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2021-03-02 1:23:54

第六十二回:Tak.さんとアジャイル・ライティングについて

第六十二回:Tak.さんとアジャイル・ライティングについて

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はい、打ち合わせキャスト第62回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回の61回が思わぬ反響がありまして、反響というか、いつも以上にコメント、ツイートを寄せてくださる方がいらっしゃいまして、
あと、人によってはブログ記事なんかもちゃんと書いていただいて、
ありがたいことですね。
ありがたいことで、そうやって感想を読みながらも、僕もいろいろ考えたことがあって、補足的にちょっと語っておきたいことがいくつか出てきたんですけども、
まず第一に、学校というのが特殊な環境であって、生涯が一つに整えられている場所であるみたいなことを言ったんですけど、あれは別にネガティブなことではないんですよね、別に。
必要なんですね。
なくてはならないんだけど、それが、運転免許を取るときに、教習所の中で練習することが必要やけども、いつかは路上に出なきゃならないよねっていう話で、
路上に出る間の教育というか、その期間があんまり日本では長くないんではないかなっていう話なんですよね、これ。
一応だから義務教育の段階では、正解一つでいいと思うんですよ。そうでないと子供は混乱すると思うんですよ。
一方でそれを超えた、つまり日本で言うと高校以降からは少しずつ、その人それぞれの正解があるよっていう方向にシフトしていってほしいんですけど、
そこまで強くはないかなと、高校で。大学に入ると、いわゆるカルキュラムっていうのを自分で組むじゃないですか。
ああなってくると、それぞれの人の選択みたいなのが出てきて、いわゆる論文もそれぞれの人の自分の問いを発見するっていうことじゃないですか。
卒業して働くっていう段階。だから高校から大学卒業までが、本当は少しずつ、
段階的に答えは一つじゃないよっていう方向に行ってくれたらいいんですけど、大学に入るステップの間に入試っていうのがあるじゃないですか。
入試は答え一つの際なるものですよね。基本的には。
そうなんでしょうね。小論文も多分こう答えるべきみたいなのがあるでしょうから。
そうすると、大変できなくなっちゃいますかね。そうですね。そこで結局、その段階的に移行がまずその段階でできないのと、
大学生でも3年生の時ぐらいに就活をしだすと、結構あれも答え一つを要求されるんですよ。日本社会だと。
されますね。本当はそうじゃないのかもしれないけど、されているかのような雰囲気が非常に漂うというか。
結局、その場で続いてきた世界一つ環境のままで大学に出てしまうということが多分あって、だから本来はそこがもうちょっと柔軟であったら、
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今いいんだろうなと。だから小中は答え一つでも、高校大学でちょっとずつそれぞれにしろという形っていうのにシフトしてくれたらいいけど、そのためには多分受験っていうとか、
新卒一斉入社みたいなのを改めないと逆に無理だろうなという気もしたんですね。
もう一つは、学校の責任だけではないなというのをもっと思ったんですね。
一番思ったのは、例えば学校しか行っていない子どもは、それ学校の環境を当たり前として受け入れますけど、
例えばその子どもが釣りに行ったりとか、釣りを趣味にしたりとか、あるいはキャンプとか山に出かけるとかすると、
例えば山に行って火を起こすという方法って別に一つじゃないじゃないですか。
なんだって、火がつけばなんだって言うわけじゃないですか。
学校以外の世界で子どもが生活していると、その世界一つっていうものが特殊なものでしかないんだなという相対化を誰かに教えられなくても多分体感すると思うんですよね。
逆に学校に行ってる、で、学校に行ったら塾に行ってるみたいなのだと、相対化ができないですよね。
世界のあり方っていうのが世界一つに染まってしまうというか。
だから、定式化すると、正解が一つしかない環境を正解の一つだと思ってしまうみたいな二重構造なんですね。
そうだってしまったらあかんなと。だから正解の一つがあってもいいんやけど、それを絶対しないような捉え方ができて、
そういう環境を子どもに対して与えられたら、別に学校は今のままでも別にいいんじゃないかなっていうふうに、
いろんな人とのリプライとかコメントを見ながら思ったことですね。
でも、絶対教えなきゃいけない唯一の正解はあるじゃないですか。
さっきのキャンプの話で言えば、焚き火とかキャンプファイヤーをしたら、火はちゃんと消しましょう。
だから、火はつけてもいいけど、山火事にしてはいけませんよみたいなルールがありますよね。
ルールというか、どうやって火を起こすかとかね。そういうのはいろいろあると。
だから、プロセスもいろいろあるっていうことすら、義務教育の中ではなかったりしますからね。
それ大きいですよ。プロセスがいろいろある。
本来、先生が想定していないルートで答え出したときは、
丸を与えるか、すごい大きい丸を与えられてもいいくらいなんですけど、
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最悪三角とかになったりする可能性も先生によってはあり得ますからね。
あり得るんでしょうね、きっと。
おそらくはあり得ると思います。
でも、そこをプロセスを対応に認めれば認めるほど、先ほど言った教育の管理のコストっていうのは上がってしまうので、きっと。
きっとなんですけど。
子どもを教育する人が学校以外の場に積極的に触れて、そのときに学校の先生のような教え方をしないっていうことをすれば、比較的良いのではないかなと。
そんなところをちょっと考えた次第ですね。
今回のテーマなんですけど、前回はディープに重かったので、今回は軽めにいきたいと思うんですけど。
最近やってる執筆法がありまして、バザール執筆法って普段言わないんですぐ忘れるんですよ。
バザールって日常会話でもバザールって言わないじゃないですか。
言わないですね。
今はバザールないですからね。日本にバザールってないですからね。
ないです。
よく忘れるんですけど、バザール執筆法ってやってまして、その方法を改めて検討してみると、アジャイルライティングと呼べるのではないかっていう話を今週のベルマガニーに書いたんですよ。
はい。
アジャイルって何やねんっていうこともツッコミとしてあるんですけども、前から僕は一応プログラミングもやってたんで、アジャイルな開発方式っていうのに憧れは感じてたんですけど、
どう執筆に活かしたらいいのかっていうのはちょっと分かってなかったんですね。
アジャイルに憧れるっていうのは、逆説的にトップダウンというか、ウォーターフォールっていうのかな。
はい。
そういうのがいらんなと。
要所をきちっと決めて、それ通りにやっていくっていうことですね。
そういうのってちょっと、やりたくないし、うまくできないしっていう感覚があって、非トップダウンな書き方をずっと模索してて、
その中でプログラミング開発でいうと、非トップダウンってアジャイルだよねってよく言われてたんで、アジャイルもよく研究してたんですけど、
うまく執筆にはいかせないなとずっと思ってて、唐突に始めたこの新しい執筆法が結構アジャイル式やなと。
はい。
アジャイル式で進めると、とても楽なんですよ。楽って言うと、もしかしたらニュアンスが伝わりにくいかもしれませんけど、負荷がちっちゃい。
そうやって、いつもやっている負荷よりもだいぶ小さく進めていくことができるし、プロセスも止まらないし、しっかり進捗も生まれているしって、いいこと尽くしなんですよね。
09:07
はい。
これはもっと広まってくれたらいいなと思いつつも、難しいなという部分もあって、そういう話ができたらなと思うんですが、どうしましょうかね。
電子書籍を自分で進める、セルフパブリッシングする場合と、商業出版で本を書く場合って、一応二通り想定できるとして、ザクさんの場合って、それぞれに違いとかってありますか、進め方の。
僕は商業出版の経験が一回しかない上に、セルフパブリッシングした本をベースに。
ああ、そうかそうか。
そういう意味では、プロセスまで含めて全部、一からやる商業出版ってやったことがないんで、わからないんですけど、出版じゃないところで、例えば、ちょっと長い文章を書くみたいなことを、人に提出先があるというか、そういうことで考えると結構違いますよね。
やっぱり、話がややこしいんで、商業出版っていう言葉を使いますけど、例えば、商業出版だと、例えば、編集者さんに途中で確認をするっていうのもあるし、当然、締め切りもあるし。
そうですね。
なので、要所要所でそれを見せていくことが必要だと思うんですけど、セルフパブリッシングの場合は、見せる相手が基本的にいないので、最初から始まって最後まで自分の中でやるっていう違いがありますよね。
商業出版の場合、人に見せなきゃいけない場合っていうのが、僕、途中で見せるっていうのがすごく苦手で、結構それに苦しんできたというところがあるんですね。
なので、セルフパブリッシングができるというのが非常に喜びだと。
他人に途中の成果物を確認取らなくていいっていう自由さというか楽さがあるってことですね。
そうですね。
で、その人に提出するときに、途中、確認があっても全然いいんですけど、ほとんどの場合、期待されるのが、例えば1章から5章まであるとしたときに、
じゃあ、できたところから見せてくださいって、1章できました、2章できました、3章できましたっていう風に見せることが期待されることが多くて、
はい、思います。
それができない。
はい。
全体のぐちゃぐちゃのものができて、全体がだんだん精度を高めていくっていうキャバになっちゃうので、
12:01
はい、そうですよね。きっとわかります。
で、それを共有されていない人に途中段階のものを見せると、ものすごく相手を不安にさせてしまうっていうところが。
はいはいはいはいはいはい。
そうですね。それがさっき言った僕が、アジャイルは難しいんじゃないかと思ったことなんですけど、すみません。
あ、いや、大丈夫です。
なので、それに長いこと苦労してきたんですけど、不思議なことにアウトライナーで文章を書くみたいなことを発信するようになると、
はいはいはい。
プログラマーさんから、開発者の人から、これって文章版のアジャイル開発みたいだよねって言われることが結構あって、
はい。
で、一応僕は開発の経験とかスキルはないんですけど、ものすごい昔にこぼるプログラマーみたいな話はありますけど、
はい。
基本的にそういうスキルないんですけど、一応アジャイル開発って言われてるものがどんなものかは知識としては知ってると思うんですけど、
はいはいはい。
どの辺が似てるのかなっていうのが、なんというか、完全にはしっくりきてなくて、
アジャイル開発って割にパーツパーツを完成形に近い形にして、次に進むっていうイメージを持ってるんですよね。
僕はアウトライナーでやってるのっていうのは結構それと違うので、
うんうん、わかりました。
なんでそれがアジャイル開発と似てるって言われるのかが本当には自分でよくわかってないんですよ。
はい。
で、そしたら、昨日のメルマガで倉下さんがちょうどバザールシップ法とそのアジャイル開発を絡めて書いてたんで、
ちょっと興味深く思ったんですけど。
僕もだからね、いつやろうな、それをつぶやいたツイートをする直前までは一緒だと思ってなかったんですよね、シェイク的なものと。
なぜ結びついてなかったのか今はわからないんですけど、感覚が違ったんだろうなと思うんですけど。
アジャイルの場合は工程表を先に切らないんですよね、ウォーターフォール型みたいに。
チームAでこの機能をここからここで開発して、チームBはそれと並行してこうこうこうで、段階的にこうしたら完成ですみたいな、
綺麗な整った工程図、ガントチャートを書くんですけど、大体その通りには行かないんですが、行かないことは別にいいんですよ。
いや、よくはないんですけど、いいんですけど。
よくあるのが、完成したプロダクトが思ってたのと違うっていうやつなんですよね。
15:01
これが一番ありがちな話で。
大体開発ってのは受注開発で、どこか大手企業がシステム開発してほしいって言われて、下請けがそれを開発して納品するみたいなやり取りなんですよね。
事前にこんな機能が欲しいって要望が上がってくるんですよ。
それによって、向こうとすり合わせた上でこういうソフトウェアを作りますって契約が当然結ばれるんですよね。
その通りに作るんだけど、思ってたのと違うって言われるんですよね。
これはプログラミングだけじゃなくて、僕は軽いウェブデザインと仕事を昔やってたんですけど、全く同じことが起こるんですよ。
それは知らなかった。
企業のいわゆるホームページ時代ですよね。
小さい企業でもホームページを持ちましょう、そうすれば宣伝できますよっていう時代だったんで、口コミで仕事が回ってくるような時代だったんですよね。
あいつウェブできるからみたいな。
もちろん3桁前の仕事とかじゃなくて、5万とか10万ぐらいの発注規模ですけど、それでやってたんですけど、
事前に打ち合わせて確認してもらって、最終的に出したものが違うなって言われるんですよね。
挙句の果てに、これHTMLを配置したページじゃなくて、これ全部画像にしてくれとか言われたことあるんですけど。
時代背景もあるんですけどね。
結局、そういう頑張って作ったプロダクトが、しかも計画通りに作ったプロダクトが満足いくものではないっていうことが非常に多くあるんですよね。
これは大企業の開発であればあるほどあると思うんですよ。
関連付けると、Twitterで上澄純さんという方が、原稿の構成ってどうして最初に考えたとおり絶対に並んだらいいだろう不思議っていうことをつぶやいておられたんですけど、
これ多分構造的に同じ話だと思うんですよね。
事前にこういう原稿がいいと思って、自分自身と契約書を結んでその通り進めていくんだけど、
出来上がったものが何か違うと、もっといい原稿がそこに別にあるんだろうと思ってしまうことが起こるっていうのは、
さっきの開発事実と多分同じ構造だと思うんですよね。
これを解決するのが、Agileの方式なんですけど、
Agileは部品ごとを作っていくんですけど、部品ごとを完成させた上に使ってもらうんですよね。
例えば、ログインの画面作りましたから使ってみてくださいとか、
顧客リストの画面を作って、今データサンプルしか入ってますけどちょっと使ってみてくださいっていう風に、
個々の部品ごとに独立して作ってテストしてもらうと。
その後、この段階でこれは違うねって言うこと、ここの方がいいねって言われて、
18:01
それをフィードバックもらって、もう一回作り直すっていうことをして、
その部品を一旦完成させて次に進むという風に、
ミニプロダクトを短い期間でリリースしていく。
リリースが含まれるんですよね。テストリリース。
そこが大きな違いなんですよね。
だから、このリリースの概念、一旦プロダクトとして部分的に完成させるっていう感覚かな。
部分プロダクトみたいな。
の感覚と、SEIKUの一旦ボトムを描いてしまうっていう感覚が多分近いんですよ。
なるほどね。
だから、SEIKUでは部品ごとに作らないですけど、
完成後に至る何個か前のものをまず描き下ろしてしまうわけじゃないですか。
それがボトムになるんで。
トップを詰める前に、まずボトムがある程度バーッと描いてしまって上がる。
それの繰り返しで成果物に近づけていく。
その段階的なミニアウトプットというか、
なんていうのかな。これミニじゃないな。
段階的なアウトプットと部品的なアウトプットという、
その出来方は違いますけど、ミニ完成品を複数修正して作り上げていくっていうところが似てるんでしょうね。きっと。
でも今のリリースするっていうことで言うと、たぶんあれですよね。
例えば、シェイクのボトム側で勢いに任せて描いた本を見て、
これをここで描くんだったら、この前の前の見出しはこうだなみたいな感じで。
だから上にフィードバックされる。
で、上でを変えるとまたそれが下にフィードバックされるっていう。
それがミニプロダクトをリリースして、フィードバックを受けて、
その後の開発に影響を与えるっていう、その流れが似てるんですよね。
そうと思います。だから一般的にイメージされる執筆って、
1文がほぼ完成に近い状態で書いていて、1章の最後までたどり着きました。
はい、1章完成ですっていうことを仮にトップダウン型として捉えたら、
シェイクの一旦書いてしまってから考えるっていうのは、
一旦書くっていうこと、つまり読める文章を書くっていうことですから、
それはリリースしてるわけですね、要するに。
自分に対して。
そう、自分に対して。で、そのリリースを得て、いやこれは重要なっていう部分を、
その段階で全部完成させた後ではなくて、
そのリリースする段階的なリリースの後で修正するっていうのことを積み重ねるっていうのが似てるんでしょうね。
だからでも、もっとアジャイル的にやらないといけないなら、もっと短いタームでやらないとダメなんで。
ああ、そうでしょうね。
1週間か2週間のタームでリリース、一旦読んで回収するっていうことを回していけば、
21:06
よりアジャイル的になる感じでしょうね、きっと。
うん。
そうですね、フィードバックがすごい勢いで回ってるっていうのもありますよね。
で、そのシェイクがうまく回っているときは、
ここを変えていて、もう次の瞬間に別の場所の見出しを変えて、
別の見出しを変えたことで、その周りの見出しの順調が変わって、
順調が変わったんだら、このボタンで書いてあるここはこっち行かなきゃなみたいな、
常にどこかがどこかに影響を与え続ける感じになるので。
要するに短いサイクルでフィードバックが回るっていう部分なんでしょうね。
そうですね。だから、アウトライン、文章を書いて、
サイボトムで文章を書いた後に、見出しの変更が発生するということ自体が、
プロセスが進んでいるというか、考えているということですよね。
要するに。変えたいなと思う段階でも、それはすでにユーザーに使ってもらっているのと
ほぼ同じことが発生しているわけですよね。
普通、頭の中で文章を考えている間って、
どこを変えていいのかまだわからない状況というか、
勢いのままずっと書いていくと。
10万字全部書き上げた段階で、これ違うなって言われても困るということなんですよね。
僕もこれまで別に章ごとに送っていたんですよ。
僕は一応苦しいなりにはできたんですけど、
1章書いて2章書いてっていうのは。
やっぱりでもね、さっき言われたように、
原稿を編集者さんに送るときは、
ほぼプロダクトのものでなければならないという、
なんていうんだろうな、規範性というか。
別にそんなこと誰から言われたわけでもないんですけど、
そう思ってたんですよね。
思いますよね。
思いますけど、そこに持っていくためには、
相当の完成度を高める作業が必要で。
野口さんは8割減速ってよく言われるんですけど、
8割を10割にするほどではないですけど、
8じゃなかったものを限りなく8に近づけるのも相当しんどいもので、
そこで結構時間がかかってたんですよね。
それで呼んでもらってっていうことをしてたんですけど、
結局そうやって完全にできてから見せてるのとほとんど一緒で、
編集者さんってほとんどその段階で、
いいですねって言うぐらいしかないみたいな、
もうカチカチに出来上がっちゃってるんで。
だから言うべきことがあったとしても、
もう時間の関係もありますし、
本文の俺の固まり方もあるんで、
24:02
もういいですって言うしかない的に固めてからもって言ってたんで、
フィードバックが抑制されていた可能性もあるんですよね。
僕今はプロトタイプ校という名前として呼んでるんですけど、
日本語としては読めるけど、まだまだ全然突っ込みがいがある、
文章で言うとネジ全然締めてないような状況ですみませんけど、
良ければ一読してくださいって言って見せてるんですよね。
自分がこの章で一番書きたいこととか、
一番カッチョイいところはできてるっていう状況。
ぐらいで呼んでもらってるんですよ。
だから僕の中ではまだ未完成校なんですよね。
今まで原稿を送ってたのが8割としたら、
6割ぐらいの状況で呼んでもらってるんですよ。
これがすごい良いんです。
結局6から8に上げるっていう苦労がなくなってますし、
6の段階でフィードバックをもらえるんで、
直すにしても直しやすいですし、
多分編集者さんも言いやすいと思うんですよ。
言いやすいってのあるでしょうね。
そこが結構、できました呼んでくださいっていう感じだと、
やっぱり言いにくいところは普通にあると思うんですよね。
まあね、その、編集者さんが優しい人で、
言いにくいって優しい。
優しいっていうか、それじゃいけないだろう。
僕自身の意識としても、
まだ完成には向かってるけど段階の途中ですと、
プロセスの間ですっていう意気込みで書いて、
それを読んでもらう。
で、向こうもそれでフィードバックが返ってくる。
このフィードバックがきちんと返ってくる状況が、
やっぱりね、人間が大きなプロダクトを進めていく上で、
非常に重要な要素だと思うんですよ。
で、セルフポブリッシングをしてると、そこが割に薄れるというか、
フィードバックを送る人は自分しかいないんで。
そうなんですね。孤独なんでしょ、そこが。
孤独であるっていうことと連続的なんで、
切り目がないんですよね。
はいはいはい。
そこも結構、たくさんは多分アウトラインをコピーして、
某期バージョン変更の時っていうのは別のものにされてると思うんですけど、
僕今まではずっと一つのファイルをいじってたんで、
だから変化がないんですよね。
これもね、ちょっとしんどいんですよ。
進んでるかどうかがわからないというような感覚。
ですよね。
で、人間では切れ目があると、そこに向けて進もうとしますし、
そこで気持ちも変わるんですよね、やっぱり。
うん。
なんか、一旦これでいいかって思って、
その2章のプロトタイプ講を書き上げて読んでもらうと、
同じ心の重荷でもだいぶ減るんですよね。
これここまではもういいと言えるっていうか、
あとはプラスアルファしたらいいって感じだけど、
その1人でやってると、
その6割の安心感、6割の出来もまだ確定しないというか、
いやいやまだまだかもっていうところが未知なので、
だからやっぱり1回、1回どっかで区切って、
27:03
もちろん未完成であることを承知した上で、
誰かに読んでもらうっていう工程は、
もちろん向こうに負荷を増やしますけども、
相対的に自分の負荷はだいぶ減ると思いますね。
うん。
今回こういうやり方をしたいんですけど、
っていう話を事前に編集者としたんですか?
プロトタイプを送りますからお願いしますねとは言いませんでしたけど、
この最初の第1章、第1個送るときに、
これまだ全然詰めてないんですけど、
というような断り書きは送りましたね。
で、向こうもそれを承知で読んでくださって、
特に文句も言われなかったんで、
同じ状況をずっと繰り返してるという感じですね。
うん。
1個聞きたかったのは、
6割くらいの、
6割とか、要するに普通だったら人に見せないぐらいの段階の原稿に対して
なされるフィードバックって、
うまく反映できますか?
普通だったら人に見せられない原稿っていうのの、
個人的な感覚の差が多分あると思うんですよ。
どのレベルだったらそういうのって言うのかっていうことが違ってたから、
僕、ファーストドラフトって言葉に引っかかってたんですけど、
だから、普通だったら人には見せないですけども、
日本語としては読める文章にはなってるんで、
自分から見たら全然直すとこはあるけども、
言ってることはわかるよねっていうような感じなので、
流れもできてます。
ただその論理の詰め方が甘かったりとか、
実際例のサポートが弱かったりとか、
文献の名前がちゃんと調べられてないとか、
いろいろ不備はたくさんあるんですけど、
とりあえず頭から下までは読んでいけるし、
その文章の輪郭線、凹凸はわかるというか、
なんていうんやろな。
概ね何が言いたいのか、どういう論立てで言いたいのかはわかるっていう程度であって、
そこでフィードバックをもらえた方がいいですね、なんとなく。
そのフィードバックっていうのは、
当然その見せた原稿に対して返ってくるフィードバックだと思うんですけど、
その見せた原稿にそれを反映するとともに、
その見せてない部分にも影響を与えたり。
うわぁ確実にすると思いますよ。
意識はしてないですけど、
例えば今先週第5章の原稿を送ったんですけど、
5章で7章立てで5章だと半分を超えたあたりなんで、
30:03
ちょっとだれるじゃないですか。
だからちょっとそれまでの章とテンションを変えようかなと思って、
ちょっと文体を少し変えたんですけど、
ちょっと難しい言葉が急に出てきてすぎてますねっていうことを言われて、
やっぱりそうかって思ったんですよ。
これを例えばカチカチに原稿を固めた後だと、
その部分部分柔らくするって多分無理なんですよね。
そうですね。下手すると内容変わっちゃいますからね。
そうそう。だからこの段階で言ってもらえて、
やっぱりこれはそうだなと思って、
だから文章を固めきらないうちに言ってもらえた方がいいんですよね。
自分の意図することが反映されている原稿で、
その意図が自分のこれまでの書いた原稿とどう相互するのかっていうのを
他者に判断してもらえて、やっぱりそうかと思えること。
だから僕も自身もどっちか心の中で、
これいきたいけどこれでいいんだろうかみたいなのが多分あったと思うんですよ。
で、やっぱりって思ったのは、やっぱりそっちかって思ったんで。
だから何を言っているのかと思わなかったんですよね。
この良さが分からんのかと思わなかったんで。
自分でもちょっと懸念していたってことを言われたっていう。
そう、そう。そう。そう。そう。
っていうことで、だから舵が取れたっていうか初めて。
ある段階までは悩んでたわけですよね。どっちか。
A方向に進むかB方向に進むか。
でもとりあえず原稿を進めるためにはどっちか決めないと進まないと。
で、Aに進めてきたけど、Aじゃない方がいいんじゃないかって言われたときに
ちゃんと戻ってBに進められると。
で、AとBが揺れている間は原稿ってなかなか終わらないんで。
はい。
だから一回決めてしまうって、信用をしている読み手に言葉をかけてもらうと。
で、その判断が、向こうから返ってきたフィードバックが
いやそれは違うと思ったら逆にAにしたらいいわけで、さっきの話で言うと。
なるほどね。
だからそこを自分の中ではっきり決めるっていうことの役にも立つと思いますね。
いずれにしても役に立つ。
そう、どっちのフィードバックが反映するにしろしないにしろ
自分の中で迷っていた部分がやっぱりそうかって思えるっていうところが
切断線になるというか、一個そこは固定されるという効果があるかなと。
そっか。
だから書くまでは、例えば一章書くまでよく言うんですけど
可能性、組み合わせ数の爆発みたいなことが起こるんですよね。
Aの先にB、C、D、Eがあいて、その先にまたD、C、D、Eがあって
最初の頃であればあるほど無限に膨らむ。
後輩になるとそれが少なくなるのが書きやすいんですけど。
出版社と仕事しているときは一章をとりあえず無限の爆発と付き合って何とか書くと。
書いたら送信するんで一章が固まると。
ここが固まるからようやく次に進めるわけですよね。
セルフパブリッシングのヤバいところって位置が固まらないんですよね。
33:00
自分が固めるしかないですよね。
自分が固めるのはかなり難しいんですよね。
だっていつでも買い売るものなので。
一回誰かに見せると観測者効果みたいになって固まってしまうんですけど
セルフパブリッシングやってて永遠に全部直せるんで
これがNOMOの負荷が減らないんですよね。
どっかを固めていかないと。
だから不完全かもしれないけど固めていくっていうことをしないと
執筆のしんどさって時間の経過とともに減っていかないばかりか
むしろ増えていくかもしれないという恐れがあって
そこをいかに避けるかが執筆のクオリティと
自分の負荷のトレードオフの取り方だと思うんですよ。
はいはい。
今のお話を聞きながら思ったのは
自分がプリントアウトするのっていうのはその切断のためだと。
確かにそうかもしれません。
確かにフィードバックしてるのも自分なんだけれども
紙を読んでそれに対していろいろ思って書いたり書き込んだりするので
それが他者のフィードバックの代わりになってるんですね。
確かに。
それでエコ的にどうなんだろうと思うわけですよ。
この時代に大量に紙出してね。
なるべく減らす努力はしてるけれども完全にやめられないのは何でだろうなと思ったんですけど
そういう意味があるなと今ちょっと思いましたね。
あとは自分でフィードバックが起こる場合って褒めないというか
褒める人もいるかもしれませんけど
ここいいですねっていうフィードバックが薄くて
どっちかっていうと直したいフィードバックの方が多くなってしまうので
若干フィードバックに偏りがあるなと思いますね。一人でやってしまうと。
それはありますね。
編集者さんはやっぱり褒めるのが上手いんですよ。
僕の経験上。
これはいいですねとか原稿もらって読んだらすぐ読んでしまいましたとか言われると
テンション上がるじゃないですか。
上がりますね。
そういうので直しい癖の部分もある程度抑制してもらってるなという感覚もありますね。
なるほどね。
だからフィードバックを早期に発生させる。
なるべく原稿を書くっていう大きなプロセスの早いうちにフィードバックを発生させるっていうところが
アジャイルライティングのベースというか基本となる考え方で
大体大きなプロダクトについては基本的に同じことが言えるんじゃないですかね。
ただしフィードバックを与える存在に同意をもらうことが必要ですけど
それができるのであれば極めて作り手と受けて
36:04
プロダクトのもらい手、引き受け手にとって良い結果になると思いますね。
だって検討違いのものが出てきても困るわけで。
頭に思い描いていることとその人が理想としているイメージ度と現実のプロダクトには差があるんで
その人の想像力が劣っているとかではなくてそれは必然なんですよ。そのズレっていうのは。
だから見せて使ってもらうっていう方法とあとは実際に書いて読んでもらう。
っていうことが僕が今まで思っていた以上に重要ですね。これは。
僕はそういう書き方が全然できなくてできなかった。やろうと思えばできるんですけど非常に苦手だったんですけど
それじゃいかんなと思ったんです。そういうことをできるようにならないといけないなと思って
それでそれを練習しようと思って去年のリビジョンの記事をノートに書いていく時にそういうやり方をしたんですね。
で、あれ、倉下さんが後から編集するということが決まってたんで
逆にもう倉下さんを編集者に見立てて書いてたんですよ。実はあれは。
そういうことか。
やっぱりできないと思っていたよりもできたけれども
一回一回はかなりガチガチに書かれてるんですよ。
で、これ逆に後から手を入れるのがすごい難しいかもしれないと書きながら思ったんですよ。
逆に言うとこのやり方は書き手も緩めて書かなきゃダメなんですよね。逆にそっちが難しいのかな。
だから6割どころか多分8割よりもっと重ねてるんですよ。
そうですよね。わかります。
リビジョンって僕の構成で言うと僕の章とたくさんの章がそれぞれ交互に来る形で今配置してるんですよね。
僕のが3つぐらい、たくさんのが3つぐらい、僕のが3つぐらいの文章が。数は違いますけど。
たくさんとか直すようがないというか、もうこのままでいいんじゃみたいな感じがすっげーして、
僕のは全然まだこれから直すとこあるぞっていう感じがするんですよね。
その分の苦労を逆にたくさん書くときに背負ってしまってるんだろうなとも今思いましたけど。
だから今のアジャイルライティングみたいなやり方をするなら、あれは元々連載形式で交代していくってものだったんで性質はちょっと違いますけど、
あそこまで奇跡的に締めない状態で多分フィードバックをもらわないといけない。
39:03
そうですね。おそらくそうした方が両方にとっていいというか感じがしますね。
たぶんあれ、逆に言えばあれって一回一回、
普段だったら、あれはたぶん3万5千字くらいあったと思うんですけど、
全部通した状態でやるプロセスを1個ごとにやってた感じがしますね。
だから、連載ができるようになろうという目的はたぶん達成できたんですけど、
それでもたぶんあれ1個1個の記事の締め切りがなかったから、またそういうやり方ができたんで。
例えば毎週1個とかだとまたちょっと違うかというのがあるかも。
やっぱりね、本当に変な話ですけど、
もの書きというかライターとしての基本スキルがないなと思っているので。
そうか。逆にそうですね。だから締め切りがあった方がいいんですね。
そのやり方に沿う場合は締め切りがあった方がいいんですよね。
結局、出さざるを得ないという状況の方がいいんですよね。
締めさせるまで時間があったらいけないのか。
そうですね。僕たちは締まっていないネジを見ると、締めざるを得ないというか、
気持ち悪いんですよね。締まっていない文章を見ると。
この話題のもう1個のポイントが、僕が2週間に1回定期連絡をしているということなんですよね。
これもだからアジャイルに乗っ取って、別にアジャイルに乗っ取ってやったわけじゃないですけど、
アジャイルっぽい感じになっていて。
編集者さんに2週間に1回連絡してると。
一応2週間に1回原稿を送るけど、送れなかった時も連絡するという逃げ道を用意しているんですけど、
やっぱり送りたい気持ちがあるんで。僕の中では仮提出日になっているんで、
やっぱりそこで一旦終わろうと。全然できてないけど、一旦終わろうという気持ちになれるというところがだいぶデカいですね。
これだから同じ仕組みでも2週間の報告がなかったら、同じことをしてたと思いますね。もっと。
ちゃんと自分で納得のいくところまで書いてから出すということを多分してたんじゃないかなと思いますね。
それをもししていたら、もうちょっと違う形になってた。
前と同じ形になってたと思いますね。
結局、1章から8章までを、1章書いてる段階で、1章から7章までに1本数字を通そうとしてたと思いますね。
42:00
それはね、やっぱり無理だと思うんですよ。
あー、しますね、それ。
人間の能力で可能か不可能かは別して、知的負荷が多分大きすぎると思うんですよ、それは。
正直言って、1章とりあえず全体のことを考えず書くっていうことを5、6章までしてきたときに、
この中で何か繋がるとこあるなって、これに合わせてネジ締め直そうとした方が、僕は不可としては小さいと思うんですよ。
もちろんまだ書き上がってないから何も言えませんけど。
でもとりあえず、僕はこの5章までプロトタイプ講演で、この速度で進められたのが多分初めてですよ。
始めたのってどれくらいですか?
そうですね。僕もっとグダグダしてましたからね。
しかも僕は今、執筆の量をペースダウンしてるんで、これまでだったら1日4時間くらいかな、原稿に書いてたのが、
今は1時間か2時間くらいしか真剣に集中して文章を書いてないんですけど、
むしろペース普通に下がってはいないし、同じくらいかちょっと早いくらいなんで。
だから、止まってた時って、時間かかってた時って悩んでるんですよね、大抵。
ここどうしようかなってことを永遠と考えてるんですけど、それは結局決定できない問題なんですよね、その時点では。
書いてみなきゃわからないんですよね。
そう、そう、そう。結局そういうことが書いてみなきゃわからないってことが多いのに、ずっと悩んでたんですよね。
それがなくなった。今はもうとりあえず何か作業するときは書いてるか、アウトラインを再構成してるかどっちかなんで。
そうすると、今5章まで来てて、それは60点の状態でフィードバックをもらって、
そうすると、1章から4章までの文はすでに直された状態。
ノットノットノット。プロトタイプ60点のまま来てます。
全部書き上げて、まとめて直す。
そうです。ずいぶん気持ち悪いと思うんですけど、おそらくは想像されるとそういう状況って。
でも、こうでないと多分無理ですね。
7章まで書き上げた時に多分タイトルが見つかると思うんですよ。
今タイトルも仮に。
僕は全体を通して言いたいことが初めてそこでわかると思うんで、それに合わせて全体の項目の順番がどこまでいいかわかりませんけど、
強弱というか部品の選択が初めて適切に行えるようになるなと。
いう感じですね。今は。
そうすると60点の7章までの全体がまず書いてきて、今度は最初から60点から80点とかに上げていく。
45:15
これは全体を通してやるわけですね。
そうですね。だから、切断していく作業、固めていく作業、変えない場所を決めていく作業になっていくんでしょうね。
だから完全に。
今まではそれを答えを得てからやろうとしてるんですけど、それをやめたってことですね。
とりあえず。本当にね不安なんですけど、これでいいのかって。
不安ってフワフワしてるっていうかな。
でも、こうすると進めやすいですし、手を止めずに進められますし、完璧を求めるあまりに迷っていたっていう状況があったんですけど、それは幻想に縋ってたような気もするんですよね。
それはよくわかる。
このやり方だともしかしたら100点の本にはならないかもしれないけどもというある種の諦めとともに進めてます。
昔は100点の確信をもっと求めてたと思うんですけど、もっとちゃんとやらなきゃっていう、ちゃんとっていうのもどういうのかわからないけど思ってます。
今はもっとゆるいですね。でもゆるいながら、より全体を考えられてるし、細かいつまずきが少ないっていうのも。
さっき言ったように、ここが硬すぎます。単語の使い方が硬すぎますねっていうのが早い段階に言われるってことは、多分全体のプロダクトにとってもいいことだと思うんですよね。
だからまあ、総合的に楽で良い本ができる、楽っておかしいですけど、低負荷で良い本ができる予感がありますね、今のところ。
ちなみにそれ60点、60点満から80点満に上げていく作業っていうのは、原稿を修正することでやる?
わからんけど、わからんけど、書き直すかなどうやるなー。今までのやり方をなぞらえるのなら書き直す。
違うな、そうじゃないな。何章まで書き上げて、コンセプト的なものが見つかったとして、この本のタイトルになる本が見つかったとして、それにどれだけ合うかで決めますね。
だから、もうまあまあいけそうやったら直すだけやけど、これはコンセプトにちょっと大きくずれるなっていうものは書き直すって感じでしょうね、きっと。
まだわかってない?
まだわかってない?言い過ぎやけど、まだ確定はしてないんで。
だからそうですね、大きく変化が必要なのかそうじゃないのかはわかりませんけど、ある種のメッセージに合わせて、最終的に出てきたメッセージに合わせて、原稿の強弱は調整するでしょうね。
48:03
だから、このメッセージにおいてこの説明は不要やからちょっと消そうとか、もっと別の説明を追加しようみたいな入れ替えによって、どんどん原稿が整っていくという予定です。
それは最終的にはどうなるかは誰にもわからないですけど。
まあでも感覚として思ってたより混乱は少ないですね。こんな進め方で大丈夫かと思ってましたけど、むしろ発見が多いというか、書きながら。
いやーでも人のこういう話を聞くのっていうのはやっぱりいいですね。いいですねっていうか、あんまり聞けないです。
なかなか言わないですね、確かに。
こういう話をすることがあまり良しとしない人も特にプロの方には多かったりするようなので。
はい、そうですね。
まあ、あとね、そんなことを考えるまでもなく淡々と書けちゃう人もいるでしょうね。
まあ、いるでしょうね。
僕には面白いですね、こういう話。
結局だから常に今このやり方を始めた根源的な動機っていうのが、自分の知的な負荷を上げすぎないように書くにはどうしたらいいのかっていう切実な命題と付き合ってたんですよね。
正直今までは悩めば悩むほどいいみたいな、謝った幻想があったんですよね。
もちろん全く手抜きで、はい、ドンってやるよりはちゃんと考えてやった方がいいっていうのは間違いないんですけど、
それは先継に拡大していくことじゃなくて、考えたら考えたら考えたらどんどんどんどん良くなるかっていうグラフにはならないんですよね、これは。
どっかで人間がその人の持つ限界性と付き合っていかなければならないんで。
でも以前の僕はそういうのは逃げというか弱さというかに感じてたんですけど、そうじゃないなというのが今この40歳の悟りですね。
安田さん意外にスパルタだから。
僕結構スパルタですよ。特に自分には。
僕は結構自分にはスパルタですよ。
その傾向を自覚したからこそ、さっき言った緩めることを許容するというか。
しかも緩めた方が良い文章になりそうな気が。
僕もたくさんの文章も多分締めすぎてると思うんですよね。
それは思いましたよ。
51:04
締めすぎた文章は美しいんですけど疲れるんですよね。
滑らかすぎた印象が。
そうそうそう。そういうことです。
意図はしてないんですけど、そういうふうに手がそっちに向いちゃってるというか、クセのようにそうしてるけど、
文章の選択の幅が小さいっていうことでもあるんで。
緩められるとこはやっぱり緩めた方がいいんですよね。
だから緩いところがある方がいい文章なんですよ。
そういうふうに最近思考を変えたんですけど。
僕はあれですね。近年その傾向が強まってると。
そうですか。
でもそれを緩めるのが難しいんです。
難しいです、これは。
僕も締め切りがなかったらこうにはなってないと思います。
締めること自体は多分いいんでしょうけど、締める作業を行うときに、何て言うのかな、否定の気持ちがずっとあるんですよね。
自分の文章に対して直しを入れるっていうのは否定をぶつけることなんで、
これでいいっていう感じがだいぶ得られない、得にくいというか、
プラスのフィードバックが返ってこないっていう言い方がいいんですけど、
それがやっぱりしんどいんでしょうね。
応えるというか、心に。
砂漠を水なしで歩き回ってるようなしんどさというか。
そこまではではないけれども、やっぱり、
すごくシンプルな言葉で言うと完璧主義に陥るというのが正しい、正確な言い方なんでしょうけど。
完璧主義っていうのは基本的に良い言葉として使われないですからね。
完璧主義っていうのは。
ネガティブなニュアンスが強いんですけど、
だから完璧主義になってしまうっていうこと自体が自分の評価軸に閉じてしまっているということなんで、
フィードバックが遮断されているということですね。
そこの居心地の良さがあるんですけど。
ここが難しいんです。
僕はずっとセルフパブリシックを一人でやる方がいいと思ってたんですけど、
そうでもないんじゃないかなと。
もちろん工程は一人でやったらいいんですけど、
合間のフィードバックをある段階で、
僕が本をやったら一章とかの段階で一回回する。
あるいはもうラフでいいから全体を仕上げて読んでもらうっていうやつ。
村上さんもだいたいラフ講は奥さんに読んでもらっているって言ってましたけど、
54:00
それですごい直されて、切れそうになるみたいな話がありましたけど。
ああいうのがやっぱりいるんじゃないですかね。一回。
一回それって読んでもらった後に直すのと、
自分で延々と直し続けるので、多分同じじゃないと思うんですよ。
そういう試行錯誤が果てしなく続くわけですね。
そうですね。ここは。
でも一つ方向は見えてきたなとは思いますね。
今までのやり方に戻ることは多分ないでしょうね。
じゃあ今そのやり方を商業出版でやってるじゃないですか。
はい。
次にセルフタブレッシングでまた何か作るときに、
それに近いやり方をすると思います。
すると思います。
その時に編集者役の人、誰か儲けるって。
レビュアーさんでしょうね。
結局僕らの生存戦略でも同じやり方を模倣しようとしたんですけど、
というか、そこで挫折したからかな。
結局僕もその段階で、僕らの生存戦略の第1項を奥って読んでもらったんですけど、
その第1項も僕の中で8.5割くらいの原稿に仕上げてから送ったんですよ。
結局めちゃくちゃ時間かかったんですよ。
だからそうじゃないんだなと。
今今回改めてわかった感じですね。
もちろん読んでもらうからにはちゃんとした文章であるべきなんですけど、
ほとんど完成した文章に対して良かったか良くなかったか言ってもらうっていうのは、
テストじゃないんですよね。
もっと早い段階で出して、この方向ってどうですかっていうことを
ちゃんと素直に言ってもらえるのが、多分レビューしてもらう価値であって。
だから後半になればなるほど、誤字、脱字の確認とかだけになっちゃうじゃないですか。
でもそれは別に人間に頼んでやることではないですよね。
ないですね。
読み手っていう人間に対してその文章を読んだ人がどう感じるかを知るべきなので、
だからそこを僕は初回の設計から間違ってたなと。
なるほど。
そうですね。
ちょっと先入観的に、
自分の力ではこれ以上良くなりようがないと思ってからもらうコメントじゃないと意味がないっていう感覚がどうしてもあるんですね。
はいはい、わかります。それはわかります。
でも多分違うんでしょうね。
違うと思います。僕は違うと思います。
例えば、ある程度慣れてることで小規模のタスクであればそれでいいと思うんですよ。
でもそうじゃない、その条件を満たさない、慣れてない大規模なことは早めのフィードバックがいいんですよね。
考えてみると、例えば会社に新人が入ってくるとするじゃないですか。
企画書を書けって言うとするじゃないですか。
57:00
完全に締め切り1週間前に全然できてない企画書を持ってこられても困るわけですよね。
よくありますけどね。
わからないのだったらとりあえず1回出してフィードバックをもらえよと思うわけです。
なんでもっと早く見せないと。
そうそう。だから己の限界がある以上、やっぱり早いフィードバックの方がいいんですよね。
本なんて書くというプロセスも構成も違うじゃないですか。
毎回一冊の本が不慣れなわけですよね。
そういうものは。
だからブログの位置基地までにいちいち細かいフィードバックはいりませんけど、
数万字単位のプロダクトであればやっぱりある程度早めのフィードバックを。
だからこのフィードバックというのはイメージとして、誰かが論文を書いた時に論文紙に投稿してレビューしてもらうレビューじゃなくて、
投稿する前に教授とかに見てもらってツッコミ入れてもらうやつぐらいなんですね。
もしくはピアレビューみたいな。
そういう心構えの緩さで、緩くてもいいやってぐらいで出すことの方が多分いいんですね。
だから一人でやってしまうというのは逆に一人でもできるだろうという傲慢の裏返しでもあるんで。
だからここはある程度人を頼って、自分と違った視点で何か言ってもらえる。
それは悪いことにはならないんですよね。
その本質が混じる間があるとかいうことはないと思いますね。
やってみないとわからないですけど。
でも多分そうでしょうね。
自分一人の作業ってフィードバックがほぼ発生しないっていうのが、結局あらゆることの問題だと思うんですね。
問題というか課題というか失敗の原因になるというか。
前回かコンマリーさんとかGTTってコンサルタントですよねって話をしたんですけど、
あれって要するに随時フィードバックが入るってことなんで、横に人がいるってことは。
靴下ここに置いてたらダメですよっていうことをフィードバックによって知るわけですよね。
そのフィードバックの積み重ねによってその人が片付けるというのはこういうことだという相対を理解するわけですよ。
例えばそれはサッカーでルールブック読むじゃないですか。
それがその人がサッカーを理解したかというとそれは結構怪しくて。
怪しいことだね。
サッカーをプレイしてる人は全員サッカーっぽい概念が頭の中にあるじゃないですか。
ここは細部が違ってサッカーってこういうもんだよねっていうのがあって、
1:00:03
例えばそれはディフィンダーが邪魔やからって殴ってはいけないっていうのはあるわけじゃないですか。
ルールブックには書いてないんですけど。
それは結局誰かを殴ったら審判がフィードバックするからですよね。
いや、殴るのは極端な理ですけど。
要するに逸脱があった時にフィードバックが入るからこの行為がこの境界線を超えてますよって言ってもらえるから、
逆にその境界線の中が何であるかがわかるってことなんですよね。
本を読むだけだとフィードバックが発生しないで、だからGTDって何かって本を読んだ人の中では全く共通の感覚がないんですよ。
違うことをした時に、いやそれってGTDじゃないですよって言ってもらえないから。
いくらでも逸脱できるんですよね。
逸脱できることは良いことなんですけども、GTDを習得するということから見た場合にはフィードバックの無さっていうのが、
その習得の邪魔というか助けにならないんですよね。
だからやっぱりフィードバックをいかに設計するのかっていうところが多数管理でも執筆でも非常に重要で、
自分だけで判断できるんであれば別にいいんですけど、判断できないからそれを学ぼうとしてるわけであって、
だからやっぱり他者性がいるんですよね、何にしても。
まさに今の先週の話、こんまりさんやデビッド・アレンは、
コンサルタントとかコーチとして、本来だったら横につきっきりで1週間とか2週間教えてやっと身につけられるものを本として書いたわけなので、
その本を読むだけで身につくんだったら苦労はしないわけです。
いやそれね、そうだよな。本当にそれ先週終わった後ですごい、そうなんだなと思って。
でもね、それ忘れるんですよね、本を読むと。
ああまあそうですね、不思議なことにサッカーの教科書を読んだだけでサッカーできると思わないのに、
GDDの本を読むとGDDできるようになる気がしますよね。
あれはやっぱり相当大掛かりなものの考え方の転換をしなきゃいけないですね。
すごいですね、それを間違いなく。
従来のタスク管理とかスケジューリングの頭に染まった人が、
はいはい、そうですね。
相当大きな転換なんで、本を一冊読んですぐできるようになるようなことじゃないんですよね。
もちろん、だからその通り実践したら、まず絶対に脱節というのはもう宿命というか。
だから、それがやるわという本では、
あなたはタスク管理失敗しますよということをわざわざ章を一つかけたら書いてるんですけど、
1:03:02
それは必然な人間ってそういうもんなので、だから本来はステップを示すべきなんですよね。
失敗しにくいレベル1から徐々に応用範囲を増やすレベル8までみたいな感じで。
あれは全体像しか示さないじゃないですか、特にGDDは。
それは無理でしょうと思うんですけど。
本来は勉強会みたいなところで一人志向押しがついて、
1週間に1回集まってどうでしたかって言って、こういうとこで困りましたって言ったら、
そりゃあこうしましょうみたいなやり取りを経て初めて、
その人の中にGDDという感覚が立ち上がると思うんですよ。
知識としてワークフロー暗記してるとかでは結局意味がないよね。
そういう方法処理に生きてこないから。
そうなんですよね。
あれね、結構長い時間やり続けてないと感覚的に身につかないというか、
すぐ戻っちゃうんですよね。
それが人間の常ですからね。
そこでも最初に強制性を持たせるというか、横に人がいるっていう激しい強制性ですからね。
それ以上激しいのはないでしょうね。
一番最初に言った教習所に行って固定された道を進むとかも強制性ですけど、
ああいうので最初導入して定期的に通うっていう。
だからフィードバックサイクルが短い間隔で発生するっていうのは、
どこの場面でも一緒なんですね。
教習所でも横に先生いてますし、マリー流とかコンサートでも横にいて、
自分の行動に対するフィードバックがすぐ返ってくるっていう状況をある程度期間過ごさないと、
人の身体感覚は変わっていかないですね。
知識の習得ができても体の動きとして出てこないというか。
だからその辺なんでしょうね、きっと。
でもいかにもGDDは知識を得たらできるような気をさせる、
アレンの分体の力が多分あるんですよ。
ああ、まさにコンサルタント長というか。
そうですね。
できる気にさせるのが仕事です。
そうですね。だからヒットしたのも極当然で、
そのヒットした本で挫折するのも当然と。
うん。
これは宿命みたいなもので、別の方式、講師タイプで何か物事を教えない限りは、
本を読んでっていうのでは発生するでしょうね、これは。
あと人を当人が教えないと、最新情報にアップデートされてない可能性があるっていうのもあって。
1:06:00
それは多いですね。
多分アレンも今本の通りには教えてないと思うんですよ、きっと。
個室は変わってなくても。
結構変わってますよ、動画とか見てると。
そうなんや。
だから本という固定のメディアやったらそういう問題もありますよね。
ノウハウって絶対、
例えば、万有引力の法則と違ってノウハウって常にアップデートしていくもんですから。
だから本だけでっていうのはやっぱりちょっと無理なんですね、きっと。
そうですね。変わってるというか、根本的な方法は変わってないけれども、
特にコンテクストの考え方はものすごい変わってます。
そうなんや。
要するに、今は例えば電話っていうコンテクストを考えてるんじゃないよね。
そりゃそうだよなって。
そりゃそうですね。
その類のこと。
なるほど。でもそういうのは必要ですよね、どう考えたって。
そう。
ずいぶん前に、ノウハウ本はなぜ役に立たないのか的な本を読んでたの。
例えばタイトルが結構雑ですけど、
ノウハウ本が役に立たない理由っていう、実践できない理由っていうのを考察して、
その中の一つにフィードバック不足っていうのがあって、
まさにそれやなと、結局のとこ。
実践はいくらでもできますけど、実践に対して良いか悪いかが判断されないと、
良いか悪いか分からないんで。
これは単一の誰かが、師匠が授けるノウハウの話だけじゃなくて、
実は自分で何か新しい方法を作るときでも、フィードバックがないとダメなんですよね。
これは結構重要な話で。
このやり方で、うまくいってるかどうかを判断するための判断軸がないと、
その方法を評価できず、評価できないということは身につかないってことなんですよね。
例えば、よく使ってて、仕事がうまく進むとかでもいいし、
気持ちがいいとか、快適だとかでもいいんですけど、
その人なりの評価するものがないと、
このノウハウがあれば、全てうまくいく的な幻想というか、
何て言うのかなあれは。
だから、師匠を持ってない場合があるんですよ。
とにかくうまくいくと。
そうそう、そういう感じ。
それはダメというか、うまくいったかどうかはどう判断するんですかって聞きたいんですけど。
だから、フィードバックを仮に自身に対して持つとしても、
良し悪しを決める何かを持っておくことっていうのは、
多分必要なんですね。そうじゃフィードバックにならないというか。
そうですね。
それが感覚的なものでいい場面もあるし、
1:09:01
もうちょっと客観的なものでないといけない場面もあるんでしょうけどね。
感覚的なものであっても、とりあえず自覚しておくことは非常に重要で、
さくさんがライフアウトライン的なものに自らのモットーというか、
自信をかかれているのも、それの自覚につながると思うんですよね。
ある方法が自分にとって、合っているか合ってないかっていう言い方でもいいですけど、
フィットするかうまく活かせられるかどうかっていうのを考えるというか、
考えるっていう。考えないですね普通。そういうのって。
考えないから判断できないんで迷うことが増えるんですけど、
だからフィードバックの軸を持つっていうことが、
ここまでの話であらゆる面で必要で大切で重要なことだなと。
という感じです。
それだとフィードバックの軸をどうやって作るかっていうところも。
これはまた別の問題になります。
まるまる1回ついやすくなっていくときの問題はできるわけですね。
でもこれはついになっているんですよね。
だから片方だけではダメで、両方があって初めて機能するっていうところはありますね。
でも何かしのプロセスとかノウハウを考えるときに、
フィードバック性の有無っていうのは重要な注目点になると思いますね。
それが欠如していると、継続しないか、継続できても自分の肌に合わないものにどんどんなっていくというか、
という可能性があるんで。
とりあえず今のところのアジャイルライティングとしての今の執筆法は、
わりかし僕の中では良いフィードバックが生まれている。
相手からもらうのもそうですし、自分で発見するのはやっぱり大きいですね。
前も言いましたけど、第3項目で抜ける項目がめっちゃ出てくるんですけど、
これめっちゃデカいフィードバックなんですよね。
抜ける項目が出てくるっていうのはその…
最初に考えたときにこれとこれは欠かせないだろうって思ってたものが、
第3項で書き下ろしたときにすっかり抜けてるんですよね。
毎回書き下ろしてるからなんですけど、
だから自分の最初の判断軸そのものが間違っていることがあるってわかるっていうのは、
かなり大きな発見で、結局それを敷衍すると、
執筆の最初で全部固めて完成に持っていくっていうのが、
そもそも無理筋っていうのがわかるじゃないですか。
だって一生のレベルですら自分の考えてた重要軸が変わってしまうわけで、
だから諦めやすくなった感じがありますね、それがわかったことで。
1:12:06
あとやっぱり開講を重ねるうちにその軸がより見えてくるってことですよね。
結局毎回書き下ろすと変わらない部分が出てくるんですよね、3回くらいやっても。
結局そこは自分の中で譲れないところですが、
その章で伝えたいことなのかっていうこともはっきりしますね、これは。
それは見極め方としてすごくいいと思うんですよね、変わらない部分。
何度やっても変わらない部分。
これは大橋裕人さんがライブハックスだったかなっていう本に書かれたんですけど、
毎日自分の目標とかを書いていくと、何も見ずに。
毎回出てくるものと自然に出てこなくなるものがあると。
それがあなたにとって重要なものを分ける、フィルタリングになるって言われてて、
それは確かにそうやなって感じてますね。
それはね、全くぼって正しいと思うんですよね。
そうそう、フリーライティングでもよく、同じこと何回も書いちゃうことあるんですよね。
はいはいはい。
何回も同じことが出てきて、それがまた先週の正解信仰の話じゃないですけど、
これ同じで、BCじゃないからいらないなとか思っちゃう人がいるんですけど、
何回も出てくるっていうのは大事だってこと。
そうですね。
何度も思いついたり、同じことを何回も思い、いいことを思いついたと思ったのに前も書いてたみたいなことをよく言う人いるんですけど、
それだけその思いつきが自分にとって大事だっていうことか。
そうですね、確かに。
それはすごい基準になりますよね。繰り返し出てくるとか。
あとはその、うん、そうですね。
だから時間を置いて同じものに取り組むときに必ず出てきてしまうものっていう、
だから二人の人間、自分が同じアプローチをしているんですよね。
だから、2回目の自分でも出てくるっていうその連続性は、よく本当の自分なんてないって話がありますけど、
その本当の自分がないしてもある種の傾向っていうのがあって、それは変わらないわけで、
本質じゃないしても変わらない性っていうのがそこであるんですよね。
これは結局、さっきの軸に近い話ですけど、
そこは残すべきものと判断できるっていうかな。
残すべきものだと確信できる感じがあるっていうかな。そういうのが出てきやすいですね、やっぱり。
本当にそうだと思います。
だから書き直すっていうのがね、本当にね、デジタル自体の何言ってるか分かんないけど、
書き直すってめちゃくちゃ重要だなっていうのを最近やってて思うんですよね。
そうなんですよ。だからそのアジャイルライティングのフィードバックももちろん重要だと思うんですけど、
1:15:00
そのたんびに書き直すことの重要性ってもっと強調されてもいいというか。
そう、だから原稿がバージョンアップしてる感じがすごくするんですよ。
例えば昔のやり方でいくと、昔のやり方っていうのは単一のファイル方式でいくと、
例えば同じように、たくさんと同じようにコピー、複製して変えていくとするじゃないですか、仮に。
そうするとファイルが3つできますけど、そのAファイルとAファイルコピーとAファイルコピーとコピーは僕の中では等価なんですよね。
でも今の方式だと1と2やったら2の方が絶対いいですし、2と3やったら3の方が絶対いいんですよ。
この絶対にいいと言える感覚があるんですよ。
直してるわけじゃないんで、修正してるわけじゃなくて、新たな自分で語り直せるんで。
だからこれ難しいな。1章に書いた後で分かったことが2回目の1章で反映されてるしってことが繰り返されてるんで、
常に最新考が自分の中で最新理解なんですよね。
っていうふうに確信できる感じがあるというかな。
それが大事ですよね。確信できる感じ。
Aをコピーしたものはどれも可能性として存在して、どれも良さそうなんですけど、逆に確信がないんですよね。どれも。
どれも良さそうに思えてしまうというか。
だからその辺が既存の修正と書き下ろすことの一番大きな差で、
前のように前の原稿を振り返ることがほぼないですから、
参照でコピペして引っ張ってくることはしろ、それは過去の原稿なので、僕の中では。
だからそれが前に進んでる感じにもつながるんですね。作業が前に進んでる。
前に進んでる感じって大事ですよね。
それが本当に大事だと思います。
あとあれですよね、書いたものを削るのは難しい。
難しい、そうそう。これも前回。
削れてしまうんですよね、勝手に。
書き直すと勝手に置いていかれるものがあって、その方が削るよりもずっと楽というか簡単にできるということなんですよね。
しかも感覚説でいうと、削るべきものを残しているときに発生する無駄な作業っていうのもあって、
既存の流れに合わせようと文章を整えるんですけど、
うまくいかないどころか文章のクオリティが下がるんですよね。
でも、捨てるっていう判断が第一には出てこないっていう、あれだいぶ悩んだ後に出てきますからね、ここを消そうかって。
どうしてもこの箇所がうまくいかないと思って、散々悩んだ後にそこを消すっていう。
1:18:01
そうそう。それもずっとやってましたけど。
でも、やっぱり書き直した方が、それはもうほんとスッと出てくるんで。だから僕がしんどくないっていうのはそういうところなんですよね。
そういう悩みが常に減っているというか。
今の自分にとって一番適切に感じる流れの原稿がそこにあるという感じなんで。
昔は長尻を合わせることに本当に時間を使っていたし、あれはあんまり背負わなくていい苦労だったなと思ってますね。
なるほど。
大富豪プログラミングっていう考え方があって、昔はメモリが少なかったからメモリの節約に苦労してたけど、今はメモリがたっぷりあるんで、
メモリの管理とかよりもユーザーがいかに使いやすいかを考えた方がいいっていう話なんですけど、
僕は文章を書くのが早いんですよね。
はい、知ってます。
考えてみると、そういうごちゃごちゃした直しをやるよりも、2回書き下ろした方が多分早いんですよ。
だから大富豪ライティングなんですよ。今まで気づかなかったんですけど、書き下ろした方が早いなんてちょっと矛盾に思いますけど、書き下ろした方が早いんですよね、僕の場合は。
いやーでもね、修正する量によってはね、そうですよ。
修正か悩みを発生して、しかも現行のクオリティを下げているような場合って、本当に時間の無駄ですから、最終的に切るわけですからね。
それだと始めから出さない方がいいっていう。
しかも大体その方が気持ちよく書けているんで、だから書き直すっていうことを、これはコピペじゃない価値っていうのはね、でかいですね。
なかなかデジタル時代には言われない。
言われないことですけどね。
無意識でやってる人いると思いますよ。
そうですよね、きっと。
苦し紛れに。
だからもうそれを積極的に無駄なことをしていこうっていうような、そういう無駄ではないんですけど、無駄と思うようなことの方が、もちろんキータイプがすごい遅い人の話は別だと思うんですけども。
だから書き直しても早いっていうのは、ある種デジタルの良さを発揮してますよね。
そうなんですよ。
手書きでそれやるのはやっぱりちょっとね、不可適にちょっと厳しい。
そうですね、これ別の形のデジタルライティングの特徴とも言えそうですね、これは。
時間を置いて書き直すっていう。
メディアとかもやっぱり時間を置いて見直すっていうことが結構重要で、時間を置いても光るものっていうのが絶対あるんですよね。
それがやっぱりいいアイディア、自分にとってのいいアイディアなんで。
だからそのためにやっぱり一回プロダクトを確定させる必要があるっていうので、アジャイル的になるんですよね。
なんかいい感じにまとまった気がするけども。
いい感じにまとまった。でも面白かったですね。
この話はだから、いつかは本に、これも本にしたいネタがどんどん溜まってるんですけど、これは結構誰も言ってこなかったことなんで。
1:21:10
特にデジタルベースの話で論じられたことは多分ないと思うんで。
ないでしょうね、これ。
デジタルは書き直せるのがメリットと言われることはいっぱいあっても、
書き直しもないし、そのフィードバックの話とかも含めて、新しいんじゃないですかね。
何より、やっぱりね、その執筆がスムーズになってるっていう、
各国でいうとテイコチっていうオウムっていうのがありますけど、あれがめっちゃ低い感じで進められてるんですよ。
これが本当に素晴らしいなと思ってて。
執筆に苦労してる人に、全国民に伝えたいという勇気があるんですけど。
考えなきゃならないところはもちろん考えるべき頭を使わせる必要があるんですけど、
そうじゃないとこまでこだわるのは多分行き過ぎなんですよね。
フィードバックを得てからじゃないとわからない答えっていうのがあるので、きっと。
だから、書くとしたら悩みすぎて書けない人のための執筆法みたいな感じのタイトルになると思います。
いいタイトル。
まあ、そういうとこかな。これはだから直近の自分の課題ですね。
僕にしか書けないこと課題ですね。
そんなとこかな。
はい。
たくさんないかお知らせとか報告とかございますか?
先週から何も変わってません。
確定申告はどうでしょう?
確定申告。昨日申告用紙もらってきましたけど。
今年は確か4月まで伸びてたはずなんで締め切りが。
そうですね。
ゆるゆるとやる。
今年も紙でやるということになります。
僕も封筒買ってきたんですよ。
封筒話もまたしたいんですけど。
僕も特に告知はないんで。
今回の感想等あれば、#打ち合わせキャストひらがなで打ち合わせアルファエットキャストまでお送りください。
僕がこんな新しい執筆法をしているんだぜみたいな情報があればぜひ聞きたいんで。
#答題。
これめっちゃ聞きたいですよ。
今回はこれまでにしたいと思います。お疲れ様でした。
お疲れ様でした。
01:23:54

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