Novel Writerの新機能
うちあわせCast第百六十八回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ニュース周りがいくつかありまして、まずVS Codeの拡張機能として提供されているNovel Writerというのがありまして、3.30というバージョンが今出たらしいんですけども、
これ結構面白くて、文節の前後移動という機能が追加されまして、この手の話、知らない人にとってはまず意味がわからないと思うんですけど、わかる人にとったら、あれかって言葉を聞いただけてわかると思うんですけど、これ多分日本語特有のやと思うんですけども、
普通のテキストエディターの場合、行単位で上下移動みたいなことはできるわけですね。アウトライナーでもできますし、普通のテキストエディターでも大抵はできると。英語の場合は単語の間にスペースが入っているんで、単語を選択するとか単語を削除するみたいな単語ベースの話も結構多いんですけど、
日本語のその文節の前後移動っていうのは、一つの文の中である文節を前にやったり後ろにやったりすることができる。多分ショートカットでできるっていうことだと思うんですけど、機能であると。日本語って結構ラフでして、英語のと違って、ある言葉がどこにあってもだいたい成立してしまうんですね。
特に日本語の場合、長い文章を書くと、主語と述語が結構離れちゃったりとか、形容詞が思ってたところにかかってない場所に書いたりみたいなことがあるわけですけど、それをだいたい遂行するときにちょっと移動させたりして直すことがよくあるわけですが、それをサポートしてくれるということで、これは日本人の文章書きの発想でないと出てこない機能だと思いますね。
そもそもこういうことがやりたくても日本語ではできなかったんですね。見た目の区切りがないから。
そうですね。これは文章を形態分析、品種ごとに区切って色づけをして、それを単位として移動させるということか。
このノベルライダーは初めから分析ごとに区切るという機能があったんで、それを使って前後移動をさせる機能も実現されていると思いますね。
それがあるから、品種ごとにカラーリングするとか、そういうようなことも実現できてるっていうことなんですよね、きっと。
そうですね。はい、どうぞ。
ごめんなさい。
僕、よく笑われる、分析ごとに改良をしながらリリースするというのは、実はこれをするためなんですね。
そうでもしないと日本語ではできなかったんですけど、それをできるエディターの機能がついに実現されたということで。
まあ実現しようと思えばできたんでしょうけど、
たぶん本当に実現してもそんなにニーズがないだろうと思われて、今までは誰もやらなかったんじゃないかと思うんですよね。
そうですね。まず英語の文章では必要ないし、コーディングでも必要ないんで。
日本語で文章を書くっていうシチュエーションでしか、たぶん進化が発揮されない機能でしょうね、これは。
そうですね。でも入れ替えっていうと、日本語じゃないとニーズがないように感じますけど、
分析単位のカーソル移動とか分析単位の編集っていうのは、
ノートの黒字化と新サイト
そもそも英語で単語単位でできていたことが日本語で今までできなくて、
それがどうしても日本語の編集が英語でやるほどのキレを実現できないという要因だったんですね。
その文章エディターの弱さだったんですよね。
なるほどなるほど。
だからある意味ではコンピューター化に向かないみたいな発想にもなってたんですけど、
まあできるんじゃないかっていう。
そうですね。
できるようになるんだなと思いましたね。
もちろんここに至るまでにアルゴリズムを使って日本語の分析を区切るというシステムが
みやくみやくと育てられてきたからこそ、
本職の方じゃない方でもこうやって作ることができるっていう蓄積みたいなのはあるでしょうけど。
そうですね。
まあでも素晴らしいですね。
僕はあんまりこの色をつくのがいらないのであんまり使ってはいないんですけど、
この機能はちょっと使ってみたいなという気がしますね。
そうですね。色がつかないと区切りが目で分かりにくいんですよね。
おそらくね。
この分かち書きがないから機械で扱えないんだっていうのはもうそれこそ梅沙王さんの時代から言われていたことで。
そうですね。
分かち書きをしたくても視覚的に区切りがわかるようにという意味合いも多分このカラーリングにはある。
あるんでしょうね。
まあこの見方してると多分書くモードになりやすい気がします。
読むモードになるよりは書き手のモードで書ける気がしますね、なんとなく。
この見方だと読むというよりは編集者視点という感じがしますけどね。
そうですね。
たぶん藤井さんがよくシェアしてる画面を見ると、
カラーリングされた横書きの画面と縦書きのプレビューモードがだいたい並べて表示されてるんで、
読むのはやっぱりそっちであるんですね。
だから非常にある意味プログラミング的な感じもありますよね。
やっぱり原稿用紙に書くみたいなとは違う想像力でツールを開発されてる気がしますね。
まったくそうです。
これはもう今自分の中でもすごくホットな話題ですね。
ノベルライターが興味がある方は無料で使えるので、VS Codeからダウンロードしてみてくださいというところで。
前回かな、ノートがGoogleと資本提携したという話を紹介しましたが、ニュースによると黒字化を達成したということで、
これは非常に喜ばしいと思います。ずっと多分赤字が続いてたと思うんで。
なんであれ黒字化したということは、今後継続が望まれるということで、
全体的には悪いことではないというのと、その黒字化に関係はあるとは思うんですけど、
新しいサイトをノートがオープンするということで。
今までもノートって投稿企画みたいなのをやってまして、このテーマでエッセイ書いてくださいとかそういうことがいろいろあって、
それは出版社とか各メディアと協力して、上位のものは出版するみたいなそういう企画があったんですけど、
それは物語に特化した別サイトを作ってしまうということで、どう転ぶかはわからないんですけども、
現状インターネットの物語の投稿サイトっていうと、結構ナロー系と呼ばれているようなものが強く、
それはいわゆるファンタジー系のライトノベルとか、若者向けの読み物っていうところが、
実際読んでるのはおっさんやと思うんですけど、若者向けの読み物が多い中で、
ノートっていうのが多分違う基軸でブランドを作っていくと思うんで、
それも大人向けの、アダルトって意味じゃなくて大人向けの物語とかを投稿する場になるとしたら、
新しいポジションを築くんじゃないかなとはちょっと予想をしてます。
新しいアカデミックライティング
あとね、これまたややこしい話なんですけど、コックリズ国会図書館の新しいサービスが始まるということで、
遠隔副者サービスの副者物がPDFファイルで入手できるようになりますということで、
今まではPDFファイルで入手できなかったということで、
これ多分コピーが送られてきたんだな、きっと、紙のコピーが。
コックリズ国会図書館で、ちゃんと会員登録した人が、
インターネットを使って、この本とか文献のコピーが欲しいって言ったら、
コピー代を払って、多分郵送代も払って、自分のとこに送ってもらえるというサービスだったんだけど、
それは電子ファイルで完結することができるようになったということだと思います。
そのとおりだと思います。
ただちょっと高いらしいですけど、わからないですが。
だいたい国立国会図書館で頼むようなものは、そもそも入手できないか、
その本を入手するのにものすごいお金がかかるみたいな人が多いと思うんで、
僕らのような、僕は基本的に国立国会図書館、関西館っていうのが近いからいいんですけど、
そうじゃない地方の方は、そもそも本館に行くことができないので、
こういうコピーサービスとかPDFサービスってのは便利じゃないかなと思います。
あともう一個、これ本編でも紹介したかったんですけど、
一回軽く紹介しておきますが、安倍先生、下のお名前忘れたな。
この前、全く新しいアカデミックライティングの教科書の本を出版された安倍先生が、
どこかがニーズがあったのかわかりません、要望があったのか知りませんけど、
ワークフローラーの使い方をYouTubeで公開してくださってまして、
論文を書くためにどう使ったらいいのかということをかなり実践的に紹介されてまして、
これめちゃくちゃ面白かったんですよね。
そこで紹介されているテクニックが役立つとか役立たないとかいう以前に、
人がワークフローラーを使っているのを見るっていうのが面白いんですよね。
まず思ったのは、ここから入力するよっていう場所を、
ちゃんと空白業でタタタタタってスペースを使って作っていかったんですけど、
その時点で僕は面白いなと思っていたんですよね。
あれできない人が結構いると思うんですよ。
ブランク業を先に入れていくって。
ああいうのを見るだけで、そうかそうしたらいいんやっていうふうに学びがあると思うんですよ。
基本的に説明されないと思うんですよね。
ワークフローラーの使い方みたいな解説書とか読んだとしても、
空白業に先にスペースを入れときましょうみたいなことは多分言わないと思うんですよ。
そういう地味な使い回しの実践例が見えるというところが、
やっぱり動画の強さやなというのをちょっと一つ感じたというところですね。
あとは、いわゆる執筆のOSみたいなのを独自に構築されているなというところで、
ある種基本的な論文執筆のメソッドやとは思うんですけど、
それをアウトライナーに非常によく馴染ませているなという印象を受けましたけど、
タクさんはご覧になられました、これ。
見ました。
どうでした?
なんといっても、信頼できるこういうコンテンツが出てくるということ自体が素晴らしいことですよね。
確かに本を読んだだけで、結構ワークフローラーがフィーチャーされてるんですけど、
知らない人はあれを見ただけだとわかんないかなと思ってたので。
しかもそれが動画でっていうのがいいですよね。
いい時代だなあと思いますね。
やっぱり動画のダイナミズムっていうのはね、
ちょっともう如実に感じましたし、まさにワークフローになってる。
そういう操作の紹介をしてこそ価値がわかるという感じがあったので、非常によかったですね。
紹介されている論文の書き方そのものが、僕に役立つかっていうと結構微妙なところでは。
やっぱりモディスとパラグラフの掛け算で書いていこうっていうのは、
勉強にはなるんですけど、どこまで真似できるかはちょっとわからないですか。
真似できるというよりも、論文の書き方と文章一般の書き方はちょっと分けて考えなきゃいけないんですよね。
だから何というか、文章の書き方だと思ってはいけない面もあるし、
それでも参考にはすごくなるっていう。
バランスが難しいと言えば難しいんですけど。
だから二万字という規定があって、それに合わせて一つのパラグラフの単位を800文字とかにして割り算したら、
そう、ブロック数でできますよねという話されてて。
それは確かになと。そのとおりやなとは思うんですけど。
そこまでコントロールできるのかなというところもありつつ、
でもこういうある種のフレームに落とし込まない限り、
定期的に論文を書くってのは難しいんだろうなとも思いましたけどね、見ながら。
そうですね。それをやるのが論文を書くという行為なんだろうと思うので。
だから逆に論文を書く……論文といってもいろいろあったよね。
工学系、理系の論文と人文系の論文は全然違うと思うんですけど。
僕もちょっと論文を書く人ではないので何とも言えないですけど、
タスク管理の哲学
人文系の論文を書く方は多分文章一般のやり方と論文のやり方が両方逆に違う。
逆に人文系の論文の書き方っていうのは、ある程度文章一般の役にも立つだろうし。
ちょっと相互乗り入れ的なところがあると思いますけど。
それぞれはそのものではないというところはありますが、
とにかく実際にヘビーに使って成果も出している人が、
ワークフローインというかアウトライナーを使っている様子がそのまま見られるというのはもう素晴らしいことですね。
そうですね。こればっかりは動画がないと精々AIに提示してくれないものだと思うので。
生身の人間がある種の歴史性を背負って使う動作っていうものはやっぱり大体効かないなという感じがしますね。
本当そうだと思います。
これまた別立てで、論自体にちゃうんですけど、本格的に取り扱いたい話題ですが、
今回簡単に紹介しておくと、野良鉄さんがブログとノートでエッセンシャルアウトラインという新しい概念と言っていいと思うんですけど、
を提案されていて、スタートラインとしてはたくさんのアウトラインの使い方から出発されたとは思うんですけど、
ほぼもはや別物と言っても過言ではないというか、いい意味で野良鉄さんの情報整理の体系みたいなものを構築されていると。
4つ簡単に言っておくと、タイムラインアウトラインとマイライフアウトラインとフィロソフィーアウトラインとグローバルアウトラインということで、
もともとたくさんが使っていたアウトラインのプラスアルファの要素もあるし、再構築されている部分もあって、
タイムラインアウトラインとマイライフアウトラインというのは大体ニファンさんはわかるんですけど、
フィロソフィーアウトラインとグローバルアウトラインという名付けが結構面白いなと思った点と、
あとそれぞれの軸が、自分と世界の関係とか、自分と人間の視点があると言うべきなのかな。
視点の違いによってアウトラインを変えているというところがあって、分類ではないなという感じがするんですけど。
この辺は表現できないんですけど、こういう軸を立てることが自分の情報整理というものやろうなとは見てて思いましたね。
そうですね。
なんかチラッとツイートをしたような気がしますけど。
そうなんですよね。まずアウトラインの項目というかトピックを野良田さんは空間として捉えているんだなという。
僕も場所っていう言葉を使うことはありますけど、
部屋のような空間、その中で声を考える場所っていう空間みたいに捉えてるんだなっていうのがすごく面白かったのと、
まさにさっきのフィロソフィーアウトラインとグローバルアウトラインって、
僕のライフアウトラインっていうのは本当に自分のことしか考えてないんですけど。
野良田さんは自分のことプラス自分が対峙する世界みたいな。
それが何であるのかということもアウトラインに汲み込んでるんですよね。
というのが非常に面白いなというか。
僕よりずっとスケールが大きいんですよ。
どっちかっていうと、たくさんのいわゆる手帳をそのままアウトラインに持ってきたみたいな感じ。
手帳っていうのは自分に関する情報を扱うツールなわけですから、それは至極ナチュラルな意向だと思うんですけど。
野良田さんはもうちょっとノート的な要素がある。
自分自称みたいなものの要素も含んで、それが手帳と別にあるんじゃなくて、
同じものの中にあるという感覚が違いなんでしょうけどね。
そうですね。
たぶん、とはいえ野良田さんは別に自分以外のことを整理するためにやってるわけじゃなくて、
自分を理解するためには対峙している世界というのが何であるのかということを、
その要素がないと自分も理解できないっていう感じだと思うんですよね。
だから自分がその中に含まれているところの世界も、ある意味では自分の園長であるみたいな。
そうするとほとんど哲学じゃないですか。
そういうところまで拡張しているのが面白いし、いいですよね。
いいし、その拡張ができるツールというのもいいし、
そのツールの特性を100%を活かしてそこまで拡張していくというのも素晴らしいと思うし。
そうですね。あとこれダイナリストだけで関係してるわけじゃなくて、
ダイナリストとキャパシティーズでやっていることを、
これを一つのアウトラインとして捉えているという柔軟性もありますね。
そうそう。全部アウトラインで関係してるわけじゃないんですよね。
でもツールってそういうことですもんね。
そういうことをするのが昔からのライフハックということで、
自分のやりたいことに合わせてツールを変算していくということが、
ある種一瞬まで帰ってきているような感じもしますし、
いろいろ価値があると思うんですよね。
たくさん使っているライフに関するアウトラインとエッセンシャルなアウトラインを2つ見ることによって、
想像力の幅というのが広がっていくと思いますし、
この1と2を見たから3を考えることができるということがあると思うんですね。
1しか表示されないと1にとらわれてしまうわけですけど、
1じゃない2があると人はそこから3を考えることができるようになると思うんですけど、
そういう想像力においてもやっぱりこういう例示、
しかもちゃんと作られているというべきかな。
さっき言ったその人の人生を背負っているアウトラインというのがそこにあるということが重要で、
適当、一瞬の思いつきで全然違うものを考えることはいくらでもできるわけですけど、
それは重みがないわけですから、結局のところ。
こうやってちゃんと使われているものが並列されて習うんだよっていうのが個人的には面白いかなと思います。
幸せとタスク管理
ということで、それに関連すると思うんですけども、
何のためのタスク管理かということをちょっと考えていきたいんですけど、
これは2回前の高谷さんをゲストに来てもらったときに、
タスク管理の定義って難しいですよねという、
僕自身もずっと考えてきたんで、
結局タスク管理の定義をしようと思ったらタスクを管理することとしか言えないわけですけど、
それぞれの人が何のためにタスク管理をしてるんですかということであれば、
おそらく何らかの答えは返せると思うんですよね。
さっきの定義を問うよりはもうちょっと明確なあるいは具体的な答えが出てくると思うんで、
そこをフォーカスした方がいいかなという話を思ってたところなんですけど、
2回ぐらいに分けてたくさんがノートで幸せになるタスク管理ということを記事書かれてて、
だからもう一緒に幸せになるためにタスク管理するということだと思うんですけど、
どうなんですか。仮に幸せになるというような一番上のレベルを言及しないとして、
そのタスクにまつわるいろいろやっていることを何のためにやってるんですかと人に問われたたくさんは何て答えますかね。
やっぱり幸せになるんじゃない。最終的にはそうだと思うんですよね。
最終的じゃないとしたら、もうちょっと階段を下がるとしたら。
日々を切り抜けるために。
ああ、そういうことか。なるほど。
切り抜けるか。切り抜ける。
英語にするとどうなりますかね。今の切り抜けるを英語に翻訳するとどうなりますかね。
難しいな。
なんで英語にして切り抜けるかって話もあるんですけど。
例えば他の言葉と対比したいですね、要するに。
切り抜けるって言葉がマネージメントとどう違うのかとか、
そういうことを考えるきっかけに切り抜けるって言葉の意味はわかるんですけども、
どういう文脈で位置づけることができるのかなと思って。
英語のニュアンスで一番近いのって、
まどるスルーだと思うんですね。
ああ、はいはい、なるほど。わかりました。
バタバタ切り抜く。バタバタというか、なんて言うんでしょうね。
かっこよく、そつなくじゃなく、
七点抜刀しながらでもいいからとにかく切り抜けると。
やりくりするようなニュアンスがありますね、そこにはね、なんとなく。
そうですね。ジタバタする。
自分にとってはそうしないと日々というのは切り抜けられないものなので。
そのタスク管理という言葉を使うから別として、
そういうツールなり手法の助けがないとそれができないという感じがありますよね。
それができないとやっぱり不幸になるわけですよ。
それは例えばどういう局面で不幸になるんですかね。
例えば、自分の望みと違うことが起こる。
それは欲しいものが買えないとかそういうレベルでなく、
もっと重大な局面において自分の望みと違うことが起こる。
可能性が高くなるということで。
そうなってほしくないから、
なんかジタバタしながら切り抜けようとするっていう感じですかね。
自己啓発の文脈で言うと、いわゆるポジティブシンキングというのがございましてですよ。
起きたことはすべて正しいと考えるのであれば、
そのような結果もまた正しい。
つまり幸せなことなんだと考えることもできるという思想の一派がありますよね。
それはたくさんの中ではちょっと違うという感じがします?
違います。
悪いことは悪いですね。
そうですね。
それはね、やっぱりあるレイヤーの中で考えればそういう考え方も捉え方もできる。
たとえば、わかんないですけど、
たとえばアスリートが結果を出せなかったとあるとき。
アスリートじゃなくても会社員が結果を出せなかったと。
そのときに、「ああ、俺はダメだ。」と思ったときに先輩が、
いやいや、そのことによって自分で何が足りてなかったのかがわかるじゃないかと。
それは君の成長のチャンスなんだよ。
そうかって言って、またそれを糧に頑張るっていうこと。
そういうことを考えればそれはポジティブに捉えることはできますけど、
それはあくまでもアスリートとしての活動、会社員としての活動というレイヤーの中においてであって、
やっぱり人生の中には起こっちゃいけないことがあるんですよね。
ありますね。
たとえばものすごくわかりやすく言えば、
避けようと思えば避けられた不健康とか。
それはやっぱり、ポジティブには捉えられない気がしますね。
なるほど。
もちろんそれを教訓に、もう本当に深酒はやめようとか、
なんとかやめようっていうふうに本当に思えるようになったっていう意味で、
ポジティブな結果とすることはできることはできるかもしれないですけど。
問題はやりたいかどうかなんですね、結局それを。
そのようなポジティブ変換を欲望として、要求として自分が欲しているのかどうかというところが、
結構大きいような気がするんです。
僕はちょっとあんまりやりたくないなという感じはあるんですが。
仮にでもそのような変換をフルに活用すれば、
何をしてても幸せということになりますね。
訴求的にすべてを書き換えればいいわけですから。
その幸せに閉じてる人に対して、
外からからそれは幸せじゃないということには何の攻撃力もないわけですし、
それも人がやることじゃないですけど。
ここで考えたいのは、そのような人為的な、
人為的と言ってもいいんですけど、
助け管理とかそれに類することをすることの意義というか。
実行啓発の対比
一方では、ありのまま何もしない自然派のスタンスもあって、
それはこういうことをすることそのものが、
面倒くさいことを背負い込んでるし、
ややこしいことを考えてるという考え方もあり、
もう一方では、すべてを自分の思い通りにするという、
いわゆる古典的な実行啓発的な観点もあって、
たくさんがおっしゃってたさっきのマドロスルーっていうのは、
たぶんその間にあると思うんですよね。
おそらくは。
すべてを身のままにするわけじゃないかといって、
すべてありのままで受け入れるわけでもなくて、
その間でもがこうとすることということだと思うんですよ。
でも個人的に共感を覚えるのはそちらのタイプなんですが、
そうしたときにそれは、これは何をしてるんだろうなといつも思うんですよね。
この行為全般を名付けるとしたら一体何なんだろうなと。
それは僕がカーソルの授業のタイトルに付けようと思っている言葉が見つからないと同じなんですけど、
これは何なんだろう、何であり何のために僕たちはこれをしているのか。
そのマドロスルー的なものっていうのは、
さっきの2極端に比べると手間が多いし、
従前な結果も得られないし、
常に穴が開いているんですね、これは。
でも、そうであってほしいという気持ちがあって、
これは何なんだろうなというところを思っているし、
間にあるから説得力というかキャッチーさもないし、
言ってみれば普通のことにも終わってしまうというか。
それはどう位置づけたらいいんだろうなということを思ってるんですけど、
でも実際にこういうことをやっている人の話を聞くと、
やっぱりそこのラインの話なんですよ。
高谷さんの話を聞いてもそうなんですよね。
仕事以外のことは別に全然管理していないし、
仕事のこともできることはやってるけど、
理想にあっても全然手をつけていないことがあるみたいな話になって、
それはいわゆるカッコいいビジネスパートの話ではないですけど、
現実ってそういうことだよなということだと思うんですが、
このような生ハンカチをすることによって何かが得られるからやってるわけですけど、
それはやっぱり完全なコントロール感ではないわけですし、
でも同時に完全な運命の受け入れでもないというところで、
こういうのを表すのは僕の語彙はないなというのをずっと感じますね。
自己啓発とその影響
マドロースルーしたいわけじゃないんですよね。
せざるを得ない。
それしかできないんですよね。
例えば1日のデイリーのアウトラインを作って、
できないこと、ある数を超えたらできればに落とすっていうのがあって、
本当だったら全部やりたいわけですよね。
だけど時間的に全部できないので、
じゃあ落とすなら何を落とすのか選びましょうっていうことなので、
それってまさにマドロースルーですよね。
そうですね。
失礼するということ。
それはもちろんマドロースルーですけど、
例えば似たようなシチュエーションにおいて、
やる時間がないから睡眠時間を削るという選択もあるわけですね。
それはマドロースルーっぽいけど違いますよね。
結局それは短期で見れば有効だし、
ここ一番というときにはそれが有効な場合もあるんですけど、
やっぱり30代になって40代になって50代になるとですね、
それをやると後でもっと大きな失敗返しがくることがわかってるんで、
だからやらないっていうか、もう体力的にできないっていうのもありますけど。
まだやらない決断ができるようになってるとは言えると思うんですけど。
それで痛い目見るからですよね。
やっぱり結果的にマイナスになっちゃうっていう。
それで学ぶこともあるわけじゃないですか。
だからやっぱりやらない決断をできている時点で、
ある種のウィズダムを手にしている気はするんですけども。
若い頃はたぶんできなかったような気がしますけどね、例えば20代では。
できなかったですし、それをやるとどうなるかということが単にわかってなかったこともあって。
それでも、僕はその言葉が正しいかわかんないんですけど、
20代のときも根性がなかったので、この言葉の使い方が正しいかわかんないんですけど、
根性がなかったんでそれをやりきれなかったんですよね。
その結果として致命的に体を壊さずに済んだっていうこともあって。
やっぱりそのときに自分の周りにも、
本当に寝る時間を削ってやり続けて死んじゃったみたいな人がいますから。
それはやっぱりその人に根性がありすぎたんだと思うんですよね。
で、結局その帰ってきたものがあまりにも大きすぎて、
そこでその先がなくなっちゃうみたいなこともありますし。
もちろんそうじゃなくてもこの人は病気になったりするんで、
それをやらないから大丈夫だということじゃないですけれども。
徐々に30代半ば過ぎたりすると、
徹夜で頑張るとその翌日が結局使い物にならなくなって、
徹夜で頑張った分が病気になっちゃったりすることも実感としてわかってくるじゃないですか。
だからダメだなっていうのもあるし。
あとそれこそ家族とか、
例えば子供ができたとかそういうことで、
それで本当に自分が倒れちゃったらっていうことの想像力、
その結果として想像される内容が変わってきたりもします。
確かに。
やっぱ自分だけのことじゃなくなってくると、
抑制する方向に働いてきたりしますよね、それは。
うーん、そうか。
なんていうかな、サスク管理とかそれに類する行為とかは、
仕事術と言ってもいいし、ライブファクトと言ってもいいし、
もうちょっと言うと自己啓発の文脈にあると思うんだよね。
この自己啓発っていうのは、セルフヘルプの文脈で使われてきた言葉。
日本語をどう翻訳してこうなったかわかりませんけど、
自分の人生を自分で作っていくとか、
自分の行為を助けるっていうことを自分でするっていう、
ノウハウの分類に入ると思うんですね、これはね。
それを、例えば効率化っていうことを真剣にずっとやっていった先に、
最初の話で言うと幸せが待っているかというと、
それは結構怪しい話なんですね。
効率化の先に幸せが待っているとは限らない。
かといって効率化が外役なのかというと、そうでもないと思うんですよ。
しかるべき、例えば自分がやってる作業の中に、
非効率的なものとか無駄なものがあったときに、
それを改善しようと思って実行できるノウハウ知見っていうのがあったとしたら、
それは幸せに近づくために有益だと思うんですよね。
だから、どこでやめるかというか、
真面目にやりすぎないということなのか、ちょっとわからないですけど、
いわゆる自己啓発系で語られているノウハウとか考え方とかっていうことが、
一定の水準を超えたときに外役になるにしても、
やっぱり段階では有用だと思うんですよね。
もちろんそういうことです。
日本語でいう自己啓発ってあんまり好かれる言葉ではなくなっていますし、
ジャンルとしても流行ってるのかどうかはわからないんですけど、
そういう自己啓発症だからダメだというような聞い取り方ってどう言ったんかな。
一見聞こえは良いんですけど、
その人の生き方を実は助けることになってないんじゃないかなと思うんですよね。
そういう情報に触れなくなることで、得られなくなる情報ってのがあると思うんですよ。
そんなことをせずに生きていけたら、たぶんハッピーってのは間違いなくあるんですけど、
難しいんじゃないかなと思うんですよね。
たぶん七つの習慣みたいなものを読むと。
有名な四領域あるじゃないですか。
なんとかマトリックス、ハイゼン派はマトリックスかな。
重要と重要じゃないと、研究と研究じゃないと。
4条件ですね。
あれは人文的に見れば、無駄なものっていう見方はあまりにも狭いみたいなことは言えるわけですよね。
でも何かが重要だと考える思考が不要かというとそうでもないと思うんですよ。
ある局面において、緊急じゃないけど重要なことが何かって考えることそのものは、
やっぱり有効な思考法だと思うんですよね。
それを踏まえた上で、第3領域を第4とか第3をどう扱うのかっていうのを改めて考えたらいいだけの話であって。
だからね、何ていうかな。
たぶん自己啓発的なものはダメっていうけぎらいの仕方。
人文的なものの見方の豊かさだけを取り上げてしまうと、
何ていうかな、実践する力っていうのが落ちていくような気がするんですよ。
これは非常にシビアな問題なので、簡単には言えないんですけど。
僕としてはそういう感じがずっとありますね。
だから自己啓発っていうのは自分の中でもアンビバレントな気持ちがあって、
のめり込むのもまずいけど、知らないのもまずいんじゃないかっていう感じがいつもありますね。
第2領域の重要性
そうですね。
マトリックスは、オリジナルが7つの週刊だと思ってたんですけど、
今はたぶん違いますね。
あるんですかね。
たぶんあると思います。
あれよく企業で参加させられるセミナーみたいなところでも、
ほとんど必ずあれ出てくるような気がするんですけど、
あれ結局、重要なことをしなさい。
要するに第2領域ですよね、マトリックスが。
第2領域が大事なんだと。
だからそこに注力しなきゃいけないんだっていうところだけが残っちゃうと、
非常にきついんですよね。
そうですね。
だって第1領域は第1領域であるわけじゃないですか。
緊急なことは緊急なことである。
その上、さらに第2領域がやらなきゃだめだって言われて、
下手するとそれやってるかどうか評価されたりするっていう意味のわからないことが起こるんですけど。
あれ7つの習慣で読んでると、
第2領域に注力しなさいというよりも、
いわゆる割り込みみたいな、緊急に次から次へと降りかかってきて、
自分のやりたいことが何もできないみたいな状況が、
第2領域に注力することで改善していきましょうっていう話なんですよね。
なるほどね。
要するに、いつも誰かの緊急な依頼に振り回されちゃってどうしようもないっていうときに、
そのときに実は第2領域をよく考えると、
緊急な依頼が降ってくる前に、こっちからが労働的に働きかけてやることによって、
徐々に第1領域は減っていきますよ、だからそのほうが楽になるんですよっていう話だったりして。
それは役に立ちますよね。
それは役に立ちます。確かに。
だからどう理解するかにもよるんですよね。
機械的に第2領域に重要なことをやらなきゃダメだってだけ考えちゃうとすごくつらいだけなんで。
なかなか学面通りにはうまくいかないかったりするんですけど。
2やってても、組織の現場では1と3が言い合おうなしに踏みしろといてくるし、
いや今2がやってるんでできませんみたいな言い訳が通じる場合と通じない場合がありますからね。
そうなんですよね。
あれ7つの習慣のほんの一部であって、もう一つには結局どれだけ自分が第2領域だって言って働きかけても、
それと関係ないところから自分には何ともしようのないことで第1領域が降りかかってくるわけじゃないですか。
それはどうにもならないっていうこともあって。
そうすると前段にあった、感心の輪と影響の輪みたいな話があったりとか。
要するに自分が影響力を発揮できることをやりましょうっていう話だとか。
全部つながってるわけですよね。
そうですね。確かに。
ある部分だけ切り離してもうまくいかないというところはあって。
まあとはいえそういうふうに理解してやったとしても、なかなかあれを実践するのは難しい。
そうですね。そのまま実践するのは間違いなく難しいですけど、
タスク管理と企業セミナー
でも確かに言われたことを受動的にやっている限り状況が変わらないっていうのがあったとして、
その第二的なものを探してそれをやってみることで何かが変わるかもしれないというようなメンタルモデルを持つことはできるでしょうし、
それは確かに有効な側面はあるとは思いますけど。
あとその企業のセミナーであれを学んじゃうと、
第二領域ってどうしてもその会社の業務に重要なことというふうにしかならなくなるんですけど、
あれを自分の中で大事なこと、重要なことっていうふうに位置づけ直すと、
実は第二領域は、例えば会社を辞めるということも入ってくるかもしれない。
もちろんそうですね。
そこが企業のセミナーのよろしくないところだと、
僕は思ってるんですけど、これは人によって変わるかもしれませんけど。
そうですね。どういう文脈でそれを学ぶかによってもそれが変わってきます。
企業のセミナーでこれをやるっていうこと自体が不自然というか不思議で、
だってこれは自己啓発なわけですから。
他社の抗議を受けてやってる時点で他社啓発なわけで。
他社から要請された自己啓発は特にないんですよね。
だってセルフエルブじゃないから、それはもう。
だから結局そこで言う第二領域っていうのは、
自社により貢献する何かっていうことにしかならない。
自己啓発と個人性
確かに。
もちろん自分にとっての利益も含めて、それを最大化するために、
自分のためにもなることとしてその会社に貢献するというのは全然いいと思うんですけど。
そこが抜けちゃうと単に会社にとっては都合のいい人材になれよということにしかならなくなっちゃうわけで。
そうですね。だから会社のレベルでこれをやるってことは、
会社っていう存在を一つの人格とみなして、
その人格が七つの習慣を実践していくということで、
そこに所属する主体はその中に溶け込んでしまうわけですから。
主体性を消す行為ですから。非自己啓発なわけで。
良いかどうかは別して、本来的に目指されていたものとは違う形になってしまいますね。
まあそれも七つの習慣的には本当は自分にとっての重要なことと、
第2領域と会社にとっての第2領域が一致していることが理想であって、
そういう状況をつくっていこうと。
それを本当はウィンウィンって言うんですよってことですね。
そうですね。
企業の場合、会社にとってのウィンが固定されてて、
あとはお前らがどれだけ上手かみたいなことになってしまいますからね。
企業側に向けても、従業員・社員にとっての利益がお最大化することが、
会社にとっての利益の最大化でもある状況を作り出さなければ、
会社としては力を持てないよというようなことなので、
とんでもなく難しいことをやれと言っている。
けれどもそれを目指してやれば確かにやりがいはあるだろうし。
一番高い理想像がここで掲げられてて、
僕らの実現はここまでは追いつけないですけど、
でもそんな視点で持って考えてみるっていう、
ある種の思考のアプリケーションを増やすという意味で、
これを唯一の絶対とするんじゃなくて、
こういう考え方もあるよねというふうにして使えば、
全然思考の道具として役立つものだなとは思いますけどね。
そうですね。
第四領域ってのがあって、重要でも緊急でもないみたいな。
こんなもんはいらんっていう扱いなんですけど、
やっぱり人間の心ってこの第四領域で回復するところがあるわけですよね。
僕はそのマトリックスの話に一番納得できないのはそこなんですよね。
第四領域の扱いなんですよね。
やっぱり人間には欲望というものがあるので、
そこは第四領域に入るから入れちゃだめなんだって考えちゃうと、
それまた辛くなるので。
でも逆に確かに、だからそれがOKなんだということにしてしまうと、
第四領域ってどんどん肥大化していって自分が飲み込まれちゃうっていうこともあるので。
ありますね。
ここの第四領域の扱いっていうのは、
キリスト教的な経験差っていうのがあるとは思うんですよね。
日本人はここまであれではないんで。
でもおっしゃられたように、
例えばその第四領域のものが自分の心を回復するのに重要だとしてしまうと、
それは領域が変わってしまうわけですよね。
これは緊急でも重要でもないから大切なんだというふうにロジックをしておいたほうがいいんですね。
あとその人間にはそれが必要なんだということを自分で認めて、
これ個人的なあれですけど、計画的怠惰の日というのがありますね。
今日は思いっきり全部第四領域でいい日というのをたまに作るととてもいいですね。
くだらない動画をひたすら見続ける。
スナック菓子を食べながら見続けるとかも。
いやダメですね、そういう日がないと。
いやだからそういうのを目的的にやってしまうと、
元々の魂胆が破綻してしまうので、何もしないぞということでやるというのが良くて、
これマトリクス作ると当然図が4つの領域が同じサイズになるわけですよね、面積が。
それは良くなくて多分、第四領域は大きくないけどもちゃんとあるっていう形の方が多分良くて、
そういう非正規化された図の示し方のほうが多分現実。
でもやっぱりこう言って、例えば自分の行動を4つに分けて考えてみるっていう視点。
そのダラダラするんじゃなくて、例えばこのように考えてみようと、
この4つの順位付けは時間によって変わっていく、自分の置かれた空間に変わっていくということを踏まえた上で、
一旦自分は何をしてるのかなっていうのを見つめた上で、
そのポートフォリオみたいなのを眺め直すというような捉え方って結構大切だと思うんで。
だから道具として使うという感じで捉えれば、
信仰の対象じゃなくてっていうふうにすれば、こういう自己啓発の考え方も非常に有効です。
やっぱり長らくこういうコンテンツが多くの人に授与されているところもやっぱり意義があるんでしょうし、きっと。
そうでしょうね。
僕らが別に騙されてるわけではなくて、ある確信に触れるものがあるからこそ、
読み疲れて浮き疲れていくところがあると思うんで。
だから意識高いという言葉はあまり好きではないですけど、
行き過ぎない形でこういうのを使う。
例えばタスク管理っていうことをしようと思ったときに、
何もかもを完璧な状態にするということから、
2、3歩下がって、そもそもそれが無理ですけど、
2、3歩下がって、そういうもんだなとして捉える形の弱い自己啓発というのかな。
そういうものであれば非常に有効性が高いでしょうし、
やっぱり何も知らないっていうことを。
例えば大学生っていうような状況で、
このような自己啓発とかライフハックとか仕事実とかっていうのを全然知らなくて、
例えば働きに出るってなったら、だいぶしんどい気はしますね、なんとなく。
しんどい気はしますし、
やっぱり最初の職場で身についたことが全てだと感じてしまう可能性が高いような気がしますね。
そうですね。日本の会社の場合は特に古来からさっき言ったような、
会社を一つの人格として、そこに僕たちが吸い込まれていくようなパーソナリティみたいなのが消す方向に向かうことが多いですけど、
自己啓発は逆で、個人っていうのをなんとか保とうという。
もっと言うとビルドしようという感じが強い。
そのビルドが強すぎると、日本社会では圧力が多いんですけど、
でもあるパーソナリティ、個人性っていうのを確保しようという姿勢っていうのは、
現代を生きていく上でも普通に言うようやとは思いますけども。
幸せの心理とタスク管理
そうなんだなあ。
だからまあ、幸せになるってなったときに、
それぞれの人の幸せの形ってのはもちろん違うわけですけども、
どうなんでしょうかね。
例えば自分が持ってる力が何も発揮されてない状況が幸せだと思うようなことはあるんですかね。
ないんだろうな。
なったそうな気もしますよね。
やっぱり幸せというのが脳が感じるのだとすれば、
おそらく、専門的なことはわかんないですけど、
おそらく生存のために必要なことですよね。
食欲というのはたぶん、生きていくために必要な本能だと思うし、
性欲というのはたぶん子孫を残していくための本能だろうしっていうことを考えると、
幸せを感じるというのもたぶん、生存のために必要な何かだと思うので。
たしかに。
だから、生存の可能性が高まることができていることが本当は幸せに感じるはずですよね、きっと。
そうですね。
自分の力が何も発揮されていない、そう感じる状況というのは、
おそらくその本能に反してるんじゃないかなと、非常に素人的にですが想像しますよね。
だからやっぱりある程度、何らかの形で自分の高揚性を発揮させることを助けることが、
この手のノウハウの外せないポイントになるのかなとは思いますけどもね。
そうですよね。
たとえば運動をすると気持ちよく感じるっていうのは、
おそらく自分の身体能力が発揮されることが快楽であるということは、
やっぱりそれも生存に関わる何かだと思うし。
だから何もしなければ起こり得たミスを、このような手法でうまく解決できたと感じたら、
それもやっぱり多少幸せに近づいてる感覚っていうのは、いやすいのかもしれないですね。
そうですね。
その結果として、たとえば効率よく仕事が進んだ結果として、
休息の余裕を得ることができて、もしかしたらお金を得ることができて、
お金と時間を得ることができたことによって、
たとえば家族だったりパートナーであったり、
自分にとって大事なものに割く時間ができることであったりとか、
そういうのも広い意味で言うとたぶん生存本能みたいなものだと思いますけどね。
たとえばタスク管理する…があって家族の時間が増えるっていう結果、
この複数のステップがあるとして、直通してないんですね結局ね。
これが一番難しいところで。
タスク管理をしたら家族の時間が増えますっていうふうに説明はできないわけですよね。
基本的には。間に入る変数が多すぎて。
だから正直に紅葉を言おうとすると難しいんですよね。
だから、タスク管理をして仕事が有能として認められるようになりましたと。
出世しましたと。今までより忙しくなりましたと。
家族の時間が減りましたみたいなことも、一つのシミュレーションとしてあるわけじゃないですか。
まあそうだし、非常にしばしば発生してることですよね。
これはタスク管理をしたことによって仕事が遠ざかったと言えますし、
でもそれは実際に低いレベルのタスクしか管理できなかったとも言えるわけですけど、
そうやって定期的に低下していけばいくらでも増えてしまうんで、あれなんですけど。
出世して人の責任がある仕事を任されるとか、
人の上に立つ立場になるとか、大きいお金を動かすとかっていう、
そのことを幸せとみなせれば、それは目的かなっているんですけど、
よりジスパンを長くすると、それはもしかしたら短期的な幸せかもしれない。
もっと長期的な幸せが、もしかしたらそれによって削られちゃっているのかもしれない。
やっぱり仕事で突っ走ってきた人が45歳ぐらいになって、
突然気がついちゃう現象みたいなのが多分そういうことじゃないですか。
うーん、そうでしょうね。
だから時間のスパンでも変わってきますよね。
そうだよね、確かにそうだ。
時間のスパンって多分、単に時間だけじゃなくて、
タスク管理の目的
いわゆる高度というか階層の高さにほぼ対応していると思うので。
それは確かにそうですね。
その時間のスパンを上っていくと、結局人生全体という、
自分が生まれてから死ぬまでの時間っていうことになって、
死ぬときに、多くの人は亡くなるときに、
そんな落ち着いて人生振り返ったりする暇はないことが多いと思いますけど、
仮にそれができたとしたときに、どう思うんだろうなっていうことを考えると自ずとわかってくるという、
それこそ自己啓発的なところに行き着いてしまうんじゃないかなと思いますね。
それはね、結構大切なことだと思うんですよね。
だから、例えばその自己啓発的なものを一切抜きにして、
単純こういうふうに公理主義というか、雑に言うと公理主義的にだけ考えたときに、
やっぱりそれって短期的な最適化に始終してしまうと思うんで、
あるところから、何度も習慣が特にそうですけど、
ビジョンみたいなものを考えようと生きる上でっていうことは、
視点を上げるという意味で非常に有効な、
日本人にとって有効かどうかはわかりませんけど、
そういう持ち方っていうのは有効でしょうし、
当たり前なんですけど、
タスク管理をしたからといって幸せになれるわけではないわけですよね、これは。
ないですね、そう思います。
むしろ不幸になる可能性もありますからね。
だから、幸せになるタスク管理っていうのは、
幸せを目指してタスク管理をしましょうってことですよね、要するに。
うん、というよりも、
だから、タスク管理何のためにやってんだろうなって本当に、
それこそ胸に手を当てて、
上のレベルに向かって考えていくと、
だいたい幸せになるに行き当たる、
なるっていうところに突き当たらないかな、
99%はそうなんじゃないかなっていうところですよね。
そうやって階段を上がっていったときに、
あれ、ちょっとなんか今自分のやってること違うなと思うことで、
タスク管理そのものが再定義されていくっていうことは起こり得ますから、
だからどう言ったんかな、幸せを意識しちゃうな、どう言ったんかな。
幸せから逸れてるタスク管理もあるわけじゃないですか、それはもちろんね。
だから視野に入れるっていうか、幸せっていうものを目的とするとも違うんですけど、
効率化とその影響
どう言ったんかな、何かある範疇の中に幸せっていうのを入れてタスク管理をしていく。
うーん、ちょっと表現は難しいですが、
そこはやっぱり選択基準っていう言葉が一番近いんじゃないかなと思うんですよね。
例えば、それこそ第三領域のタスクみたいなものがたくさんあったときに、
重要じゃないけど緊急みたいな。
それ、タスクをすべて完了することが目的であるっていうふうにやっちゃうと、
それもやることになるんですけど、これをやったところで立ち止まって考えるときに、
基準になるのはそれなんじゃないかなと思いますね。
長いスパンで基準になるのは。
そうか。
それはですね、どういう形であれその人の幸せにつながっていく価値基準であったほうが健全というか、
なんて好ましいというかです。
それを幸せを目指すタスク管理?
幸せに沿ったタスク管理かな?
逆にこれを無理にやろうとすることが本当にそこにつながるのか、
もしくは逆にそれを阻害するんじゃないかっていうことじゃないですかね。
そうか。そんな積極的なものというよりは、道を外れないようにするみたいな感じなのかな。
これ結構テクニカルというよりは非常に概念的な話をしていますが、
そこの何のためにやるっていう考え方って、実践の形に影響を与えるので、
結構まともに論じておいたほうがいいと思うんですよね。
そうでないとタスク管理イコール効率化みたいなことの狭い領域に話が閉じ込められてしまうんで。
わかんないですけど、効率化でもいいと思うんですよね。
そうですね。いいと思うんです。
何のために効率化するのかっていうときに、
その上を考えてないと効率化自体が目的になっちゃうんだけども、
そうじゃなくて効率化することが本当に意味があるのか。
あるいは意味があったとしても、その意味って単に職場の都合じゃないのかっていう。
そうですね。
もちろん職場に雇われてるわけだから、
責任として職場の都合を目指していくというのは別に間違いじゃないんですけど、
やっぱりそれを野放しにすると、
常識的な範囲を超えて職場の都合が押し付けられてくることになるんで、
そのときに、いや、ここから先はちょっとそれは違うんじゃないかっていうことを感じることができるかどうかっていうときに、
幸せっていう単語だけあってもダメだと思うんですけど、
それが何であるのかというイメージが自分の中でできているかできてないかって結構違うじゃないですかね。
やっぱりもう80時間家に帰ってませんっていうのがどう考えても正しいとは思えないし。
そうですね。
もちろん納品に向けてもみんながもう頑張って、
最後ラストスパートだ、もう60時間家に帰ってない、
ヒゲ剃ってない、みたいなことがあって、切り抜けて、
ああ大変だったけど、よかったねお疲れ様。って帰って終わるならまだいいんですけど。
それを何十時間家に帰らないのが前提に仕事が回っているとなると違いますよねそれは。
そうですね。だからその3日間連続徹夜でっていうのは要するに旅行に行くようなものですよね。
で、旅行に行って家帰ってきたら家やっぱりいいよねって感じる、
そういう一時的な局所的な現象として日常を相対化するものとしてやるのはいいですけど、
それが日常になるのはまずいですよね。
やっぱりそういうのが必要になる仕事の状況ってあると思うんですよね。
ありますよね、もちろんね。
ただ、会社が社員がそれをやってくれることに甘えて、
常にそれが必要な状況なのに人員が補充されないとか、
だって回ってんじゃんって感じで補充されないっていう状況っていうのは現代はいくらでも起こるんで、
そのときにそれでもやり続けるかどうかっていうことを考える判断基準にはなる。
そうですね。
それがなきゃいけないと思いますね。
だから、ある種効率化したことでそれが次のあたり前になって、
よりきつくなっていくというような環境があったときに、
タスク管理をしないレジスタンスっていうのが多分あると思うんですよね。
でも僕は逆に思うんですけど、それをするためにはタスク管理の観点が必要というか。
共同体意識の影響
その…難しいな。
例えば、私は平均でこれぐらいできますけど、
休憩がこれぐらいあって初めてちゃんと回るんですっていう理解があった上での抵抗と、
単にサボるっていうこともほとんど一緒なんですけど、
個人的にはそこに違いがある気がしますね。
やらない選択はやる選択があってこそ生きるっていう感じかな。
だから単に能力が足りなくてできてないとか、
単に耐えいだでやってないとかっていうこともあり得るわけで。
そういうのじゃないと示す最低限の何かがいるというのは思いますけど。
まあそうですよね。
自分に対しても本当はそうですよね。
これは、もしかしてこの時間がかかってるのは自分に能力が足りないせいかもしれないっていうのは必要だし、
だけど全部自分の能力にしちゃうのはまた違うので、難しいですねこれは。
今さっきの話で、仕事が個人に押し付けられるっていう表現をたくさんされましたけど、
大体そうなんですよね。
タスクって主体的に選ぶ手前に、まずこっち側にやってくるという状況があるわけですね。
基本、現代の環境では特に。
今隣にいてた妻からメモが届いたんですけど、
追い詰められないためっていうのと、
市面疎開にならないためっていう、こういうことをなぜするかっていう話だと思うんですが、
市面疎開にならないとか追い詰められないっていうのは、別に道を作るというニュアンスだと思うんですね。
逃げ道があるというような感じだと思うんですけど。
仕事って、人がいて仕事を選んでというよりは、まずやってくる仕事があると。
それをいかに裁くかっていうのが、ある種タスク管理の技術のひとつだと思うんですけど、
そこの視点がないと、さっきの第1から第4領域の話もたぶんあんまり役に立たないですし、
発生している状況そのものを疑うとか、
あるいはその状況から自分がスライドするとかっていう対応なんですよね。
対応という感じがたぶんいる。
環境との相互作用でもありますし、これは。
そうだと思います。
まあ、せやな。
環境的にしょうがないから。
俺よく日本人がやっちゃ苦手な気がするんですけど、僕も含めて。
大変だし、この状況は間違ってるんだけれども、みんな大変だし。
ハイサーも今大変なところだから頑張らないと。
さらに自分がここで逃げちゃったら、同僚たちがもっと大変な目に遭う。
だから辞められないんだっていう。
そういう心理ってありますよね。
ありますね、はい。
そういうときにどう判断するのか。
タスク管理を超えちゃいますけどね、そこに。
そういう共同体意識が強いからこそ日本では労働組合があったわけですよ、結局。
それは個人の共同体の輪を乱すことはできひんけど、
それとは別個の組織を作ることで、私が言ってるわけじゃないけど労働組合としてっていう体裁があって、
それで綱引きができてたわけですけど、
そういうのがないところでは、さっき言ったように責任感と同調圧力がミックスされたような状況があって、
ひとつのタスクも逃すことはできないという心境になりがち。
これはやっぱり逃れられないですよね、そこの局面においては。
そうですね。
でもひとつ個人的な例で言うと、仕事が非常にデスマーチ状態にあるときになっていて、
僕まさにそういう心理だったんですね、さっきみたいに。
休みたいけど休めない、辞めたいけど辞められないみたいな状態。
特に今ここで俺が逃げたら、自分が非常に大好きな同僚のなんとかさんたちが大変ダメになるって思っちゃってたところに、
その同僚のAさんがですね、平気でスパッと休んで休んだんですね。
はい、なるほど。
いやもうそれで目がされたみたいな感じですね。
なるほどね、なるほどなるほど。
それが正しいんですよね。
それで回らなくなったらもうそれは会社の責任じゃない。
そうそう、それはマネージメントの責任ですよね、間違いなくね。
で、その場で働いている社員の責任じゃないんですよね、それは。
そういう状況によりますけれども、迷惑がかかるからというのは大抵間違ってる。
そうですね。
いやでも思ったのは、そのような心理状況で、例えば休まれた方がいたときに、
例えば恨みつらみのような感情が起きなかったの。
いやだからそれが起きなかったから目が覚めたという。
それがすごいですよね。それがすごいと思いますわ。
なんか起きそうな気がしますけど。
いや、マジかよとは思いましたよ。
マジかよとは思いましたけど、しかもそれ病気で休んだとかじゃないんですよ。
沖縄行ったんですか?遊びに。
はい。
だけど、だってそうする権利はあるわけだし。
もちろんそうですね。
だから、もうそのときに100%やりきれなくなったら、
いやちょっと無理っすねって言いますし。
結構それはね、ある意味では感謝してる。
いやそうですね。
結局、みんなが逃げないゲームをしてしまうと、
タスク管理の必要性
逃げたときにどうなるかの想像力が悪い方向に膨らむんですけど。
一人逃げた人がいると、別にそんなに変わらんぞ。
まあそれは負担を受けるわけですけど。
変わるんですけど、別にいいんですよね、それでも。
そうですね。
ただ、ワンゴペではそれは通用しないです。
そうですね、たしかに。それはそうだ。
だからそれはまたちょっと別の話で。
ワンゴペの場合は、倒れちゃったらどうすんだよっていう話で。
倒れたと思えば休めるとも言えますけど、
実際に今そういう状況に置かれてる人は、そんなに簡単にはできないと思うし。
うーん、そうだな。
倒れるまで休めないってことですからね、逆に。
でも倒れたら休めるんですよね。
倒れたら休みになるとか、エリアのスーパーバイザーの人が来るみたいなことが多い。
で、それができなければたぶん店が休みになったりするわけじゃないですか。
そうですね。
じゃあ、普段から店休みにすりゃいいじゃないか。
それが嫌なら人増やせよっていう話なんで。
うん。だからそこが、経営者の視点からしてもそうですし、
働いてる人からしてもそうならないんですよね。
そうなんですよね。
例えば、ちょっと頑張りすぎたら体調を壊すと思うんで休みますっていうのがあって、
体調を壊してから休むのと休んでること自体は変わらないわけですけど、
何かいかにもサボってる感じがするんですよね。
そう受け取られることが多い。
むしろ体調管理としては適切なことをするはずなんですけど。
そうですよね。
だってもしかしたら、そうやって能動的に休みを取るんだったら一日で済むものが……。
倒れたらもしかしたら2週間入院するかもしれないじゃないですか。
本当はそうなんですけど、いかにそれを実践することが難しいかというのももちろんよくわかりますし。
そうですね。
ただそれができないのは、働いている人の責任では通常ないということだけは忘れないようにしないといけない。
賛理者というか企業文化というか、そこに漂ってる空気のせい。
もっと教育的に磨かれてきたものも多分影響はしてると思うんですけども。
あとね、それこそ生活というか収入で縛りつけられちゃうような状況もあるので、
一概に簡単に、だからこうすりゃいいんだよとはもちろん思えないし、
タスク管理だけで解決する問題では全然ないですけれども、
助けになるところはあるかなと思いますよね。
そうですね。
特に自分のためのタスク管理っていう観点を取れば、
さっきも言ったように、これ以上は無理ってことがだんだんわかってくる蓄積の結果によって。
タスク管理してないとたぶんわからないと思うんですよね。
ある振動になったときも何で振動になったかわからないものに過ぎるということが多いので。
本当に僕もポモ道路テクニックやってたときも充実にわかりましたけど、
1日8ポモ道路やったら次の日もゼロになるっていう。
表をつけたらすぐわかるんですよ、1週間表をつけたら。
もう数字がすごいデコボコするんですよ。
そういうのもやっぱりある種管理とか観測とかするからこそ見えてくるっていうのはあるんで。
まあでもやっぱりね、全体を通して思うのは、
この手の方法ってだいたいマイナスをなんとかゼロとかちょっとプラスに持っていこうっていう動機づけというかモニュメーションなんですね、だいたいが。
どんどんプラスに行こうぜ、年収10倍という話ではなくて、
ある至らなさをどうにか現実にフィットさせようっていう、何回も言ってますけど、
ケアとしての、セルフケアとしてのタスク管理って側面がかなり多いし、
まあそれぐらいがちょうどいいラインかなとも思いますけどもね。
セルフケアとしてのタスク管理
そうですね。でもとにかくタスク管理自体を完璧にやる必要ないんですよね。
タスク管理そのものを。
これも、はい。
結果が良ければ何でもいいので。
で、その結果も結局自分の価値観にあった結果ということで、
例えばタスク管理やりだすと買い物行ったときに買い忘れが発生するのは耐え難いみたいなことが起こるかもしれないけど、
別にそれで家庭が崩壊するわけでもないわけで、
買い物リストを作らなくて買い物に行くってことも普通に選択した人はあるわけですけど、
まあそもそもこういうのを自発的に興味を持つ人は管理好きな人ですね。
要するに。自発的に興味を持つ人が管理がちやからこういうことをするっていうのもあるから、
まあそうなってしまうというのももちろんあると思うんですけど、
そうじゃない人、やむにやまれない人、
なんか例えば失敗が多いとか、まあそろそろタスク管理とかした方がいいんじゃないかって上司から言われてやる人っていうのは、
別に完璧主義じゃないわけですけど、タスク管理をマスターしてる人、
今鍵かっこつきでマスターって書きましたけど、マスターしてる人は完璧主義なんですね、基本的に。
それを教えをこぐとですよ。それがデフォルトとしてインストールされるようになるわけですね。
でも現地で覚えてるタスク管理は別にそうではないし、
よく言うんですけど、人間はタスク管理が必要な人、完璧な存在じゃないからタスク管理が必要なわけであって、
完璧じゃない存在はタスク管理を完璧にこなすことができないわけで、
そもそもタスク管理ってのは、はじめから不完全である人を宿命つけられてると僕は思うんで。
ある種の定観というか諦めのもとでやる。
管理っていう名前がある種の完璧主義っていうのを誘発してるとは思うんで、
それを言い換えるのもいいかとは思うんですけど、ならないですよね。
もっと緩い感じで言えたら、もっと緩く付き合えるとは思うんですけど。
誰かのツイートか何かそういうもので、
チラッと、このタスクシュートがやっぱり、
前回の高梨さんの回とかその前のタスク管理の話をした回を聞かれた方で、
それ聞くとやっぱりタスクシュートが一番理想なんじゃないかっていう意味のことを言われてた方がいて、
ある意味ではそうだと思うんですよね。
ある意味というか、まず全部やりきれないことが前提だったりとか、
最初から時間の枠が余ってるとか。
だからそういう意味でもタスクシュートっていうのが非常に何か、
いつも頭の隅に置くシュートが、自分では使ってないんですけど、ある気はしますね。
やっぱり熱心なユーザーが多いことはその詳細だと思いますよね。
あとやっぱり、ずいぶん何年も前に佐々木さんが、
この今デイズと呼んでいる僕のライフアウトラインの
一日できれば下に出し入れする方法を見て、
佐々木さんが、いやでもこれタスクシュートと同じですねっていうことを言われてたんですよね。
確かにある部分ではすごく似てるんですよね。
まあリピートタスクをどう扱うかというのが一番違うんだろうと思うんですけど。
でもやっぱり、管理するぞっていうのをなしにタスクを扱う方法の一つとしては、
やっぱりタスクシュートってすごくあるなとは思いますね。
僕が言うのもなんですけど。
広い意味の定義で言えば、これもタスク管理をしてるわけですが、
従来的なイメージのタスク管理ではないですよね、全然。
能動的に管理してやるぞっていうのが排除されてるというか。
ビジョンの描き方
そうですね、そうやなぁ。
ある種のタスクリスト、リスト型でいくと、理念が強くなりすぎて現実が置き去りにされてしまうことが起こり得るんで。
デイリータスクリスト系は、むしろ現実の実践からスタートするという点で違いがあって。
タスクシュートの場合、上がって下がってがどうなるのかなというのは思いますが、
ビジョン的なものとリスト的なものの相互作用がどうなっているのかっていうのは使ってないからわからないですが。
でも踏み外しにくいですね、道を、デイリーベースだと。
そうですね。
たぶん上がって下がってを意図的に排除しているように見える。
ああ、そうか、あえて作らないことでということか。
個性因数がリストを持ってないみたいなものですね、要するに。
そうですね。僕はそこはやっぱり欲しいんで。
ただ、一つの思想としてはありだと思う。
それはもうでも向き不向きとしか言いようがない気がしますけど。
まあそうですね。
そのツイートにこういう特徴が3つあがってて、
3つ目に何もやってなかったという日が生まれないことっていうのがあって、
これは非常に大きいですよね。
それはおっしゃるとおりですよね。
タスクリスト的に管理すると、何もやってなかった日が生まれてしまうんですよね。
結局そのリストの項目に載ってないことをやってる日っていうのがあるわけで。
そうなんですね。何かやってるんだけど書いてないんですよね。
そういう地面の行為の管理。
タスクというのは行為、アクションに注目した管理じゃないかな。
分からんけど。結局ここに対応する名刺がないんですけど。
そういうものからスタートする。
スタートラインはそれが一番かな。
その後どう変化するのかは別としても。
自分が1週間、例えば何をやっているのかっていうことを記録ベースに進めていくっていうのは非常に有用で。
うーん、まあそうやな。
でもビジョンを描くとこから始めてもいいですけど、
大外れなビジョンからスタートするでしょうから、その一番最初っていうのは。
ロゴから始めるのが妥当かもしれませんね。
そうですね。本当は両方から。
そうですね。両方がいい感じはするんですけど。
タクさんがノートに書かれた2つ目の記事で、
一番最後に情景を描くのがいいよというようなことが書かれてたんですけど。
あれやっぱり思ったんですけど、あれはある程度生きてみないと描けないなと思ったんですよ。
なるほど、確かに。
20歳であのビジョンはたぶん描けなくて、
描けるのって言うと、たぶんドラマとかで見た幸せそうな風景を転写してしまうことがたぶん精一杯だと思うんですよね。
だから文章は書いてみないとわからないを言い換えれば、
人生は生きてみないとわからないということだと思うんですけども。
そういう経験を経て、ある種のリアルなボトムアップの結果が描かれるビジョンだと思うんで、あれは。
最初はやっぱりけっこう見当違いなビジョンから始まる。
別の見当違いなビジョンから始まってもいいんですけど、それを改めて書き直せばいいんですか。
いいんだと思うんですね。
うん、なるほど。
いや、そうなんですよ。
だから書き直すものだという。
そうですね。
もしくは別に作るもの。
やっぱり15年ぐらい前でもけっこう見当違いなことは今から言ってますもんね。
ブログに書いてることをなんじゃこりゃっていうのはありますからね。
なるほど。
だからそのときはそう思ってたっていうことでいいとは思いますけどね。
そうか。
たとえ情景っていうのをある時点で描いたとしても、それは絶対的な解決ではなくて、
現時点でそっちを向いていこうという一つの指針というか、
そういうもので方向性を決めるものでしかないってことですね。
そうだと思いますね。
そのときに描いたビジョンが非常に若かったとしても、それは若いんだからっていうことだし、
若いと逆にそれが古代妄想的に大きくなったりする場合もあるだろうし、
あるいはどっかで読んだようなそのまんまになることもあるだろうし。
でもそれでいけないことはない気はします。
それでいけないことはないですね。
タスク管理とビジョン
それは若者の特権ですよね、本当にね。
そうだと思いますよね。
確かにそうだ。
ただ、過去の蓄積から出てくるものというのは、ある程度の時間のスパンがないことはもちろんそうですね。
うん。20歳のころと40歳のころで描いたビジョンが、
40歳のほうが現実に近いからといって40歳のビジョンが優れてるというわけではないですよね。
ではないと思います。
それはそうだ、確かに。
やっぱりさらに歳が上になっていくと、
もうできないってわかることってあるじゃないですか。
そうですね、たしかに。
自分のビジョンにはあるんだけど、どうしてももうこれはできないとわかってることって出てくるんだよね。
それは結構つらい経験かもしれないですよね。
でもしょうがないんですよね、それも。
そうですね。
このしょうがないっていうのを受け入れない、永遠の若さのための自己啓発っていうのもあって、
夢をすべて叶える的なやつですね。
別にいいんですけど。
そこはある程度年層の受け入れ方っていうのはあるかなと思うんですが。
そうですね。
なんというか、諦めなければ夢は叶うよっていう。
それをどこまで言葉通り受け止めるかっていうところで。
確かに諦めなければ叶うものもありますからね。
うん、それはもちろんそうですね。
だけどやっぱり、諦めなければ必ず叶うよっていうのは、それこそ生存者バイオラクアッツであって。
そうですね。
叶った人がそう言ってるので。
うーん、そうだなー。
だってその言葉は逆に言うと、叶えたければ諦めてはいけないっていう呪いですからね。
そうだね、その通りですね。
なんか自分を高ぶらせるためにそういうような言葉を用いるのはいいんですけど、
要法要領を守らないと、求めてないものにこだわり続けることになってしまいますからね。
そうですね。
例えば25歳ぐらいで大成功した人がいたとして、「夢は必ず叶えます!」ってその人が言ったとしても、その後どうなるかわかんないですからね、その人。
確かに。
だからまあね、何を言った人かわかんなくなりましたけど。
うーん、まあまあ難しいところですよね。
この辺だから、その自己癖的な要法とかアドバイスっていうものをどう付き合うかということで。
やっぱり全く無視するのも違いますけど、それに先進するのもやっぱり違うんで、
バランスを取るというのも非常にありきたりな結論になるわけですけども。
人生の更新と確認
ありきたりな結論っていうのは大抵真実ですかね。
そうですね。
まあでもやっぱりほどほどのタスク管理っていうのが一番難しいんですよ。
管理という言葉が要請するある規範性が、ほどほどの管理を失敗策とみなずので、
そこにリビジョンっていうのはそれを一つ売って出てるわけですけど、
なんかもうちょっと緩やかなものがあればいいですね。
そうですね。
今のででも思い出しましたけど、
上位階層、ビジョンを描くことに抵抗がある人の、
全部じゃないかもしれないですけど、
ある人はやっぱりリビジョン、そのリの部分を恐らく考慮してない人もいますよね。
一度描いたら固定した目標としてとらえちゃうっていうのは、
それはやっぱりつらいというか、
かえって自分の首をしめちゃうことになると思うんですよね。
どんな方法ででも生きながら一度描いたビジョンを更新していく。
更新していくっていうとまたなんかね、結構大変な気がするんで、
それぞれの時点で描けば自然に変わってくだろうと思うんですよね。
その変わってくことは当然のことなので、
そういう意味でのビジョンはやっぱり僕は欲しい。
デイリーだけじゃなくて、その上のレベルにあるビジョンは欲しいと僕は思います。
そうですね。僕も似た感じはありますね。
それはね、そうあったほうが嬉しい。
あるいは幸せになっちゃうな。
幸せに近づくと言うと大げさやけど。
安心感があるというのもちょっと違うけど、あってほしいという気持ちがありますね。
それとも、より良い方向に向かっている感覚が得られるというか。
そうですね。
本当にそうかどうかはもう最後までわかんないですけど。
うーん、だからある種そうやな。
信じてる対象として持ちたいわけではなくて、定期的な確認という感じなのかな。
あと迷ったときの指針じゃないですかね。
そうですね。
そういうのを定期的に確認しないと。
高度を上がるっていう行為は日常生活のレベルで自然には発生しないと思うんで。
そうですね。
意識的にする。
身近な人が亡くなったときとかそういうイベントのときは多分発生しますけど、
普通の日常生活では多分発生しないんで、
たまにそういう時間をもって階層を上がってみるということは、
たすかに生き方、人生術として今言うくらいだと思いますけども。
そうですね。人生術。
人生に術が成立するかどうかはわかりませんけども。
それを生きると言うんですかね。
そうですね。それを生きると言うんですね。
でも生きる力って言うと急にうさんくさくなるじゃん。
まあまあ、そんなことを言っている本人がそんなにうまくできてるわけじゃないですからね、本当に。
だからそれぐらいのもんなんですよね。
やっぱり完璧完全に至るためではなくて、
一つの理想を見ながら、先にマドルスルーしているという、四苦八苦しているという。
で、そのときの一番大きな問題とかをなんとかエコーとか片付けたり片付けなかったりして、日々送っていくという感じですからね。
だからやっぱりキャッチーなとこも何もないわけですけど。
キャッチーにしようとするとね、難しいですね。
何かを強調せざるを得なくて、
そうなると陰影が効いてしまうというのがあるので、ここは難しいところですけどね。
ポッドキャストであればいくらでも語れるというところですけども。
というわけで、タスク管理的なことをしている人は何のためにしているのかというご意見があれば、
ハッシュタグ打ち合わせキャスト、ひながらで打ち合わせアルファベットキャストまでいただければと思います。
何かたくさんお知らせしたいこととかございますでしょうか。
今日は大丈夫です。
じゃあこれまでにしたいと思います。お疲れ様でした。
お疲れ様でした。