、
標準的なクラウドツールになったって感じですね、どっちかっていうと。
そうですね。
他にでもあると。
アップノートも、僕が最近推しているアップノートも50ノートまでは無料で、
50ノート以上は月額100円からの課金ないしは3,500円の買い切りということなんで、
要するにその辺と同じ、ある意味月並みなゾフトになったということですが、
追い出し騒ぎを一旦抜きにすれば順調に開発は進んでいるツールだという印象で、
まだ実装されてないんですけど、課上書きリストを作るとバレットをクリックすると、
項目の開閉ができる機能も実装される間近らしく。
どうですか。
アウトライナーのような使い勝手はないかもしれないけど、
スクラップボックスとかでもたまにちょっと買い項目を隠したいんだよな、
みたいなニーズがあると思うので、それができるようになるのと、
あとこれも他のツールであるんですけど、スラッシュコマンド。
スラッシュを切り入れるとフォーマットとかスタイルとかの設定ができるスマッシュコマンドも、
いよいよ実装されるということで、どんどん現代的なツールに進化するというか、
ようやく追いついたかということで、今まではバージョン10になってから、
データベース周りとかUIとか刷新に忙しくて、新機能というのはほとんど追加されてなかったんですけど、
ようやくひと回り段落して、今後新しいエヴァノート姿が生まれてくるのではないかなというところです。
あとUIも変わったんですけど、あまり僕は新しいUI好きではないですね。
あとこれも全然使ってないんですけど、Notionにホーム画面というのが増えたらしく、
多分エヴァノートのホームと一緒だと思うんですけど、
その人が持っているNotionの全体から直近アクセスしたファイルリストとか、
その人がプロパティに当てはめられているタスクとかが一覧できるダッシュボード的なページだと思います。
使ってないんで全然わからないけど、ニュースだけはチェックしています。
これ結構大きいニュースで、GoogleのSSAIがこれまでBird、
これいいじゃなくて多分詩人のほうだと思うんですけど、
Birdという名前だったんですけど、急にGeminiという名前に変わりまして、
急BirdからのURLにアクセスするとGeminiのほうに置換されることで、
名前が変わったのと、多分バックグラウンドで動いているSSAIも多分多少変わったっぽいっていうので、
一応無料で使えるのと、有料でなんかハイスペックなとかAPIとか本能管理みたいな2バージョンがあるらしいです。
僕結構このGeminiよく使ってるんですけど、このGeminiがGoogleのワークスペースと連携することで、
Googleドキュメントとかスプレッドシートとかと協力してくれるということで、
もう完全にがっつりマイクロソフトのあれと敵対関係になっているというような状況でございます。
そうですね。何だっけ、これだなさんじゃなくて、もう名前が覚えられなくなってきました。
覚えられないですね。
マイクロソフトのあれっていう。
だからCopilotか。
そうだ、Copilot。
Copilot、Windows、XLとかNanoシリーズとGoogleとかのシリーズはもともと敵対してた、敵対というかライバル関係だったんですけど、
ASAIも加わって全くどっちかを選んだらどっちかが選べなくなるという感じで、
使い勝手がどうかはちょっとわからないんですけど。
メインでどっちを使ってるかですよね。
一般的な普通の会社の場合はWord、Excelのほうが多いでしょうし、
クラウドに強いところの場合はGoogleを使っている可能性が高いので、
その辺で分岐してくるのかなとは思います。
書類仕事とかテンプレートを使い回すので良い仕事の場合は多分生成AIがものすごく活躍してくれるはずなので、
そんなところの効率性を上げるくらいならその仕事をやめた方がいいんですけど、
多分多大な影響、どちらを使う人と多大な影響が生まれてくるでしょうね。
ちなみにプロ版はどちらも月額2,000円とか3,000円とかかかるので、
趣味で使うにはちょっと高すぎるのですが、
GPTもプロは結構高いんですよね。
ネットフリックスとかより高いんで月料金が。
よっぽど使う人でないといわゆるコスパっていうのはあまり良くないのですが、
ジェミンとかでも無料で使って、
コーディングの相談するぐらいであれば特に問題なく使えるので、
一般PayPalは多分それぐらいでいいんじゃないかなと今のところ思っています。
ツール話を抜けて、本屋さんに行ったら、
ダーンって瞬間のところに思考の整理学が出てて、
今頃だと思ったら新版で出てまして、多分文字サイズとかが大きくなっているのと、
一番最後に工技のやつが書き起こしみたいなのが追加されているということで、
その他は多分全然一緒だと思うんですけど、
長く読まれてるから別にいいんですけど、もともと通常版の文庫も、
別に品切り、絶版ならず書店に並んでたのになぜまた新版を出すのだというような疑問が少々あるのですけど、
それは本屋とか出版社の事情ということなんでしょうけど。
いい本であることは間違いないんですけど、またこれかみたいなところがちょっとあって。
文庫版を物理的に拡大したみたいな感じですかね。
なんとなく。ページのデザインがちょっと変わってるなという印象があったので、
それが起こるのではあるのですけど、やっぱり出てからある程度年月も経ってますので、
なんかこうね、新しい古典的、新しい世代の古典となるような本がそろそろ出てきてほしいなという感じではあったところですね。
難しいですね。古典になりそうな本を出すこと自体が難しいでしょうね、きっと。
だからといって、こういう本を出すことが果たして、
悪いことではないですけど、絶版されることに比べると全然いいのですけども、
まあちょっとね、という感じがするので。
まあでも千駒さんはいろいろ他にも出されてるんでいいんですけどね、こういうところで利益も上げつつということなんでしょう。
新刊『自分の「声」で書く技術』
今回の本編も本絡みなんですが、
自分の声で書く技術、自己牽引図を外し、
聞く言葉を仲間と見つけるという結構長いタイトルの本なんですけども、
全然気づかずに新刊を紹介しているウェブサイトで、
いわゆるタイトルで見ると知的生産系の技術やから、
これなんか見たろうと思ったら、
タイトル、著者名がピーター・エル・ボーになってて、
なんか聞いたことがあるなと思ったんですけど、
そうですよ。
僕の印象はエル・ボーやったんですね。
ウーじゃなくてドバシ・ボーやったんですよ。
だからあれ似てるかなと思って調べたら、
フリーライティングについて書かれた本ということで、
あああああ!っていうので、
まあ即座に勝ったわけですけども、
今回この本の話をしたいのですが、
本の内容の濃さ
話題がいっぱいあるんですよ。
とりあえず、
僕の話からすると、
フリーライティングの技法について解説した本であろう、
というような予測を持って読んだんですけど、
そんなチャッチー本ではなかったですね。
ひどいですよね。
そんなにページ数は多くなくて、
文字が詰まっている本ではあるんですけど、
大体僕この手の本やったら、
1日か2日あったら読み切れるんですよね。
この手の本サイズ感で内容であったら。
でも、1週間かかりましたね。
読書にかかった時間
読み切るのに。
途中で止まってしまう、
読みづらいからとかではなくて、
読んでいる時に使うMPが多いというか、
いろいろ考えてしまうところがあって、
止まり止まりながら読んだんですよね。
例えば、梅様の知的精査の技術とか、
さっき出た思考性学って、
やっぱりスイスイ読めるんですよね。
やっぱりパーッと気楽に読める。
でも、本書はそういう読み方をする本ではないですし、
本文の中でもよく出てくるんですけど、
力がある文章とか言葉っていうフレーズが
よく出てくるんですけど、
まさにそういうパワーのある言葉で
埋まっているような本だったなというのが、
まず本全体の感想。
もう一個特筆するとしたら、
僕、ちょっと前からバザー執筆法ということを
言ってるんですけど、ほぼこれですね。
ほぼこれでしたね。
そうですね。似てるかもしれないですね。
やろうとしていることの骨子。
細かい方法論は違うにしても、
やろうとしていることの骨子がほとんど一緒で、
書き手が止まってしまう原因とかメカニズムみたいなのは、
少なくとも日米を超えて共通なんだなというところを
確認できたのが大きかったのと、
この内容というより書くことに困っている、
悩んでいる人かなは、
本書は多分筆読の本になるんじゃないかなというぐらい、
星評価を超えるような本だったなというのが、
僕の感想なんですけど。
最高ランクの評価ですね。
おそらくこの手の技術書の中、
技術書とよってもいいと思うんですけど、
技術書の中では外すと大切なピースが書ける的な位置づけになっている本ですし、
逆にこの本を読んだ後にさまざまな技術書を読むと、
うまく付き合っていけるんじゃないかなという気もしたんですけども、
たくさんこの本を原著の方でお読みになられたんですかね。
そうですね。
これご存知の方はあるんですけど、
僕のアウトライナー本のデータ本の話になるので。
僕は奥田尚人さんの思考のエンジンの参考文献に、
エルボーさんのこの後に出た続編みたいなのがあるんですね。
ライティング・ウィズ・パワーっていう本。
これがライティング・ウィズ・アウト・ティーチャーですかね、原著が。
その10年後ぐらいに出た続編みたいなライティング・ウィズ・パワーっていうのがあって、
たぶんそっちだと思うんですけど、
思考のエンジンの参考文献に挙がっていて、それで読んだんですね。
日本橋の丸前までの洋食を買って行ってですね。
当時80、90年頃に行って買って、
その後、今回のこの本にさかのぼって読んだんですけど、
ある意味では、書くということに対する考え方を一生変わっちゃうぐらいの。
まあそうでしょうね。
ちなみに読まれたのって、ファーストエディションとセカンドエディションがあると思うんですけど、
このライティング・ウィズ・アウト・ティーチャーってどっちの版?
ファーのセカンドエディション。
だからその反論に対して織り込んだっていう、ある種の完全版みたいなのを読められたと。
昔、たぶん70年代の前半ぐらいに最初の版が出てるんで、
僕が買ったときはもう改訂されたやつだったと思うんですけど。
一応今Amazonで、日本のペーパーバック版は1998年発売と書いてますから。
あれ、じゃあその前なのかな。
わかりません。このAmazonの職種情報もちょっとあやふやなところがあるので。
結局僕はそれが実家のカオスに飲み込まれて見つからなくなっていたのを、
書くためのアウトラインカードでしまったときにもう一回読みたいなと思ってみたら、
あ、Kindle版があるじゃんと思って。
だから今あるのはKindle版のほうなんですね。
まだ改訂前だったのかな。
記憶の差分は取れないでしょうけど。
僕はファーストを読んでるのはセカンドだけなんですけど、
セカンドのほうがやっぱりパワフルが上がってるとか、
寄せられた反論に対しての反論を織り込んで書かれているので、
隙がないと言うとあれですけど、より納得できる内容になっていたなとは思うんですが。
このPodcastは別にブック語りすることはないんで、
その本の内容を詳細に追いかけたりはしないんですけど、
大まかに言うと2つの技法というかライティングが紹介されていて、
1つが僕らがよく使っているフリーライティングというものを使って書くということと、
もう1つは当時のタイトル、現状のタイトルであるティーチャーレスライティングクラスというものの
あり方とか運営の方法とか考え方を紹介するということで、
この2つがセットになって、僕はそのティーチャーレスライティングクラスのことは全然知らずに
フリーライティングのことだけを言及していたんですが、
フリーライティングというのはもちろんたくさん経由で知ってはいたんですけど、
フリーライティングのプロセスと困難
やっぱりちょっと理解の浅さがあったなと思いました。
もちろんフリーライティングという言葉の語感から、
自由に書くことだと思ったことをどんどん書いていくことだと。
そういうことによって、普段なら止めているような言葉が出てくるっていう理解。
言葉でしゃべっているとちゃんと理解していたような気もせんではないですけど、
フリーという言葉のイメージかな。
日本語のカタカナのフリーって言うと、ただで手に入るみたいな無料とかいう感じ。
制約がないぐらいのニュアンスかな。
本書を読んでいて思ったのは、カタカナで言うなら、
オープンライティングだなというのを感じたんですね。
心を開いて書くみたいな。
で、さっき言った、自己検閲から自由になるということなんですけど、
人のイメージは、僕らオープンダイアローグとかって言い方もありますけど、
オープンに書くっていうことだなと。
こう言った方が多分日本の人の感じが伝わる。
フリーライティングって言うと気楽に書くっていうイメージがなんとなくあるんですね。
僕らが勝手にその語感を歪めたかもしれませんけど。
でも、もっと素直に書くっていう方が、
多分この議法が目指しているものにおそらく近いんだろうなと。
そもそも逆に言うと、僕らは素直に書けないわけですね。
素直に書けないから困る。書こうとして素直に書けないから困る。
このフリーライティングをしていくことによって、
もちろんそれは最終的にはある程度自由に書けるようになるわけですけど、
おそらくその結果そのものが重要というよりは、
フリーライティングしようとして上手く書けないっていうことを自覚する?
何が自分のこの書くという行為を妨げているのかっていうことに直面していく。
そこで自分なりに折り合いをつけていくっていうことを、
そういうプロセスそのものに多分意味がある。
ということを理解したっていう感じですね。
まさにその通りだと思いますね。
ちょっと前にどなたかが、フリーライティングはいいんだけど、
フリーライティングした結果を上手く使えないんですよねっていう意味のことを呟かれていて、
要はフリーに書き出したカオスを整理して、
ちゃんと形にすることができないっていうような意味のことを言われてたと思うんですけど、
使うというのもあるけれども、
フリーライティングって結局フリーライティングをするだけで十分意味があるんですよねっていうような話があって。
要するにフリーライティングをする意味って、
書いたことをちゃんとした文章として完成させるということじゃないフリーライティングの意味って何なんだっていうことの答えは、
完全にこの本に書いてある感じですよね。
逆にこの続編のライティング・ウィズ・パワーの方は、
どっちかというとフリーライティングをして完成した文章を書きましょうとか、
そっちのほうの技法の話にもっと寄ってるんですけど。
こっちの最初の本のほうはもっと、
フリーライティングするということ自体に意味があるっていう感じですよね。
そうですね。
第1章がフリーライティングを練習しようってあって、
だからやっぱり練習しないとできないことなんですね、初めから。
やっぱりフリーライティングってカタカナで言ったときに、
練習しないでもできるような気やすさ、気楽さが僕の中であったんですよね。
そういう練習とかせんでもできることをフリーライティングと呼んでいるような感じかな、なんとなく。
でも実際はフリーで書くっていう、オープンなマインドで書くっていうことが僕らが難しい。
で、言葉に詰まってしまう。
本来書きたいことがあるのに出てこない。
その出てこなさをどう打開するのかという技巧、あるいはプロセスとして理解することで、
へなし、自らの規範性に気づくというのはこういう行為を取らないと、
たぶん一生わからないんだろうなと思いますね、これは。
規範性との付き合い方
そうですね。
簡単じゃないですよね。
簡単ではないですね。
簡単ではないし、ある種の怖さとか不安みたいなものと付き合っていかざるを得ないところはありますね、これは。
もしかしたら僕も含めて、ちょっとなんちゃってフリーライティングみたいなものを広めちゃった面がもしかしたらあったかなという、
自らに対する懸念が若干あるんですけど。
まあそうですね、難しいところですよね、それはね。
ただ逆に、じゃあ本来のエルボーさんが言ってたフリーライティングってどういうものかっていうのは、
もう日本語で読めるようになったんで、それを読むとわかりますよってことですよね。
そうですね、今後章の1、2、3章を読めば、いわゆる深いフリーライティングっていうものの形がありありとできます。
でも、この人は書くことに付随する恐怖とか不安っていうものを書き手は持つものだということがほとんど前提になってて、そこがいいよなとはちょっと思いますね、やっぱり。
すっと書けないところがあって、その書けなさに何かがあるわけで、
思いついたことを正確な文章にしましょうという話では多分収まらない何かがあるというところがわかるというところがいいですね。
文章技法は基本的にそういう話は全部すっ飛ばして、書ける状態にするに対していかに正確な文を書くかっていう話になってしまうんですけど、
そもそもそこにたどり着けない、というか逆に文章技法を学べば学べるほど書けなくなってくるということが本書でも書かれてるんですけど、
あるよなーって思いましたね。
だから自分の規範性との付き合い方はわからんままに、規範性だけが高まっていくわけですから、それは書けなくなるわけですよね、これは。
そうですよね。
でも結局人に読める文章を書くということ自体がもう規範の塊みたいなところがあるわけですよね。
結局、人に何かを伝えるという意味ではそれを無視はできないんですけれども、
無視はできないんですけど、それは自覚風というか、そこに規範があるんだ、働いてるんだっていう自覚なしに、
それを諸余のものとして捉えて、
それにその型に自分の書いたものをはめようとしていると、まあつらいし、できないし、
そうですね。
ということになりますよね。だから僕が文章を書くの苦手だったというのもまさにそこですし、
ライティングのプロセス
と言って、じゃあ外して自由に楽に書きましょうよって言ったから楽にできるかっていうとそうじゃないというところがまた難しいところですよね。
そうしたとしてもやっぱりある種の苦労というか、そこはまず訓練が必要ですし、訓練を抜けて慣れたとしたところでやっぱり苦労っていうのは避けられない。
本章でそのライティングのプロセス1、2で、2章が1グローイング、3がクッキングって言って、グローイングってのは育つ、育てるのがINGで、クッキングってのは料理ということなんですけど、
2つに分割されてまして、おおむね雑に言うとグローイングがいわゆる自由に書くモード、クッキングが整えるモードということだと思うんですけど、
プロセスを少なくともその性質の異なる2つに分離している。これは例えばたくさんの本を読んでいると、もはや当たり前、オープンとクローズで分けるっていうのは当たり前ですけど、これはもっと前から言われてるわけですよ、この話は。
もっと前からというか、このエルボーさんがもう1973年後とかに言ってる。
でもやっぱり、例えば僕らが日本の教育とかいわゆる一般的なビジネス上で、この2分割するということを多分ほとんど需要しないままに、原稿用紙一発製書書き文化みたいなところがあって、そこをちゃんと明示している。
規範性っていうのを開放することで、まずとりあえず書き出せと。自分が考えているものを書くことを通して初めて分かることがあるんだから、それをやってみましょうと。
でもそれだけでは、いわゆる完成した文章にはならないと。僕らがよく使うことで言うとプロダクトにはならないから、その後でちゃんと出した後である種の規範性みたいなのを発揮させて文章という形に整えましょうと。
だから、僕らは規範性にとろわれているから、その規範性を打破すればいいんだというフランス革命的なものではなく、使い分けましょうというごく真っ当な話が展開されているわけですけど。
フリーライティングって気楽で終わっていいというところになってしまうわけですけど、ライティングプロセスの全体から見たときに、主に前半を単語とするものであるという位置づけが確認されるところですし、
その規範性そのものを悪者として否定しているわけではないというところもリアルなところだと思いますね。
ティーチャーレスライティングクラス
でも、この本の後半につながるんですけど、この本の後半が面白い。後半というか4、5章かな。ティーチャーレスライティングクラスというもので、教師なしで書く教室ということかな。
僕とか、いわゆるブログをやっている人というのは大体一匹狼な人が多くてですよ。創作活動というのは基本的にドアを閉じた部屋でやるみたいなことが多いわけですけど、本書ではグループで文章を書こうということをすると。
結構それって面倒くさいとかややこしいことが起こるんではないかと僕なんか思ってしまうわけですけど、そういうところで文章を書いて他の人に読んでもらう。ないしは自分で朗読をする。
他の人のそのリアクションとかを得るっていうことを通して書くっていうことを学んでいこうということで。基本的にひどく汚すような批判的なことはしないで肯定的に捉えるところからスタートするということが書かれておりまして、そこがどうも第一版で批判されたということが後半に書かれてるんですね。
はい。基本的に学者科学的なものっていうのは批判的な態度、いわゆるクリティカルシンキングっていうのがベースであると。それはまあまあ確かに大切やけども、文章を書くとか想像的な行為をする初期の段階でそんなことをしたらもう何も成立しないという、成立しないだけじゃなくて書き手がもうそもそも触れを追ってしまうようなことも普通に起こるわけで。
で、その想像性の最初の段階でまず肯定的に何でも認めるっていうのはこれだからある種フリーライティングと一緒だよね。フリーライティングしてとりあえず思ったことを書き出すっていうことをした後で整える。で、やっぱりさっきも言ったように批判性を持ち出さないとプロダクトにならないっていう話と一緒で、書いた文章って他の人に読んでもらわないと誠意がわからないんですよね。
これはどうしようもなく。正しい正しくないというよりは、自分が想定している機能を発揮しているかどうかっていうのは自分が書いた文章を自分が読んでいるだけでは一生わからないんですね。これはもう残念ながら。
そうですね。特に時間を置かずにその場で何度読み返してもわからないんですよね。
時間を置くことである種自分が他人化することである程度他者の視点を得られるにしても、やっぱりそれは自分っていうもののサークルの外には絶対出ないわけだよね。距離はある程度多いよね。
他の人に例えば読んでもらうと、この文ってこんな風に読めたよって言ってもらうだけで、ははーって思うとか、これあるわけですね。これは本当に。
それを重ねることでしか文章力あるいは表現の力っていうのは育まれないってことは僕自身が一番よくわかってて、どれだけ長いことブログとか書いてても、やっぱり編集者の方に文章を読んでもらって、例えば赤を入れてもらわない限り、思っていることがこの文章では伝わらないとか、
あと本社の中でも面白かったのは、言いたいことが詰め込みすぎててメッセージがむしろぼんやりしている。あなたが一番言いたいことが伝わってないよっていうこともわからないんですね。自分の中で。だから書きたりないことも書きすぎなことも自分が自分にフィードバックする中ではわからないことが多いんで、それを他の人から感想を聞こうと。
そういった感想を聞くのは変な話、誰でもいいわけではないんですね。ある程度信頼関係を築けている。ティーチャーレスっていう話がありますけど、先生がいてもいいけど、先生をまた他の参加者と一緒に発表しなさいと本書で書かれてるんですけど、
その経緯性があるというよりは、みんなが同じ志を持つ人たちであるという心理的安全性みたいなものを確立した上で文章を発表して感想をいただこうと。もちろん相手の言い方によってこっちが気づくこともあるけども、どうやって受け取ったらいいのかも本書では書かれてるんですが、
やっぱりその何のリスクも犯さないで良い感想だけ聞きたいっていうのはこれ無理なゲームなわけですね。かといって何言ってもいいゲームではない。だからお互い言う方も配慮するし聞く方も配慮するっていうああいう理由によって初めてその文章力の向上っていうのが可能になる。
でやっぱりそれはある種のグループとかクラスっていう少し閉じた環境でないと生まれないんだろうなと。だから一人の書き手とかこれから書き手をエンハンスしたいっていう思いがある人にとっては4章と5章が与えるしさはねかなり大きいと思いますね。
実用的な内容
まあでも、今福良さんと喋ってるからこの話になりますけど、書くためのアウトラインプロセッシングの福良さんに読んでもらったじゃないですか。コメントもらうじゃないですか。
そのときね、この話をちょっと思い出したんですよね。あれは一対一ですけど。
別に倉下さんの姿勢として、こいつにこの文章ってものを教えてやろうっていう姿勢でコメントしていたわけではないんじゃないですか。
もちろんそうです。
だけどやっぱり、そういう姿勢でコメントされる以上に学ぶところというのはあるわけですよね。
ここでの話は、複数の人でお互いにそれをやるっていうことですよね。
そういう場所がもしあったら、非常に素晴らしいことだなと思いますよね。
過去10年のインターネット化がことごとく失ってきたものですね。SNSによっておそらくは。
ディスコードみたいなものが回復させようとしているのも多分こういうことなんだろうなとは思いますね。
やっぱり、変な人が集まる人たちっていうのは未熟な読み手なわけですね。
書評家とかではなくて、書き手としてもそんなに大したことはなくて、読み手としてもこれから頑張っていこうというタイプの人だから。
そういう人たちが複数に集まることで本書が言うには、一人一人の意見ってそんなに絶対的なものではないとわかると。
こう感じる人もいるし、こう感じない人もいるっていうその多様性に触れられるから、やっぱりたくさんの人に会った方がいいという意見だと思うんですね。
一応僕はプロの書き手だから、自分の読みが絶対ではないっていうことを踏まえた上でコメントするんで、
この通り書き直すべきみたいなニュアンスは減らせていくと思うんですけど、
やっぱり人口的にそうじゃない人が多いわけだから、そうじゃない人を集める場合は、
1人とか2人よりは、たぶん5、6人、本書ではたぶん7人ぐらいは想定してると思うんですけど、
いた方が安全性は高いと思いますね、きっとね。
やっぱり一対一できつく言われると、やっぱりその意見が絶対のように感じてしまいますからね。
まあ確かに、特に一方が、文野に関してレベルが自分より高いと思っていたりわかっていたりする場合は特にそうですよね。
そのつもりがなくてもその人に言われたらへこむっていうことはあるかもしれないですよね。
それも読者の読み方の一種類でしかないっていう受け取り方がもしできるとしたら、
書くという行為に、さっき言った規範性みたいなものに多様性が生まれると言うかな。
こう読まれることもあるし、こう読まれることもあるよね。だからどっちを選ぶの?みたいな、
規範性の選択みたいなことに多分至れるようになると思うし、そればっかりはやっぱり、
どれだけ知識で教えても多分意味がなくて、体験してみないと多分成せないから。
だからあるブログとかSNSの長文投稿とかで一気にデビューできてしまうわけですが、現代では。
その手前にこういうティーチャーレスライティングクラスみたいな方があった方がいいでしょうね。
この本がある種の話題を呼ぶというか、問題を提示するというか、
ティーチャーレスの在り方というのは既存の教育機関から言うと反抗的なサイドなわけですから、
問題を呼ぶだろうなとはちょっと読んでいたと思いましたけど。
これはアメリカでもかなり異端だったと思うんですよね。
決してアメリカはこうであるっていうことではないし。
これなんで今になって翻訳されたんでしょうね。
まあ欲しいですね。
逆に80年代ぐらいに訳されてもよかったはずだと思うし、
ずっとそれがなかったんで、そのままなんだろうなと思っていたら、
なぜ突然今になって。まあありがたいことなんですけど。
ちなみに日本語版の刊物に、
漢訳の人か本訳の人かどっちかはまだ確認してないんですけど、
本書の理解を深めるブックリストというのがありまして、
原著のあれではなく参考文献じゃなくて、日本で手に入る関連する本で、
テーマ1が言葉が書けないを理解するというので、いくつか本が挙げられてるんですけど、
1冊目がライティングの哲学なんですよ。
そこかー。
4人。
やっぱりテーマに共通する部分がちょっとあるじゃないですか。
ありますよありますよ。
そこはまさに同じテーマですよね。
あのヒットがあって、こういうのは受けると誰かが説得できたじゃないですか。
まあでもライティングの哲学が売れたっていうのはそうですよね。
結構いろいろいろんな面でポジティブな影響があったかもしれないですよね。
と思いますね。
だからそういう企画がドライブするきっかけになったんじゃないですかね。
フリーライティングって言葉も出てきますもんね。
どうせは出てくると思いませんよ。
関連的にも、こっちのほうがよりディープというか、
著者が教えてきた経験を踏まえて書かれていることなんで、
理論的にガッチリしてるというよりは実践的な内容が下で書かれてるんですけども、
まあ実用的、本当にリアルな意味で実用的な本でしょうし、
タイプライター的ライティング
さっき言ったようにたくさんの方がおっしゃってるように、
書くということについての思想的瞬間を引き起こす本でしょうね、おそらくはね。
いやだからこれね、今翻訳版が出てそれを読むと、
なんとなく気づかずに済んじゃうかもしれないんですけど、
これ1973年に原著が書かれたっていうことは、コンピューターはないわけですよね。
そうか、なるほど。
だから手書きとタイプライター、
アメリカの場合はタイプライターがメインかもしれないですけど、
アナログを前提に書かれてるんですよ。
で、後にコンピューターが使えるようになったことによって、
ここに書かれたような、本書に書かれたような技法というか方法を使って書かれた、
いわゆる力のある言葉というものを、
一旦書き出した後でそれをエディットして形にしていくということが、
この後に可能になったわけですよ。
だからそこが結構すごく大きなことであって、
この本書が最初に書かれた時点では、
この方法によって完成された文章を書くということは、
今想像するよりずっと大変なことだったんですけど。
例えばそのフリーライティングの項目で多分、
3回か4回書き直しなさいみたいなことが書いてあるんですけど、
僕はそうだろうな、さっき言ったように自分がやってるようなことなんでそうだろうなと思うんだけど、
手書きで言ってるとはちょっと思ってないですね。
そうですよね。
まあこれ、電動タイプライターがあればもちろん楽ですけど、
コンピューターにしてもクラシックスみたいにエディットするんじゃなくて、
わざわざ書き直すことを言おうとしてやってる人はそんなにいない。
だからその労力はちょっとっていう人のほうが多いと。
だから逆に手法として意味があるわけですけど。
この後に結構革命的なことが起こったんですよね。
逆にこれは完成された、ちゃんとした文章を書くための方法という、
そんな狭いものではない。
そうですね。
そこに価値があるというのは大限定としてあるんですけど。
でもそこから、ここからこの方法で出てきたものをちゃんとした文章に変換しちゃうことは、
この当時よりもはるかに今は楽にできるので。
だからもう少しこの続編のライティング・エッジ・パワーのほうはもう、
あれは多分改訂版みたいなことで確かコンピューターに言及してあったような気がする。
ちょっと今あやふやですけど。
その辺はちょっと変わってるんですよね。
ましましてアウトライナー。
アウトライナーがあるのとないのでは全然このことの持っている意味合いは違いますから。
そうですね。だから僕はディテールズを逆にたどってるから。
たくさん思考のエンジン、この本みたいな順番でたどってるから、
読んでても何にも違和感はなかったですけど。
時代背景を考えると逆にすごいですよね。
その時代に何度も書き直すってことを。
作家の仕事部屋でも似た手法を書いてるっていうのを紹介されてた。
やってる人はいましたよね。
一般的な技法として述べたというところで。
それだけ現代ではデジタル端末が手に入ってっていうやりやすくなったっていうことがある反面、
逆にいくらでも書き直せるが故にライティングの悩みが深まるという、
批判性が顔を出す場面で、自由に批判が顔を出すというか、
書き直せたのは書いちゃったからしゃーないドライブができないっていうことがあって。
だから現代でより多分この考え方、まず自由に書くっていうことが必要性が高まってる気がしますね。
なるほど、確かにそうですね。
そうですよね。書いちゃったからもうしゃーないってならないですよね。
ならないからこそ何回もその一行を書いたり消したりって止まりやすくなって。
そうか、そうですね、確かに。
逆、アンビバレントな説があって、デジタルが手に入ったことによってフリーライティングを何回も簡単にできるようになったっていうことと、
書いたちょころここからエディットできてしまうから批判性がもうエディットモードで、
ライティングとエディットが融合して出やすくなっているというこの二重の側面が現代ではあるんでしょうね。
だからひょっとするとより訓練というか練習が必要になっちゃったのかもしれないですね、確かに。
それはあると思います。だからやっぱり本書とかで改めて確認するということ、
あとはデジタルで例えば複製が簡単にできるとか、未使用とかいくらでも追い出せるとかっていうことの機能を有効に使うことで、
エディット力というのとうまく付き合っていけるっていう、技術的にちょっと高度になってますね、おそらくは。
そういう変化があるんでしょうね。ちょうどたまたま至高のエンジンの監督プロジェクトって言って、今2章を読んでまして。
楽しいところに入ってきちゃったですね。
1章はタイプライターの話だったよね。
僕はあの本2回ぐらい読んでて、3回目から監督プロジェクトでやって、やっぱり全然読めてなかったなというのを確認してるんですけど、
タイプライターっていうのが手書き的なものから脱却しようとしたけども、結局タイプライターももともと頭の中にある完成品っていうものをただ転写していくだけという意味では、
手書き的な、もっと言うと音声中心主義、イデア中心主義、ロゴス中心主義っていうものから抜け出せてないよねと。
どうしたらいいのかっていうところで、話が始まってるんですけど、ワープロっていうものが新しいライティングエンジンになるんではないかみたいなところで終わってるんですけど、
まさに本書で書かれているようなことと通定する。わざわざこの現代によって手書きをする作家っていうのは、手書きをしていること、その最中によって何かが生成するプロセスを体験しているのであって、
その完成品をただ並べ替えてエディットしているわけではないのだっていうようなことと、このフリーライティングしながら何回も書き直しながら自分が何を考えているのかを確かめて書いていくっていうこの描写と
多分同じことが含まれてるんだろうなと。
同じでしょうね。思考のエンジンは、ちょうど監督プロジェクト中に。先のネタ話をしないほうがいいですか。
全然大丈夫です。
僕は何十回も読んできたんですけど、やっぱりタイプライター的思考っていうことを長いこと誤解してましたね。
やっぱりその先入観って、思考のエンジンに出てくるタイプライター的思考とかタイプライター的ライティングっていうのが、
今日我々がワープルでやっているようなライティングをアナログでやっていることだという誤解を長いこととしてましたけど、
ワープロと新しいライティング
そういうこともやっている、一致する面もあるんですけど、
あそこで書かれているタイプライター的ライティングっていうのは、何を表現したいのかというのが最初から決まっていて、
それをいかに効率よく実現するかということのためにタイプライターを使ってエディットして書いていくということなんですよね。
僕が今思っているような、書くことによって書きたいことを見つけ出していくというのはまたそれとは別の話。もう一段先の話。
このエルヴォーさんの書いているようなことはそこに関係してくる?
そうだと思います。そこは全く通定している。僕もやっぱりノートを書いて、書かれていることを整理しながら読んで初めてその理解にたどり着いたんで。
あそこね、すごい誤解するんですよね。するっていうか、僕はしましたね。
一緒に読んでいる方でもたぶん似たような感じがされていたと思うんで。
本論に関係ない総直的な話が多いから、ちょっと意味が取りづらいところはたぶんあれは。
そうなんですよ。
だからこそこうやって読解して読むんですけど。
わくとも1章と2章をそれぞれ1ヶ月かけて読んで、ようやく著者に読んでいることがわかったなというところでしたね。
ちなみに読んでいる方の感想というか印象ってどんな感じですか?
結構バラバラですね。
僕も採読するまではっきり聞いていなかったんですけど、ニーチェがタイプライターを結構初期に導入していたみたいな話だったんですけど、
ニーチェに対するイメージが変わったみたいな。そんな新しい物好きの人だったんだって。
俺もそんな感じは全然なかったですけど。
そういうふうにこれまで知らなかった人の面を見るとか、タイプライター的なものが巨大組織を動かすために必要という技術があって、
そういうのと知的生産というものと、いわゆる工場生産みたいな、機械的工場生産みたいな関係性を考えたいみたいな意見もあって、
やっぱり人によって着目点はだいぶ違いますよね。
これはどっちかというとデリダの思考を追いかける、著者の思考を追いかけることを中心に今は呼んでるところですね。
そうなんですよね。デリダの話も出てきますけど、要するにタイプライター的思考というのは構築なんですよね。
そうですね。構築です。
脱ではない構築なんですよね。
タイプライターを使った詩人とかが今までではない書き方を挑戦しようとはしていたが、
結局別の形の構築であって脱構築にはなっていないということは、今回読むまでは全然気づかなかったですね。
ワープロによって新しいライティングが生まれたみたいな印象で勝手に読んでたんですけど、
それはどっちも前向きの方で、むしろそこには限界があったんだよということが2章目で確認されてて、
ああ、なるほどなと思いましたけど。
結構ね、あちこち飛ぶんで。
飛ぶです飛ぶです飛びます。
そこが楽しいんですけどね。
書くことに困ったら
だいたい次の章への接続を一つ前の章の後に置いているんで、
続けて読まないとね、ちょっとわからなくなってきますねきっとね、あれは。
逆に言うとちょうどいい題材でしょ。
これ合わせて読むといいですね。
合わせて読むとより書くことについての理解が深まる。
だから少なくとも両方ともが目指しているのは、頭の中に書くことがあって、
それを例えば文字に書き起こしたら書くっていう行為が成立するねっていう考え方に対する批判というか、
新しいビュー、ビジョンを示しているというところで。
僕のスタイルはどっちかというと、書きながら構築していくスタイルですけど、
世の中には頭の中にある画風を書き写すかのように文章を書く人はいるでしょうけども、
そういう人は困ってないわけですから別にノウハウはいらないわけですけど、
書くことに困っている人はそういう書き方がある。
あなたがやろうとしていることはおそらくこういうことなんだろうなということを理解できるだけで、
楽にはならないけど不安にもならないんじゃないかな、きっと。
困って当たり前なんですね、結局。
そこから始めていけば、少なくとも書けないことに対して
自暴自棄にはなったりしないような気がしますね。
書けないからダメだと言うには、書くということはあまりにも難しすぎると思いません。
特に正確で完成された文章を最初から書くっていうことは、
サーカスの曲芸ぐらいの難しさが多分ありますよね。
情報カードにマメ論文みたいなのを書くみたいな、300字から400字でみたいな。
あれめちゃくちゃ難しいですからね。
スクラップボックスになったことで、情報カードの場所がスクラップボックスになったことで、
とりあえず書いてからまとめることができるようになったわけですね。
フリーライティングと力強い言葉
アナログの場合は何文字になるか重くつけながら書かなあかんかったわけですけども、大体を。
タイトルも後からつけられるし、論詞の順番も後から変えられるようになったから、
初めて情報カード的マメ論文の書きやすさが激減したわけですけど、
300から400文字の論説ですらその難しさですから。
未展示のエッセイとかを一気に書き上げるっていうのは、相当難しいですね。
試験で手法論文、手で書けって大変なことですよね。
練習しないと無理でしょ。練習して、しかもおそらく出されるであろうテーマを何本かストックしておいて、
書くことをあらかじめ構築しておいて、その場に進むっていうことをしない限りは、
良い得点はもらえないでしょうね、きっと。
だから、あんまりこう言うと書くっていう行為がいかにも難しく誰もできひんっていうような感じになられても、
それはそれで違うわけですけど。
誰でも多分文章を読む、文字を書くとか文章を読む経験をしたことがある人だったら多分書くことはできるんですけど、
ある水準を目指そうとすると、どうしてもその間に苦労っていうのが避けては通れなく発生して、
それをどうくぐり抜けるのかっていうアドバイスが本書にあると。
だから、楽になるというか、苦労を乗り越えるためのプロセスが紹介されている。
決してラクティはならない。
一番最初のファースト、プリライティングして終わりってする人がいたとしたらそれは楽だと思いますよ、もちろんね。
でも多分それはクオリティ的に、他の人に読ませる文章にはなっていない。
別にそれに意味がないことじゃないんですけど。
日記とかだとそれでいいかもしれないですけど。
でもそこから人に見せる文章にするっていうことをするならば、おそらくそのような過程が必要で。
日記ならいいってさっき言いましたけど、
自分用に書く文章でも、直近たくさんがノートのあれに書かれてた、
例えば、自分の目標とか、自分がこうするというビジョンとか、ミッションステートメントとか、
自分に好評をもたらす効果、エフェクトをもたらすような文章の場合は、
やっぱり最初にフリーライティングして終わりというわけにはいかないんですね、これはね。
他の人に読み寄せる文章も、やっぱり他の人に対して何かしらの好評を与えようとしてるから、
やっぱり書きっぱなしではいかないんですけど、書いた後に手を加えるというとちょっとアリアが、
編集するというとあれですけど、手を入れて初めて必要になる。
最初は自由に書いて手を入れるっていうこのプロセスの文化と、
それぞれのプロセスで何をするのかが理解すると、書くことが嫌じゃなくなるというところはあって、
書くことが簡単やって言うと嘘になりますし、書くことを好きになると命令しても意味がないわけで、
やっぱこういうある種のノウハウを習得するしかないんかな。
なんかこうノウハウ、ノウハウでもあるかもしれないですけど、何というかほとんど生き方みたいな感じですね。
とりあえず思考法ではありますね。物事をどう考えるかの思考法でまずあって、
それは結局、己の規範性とどう付き合うのかっていうところまで敷衍すれば、生き方の話ではありますよね。
でも結局何というか、さっき倉下さんがしてくれた話で言えば、いきなりは力のあるものは書けない。
けれども、いきなりというか、要するにフリーライティングだけで形にはならないけれども、
ある程度フリーライティングと呼ぶかどうかは別として、それこそ規範性を外し、規範を外して、
自由にオープンに、この原文で言うとこのイマージョンという言葉を使う。
侵攻する、潜る。
その中に潜っていって、そこから何が出てくるものっていうのを引っ張り出してこないと、
結局、それこそミッション・スペートメントっていうのは、
何度も言っちゃいますけど、自分を動かすぐらいの力がある文章なんですよね。
自分を動かすにしても他に動かすにしても、
そういう言葉っていうのは、そんな表面を課せただけでは出てこない。
そうですね。
ですよね。だけど、潜ってフリーに書いただけだと、わけがわからないかも。
読ませてもわけがわからないかもしれないんで、
そしたら今度読めるように整えていくっていう。
その2段階ですよね。
自分のための文章にしても他人のための文章にしても、
たぶん2段階必要なんじゃないかな。
そうですね。
どっちかだけでやろうとしても、たぶん、
力があるけどわけがわかんない文章か、
わけがわかるけどスカスカな文章か、みたいな。
そうですね。そういうことになるでしょうね。
できる人いますけどね。
天性の感覚で引っ張ってこれる人はおそらくいるでしょうけど、
凡人に期待するものではないですし。
そうですね。力のある言葉を見つけるっていうことが、
前提的に必要なこと、大切なことっていうのがあって、
もしかしたらそうじゃない場合もある。
むしろ力がないほうがいい。
官僚的文章っていうのはそうかもしれないですけど。
僕らが使っちゃうな、書き手として、
なりわいとして物書きをしてる人間にとって、
力のある言葉を見つけるっていうことは、
非常にクリティカルに重要なことで、
でもあんまり僕は意識してなかったんですね、これまで。
僕は文章は流れ派というか、
綺麗に流れていればよし、みたいな感じがあったんですけど、
本章を読んで、力がある言葉をいかに掘り出していくか、
彫刻みたいに岩の中から削り出していくかっていうことを、
結構これから意識していきたいなというところを思ったのと、
あとフリーライティングを何回か繰り返し行うっていうのは、
バザール執筆法とコンセプトはほとんど一緒なんですけど、
自分が書いたものを読み返して、
その部分について要約しなさいと。
要約することで初めて自分がこの文章で何を言わんとしているのかが
分かるっていうことが書かれてて、
要約すると結局見出しをつけるっていうことと
イコールだと思うんですけど、
見出しをつけると言われるより、
要約すると言われたほうが僕の場合はしっくりきましたね。
バザール執筆法では書いたら結構次すぐ行くんですね。
あんまり自分がその第1項で書いたものを深く考えないというか、
材料自分が書くことが何となく分かったから
その何となくに身を任せて第2項っていうことをしたんですけど、
むしろ1回ちゃんと要約した方がいいんだなっていう、
試してないですけど、おそらく次のステップがより明確になりやすいっていう
クリアになることが多分期待できるんだろうなというのが
バザール執筆法バージョン2にヒントになるような知見でしたね。
見出しってつけてるんですよ、結局その文章本文書くときに。
でもおそらくそれは足りないという生半可というか、
むしろそのつけた見出しとは別に、
この文章で自分は何を言おうとしてるかを読み返した上で、
ちゃんと要約するっていうことをしたほうがいいんだろうなというのを考えたとこですね。
なるほど。
でもそうかもしれないですね。
見出しのつけ方にもよるかもしれないですけど、
本の見出しみたいな見出しをつけちゃうともしかしたらちょっと違うのかもしれない。
見出しもいろいろあるじゃないですか。
要約見出しとかキャッチ見出しとか適当に言いますけど。
僕は文章の流れがあって、流れが切れるところとか
分量的にっていうところにだいたい見出しを差し込むんですよね。
だからあんまり意味段落になってないというか。
見出しもふわっとしてることが多いんですけど、
そういうのとは別にちゃんと改めて文章で言おうとしてることを要約するということをしたほうがいい。
だから僕は見出しをつけるのが下手なんですね。下手というか。
どうですか?
下手というか、別に苦手ではないですけど、
あんまり力のある見出しにならないことが多いかな。
ふんわり邪魔にならないかな感じ。読んでて。
なぜなら僕本を読むとき見出しを読まないからなんですね。
見出しの意識をだいたい飛ばして読むんで。
だから目次で見出しを見ることはしますし、
段落を読み終えた後に見出しに戻ることはあるんですけど、
見出しを読んで、この文章、この段落がこれに関われてるんだっていうことを確認して次に進むことをするよりは、
流れを優先するんで、見出しの前の一行から見出しの次の行に目が飛ぶようになってますね。
僕の考えた渾身の見出し値は飛ばされてる?
飛ばされる可能性が高いです。人間の集中力から言って。
だから僕自身も書くときにそこに注意を置かないように書いていることが多い。
いやでもこんなんも結局ね、誰かと比較しない。
今こうやって説明したからあれですけど、僕も別に見出しを飛ばして読んでることもあんまり意識しなかったんで。
要約することの重要性
読みの形とか多様性も、人と読みを交わすことで初めて浮かび上がってくることがあるんでしょうね、きっと。
そうですね。だから物語読みっぽい読み方ですよね。
物語って施設に番号とか振ってたりしますけど、見出しが入ってないんですよ。だからそれに近いです。
そうですよね。だから逆に人によっては見出しを全部ザッと最初に飛ばして見る人みたいな方もいるかもしれないし。
論文的な読み方だったらそれが正しいし、ブログでもそうです。見出しをちゃんとつけてる場合は見出しだけ読めばいいっていうパラグラフライティングの読み方ですね。
面白いですね。あとティーチャレスライティングクラスでさっき言った書き手がフィードバックを得られるから書き手力が上がっていくって話をしましたけど、
やっぱり読んだ感想を伝えるということも実はライティング力のアプリになるんですよね。
僕の一番苦手なやつですよね。
たくさんのフォントとか郵便屋さんとかゴリゴさんのセルフパブリシングのフォント下にさせてもらってコメントを書くわけですけど、
あれ難しいんですね。あまり言うとあれですけど。
例えば、どっか文章があって引っかかるところがあったとするんですか。引っかかったらまず最初に自分なら広角のにが頭に思い浮かぶんですね。
でもね、それを伝えても仕方がないんですね。
その後に、じゃあ自分はなぜこの文章に引っかかったのか、どこの部分がその僕の違和感になっているのかにまず潜るわけですね。
それを極力言語化しようとする。
例えば、前の文章がこういうベクトルで動いてたのに、この文は急にベクトルがかかってるから分かりにくいと感じたかもしれませんみたいなことをコメントに書くわけですね。
この分析がめちゃくちゃ役立つわけですね。
なるほど。
自分で文章を書いてるときはそんなことをまず考えないですけど、人の文章に対して感じた違和感を言語化することによって、文章の構造、動機のファンクションとかストラクチャーがより自覚されるようになっていくということもあるんで。
フィードバックとライティング力の向上
だから単純にそのクラスに参加して、全員が真剣に望んでるんやったら、それは確かに書く技術っていうのは上がっていくだろうなというのはあくまで想像ですけど、ちょっと思いましたね。
確かに。確かにっていうか、そうですね。全員がそのレベルだったらすごいですけど。
でも逆に僕今思ったんですけど、自分だったらこう書くのにっていうのが見たくなっちゃう気もしますね。
そのような前置きを踏まえた上で、例えば書き換えるなら僕の場合はこう書きますということは確かにありますけど。
その通りには多分しないとしても。
参考というか、2つの文が対比されることでよりクリアになることはもちろんあると思うんですけど。
でも最初にこの文章はこのほうがいいですみたいなのを書くと、誘導というかほぼ強制になってしまうので。
一箇所でクラシタさんが、例えばですけどこういうのもあるんじゃないかみたいな感じで一箇所書いてくれたところがあったんですよ。
それがすごくね、その通りにはならないんですけど。
逆にクラシタさんがさっき言ってたストラクチャーの分析ではなくて、自分ならこうするのにっていうのを読むことによって逆にこっち側でそのストラクチャーの分析ができるっていう効果はすごいあった気がしますね。
なるほど。
僕が言ってもタクさんはちゃんと自分の文を書くだろうという信頼感があるからこそある程度言える感じはもちろんあって。
例えば初めてセルフアポリティとしますっていう人については言い方はちょっと変えたほうがいいかなというところはあって。
やっぱりこれも人を見ないと書けないことですし、そういうことはやっぱりグループのようにお互いのことを見知った上で言ったほうが遥かに効果的でしょうから。
適時に集まって、しかもその人が書いた文章を読むとか、その人が他の人についてコメントしてるってことを知るってことはその人を知るということですから。
知ることを経験した上で意見を言い上げるようになったら、たとえそれが書き手がプロでないとしてもやっぱり得るところがある。
だからコンテキスト付きでちゃんとわかる。だからインターネットで暴言にさらされるのとは全然質が違うものになるんでしょうね。
そうですね。
簡単ではないですけど、ある種の事情グループというか、こういうことをしてそれぞれに意見を述べ合いましょうみたいなことを作れたら、
セルフパブリッシング界はもうちょっと、あんまり言うとあれやけど、レベルが上がっていくんではないかなというところがありますね。
読みづらい文章を直すのは機械的だから別にいいんですけど、論点がぼやけているとか、深く引き込めてないみたいなのはやっぱり人間がコメントしないとちょっとコメントにならないので。
この書き方やと、例えば、横暴に聞こえますよとか、人を傷つけますよっていうこともやっぱり人とパーソンでないとなかなか伝わらないし、言い方も難しいので。
そういう配慮なしにただ書くことに慣れただけの文章は、ちょっと暴力的になりがちっていうところもあるので。
ウェブにしろ本にしろ出版、パブリッシュな場所に出すのであれば、規範性が邪魔になるとしても最後には規範性を学んで整える必要があり、
文章がどう響くのかとかどう機能するのかっていうところがわからないと、例えば自分では全く良いことのようにとかつもりで書いてるのに、響きとしてはそうでなってないってことがあり得るわけですから。
だからやっぱり何かし他人の手、目、耳みたいなものを入れていったほうがいいなと。むしろだからこの本書のタイトルで自分の声で書き出すっていうのはなかなかキャッチになってますが、
自分の声がどう響くのかやっぱり他人のリアクションがないとわからないし、むしろだからその差異化によってはよりぶっきりとなるようなところもあるでしょうからね。
インターネットを一匹狼の人間が言うことじゃないかもしれませんけど、こういう活動は増えたら確かに書くってことに困難を覚えてる人がちょっと減っていくだろうなとは思いますね。アメリカでこれがどれくらい流行ってるかわからないですけど。
今この時代にこの本がどういう位置づけになってるのかも正直知らないですけど、精製AIの時代にこの翻訳が出たっていうのはかなり意味があることじゃないですかね。
そうですね。今の時代だったら精製AIとともに書くみたいなことになって、ますます一人になるわけです。
彼らは文章、さっき言った文法のナースとかは非常にクリアにやってきますし、自分が書いたことを要約して返してくれるのも非常に得意なんですね。
だから、そういう意味での文章精度を上げるパートナーにはなってくれると思うんですね。ただやっぱり人の心にどう響くのかというのは別の話なので。
論理的に整合性は高まってるけど、力のある言葉ではないみたいなことが普通にあるわけですから。これはこれとして2つの力を使っていきたいですね、これはなんとなく。
ちなみにそれで思い出しましたけど、思考のエンジンに出てくるソートラインのようなことをチャットGPTでやらせられないかというのを試してるんですけど、なかなかうまくいかないんですよね。
質問してこっちの答えをまとめてくれって言うんですけど、知識をひけらかしてくるんですよね。
それは俺言ってないから。
プロンプトの設定を調整しないと難しいところがあるんでしょうね。
お前の知識はいいんだよみたいなこと言うんですよ。
あと、ソートラインって変な話でツッコミ嫌じゃないですか。論点が甘いところ詰めてくるじゃないですか。
チャットGPとかって向こうから質問しないでしょね、基本的に。
そうですね。
意図的に質問してくださいって言ったらやむなしに質問するんですけど、八つ切り合いにお前どう考えてるんだを詰めるようなことはしないので。
逆に言うとチャットGPTは人に優しいんですよ、詰めてこないから。
でも論理の構成でいうと非常にそれは弱い。
チャットGPとは違う詰めてくる精神みたいなのがないと多分うまくはいかないでしょうね。
プロンプトのあれによってできそうな気もするんだけど、そんなにものすごい真剣にやったわけじゃないですけど。
心地よい会話相手にはなるんですけど、設定の中であなたは大学教授ですみたいなことを言えば、論理に詰めてくるかもしれないですけど。
質問はしてくれるんですけど、それをまとめるときにこっちの言ったことじゃないこともまとめに含まれちゃうかな。
含んでても全然彼らはおかしくないでしょ、別に。
彼らは常にふんわり答えてるだけなので。
使い方がまだ下手なのかもしれないですけど。
どこまでいってもふんわりですよ。彼らは会話を理解してないので。
今までの出力を全部踏まえて再出力してるだけなので。
データを渡してこれを2列でまとめてくださいって言っても、何回言っても1列で書いてるときとかありますからね。
人間あえてやったら切れてると思うんですけど。
こっちの命令と向こうのニュアンスが合ってないんだなーって平行線で終わるわけですか。
ただやっぱり、エルヴォーさんが書いていたようなことと、
AIって必ずしも100%矛盾するものではないなという感じはしていますよね。
うまく共存できるような感じで。
共存はおそらくできるでしょうけども。
変なこと言うと、7人いるメンバーのもう一人増えたぐらいの位置づけで、
7人が総特化になることはおそらくないでしょうね。
3つの生成AIに対してそれぞれ感想を求めたりしたら面白いかもしれないけどね。
例えば文章を読んでもらって、
この中で一番響いた言葉はどれですかとか、
一番困惑した言葉はどれですかとか、
一番怒りを覚えた言葉はどれですかっていう答えに、
彼らは答えられないじゃないですか。つまり感情がないから。
だから力がある言葉っていうのは感情を揺さぶることを考えたところで。
だからそこを期待すると評論として話にはなるでしょうね。
だからそこじゃないところで他者の目っていうのを使っていけばいいっていう感じかな。
面白いですね。生成AI自体とライティングっていう。
書くこと、生成AIで文章を書くっていうのは、
試行の縁でいうと、手書きタイプライターはプロの次ですからね。
そうです。
ライティングの質そのものがやっぱりそれらの段階で変わってきてるんですよ。
やっぱりもう一段階変わるんでしょうね。
変わるんじゃないですかね。
ただそれが何も考えずにふわっと使ったときに、
ビリービングゲームの強調
それがライティングと言えるのかっていうことに多分なってきちゃうので。
そうですね。だから生成、さっき言ったそのフォートライン的に
あなたが今頃から書いたことは何ですかって質問されて自分に答えていくっていう
その対話とか問答の果てに、もし文章が生成されるんであれば
おそらく自分が書いているときに心の中でやっていることを外部化しただけ
まあだけとまでは言いませんけど、限りなく近いはずなので
書くことで生成されている何かはおそらくあるでしょうけど
まあそのなんかふわっとしたテーマを与えて
これで文章を書いてって言って出てきたものをコピペするのは違うでしょうね。
違うでしょうね。
ただまあすごい楽する方法で言っちゃうと
その生成アイで出てきたものをポンとアウトライナーに放り込んで
要するにフリーライティングの段階を生成アイに置き換えちゃって
アウトライナーに放り込んで、でシェイクしちゃうと
なんとなくオリジナルっぽいものに見えるものができるっていうこともあるわけですよね。
たぶんそれで済んじゃう用途の方が多いかもしれないですね。
文章の8割はそれに済みそうな話ですけど。
ただたぶん文章を書く上での一番自分に返ってくるものが
実部的には便利だし、それで十分役に立つ部分はあるけれども
それだけだったら別に書かなくてもいいやってことになりますよね。
業務でノルマとして課されてないこととしてやることはないでしょうね。
だから究極的に我々はなぜ書くのかっていう話になってきますね。
仕事でもない人に書いてるのはなぜかっていう話になりますね。
とりあえず非常に面白い本でもありますし、力強い本でもあって、役立つ本でもあって
評価の仕方はいっぱいありますが、読むに値する本と言えると思いますね、この本は。
実は翻訳版はまだ僕は読んでないんですが、
この時代になってそれが読めるとはちょっと思わなかったですね。
僕もとりあえずいつかは原著にチャレンジしようという、
いつかサムデイリストに入ってた本ですけど。
原著を読んでないから文章がどれくらい削られてたとか、
文体が変わってるのかっていうのを比較は僕はできないですが、
まあまあ、ちゃんとパワーを感じる本だったので、
だいぶ、ちゃんとっていうとは上からですけど、きちんと翻訳されてるんだろうなという感じで。
一応本章は発行というか最後の部分で、論理的な、理論的な話がされてて、
ダウンティングゲームとビリービングゲームかな。
信じることと疑うことという話があって、
これはもう書くことを超えた、さっき言った思考法の話で。
現代では、特にこの本が書かれてる時代では、
ダウンティングゲームっていうのが優位になってて、
信じるというビリービングゲームが弱ってるから、
本章でそのビリービングゲームを強調してるということが言われてるわけですが、
2024年、ますますその傾向が強まってて、
その意味でも本章の価値があるかなとは思いますね。
続編の可能性
そうですね。
そうなるとこれ、続編のほう、ライティング・ウェス・パワーのほうも訳されたりするのかな。
この本の売り置きで言われるじゃないですか。それは。
そうですね。僕がよくネタ本のひとつと言っているのは、むしろ続編のほうかもしれないですけど、
オープン・エンデッド・ライティング・プロセスっていう言葉が奥田さんのほうに出てくる。
オープン・エンデッド・ライティング・プロセスっていう言葉が出てくるのはこの続編のほうですね。
そうなんや。
そうか、そっちでオープンで出てくるんだ。
オープンっていう言葉の中で間違ってなかったわけですね。
だから、そうです。まさに間違ってないことですね。
そっか。オープン。
オープンに書く。難しいな。
オープンに書くことの大切さと難しさっていうところで、
フリーライティングはそれに触れられるというところですかね。
規範性が強いとか、文章を書くのが好きな人ってだいたいそういう傾向があるんですけど、
神経質であるとか、規範性が強いっていうのがあって、
だからこそ書けない、書きづらいというところがあるからこそ、
書くという行為に付随する病みたいなところがあって、
病っていうとあれですけど、強すぎると病になるのかな。
そうでしょうね。
文章を書くことを、
believingだけで成立した文章って、
ちょっと柔らかく言うのが難しいですが、
ちょっとスピリチュアっぽくなるわけですね、要するに。
信じるものはスクワルド的になっちゃうわけですね、簡単に言うと。
だから疑う心っていう、あるいは論理的な見当っていうのが必ず必要になってきて、
神経質な人はそれが得意なわけですから、
そういう人が書く文章は極めて優れたものになりますけど、
自分のその疑いそのものが覚醒を止めてしまうということがあって、
この書いてることって価値があるんだろうかって思ってしまった瞬間に手が止まるわけですから、これは。
だから疑う心の使い方という感じなのかな、結局。
そうなんですね。
だから、自己啓発界隈では、
神経質な神経症的な人が、
疑う心を捨てれば解放されるみたいなメッセージがあるわけですけど、
それは判明正解なんですけど、
でもその疑う心を捨てちゃった先にあるものっていうのは、
むしろちょっと怖いものなわけですから。
要するに、花粉症が嫌いから免疫システムを止めるみたいなもんじゃないですか、それって。
そうですね。
だから、働かせ方を変えようというところで、
せっかくその、論理的に疑う力があるのは、
文章を最後に構成する上では有用なわけですから、
前半と後半を分けようっていうのは、
書くことだけに限らず、創作的な行為全般に言えることですし、
そういうことは生きること全般に通じると、
文章の理解と生産のスローペース
ちょっと敷衍して言ってもいいんじゃないかなと思うんで、
そういう意味でも本書は広く読まれて、
広くは読まれないでしょうけど、広く読まれていい本かなとは思うんですね。
少なくとも、ライティングの哲学を読んでよかったと思った人は、
読むといいのではないですから、
ごめんなさい、日本語は読まないで言ってますけど、
倉田さんの話を聞く限りでは、全然良い訳であると想像されるので。
そうですね。読みにくさはなかったですね。
当たり前ですけど、力ある言葉をすると、
余計な記述で削れていくわけですから。
非常に密度の濃い文章でしたね。
難しいことは一切ないですけど、
一文一文がちゃんとした重みを持っているというか、
だから読むの時間かかったんですけど。
サラサラと言わは読めなかったですね。
でも割に読みにやすくない印象を持ってましたね。
読みやすくないっていうか、
気持ちよく流れることで読んでいけるタイプの本ではないというか。
それは間違いない。
でもそうですね。
文章のタイプによって、あるいは求めている機能によって、
サラサラ読めた方が良い時もあるし、
ゆっくり読まざるを得ない本の時の方が良い時もあって、
本書の内容的にはおそらくゆっくり読めた方が良い。
ゆっくり読まざるを得ない方が多分良い。
サラサラ読んでしまうと、
適当に勘違いして忘れてしまうことがおそらくあるでしょうから。
本ってゆっくり読まないと絶対分からないんですよね。
確かに引っかからなさすぎて分からないってことありますよね。
分かった気になって終わってしまうとかそういうことがきっとあるので。
現代の流れ的に言うと、
その流れに反しているゆっくり読まざるを得ないというのは反しているとは思うんですけど。
やっぱり監督プロジェクトとかをやってても思うんですけど、
みんな早く読みすぎですね。
やっぱりある程度ゆっくり読まないと、
人間の脳ってそんなに賢くないので、
何回も読めば当然ざっくりと全体感っていうのは伝わってきますけど、
細部とか著者が強調したいこととかそうじゃないことの分けっていうのは、
やっぱりゆっくり読まないと、
少なくとも実体験があると見通せないですね。
こんなに読めてなかったかっていうのを確認しましたね。
僕もね、十数年経って、「あ、違ってた!」みたいな。
そんなもんでしょうね、おそらくね。
雰囲気で読んでるし、
特に最初に読んだときにフランス現代思想への憧れみたいなマインドが、
今よりずっと強かったので、
かっちょいいものに触れてる感じで流してしまってたところがありますけど、
これってどういうことなんだろうっていうことを、
他の前後の文章と参照しながら意味を汲み取っていくという、
すごい時間のかかることをして、ようやく論詞って終える。
もちろん読みやすく書かれた文章はそんなことしなくていいわけですけど、
ひねって書けばいいってもんじゃないですけど、
そうやって書かれてる本の場合はやっぱりゆっくり読まない。
本の難易度に合わせた本の読む速度っていうのがあって、
そこを踏み違えて全部一色単に読むと、
なんかふんわり、間違ってというかまとまずして、
理解することがあるでしょうし、
ゆっくり本を読むということと、
フリーライティングで何度もゆっくり文章を書くっていうことは多分相似で、
つまり、ふわっと本を読むことと、
ふわっとフリーライティングして終わることって多分似てるんですよね。
分かってない、両方とも。
前者は自分が、著者が言おうとしてることが分かってないし、
後者は自分が書こうとしてることが分かってないまま、
終わりにしてしまうってことがあるんで。
だから、スローペースで知的生産を進めていく。
だから、生成AIでちゃちゃっと終わりにする雑用的生産もあれば、
自分自身の人生において大切なことはゆっくりやっていくっていう、
両党方式でやっていくのがよろしいんだろうということを、
再確認した次第ですね。
もし読んだ人がいれば、感想を、
ハッシュタグ打ち合わせキャスト、ひらがなで打ち合わせ、
アルファベットキャストまでいただければと思います。
沢山お知らせしたいこととかございますでしょうか。
大丈夫です。
今回はこれまでにしたいと思います。お疲れ様でした。
お疲れ様でした。
01:28:43
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