今いいんだろうなと。だから小中は答え一つでも、高校大学でちょっとずつそれぞれにしろという形っていうのにシフトしてくれたらいいけど、そのためには多分受験っていうとか、
新卒一斉入社みたいなのを改めないと逆に無理だろうなという気もしたんですね。
もう一つは、学校の責任だけではないなというのをもっと思ったんですね。
一番思ったのは、例えば学校しか行っていない子どもは、それ学校の環境を当たり前として受け入れますけど、
例えばその子どもが釣りに行ったりとか、釣りを趣味にしたりとか、あるいはキャンプとか山に出かけるとかすると、
例えば山に行って火を起こすという方法って別に一つじゃないじゃないですか。
なんだって、火がつけばなんだって言うわけじゃないですか。
学校以外の世界で子どもが生活していると、その世界一つっていうものが特殊なものでしかないんだなという相対化を誰かに教えられなくても多分体感すると思うんですよね。
逆に学校に行ってる、で、学校に行ったら塾に行ってるみたいなのだと、相対化ができないですよね。
世界のあり方っていうのが世界一つに染まってしまうというか。
だから、定式化すると、正解が一つしかない環境を正解の一つだと思ってしまうみたいな二重構造なんですね。
そうだってしまったらあかんなと。だから正解の一つがあってもいいんやけど、それを絶対しないような捉え方ができて、
そういう環境を子どもに対して与えられたら、別に学校は今のままでも別にいいんじゃないかなっていうふうに、
いろんな人とのリプライとかコメントを見ながら思ったことですね。
でも、絶対教えなきゃいけない唯一の正解はあるじゃないですか。
さっきのキャンプの話で言えば、焚き火とかキャンプファイヤーをしたら、火はちゃんと消しましょう。
だから、火はつけてもいいけど、山火事にしてはいけませんよみたいなルールがありますよね。
ルールというか、どうやって火を起こすかとかね。そういうのはいろいろあると。
だから、プロセスもいろいろあるっていうことすら、義務教育の中ではなかったりしますからね。
それ大きいですよ。プロセスがいろいろある。
本来、先生が想定していないルートで答え出したときは、
丸を与えるか、すごい大きい丸を与えられてもいいくらいなんですけど、
これが一番ありがちな話で。
大体開発ってのは受注開発で、どこか大手企業がシステム開発してほしいって言われて、下請けがそれを開発して納品するみたいなやり取りなんですよね。
事前にこんな機能が欲しいって要望が上がってくるんですよ。
それによって、向こうとすり合わせた上でこういうソフトウェアを作りますって契約が当然結ばれるんですよね。
その通りに作るんだけど、思ってたのと違うって言われるんですよね。
これはプログラミングだけじゃなくて、僕は軽いウェブデザインと仕事を昔やってたんですけど、全く同じことが起こるんですよ。
それは知らなかった。
企業のいわゆるホームページ時代ですよね。
小さい企業でもホームページを持ちましょう、そうすれば宣伝できますよっていう時代だったんで、口コミで仕事が回ってくるような時代だったんですよね。
あいつウェブできるからみたいな。
もちろん3桁前の仕事とかじゃなくて、5万とか10万ぐらいの発注規模ですけど、それでやってたんですけど、
事前に打ち合わせて確認してもらって、最終的に出したものが違うなって言われるんですよね。
挙句の果てに、これHTMLを配置したページじゃなくて、これ全部画像にしてくれとか言われたことあるんですけど。
時代背景もあるんですけどね。
結局、そういう頑張って作ったプロダクトが、しかも計画通りに作ったプロダクトが満足いくものではないっていうことが非常に多くあるんですよね。
これは大企業の開発であればあるほどあると思うんですよ。
関連付けると、Twitterで上澄純さんという方が、原稿の構成ってどうして最初に考えたとおり絶対に並んだらいいだろう不思議っていうことをつぶやいておられたんですけど、
これ多分構造的に同じ話だと思うんですよね。
事前にこういう原稿がいいと思って、自分自身と契約書を結んでその通り進めていくんだけど、
出来上がったものが何か違うと、もっといい原稿がそこに別にあるんだろうと思ってしまうことが起こるっていうのは、
さっきの開発事実と多分同じ構造だと思うんですよね。
これを解決するのが、Agileの方式なんですけど、
Agileは部品ごとを作っていくんですけど、部品ごとを完成させた上に使ってもらうんですよね。
例えば、ログインの画面作りましたから使ってみてくださいとか、
顧客リストの画面を作って、今データサンプルしか入ってますけどちょっと使ってみてくださいっていう風に、
個々の部品ごとに独立して作ってテストしてもらうと。
その後、この段階でこれは違うねって言うこと、ここの方がいいねって言われて、
それをフィードバックもらって、もう一回作り直すっていうことをして、
その部品を一旦完成させて次に進むという風に、
ミニプロダクトを短い期間でリリースしていく。
リリースが含まれるんですよね。テストリリース。
そこが大きな違いなんですよね。
だから、このリリースの概念、一旦プロダクトとして部分的に完成させるっていう感覚かな。
部分プロダクトみたいな。
の感覚と、SEIKUの一旦ボトムを描いてしまうっていう感覚が多分近いんですよ。
なるほどね。
だから、SEIKUでは部品ごとに作らないですけど、
完成後に至る何個か前のものをまず描き下ろしてしまうわけじゃないですか。
それがボトムになるんで。
トップを詰める前に、まずボトムがある程度バーッと描いてしまって上がる。
それの繰り返しで成果物に近づけていく。
その段階的なミニアウトプットというか、
なんていうのかな。これミニじゃないな。
段階的なアウトプットと部品的なアウトプットという、
その出来方は違いますけど、ミニ完成品を複数修正して作り上げていくっていうところが似てるんでしょうね。きっと。
でも今のリリースするっていうことで言うと、たぶんあれですよね。
例えば、シェイクのボトム側で勢いに任せて描いた本を見て、
これをここで描くんだったら、この前の前の見出しはこうだなみたいな感じで。
だから上にフィードバックされる。
で、上でを変えるとまたそれが下にフィードバックされるっていう。
それがミニプロダクトをリリースして、フィードバックを受けて、
その後の開発に影響を与えるっていう、その流れが似てるんですよね。
そうと思います。だから一般的にイメージされる執筆って、
1文がほぼ完成に近い状態で書いていて、1章の最後までたどり着きました。
はい、1章完成ですっていうことを仮にトップダウン型として捉えたら、
シェイクの一旦書いてしまってから考えるっていうのは、
一旦書くっていうこと、つまり読める文章を書くっていうことですから、
それはリリースしてるわけですね、要するに。
自分に対して。
そう、自分に対して。で、そのリリースを得て、いやこれは重要なっていう部分を、
その段階で全部完成させた後ではなくて、
そのリリースする段階的なリリースの後で修正するっていうのことを積み重ねるっていうのが似てるんでしょうね。
だからでも、もっとアジャイル的にやらないといけないなら、もっと短いタームでやらないとダメなんで。
ああ、そうでしょうね。
1週間か2週間のタームでリリース、一旦読んで回収するっていうことを回していけば、
ちょっとだれるじゃないですか。
だからちょっとそれまでの章とテンションを変えようかなと思って、
ちょっと文体を少し変えたんですけど、
ちょっと難しい言葉が急に出てきてすぎてますねっていうことを言われて、
やっぱりそうかって思ったんですよ。
これを例えばカチカチに原稿を固めた後だと、
その部分部分柔らくするって多分無理なんですよね。
そうですね。下手すると内容変わっちゃいますからね。
そうそう。だからこの段階で言ってもらえて、
やっぱりこれはそうだなと思って、
だから文章を固めきらないうちに言ってもらえた方がいいんですよね。
自分の意図することが反映されている原稿で、
その意図が自分のこれまでの書いた原稿とどう相互するのかっていうのを
他者に判断してもらえて、やっぱりそうかと思えること。
だから僕も自身もどっちか心の中で、
これいきたいけどこれでいいんだろうかみたいなのが多分あったと思うんですよ。
で、やっぱりって思ったのは、やっぱりそっちかって思ったんで。
だから何を言っているのかと思わなかったんですよね。
この良さが分からんのかと思わなかったんで。
自分でもちょっと懸念していたってことを言われたっていう。
そう、そう。そう。そう。そう。
っていうことで、だから舵が取れたっていうか初めて。
ある段階までは悩んでたわけですよね。どっちか。
A方向に進むかB方向に進むか。
でもとりあえず原稿を進めるためにはどっちか決めないと進まないと。
で、Aに進めてきたけど、Aじゃない方がいいんじゃないかって言われたときに
ちゃんと戻ってBに進められると。
で、AとBが揺れている間は原稿ってなかなか終わらないんで。
はい。
だから一回決めてしまうって、信用をしている読み手に言葉をかけてもらうと。
で、その判断が、向こうから返ってきたフィードバックが
いやそれは違うと思ったら逆にAにしたらいいわけで、さっきの話で言うと。
なるほどね。
だからそこを自分の中ではっきり決めるっていうことの役にも立つと思いますね。
いずれにしても役に立つ。
そう、どっちのフィードバックが反映するにしろしないにしろ
自分の中で迷っていた部分がやっぱりそうかって思えるっていうところが
切断線になるというか、一個そこは固定されるという効果があるかなと。
そっか。
だから書くまでは、例えば一章書くまでよく言うんですけど
可能性、組み合わせ数の爆発みたいなことが起こるんですよね。
Aの先にB、C、D、Eがあいて、その先にまたD、C、D、Eがあって
最初の頃であればあるほど無限に膨らむ。
後輩になるとそれが少なくなるのが書きやすいんですけど。
出版社と仕事しているときは一章をとりあえず無限の爆発と付き合って何とか書くと。
書いたら送信するんで一章が固まると。
ここが固まるからようやく次に進めるわけですよね。
セルフパブリッシングのヤバいところって位置が固まらないんですよね。
完全に締め切り1週間前に全然できてない企画書を持ってこられても困るわけですよね。
よくありますけどね。
わからないのだったらとりあえず1回出してフィードバックをもらえよと思うわけです。
なんでもっと早く見せないと。
そうそう。だから己の限界がある以上、やっぱり早いフィードバックの方がいいんですよね。
本なんて書くというプロセスも構成も違うじゃないですか。
毎回一冊の本が不慣れなわけですよね。
そういうものは。
だからブログの位置基地までにいちいち細かいフィードバックはいりませんけど、
数万字単位のプロダクトであればやっぱりある程度早めのフィードバックを。
だからこのフィードバックというのはイメージとして、誰かが論文を書いた時に論文紙に投稿してレビューしてもらうレビューじゃなくて、
投稿する前に教授とかに見てもらってツッコミ入れてもらうやつぐらいなんですね。
もしくはピアレビューみたいな。
そういう心構えの緩さで、緩くてもいいやってぐらいで出すことの方が多分いいんですね。
だから一人でやってしまうというのは逆に一人でもできるだろうという傲慢の裏返しでもあるんで。
だからここはある程度人を頼って、自分と違った視点で何か言ってもらえる。
それは悪いことにはならないんですよね。
その本質が混じる間があるとかいうことはないと思いますね。
やってみないとわからないですけど。
でも多分そうでしょうね。
自分一人の作業ってフィードバックがほぼ発生しないっていうのが、結局あらゆることの問題だと思うんですね。
問題というか課題というか失敗の原因になるというか。
前回かコンマリーさんとかGTTってコンサルタントですよねって話をしたんですけど、
あれって要するに随時フィードバックが入るってことなんで、横に人がいるってことは。
靴下ここに置いてたらダメですよっていうことをフィードバックによって知るわけですよね。
そのフィードバックの積み重ねによってその人が片付けるというのはこういうことだという相対を理解するわけですよ。
例えばそれはサッカーでルールブック読むじゃないですか。
それがその人がサッカーを理解したかというとそれは結構怪しくて。
怪しいことだね。
サッカーをプレイしてる人は全員サッカーっぽい概念が頭の中にあるじゃないですか。
ここは細部が違ってサッカーってこういうもんだよねっていうのがあって、
例えばそれはディフィンダーが邪魔やからって殴ってはいけないっていうのはあるわけじゃないですか。
ルールブックには書いてないんですけど。
それは結局誰かを殴ったら審判がフィードバックするからですよね。
いや、殴るのは極端な理ですけど。
要するに逸脱があった時にフィードバックが入るからこの行為がこの境界線を超えてますよって言ってもらえるから、
逆にその境界線の中が何であるかがわかるってことなんですよね。
本を読むだけだとフィードバックが発生しないで、だからGTDって何かって本を読んだ人の中では全く共通の感覚がないんですよ。
違うことをした時に、いやそれってGTDじゃないですよって言ってもらえないから。
いくらでも逸脱できるんですよね。
逸脱できることは良いことなんですけども、GTDを習得するということから見た場合にはフィードバックの無さっていうのが、
その習得の邪魔というか助けにならないんですよね。
だからやっぱりフィードバックをいかに設計するのかっていうところが多数管理でも執筆でも非常に重要で、
自分だけで判断できるんであれば別にいいんですけど、判断できないからそれを学ぼうとしてるわけであって、
だからやっぱり他者性がいるんですよね、何にしても。
まさに今の先週の話、こんまりさんやデビッド・アレンは、
コンサルタントとかコーチとして、本来だったら横につきっきりで1週間とか2週間教えてやっと身につけられるものを本として書いたわけなので、
その本を読むだけで身につくんだったら苦労はしないわけです。
いやそれね、そうだよな。本当にそれ先週終わった後ですごい、そうなんだなと思って。
でもね、それ忘れるんですよね、本を読むと。
ああまあそうですね、不思議なことにサッカーの教科書を読んだだけでサッカーできると思わないのに、
GDDの本を読むとGDDできるようになる気がしますよね。
あれはやっぱり相当大掛かりなものの考え方の転換をしなきゃいけないですね。
すごいですね、それを間違いなく。
従来のタスク管理とかスケジューリングの頭に染まった人が、
はいはい、そうですね。
相当大きな転換なんで、本を一冊読んですぐできるようになるようなことじゃないんですよね。
もちろん、だからその通り実践したら、まず絶対に脱節というのはもう宿命というか。
だから、それがやるわという本では、
あなたはタスク管理失敗しますよということをわざわざ章を一つかけたら書いてるんですけど、
それは多いですね。
多分アレンも今本の通りには教えてないと思うんですよ、きっと。
個室は変わってなくても。
結構変わってますよ、動画とか見てると。
そうなんや。
だから本という固定のメディアやったらそういう問題もありますよね。
ノウハウって絶対、
例えば、万有引力の法則と違ってノウハウって常にアップデートしていくもんですから。
だから本だけでっていうのはやっぱりちょっと無理なんですね、きっと。
そうですね。変わってるというか、根本的な方法は変わってないけれども、
特にコンテクストの考え方はものすごい変わってます。
そうなんや。
要するに、今は例えば電話っていうコンテクストを考えてるんじゃないよね。
そりゃそうだよなって。
そりゃそうですね。
その類のこと。
なるほど。でもそういうのは必要ですよね、どう考えたって。
そう。
ずいぶん前に、ノウハウ本はなぜ役に立たないのか的な本を読んでたの。
例えばタイトルが結構雑ですけど、
ノウハウ本が役に立たない理由っていう、実践できない理由っていうのを考察して、
その中の一つにフィードバック不足っていうのがあって、
まさにそれやなと、結局のとこ。
実践はいくらでもできますけど、実践に対して良いか悪いかが判断されないと、
良いか悪いか分からないんで。
これは単一の誰かが、師匠が授けるノウハウの話だけじゃなくて、
実は自分で何か新しい方法を作るときでも、フィードバックがないとダメなんですよね。
これは結構重要な話で。
このやり方で、うまくいってるかどうかを判断するための判断軸がないと、
その方法を評価できず、評価できないということは身につかないってことなんですよね。
例えば、よく使ってて、仕事がうまく進むとかでもいいし、
気持ちがいいとか、快適だとかでもいいんですけど、
その人なりの評価するものがないと、
このノウハウがあれば、全てうまくいく的な幻想というか、
何て言うのかなあれは。
だから、師匠を持ってない場合があるんですよ。
とにかくうまくいくと。
そうそう、そういう感じ。
それはダメというか、うまくいったかどうかはどう判断するんですかって聞きたいんですけど。
だから、フィードバックを仮に自身に対して持つとしても、
良し悪しを決める何かを持っておくことっていうのは、
多分必要なんですね。そうじゃフィードバックにならないというか。
そうですね。
それが感覚的なものでいい場面もあるし、
もうちょっと客観的なものでないといけない場面もあるんでしょうけどね。
感覚的なものであっても、とりあえず自覚しておくことは非常に重要で、
さくさんがライフアウトライン的なものに自らのモットーというか、
自信をかかれているのも、それの自覚につながると思うんですよね。
ある方法が自分にとって、合っているか合ってないかっていう言い方でもいいですけど、
フィットするかうまく活かせられるかどうかっていうのを考えるというか、
考えるっていう。考えないですね普通。そういうのって。
考えないから判断できないんで迷うことが増えるんですけど、
だからフィードバックの軸を持つっていうことが、
ここまでの話であらゆる面で必要で大切で重要なことだなと。
という感じです。
それだとフィードバックの軸をどうやって作るかっていうところも。
これはまた別の問題になります。
まるまる1回ついやすくなっていくときの問題はできるわけですね。
でもこれはついになっているんですよね。
だから片方だけではダメで、両方があって初めて機能するっていうところはありますね。
でも何かしのプロセスとかノウハウを考えるときに、
フィードバック性の有無っていうのは重要な注目点になると思いますね。
それが欠如していると、継続しないか、継続できても自分の肌に合わないものにどんどんなっていくというか、
という可能性があるんで。
とりあえず今のところのアジャイルライティングとしての今の執筆法は、
わりかし僕の中では良いフィードバックが生まれている。
相手からもらうのもそうですし、自分で発見するのはやっぱり大きいですね。
前も言いましたけど、第3項目で抜ける項目がめっちゃ出てくるんですけど、
これめっちゃデカいフィードバックなんですよね。
抜ける項目が出てくるっていうのはその…
最初に考えたときにこれとこれは欠かせないだろうって思ってたものが、
第3項で書き下ろしたときにすっかり抜けてるんですよね。
毎回書き下ろしてるからなんですけど、
だから自分の最初の判断軸そのものが間違っていることがあるってわかるっていうのは、
かなり大きな発見で、結局それを敷衍すると、
執筆の最初で全部固めて完成に持っていくっていうのが、
そもそも無理筋っていうのがわかるじゃないですか。
だって一生のレベルですら自分の考えてた重要軸が変わってしまうわけで、
だから諦めやすくなった感じがありますね、それがわかったことで。
あとやっぱり開講を重ねるうちにその軸がより見えてくるってことですよね。
結局毎回書き下ろすと変わらない部分が出てくるんですよね、3回くらいやっても。
結局そこは自分の中で譲れないところですが、
その章で伝えたいことなのかっていうこともはっきりしますね、これは。
それは見極め方としてすごくいいと思うんですよね、変わらない部分。
何度やっても変わらない部分。
これは大橋裕人さんがライブハックスだったかなっていう本に書かれたんですけど、
毎日自分の目標とかを書いていくと、何も見ずに。
毎回出てくるものと自然に出てこなくなるものがあると。
それがあなたにとって重要なものを分ける、フィルタリングになるって言われてて、
それは確かにそうやなって感じてますね。
それはね、全くぼって正しいと思うんですよね。
そうそう、フリーライティングでもよく、同じこと何回も書いちゃうことあるんですよね。
はいはいはい。
何回も同じことが出てきて、それがまた先週の正解信仰の話じゃないですけど、
これ同じで、BCじゃないからいらないなとか思っちゃう人がいるんですけど、
何回も出てくるっていうのは大事だってこと。
そうですね。
何度も思いついたり、同じことを何回も思い、いいことを思いついたと思ったのに前も書いてたみたいなことをよく言う人いるんですけど、
それだけその思いつきが自分にとって大事だっていうことか。
そうですね、確かに。
それはすごい基準になりますよね。繰り返し出てくるとか。
あとはその、うん、そうですね。
だから時間を置いて同じものに取り組むときに必ず出てきてしまうものっていう、
だから二人の人間、自分が同じアプローチをしているんですよね。
だから、2回目の自分でも出てくるっていうその連続性は、よく本当の自分なんてないって話がありますけど、
その本当の自分がないしてもある種の傾向っていうのがあって、それは変わらないわけで、
本質じゃないしても変わらない性っていうのがそこであるんですよね。
これは結局、さっきの軸に近い話ですけど、
そこは残すべきものと判断できるっていうかな。
残すべきものだと確信できる感じがあるっていうかな。そういうのが出てきやすいですね、やっぱり。
本当にそうだと思います。
だから書き直すっていうのがね、本当にね、デジタル自体の何言ってるか分かんないけど、
書き直すってめちゃくちゃ重要だなっていうのを最近やってて思うんですよね。
そうなんですよ。だからそのアジャイルライティングのフィードバックももちろん重要だと思うんですけど、