はい。
だから、どの宗教に属しててもいいけど、そのOPMLを使っているわけで私たちはアウトライナーというものの恩恵に授かれるということだと思うんですけど。
まあ、カイツマンで言うとそういうことなんでしょうね。
だからロームはそこと志は今のところ同じくしてないよねっていうふうに見えましたね。
だからワイナーさんが思っているアウトライナーっていうのはやっぱりファイルベースのものであって、ブラウザーで使えるタイプのアウトライナーをワイナーさんも作ってるんですけど、
昔ファーゴっていう名前のがあって、それがなくなって今はリトルアウトライナーっていう。
そうなんです。確かに。
なんですけどあれはクラウドアウトライナーじゃないんですよね。
ファイルをローカルに保存してるんですね。
ファーゴの時はドロップボックスのAPIを使ってやってたんですけど、今ちょっとどうやってるのか知らないですけど。
なのでワイナーさんはおそらく同じ理由でワークフローも違うと思ってるし、ライナリストも違うと思ってるんだと思うんですよね。
あれ全部データベースですからね。
ただ一応確かOPMLファイルでのインポートエクスポートを可能としてるんであれば、ギリ仲間には多分入ると思うんですけど。
ロームはそこをはみ出てますからね、一応。
ロームはあれでしたっけ、OPML吐き出すとかってできないでしたっけ。
インポートを特に聞いたことはないですね。
仮にエクスポートしたとしてもローム的なものが全て失われる。
そうですね。単なるアウトラインじゃないですか。
だから根本的に違う、データが劣化版として出てしまうっていう点があるんで、多分違うって言うのはあるんですね。
この辺の話を見聞きするのもいいんですけど、Twitterでやり取りされてるの見たんですけど、
なんかすごくいいというか、例えば自分がアウトライナーっぽいツールを開発してる人だとするじゃないですか。
で、デフォワーの人から聞かれるわけですよね。すごい恐縮するじゃないですか。
まあ普通に考えたら。
でもね、非常にフラットな議論があったんですよね。そこで。
それはアメリカ的がそうなのか、ソフトウェア開発者がそうなのかわからないですけど、
お互いが自分の主張を明確にして、ロームの人たちも是非ロームをあなたに使ってほしいんだっていうつもりで書いてますっていうことを明確にされてて、
非常に清々しい意見交換があったなと思って。
インターネットってこういうところだよなと思ったんですけど。
そうですね。C.Weinerさんはそういう人だし、だから本当にフラットで、
Weinerさんってすごい人なんですけど、本当にすごい人なんですけど、歴史的に。
アウトライナーを使い続けることができないっていう話があって、これが実に主策的だなと思ったんですよね。
逆にアウトライナーを使い続けていくってどういうことだろうっていうことだと思うんですよ。
例えば、その日使う短いアウトライナーをアウトライナー上で作りました、使い終わりました、消しましたっていうことを、
一週間に一回とかやるっていうのもアウトライナーを使ってるって言えますよね。
でも多分ここでイメージされてるのはそうじゃないことじゃないですか、きっと。
それはなんないんだろうって思うんですけど。
うーん。
だからやっぱり、正確にはご本人に聞いてみないとわからないところもありますけど、
やっぱり考えたこと、思いついたことを多分全部入れて扱おうとされてるんじゃないかなっていう意図を受けたんですよね。
で、それを、例えば、何かしらの、なんでしょうね、
これアウトプットをしようという意図がある場合もあれば、整理するという場合もあると思うんですけど、
で、そのどっちにこの重きを置かれてるのかがちょっとわからないところもあるんですけど、
思いついたことを全部アウトラインに入れ込んで、それをそのままアウトプットに変換するまで使っていこうというのはかなり難しいというか、
まあ、そういうことですね。
パンクしちゃうことが多いんじゃないかな。
それ、やっぱり僕もいろんな人から質問されるときにかなり多い質問なんですよね。
発想をたくさん書き出してアウトライナーで整理して、それで文章を書こうとしたんだけれども、
処理しきれなくなっちゃう。
っていう、ようやくするとそういう意味になる質問って結構たくさん受けますね。
なんで、多分それと同じことなのかな。
ただ、結構いろんなことを考えておられるので、それだけじゃないことも多分書かれてると思うんですけど。
でもまあ、そうですね。結局それはあらゆる情報ツールを使うときに起こりがちというか、
だから、かなりツールに対してオーバーワークをさせようとしているというか、
それは多分、初めから無理なことなんですよね、きっと。
やろうとしていることって自分の脳の整理なんですよね。
簡単に、もうすごく簡単に言うと、相対としての自分の脳というか思考をそこに全部列挙して、
さらにそれをうまくアレンジしていくっていう、塩梅していくっていう行為やと思うんですけど、
そのようなことがうまくできる自分の脳とその脳を支えるツールとか、
その脳がうまく同調しているような状態に作れたときに、初めてアウトライナーが使えているっていうところを目指すと、
それはまあ、無理。おおむね無理な話ですよね。
そうですね。
多分、アウトライナーにしてもエヴァノートにしても、
思いついたことを全部入れ込んでいくっていうことはできるんですよね。
できます。それはできます。
できて整理することも多分できるんですけど、
その結果を見て、でって言われたときに、そこから何か、
アウトプットっていう言葉好きじゃないですけど、アウトプットをしようとしたときに、
でってなっちゃうことが多いんだと思うんですよね。
でってなっちゃったときに、だからアウトライナー使い方ベタという感覚が自分に芽生えるんやと思うんですよ。
そうですね。そういうことなのかな。
切り出すっていう表現もどこかで使われていたと思うんですよね。
その大量に自分の考えたことを入れ込んだアウトラインから、
アウトプットを切り出す場合もあれば、それを取捨選択して、
圧縮していってアウトプットにしようとする場合もあると思うんですけど、
いずれにしても、全ての枝葉が含まれたアウトラインがあったとして、
そうするとそれがいかに整理されていたとしても、
そこからある一定の大きさのまとまったアウトプットをしようとすると、
結構おそらく難しいんじゃないかなと想像しますね。
そうですね。だから結局僕もずっと同じようなことを考えて、
EvernoteとかWorkflow.lyに日々の着想、日々の着想、
Daily Insightをメモしていたわけですけども、増えてはいくんですよね。
増えてはいくんですけど、増えること以外には何も起こらないんですよね。
で、なんか違うなっていう感じになって、数があんまり多くなると、
ダメだこれになっちゃうんですね。それは結構ツールを変えて繰り返してきたんですよね。
だからツールの使い方が悪いとかツールが悪いというよりも、
そもそも無理なことをしているんですよ。達成不可能なことをしているんですよね。
そうですね。
とりあえずアウトライナーを倉庫的に使うのは、
あんまり得意なことでもないし、やって得することもないというのはまず一つあると思うんですけど、
先ほど言った、いわゆるセカンドブレイン的な使い方。
自分の脳のそのものの補助としてのツールとして使うということも、
全体像をそのまま書き込むのは無理なんですよね。
これは倉庫じゃないんですけど、倉庫じゃなくて動き変化していくものなんですけど、
それもアウトライナーには向いてないと思うんですよ。
アウトライナー以外のツールでも無理だと思うんですけど。
説明しようとするとできない。
ネットワークは出来上がってるんだけど、説明はできないっていうことが起こるんですよ。
そういう複雑なしっこって。
はい、そうでしょうね、きっと。
どんなにマインドマップが出来上がって、納得できるマインドマップが出来上がっていても、
あるいはどんなに納得のいくリンク構造のネットワークが出来上がっていても、
それを説明しようとする、つまりアウトプットですよね。
説明しようとすると、できないっていう現実がよく起こる。
これは何でだろうっていうところから始まってるんですけど、
つまりアウトプットはネットワークじゃないんですよね。
アウトプットはネットワークじゃないですね。
ネットワーク上のものをアウトプットするということがそもそもできない。
やろうと思えば脳を直結するしかないですよね。
そうです。
その2つが同じプロトコルで動いていることを前提として、
片方が心に思い浮かべたことをもう片方が思い浮かべられるのであれば、
それはネットワークを伝達したことになると思いますけど、
言語を介したコミュニケーションである以上、ネットワークをそのままっていうのは無理で、
そのネットワークを部分部分に分割して、
引っ越しの荷物のように一個一個パカッパカッて向こうに移していって、
向こうの人が頭の中でそれを組み立てていくっていうことをすることが、
読み書きというか、言語を介したコミュニケーションということなんですよね。
そうですね。切り離して順番に並べてあげなきゃいけないわけですよね。
そうですね。しかも、もっというと、その人にとって適切な順番に並べてあげないとダメなんですけど。
だから、マインドマップとかネットワークで考えた時に、
ぶつかるジレンマと似たようなことがやっぱりアウトライナーであっても起こるんですよね。
複雑な階層構造、深い階層を掘って細かく構造化しておうと思っても、
その納得した感覚をそのまんま人に説明することはほとんど不可能である。
確かに。
だから、それを考えると、
さっきのアウトラインで考えたことをすべてアウトプットするわけにはいかないというところに戻っちゃうんですよね。
なので、何をどうアウトプットするかという、そこが実はプロセスの部分であって、
中間のプロセス部分といったのはそこの部分じゃないかと。
複雑なものを切り出して並べ替えて説明できるようにするっていう部分を担うのがアウトライナーなんじゃないかなと。
少なくともアウトライナーの役割の一つなんじゃないかなと。
その作業自身が、たとえアウトライナーを使おうが、知的負荷をゼロにすることはないわけですよね。
ないです。ないですね。
てか逆に知的負荷がゼロってやってないのと多分一緒なんですよね。出してないのと一緒なんで。
外に出すってことは知的負荷を減るということと多分同義なんですよね。
逆にROMでもスクラップボックスでもいいんですけど、テキストをリンクにする行為で情報がつながる行為って知的負荷がゼロなんですよ。ほぼ。
完全にゼロではない。どの言葉を選ぶかに知的負荷はあるんですけど、
自分がこの2つがつながっていると思ったことを言葉にするということの負荷はないんですよね。
ない。
結局、自分が求めていたエウレカ的なものはやってこないんですよね。結局。
つながっていることがわかっただけっていうことで。
つながっていることがわかったっていう感覚、つながっていることがわかったっていう言葉ですらなくて、
こういうことだっていう心象風景を言葉にするってものすごくしんどいんですよ。これ。
だから、ものすごくしんどいことをしないと、これは望むものが得られないんですよ。
ということを僕はようやくわかってきてるんですけど。
そうですよね。
ツールを使えば、どこかの時点でその落差が段階的に上がっていって、ある時からもう抵抗ゼロで、
その奇跡なものが生まれ始めるっていうことがあるのかなと思ったんですけど、ならないんです。
このことになりました?
いや、なんかこのうまいことやっていけば、だから着想を書き留めるのはすごく楽なんですよ。
はい。
で、この着想の言葉をキーワードにしてリンクするのも簡単ですよ。
はい。
でも、これとこれがつながっているっていうのを記述するとものすごく大変なんですよ。
はい、そうですね。
ここをゼロにはできない、とか、ここがたぶん一番の肝なんですね。おそらく。
そうですね。はい。
ここを大切にしようっていうのが僕の最近のコンセプトで、実は僕が最近書いている本の第6章もそれが担当なんですけど、
文章化は避けられないよっていう話。文章化こそが知的作用の一番大切なところだよっていう話。
はいはい。全くそれは同意ですね。
だからそのツールだからその手間をゼロにはしてくれないんですけど、逆にその文章化する。
例えば、絵売れ家的な発見があってそれを文章化するっていう一番しんどいことを肩代わりはしてくれないんですけど、
それ以外の、例えば紙のアナログノードだったらあっちめくってこっちめくって、これとこれがつながっているっていうそのプロセスを代替してくれる部分があるわけじゃないですか。
ワークスペースが僕は一番近いイメージですけど、
出発点があって終わりがあって終わったら消すっていうぐらいのイメージがぴったりですけど、
その考察は多分もう一回記事が出てくると思うんで、
今まで実は前振りだったんですけど、冒頭部分に、
冒頭部分に、なんでアウトライナーがベタであるとはどういうことかっていう話で、
私はアウトライナーとともに情報管理の系システム、エコシステムを作り上げるということができなかったかっていう疑問があって、
さっき言ったその、系っていうことが多分重要なんですけど、
倉庫じゃなくて系っていうことがポイントなんですけど、
その一つの理由としてきちんとしている感に負けているっていう話が出てくるんですよね。
これは非常にアウトライナーでよく出てくる問題だと思うんですけど、
アウトライナーっていろいろな意味できちんとしてるんですよね。
見た目が、特に見た目がね。
アウトライナーのきれいな構造を、つまり全てが再起的に再現できる構造ですよね。
だから多分、数式で記述したらものすごい簡単に記述できるはずなんですよ、あの構造は。
決して複雑にはならない。
もう一個は過剰書きである、頭にバレットがついている過剰書きを促すが故に、
過剰書きになってしまう。
この二つが多分問題提起だと思うんですよ。
アウトライナーが構造的にきちんとしていることっていうのはもちろん意味があるわけじゃないですか。
アウトライナーが部分部分でアウトライナーじゃなかったら、
それはもうアウトライナーじゃないわけじゃないですか。
だから最近崩れてたアウトライナーじゃないじゃないですか。
これはもう仕方がないですよね。
アウトライナーを使う以上は仕方がないし、そのメリットも当然あると思うんですよ。
逸脱。
ある構造の中に絶対にあるっていう安心感というか、
部分部分で内容が逸脱していくことは可能やけども、
それを再現することで絶対にある構造化になる。
ツリー構造化に配置できるっていう、そういう型というか、型として機能してくれるっていうのが、
それがなかったら、ただのテキストでいいじゃないですかね。
そこはアウトライナーを使う以上問題ですけど、過剰書きですよね。
バレットが飛び起こす過剰書きの制約というか、法団ですかな、どっちかっていうと。
文章を書く気になりにくいっていうのはよく聞くじゃないですか、頭にバレットがついてると。
それ以上に、余計なことを書きにくいっていう話があるんですよね。
これがさ、なんかもうやっとしてるんだけどさっていう、
心象的な記述をしにくいっていうことが書かれてて、分かるようなと思ってたんですよね。
それは過剰書きっぽくないというか、過剰書きの場合はもっと、
例えば本の6章とか6章の章題をアウトライン上で整理するとするじゃないですか。
それぞれは第6章の下には見出しが並んでいるわけですね。
それぞれの章の中身の見出しが並んでいると、中身が折りたたまれているというときに、
新しくその章について考えたことがあったとして、
同じ階層にそれを並べることに強い違和感があるんですよね。
はいはい、わかります。
見出し以外のこと、いわゆる内容についての内容なんで、
メタなことを同じ階層に並べてしまうことに、
抵抗感というか罪悪感というか気持ち悪さがどうしようも生まれてしまうんですよね。
はい。
だからさっき言ったアウトラインの形式が要求するものなのか、
僕が持っている規範性が発揮されているのかはわからないんですけど、
でもね、それをすると結局プロセスにならないっていうかな。
その成果物になってしまっているよね。だからその見出しが。
順番を変えられる成果物っていうだけになってしまっているというか、
インプロセスになってないんですよね。
インプロセスになっている状況っていうのはどういう状況かというと、
さっき言った見出しの上とか下に、この並びはこうやけどこうやと思うみたいな文章を
もうダイレクトに書いちゃって、それを見ながらアウトラインを編集していくってことが可能で、
その書いた文章を後で消してもいいし、どっかのアウトラインに形を変えて組み替えてもいいしっていうことが、
そういう操作ができるのがアウトライナーなんですよね。
そうですね。
だからでもそこはね、なんかこう気づかないというか。
だから一種の、その見出しがならないときに僕の中でそれは見出し操作ツール、
特化型見出し操作ツールのように見えてしまっているというか。
はいはいはい。
本来そうではないんですけど、その瞬間だけ特化型に見えているところがあって、
それをかなり長い間解消できなかったですね、本当に。
つい最近ですよ、それ書けるようになったの。
逆に言えば、すごくビジュアルからの影響が強い人にとっては、
それが多分、その人にとってのアウトライナーというツールの限界になっちゃう可能性もあります。
なるほど、なるほど、確かに。
ただあともう一個、そのアウトライナーがきちんとさせようとするような圧力をかけてくるっていうのは、
実はメリットもあって。
そうですね、はい。
というのは、例えば第7章の下に思いついたことを書いて、そこに書くと気持ち悪いっていう話があるじゃないですか。
それは、あれ、これがここにあると気持ち悪いって感じさせること自体が、
これはここに属するものじゃないんだっていうことを感じさせてくれてるわけですよね。
これがもしかして、もしフラットなテキストエディターだったら、なんとなくそこに書いちゃえるかもね。
そうですね、はい、書いちゃいますね。
これはここに、すごくこの属するものじゃないっていうその居心地悪さがそこから立ち上ってくるような感じ。
だからこれをどっかで動かしたい、これをどこに動かせばいいんだって考える。
それを考えさせられちゃうっていうところも実は結構アウトライナーの意味なんじゃないかなとも思いますね。
アウトライナーのきちんと性っていうのは弊害もあるんですけど。
はい、だからそうですね。
だからさっきも僕が言った、見出しの中に文章を書くと、当然書いてると気持ち悪いからそれを解消しようと思って、
解消するためにそこに書かれた、要するにこうした方がいいっていうのはタスクですね、簡単に言うと。
まあ、Doかな。
はい。
なのでそれを解消しようと思って、遂行するわけですよね。
はい。
行動が要請されてるわけですよね、違和感によって。
そう。
で、違和感がなければそのまま放置してると思うんですよ。
だからテキストエディターで同じことしてても、同じような行動要請力は多分ないと思うんですよ、きっと。
はい。
だから確かにその、整えようとする力を持つということを利用できるんで、
だから先回りしちゃってるんですよね、だから。
気持ち悪さを自分で先回りして書かないようにしちゃってるんですよね。
あー、はいはい。
だから逆に気持ち悪さを利用してないんですね。
そうそう、そうですね。
あらかじめ安全に行っちゃってるところがあって、そこが多分、分け目なんでしょうね、きっと。
そうですね。
気持ち悪さを利用するっていう言い方はすごくわかりやすい気がしますね。
うーん。
ただ、とはいえ、ぶら下がりの中ぶらりんの状態がずっといろんなところにあって、
これがここじゃねえぞ、ここじゃねえぞって自分に訴えかけてくるのってすごく、
嫌じゃないですか、嫌っていうか、しんどい。
まあそうですよね、心的負荷もありますよね、はい。
だから、じゃあとりあえず、そういうものだけまとめて、
ミシオっていう身なしを作って、そこに全部入れちゃおう、退避させちゃおう。
そのことによって、精神的な負荷をちょっと軽くするっていう、
まあそこはもう、おそらく工夫の範疇だと思うんですけど。
うんうんうんうんうんうん。そっかそっか。
ただ、そのミシオに移動させるのも、気持ち悪さを完全にゼロにするんじゃなくて、
ちょっと下げるだけでね、だいたい完全にゼロになったらもう処理されなくなるわけですから。
その、気持ち悪さが膨れ上がりすぎないようにするっていうぐらいの措置ですよね。
そうですね。あと、第7章に第7章じゃないことがぶら下がってると、
まあ単純に第7章を編集する邪魔になったりするわけなので、
まあ邪魔だからちょっとこっちで解けとくっていうのがありますよね。
うんうんうんうんうん。確かに。そっか。
だからそのアウトライナーがある構造を移動させる心理的要請を発生させるので、
例えばアイディアっていう大項目を作って、そこに日々思いついたことをずらっと書き続けていくのって、やっぱ無理になるんですよ。
はいはい。
これ、記事書かれてる方もおっしゃってて、僕も激しく同感したんですけど、
10個や20個のうちはね、大したことないんですけど、
100を超えてきだすと、結局それぞれの項目が「位置づけてくれ!位置づけてくれ!」って言い出すんですけど、
でも、もうその頃には手に負えないことになってるんですよ。
項目が。で、もう無理やっつって、もう諦めて、ただ項目を増やすだけになっていって、やっぱ無理になるっていうことがあって、
それがだからアウトライナーが、アイディア保管庫は違うな。
倉庫ではなくて、育てていく、苗床?ぬか床?
ぬか床的にアイディアをフラットに保存しておいて、それらを徐々に育てていくための装置として使うのは多分無理なんですよ。
無理というか、フラットに並べるのが無理であって、アイディアを育てていくことが無理ではないんですよ。
だから、もっと局所局所にちゃんと構造をして、文章化していくことをしていけばいけるんですけど、
思いついたことを縦一列にダーッと並べたら、案外がうまいこと進むっていうのは幻想やということを僕は学びましたね。
そうですね。でもそれってGTDのインボックスパンク問題と実は同じことで、
ただ思いついたことをどんどん、いわゆるブレインダンプ的にそこに放り込んでいくと、
ある数を超えると手に負えなくなっちゃうんですけど、
ただそれも、例えば100項目入ってたとして、それを全部整理しようとするとできないとしても、
その100項目のうちの一つ、何て言うんでしょうね、
伸びしろがあるというか、広がりのある項目があるとするじゃないですか。
それと、その100項目の中の別の項目を2つにくっつけて、それが育っていって、それが見出しを持ったとするじゃないですか。
で、見出しを持った瞬間に、その100項目があったうちの10個ぐらいが入るっていうのがわかったりするんですよね。
だから100項全部整理しようとするとできないけれども、全部整理しようとするのを諦めて、
そのうちの1個なんかこう形にしていくことによって、
気がつくと入れられる、入れ整理する場所ができるっていうこともある。
だから全部位置付けようとするとダメだけれども、
一部でいいと割り切ることによって、結果的にかなり整理できたりするっていうことが起こるということを発見しましたね。
それはね、僕はね、だいぶ長い間気づかないといけませんでしたね。
だから、全部並べてるんだから、全部やりたいっていう気持ちがあるわけですね。
1個にやるのはなんかこう、弱々しい決断のように聞こえるというか、中途半端っていうかな。
1個だけやるっていうのは、いかにも中途半端。
俺らはこの全部をやるからこそ、これ並べてるんだっていう感じもありますし、
あとね、並び替えはするんですよ、アウトライナーやから。
しかしもの。で、それをグルーピングはするんですよ。
でもね、レベルアップはしないんですよ。なぜならレベルアップはめんどくさいから。
つまり、ある共通の、エバーノートやったら、エバーノートっていう極が含まれている項目を1箇所に集めると。
そこまではいいきっと。で、とりあえず断定のX、エバーノートっていう項目を作って、そこの下に集めることまではすると。
そこまでは日常のアイディア思いつきと、整理のルーチンの中でそれぐらいはできるんですよ。全然。
でもそれだけなんですよ。レベルアップするためにそのエバーノートにちゃんとした見出しを与えなきゃ。
今ラベルを貼っただけですけど、見出しをエバーノートの有効活用術とか何でもいいんですけど、
なんかこう名前をつけることで初めてそれが僕の中でのレベルアップになるんですけど、
それって結局知的負荷なんですよね、さっき言った。で、それを避けてしまうんですよね。
特にアウトラインの並んだ100項目、上から下まで眺めていくと、見出しの予備群みたいなのをいくつも思いつくんですよね、脳の中で。
それらが絡み合うんですよ。絡み合うとどうなるかというと、一つの名前を与えることが切断である、
有限化というと、最近プラスの意味だからもっとマイナスの意味でいいですけど、ある可能性を狭めてしまうように感じるんですよね、名を与えると。
それがどうも抵抗感があったんですよ。名付けをしない限り可能性は無限大じゃないですか。
その無限大はある種の楽さでもあって、可能性を保ちつつ自分が楽っていうこの状態を常にキープしてしまうんですね。
だからアイディアは溜まるし、グルーピングされるけど、いわゆる文章化されない。永遠に。
これでは望む結果を得られないっていう。逆にさっきのたくさんが言われた、一個でもいいから、なんかしてみる、まとめてみるっていうことを、僕は結局スクラップボックスでやってるんですけど、
機能3つかな、関連するノード3つスクラップボックスで書いたんですよ。
行法的には短いですよね、一個500文字くらいかな、多分。3つ書くのに1時間かかりましたよ、3つのノードを書くのに。
でもやっぱりそれやると、そこにまとまった感があるんですね。
根が、新しい花とかを買ってきて、家の畑に移し替えて、土をちゃんと整えたら根が張ったっていう、その根が張ったような感覚があるんですよ。
これまでワークローリーとかエヴァノートでアイデアノートを貯めました、それを入れ替えたり、マージしたりしましたっていうので、得られなかった、ちゃんとできた感が。
初めて得られたんですよね。これが足りてなかったんやなと。
分かりますね。
3つのノートって、僕だったらRサイドだったら1つの記事に書いてしまうようなことなんですね。
僕が3トピックスあげて記事にするのに。それをわざと、わざとっていうか、意図的に1トピックずつに分けたんですよ。
この方が簡単そうに思いますけど、この方が難しいんですよね。
一個一個のタイトルをきちんとつけて、そこの内容に収めることをしなければならないんで。
それをすると非常にまとまった感と、別のことを書いているときに、その一個に切り出したページを参照できるようになるんですよね。
当たり前ですよ。それがむちゃくちゃ世界ですね。だからこれが、いわゆるネットワーク化なんだなと。
これが、さっき言ったROMで言葉をリンクにしてつながっているのとはまるで違うんですよ。
そのROMでたまたまつながっているというのは、同じキーワードを保有しているということだけですけど、
僕がその場合は、明らかにあれについて言っているって自分でもわかって、そのページにリンクを貼っているんで。
ノードの分布をネットワークズーで見ると変わらないように見えますけど、僕が持っている認識は全然違うんですよね、その2つ。
それ大事ですね。
それがようやくわかってきたなと。だからそのことが全然わからないままに、集めるだけ集めて、こにゃこにゃしたら何かあったらいいのかということを、
どこから影響を受けたのかな、ずっと思ってましたね、それを。
でもそういうイメージってありますよね、サンカーの。
昔読んだ地域生産経営の技術からそういう印象を受けたのか知らないですけど、
でも梅沙男さんの本でもカードを書くことが大切だって言って読んでるはずなんですけどね。
読んでるはずなのに何もわかっていない。
だからその思いつきを書き留めてっていうのは、例えば梅沙男さんの言い方で言うと、発券の手帳っていう言い方があるじゃないですか、あれはカードじゃなくてノート。
ノートとかメモとかですね。
それがたぶん途中でカードに変わったっていう話だったと思うんですけど、
その発券の手帳にしてもカードにしても、たぶん書いたことを全部使ってどこかに位置づけなきゃいけないとは書いてない気がするんですよね。
カードを送ることによって、このカードとこのカードの関連が見えてくるっていうことは書いてるけれども、
そのカードを全部一つの何か、体系的な何かに位置づけましょうとは、たぶん一言も書いてない。
多分でも使えるようにするためには可能性を限定しなきゃいけないんですね。
一回限定していると思います。そういうことだと思います。
これは結構、アウトライナーというか情報ツールを使うことってどういうことなんだろうというかなり本質的な考察だと思いますね。
この記事、一連の記事で組まれているのは。
ただ、倉下さんの口から自分は文章化していなかったという言葉が出るとは夢にも終わらなかったですね。
だから、マメロン文は書いてなかったというべきかな。おそらくは。
論文を書いたってことですか。
そうそう。素材じゃなくて成果物を作っちゃってたっていう。別に悪いことじゃないんですけど、自分でも分かるんですけど、ブログにしてしまうと操作しにくくなるんですよ、後で。
そうですね。
それはアウトプットをたくさん作ってるけど、アウトプットの土台となるネットワークで言うと、ノードが増えてない感じかな。
そこが自分の中で物足りなさだったんじゃないですか。
今は適当な用語を作ったらちゃんとページにして、それを参照可能な形にしておくんで、そういう地味なことをしてこなかったですね。
そう考えたら、僕は全然そういうことをしてないような気がしますね。
僕はそういうことに憧れが強いんじゃないですか、きっと。すごくそうやりたいという。
そうか。僕全然マメロン文は書いてないですね。そういう意味では。
マメロン文的なものを書いてない。
アウトラインを作って、まだ使ってないもののアウトラインを作ってはいるんですけど、その中身はマメロン文というものではなくて、やっぱ断片なんですよね。
ただその断片が集まって、何か一個のものになる時には、マメロン文じゃなくて、論文になってしまう。
論文というわけじゃないですけど、結構複数の要素がくっついちゃうんで、
今倉下さんが言ったような意味での、有限化を得たマメロン文的なものにはなってないと思うので。
って考えると、そういうものは僕は作ってないんですよね。
僕も結局ずっとブログ主体でやってきたんで、今までほとんどなかったに等しいですね。
ブログという身近なメディアのせいで、マメロン文というステップを省いて、いきなりプロダクトを作れてしまうというメディア状況があるから、
マメロン文を作ることにあまり価値を感じにくいっていうのはあるのかもしれないけど。
いきなりプロダクトを作れることがいいことだという観念の方が多分、強いわけですよね。
それについてはどう?
僕は最近それは、メリットもあるけども、デメリットが最近目についてくるなと思って、
今、小説を書きたい人って、小説家になろうとかに、いきなり作品をアップできるじゃないですか。
終作という概念がないんですよね。
終作って、小説家を見ても分かるとそんなに大したもんじゃないじゃないですか。
そこで評価が決まっちゃうわけですよ。それは結構辛いことだなと。
なるほど。それは分かりやすいですね。
実験的とか試験的なとか、あるいは寛容な目で評価してくれる人たちで一回見てもらうみたいな現場がなくて、
いきなり現場とされて、戦場に叩き込まれるわけですよね。
これは、初めから強い人でないと勝ち残れないゲームじゃないですか。
確かに。
だからそれは結構危険というか、あんまり全体にとって良くはないなと。
発表の機会が増えたから良いことかと思いきや。
その代表として間接的な、反クローズドな発表の場が目立ちにくくなっているという弊害があるということですね。
なるほどね。
僕はあんまり気にしないですけど、これで良いのかなと思う人たちはいっぱいいるでしょうし、
そういう人たちがチャレンジしにくくなると、ここまでウェブが当たり前に使われるようになると、
逆に自分なんかがブログを書いて良いんだろうかと思う人は多分出てきているでしょうね。
そうか。まあ、いそうですね。
だから何でも良いんですけど、カーソルとかそういう打ち合わせキャストとかのゲストとかで、
仲間内でこういう原稿を書いたんですけど、読んでみてもらえませんか?みたいな場があればいいなと思うんですけど。
そうですよね。
まあ、でも、そうか。ごめんなさい。
最近実践しているマメ論文を書くっていうことの良さというか、面白さというのは、
他の人が使える概念がそこにあるってことなんですね。
リンクできるものがあるっていうことですね。
そういうことです。だから何でもいいんですけど、最近慣れたかな。
モーニングキャンピングっていうページを作ったんですよね。
キャンピングってこのプロジェクトのページの中にキャンプが入っているからキャンプするっていう。
朝一にそのキャンプのプロジェクトを一個作るっていう、ただそれだけの行為なんですけど。
それを作ることで他の人たちがその用具を使うこともできるし、批評を向けることもできるじゃないですか。
概念を小さいうちから育てていけますよね。
ブログでいきなりこれはこう考えてるからこうだって論説をぶつと、もう完成してしまってるというか、育てないままに出来上がってしまうっていう感じがあって。
だから小さいうちで切り出していくと他の人の考えがぶつけやすくなるっていう意味で。
だから育てるという意味ではいきなりプロジェクトよりはちょっとずつちっちゃく出す方が広がりがあるというか。
だから今までずっと個人作業、ブログも含めて個人作業をやったんですけど、
なんかこう、何ていうの、共同的な知能育み方というんですかね。ちょっと大げさに言うと。
いうことが小さく切り出すことで初めてできるようになったなと。それは結構メリットですね。
それやっぱりスクラップボックスっていうツールがあるからってこともありますね。
ですね。出なかったことを考えなかった。
一人でやることがメインで、複数でやるのはおまけみたいな位置づけやったんですけど、
さっきのゴブゴブとかちょっと逆になりつつあるというか。みんなで考えた方が面白いよねって。
言ってて当たり前だったと思うんですけど、みんなで考えた方が面白いねって風になってきたって感じですね。
そう考えるとツールとか環境とか大事ですよね。
大事です。小さく出せるというのも結構大切で、結局ツイッターも小さく出せたからですよね。
あれ論文発表とかで出てくる話じゃないですよね、このアウトライナーの話とかっていうのは。
雑談のテイストがあるからこそ出せるっていうことがあって。
やっぱりこういうやりとりを経てると、たくさん今書かれている本にも少なからずの影響が出てくると思うんですよ。
これは僕が言っている共同的な地位の一つの現れ方だと思うんですよね。
みんながアウトライナーについて考えてるけど、一言も喋らない世界って結構寂しいじゃないですか。
小さく出していける場としてツイッターはもちろん優秀だったんですよね。
それに比べるとブログってちょっと最近は大げさになってきていて、あんまりミニミニシーエントリーは書けないと。
でもツイッターやと流れてしまって地位の収縮っていうのが難しいっていう意味で、スクラップボックスはちょうどいい塩梅の位置づけになってますね。
それがやっぱりロームじゃないや、オブシリアンだとやっぱりそうならなさそうな感覚は。
ロームでもオブシリアンでも基本的に共有じゃない、ある一人用のツールなんで。
パブリッシュはできますけど、結局呼んでもらうだけという感じになっちゃいますし。
そうですね、一人でやってパブリッシュですね。
だからその前段階のアウトプットになる前の考えをお互いに持ち寄るっていう役割とは言えなくて、みんなでウィキを作ったそういうイメージならいいんですけど。