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2021-10-26 25:28

#52 のらじおのお二人と私(後編:参与観察と自分の立ち位置)|Radio Memorandum|ラジメモ

とあるパパの日常を切り取る "Radio Memorandum" 。第52回は引き続きのらじおのお二人(ムロさん・かえさん)から、参与観察について教えていただきました。後編は参与観察って自分をどういうスタンスに置いているかという話、参与観察に向く人と向かない人という話をしてもらっています。

のらじおの該当エピソード

恐るべき子供たち

のらじおTwitter

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00:07
たぶんね、今、はやぶささんがお持ちの演出って、参与観察モードの自分と、親モードの自分みたいな捉え方をするのかなと思ってて、
けど、たぶんそういう感じではないんですよね。
調査機にいても、かえちゃんが子供と接するときも、別に一つの自分がいるわけじゃなくて、常に一つの自分としてそこにいるんですよ。
その一つの自分として、思わず何かをやってしまったりとか、何か状況に巻き込まれたりとかするわけですよね。
つまり、自分はここに観察してるから、自分は子供を観察してるから、これはやらないぞ、みたいなことを決めててもあんまり意味がない。
だから、僕はこの人たちと友達になりに来たのだから、この人たちにお金は貸さないとか決めててもしょうがないやつ。
こいつらに絶対おごらないぞとか決めててもしょうがなくて、決めてても別にいいんだけど、どうせねだられるわけなんですよ。
おごってくれとか、金貸してくれとか言われるわけですよね。
で、自分がおごったりとか金を貸したりとか、したりしなかったりするわけじゃないですか。
したりしなかったりするときに、それを一つの社会関係として捉えて、それを見続けるっていうことですかね。
自分がこうアクションしたら子供がこう答えた、自分がこうアクションしなかったら子供がこういうふうに動いたみたいなことって、一つの原因と結果じゃないですか。
そうやって観察モードだからこれはしないぞっていうふうな態度で望むと、結局観察結果が汚染されてるんですよ。混沌されてる。
自分も人類学でこれが、あのなんか透明人間として現地にいられないっていう方はするんだけれども。
この話あった、確かに。
初期の人類学者っていうのは、自分を透明人間な存在のように捉えて、性的な?
性的な関係の社会性を捉えようとしたんだけれども、どうもそれ無理そうだぞってなるわけですよね。
森の中、村の中に一人でテントを建てて、そのテントの内側は村人には見えない。
テントの中村は村を見れるっていうことにはならない。どう頑張っても。
どう頑張っても人類学者は村にいる限り、村にいる存在として村人の中に立ち現れだろう。
03:01
そうなってくると子供も一緒だと思うんです。
もう親と子供っていう関係性がある以上、そこからは逃れられない。
けど、それをちょっとメタ的に見ることができるじゃないですか。
怒ったら泣いたとか、逆大をしろと言ったらするとか、しろと言ってもしないとかっていろいろあるわけじゃないですか。
じゃあ、今自分が怒ったらしろと言ったということを、子供はどう捉えたんだろうって考えることはその後できますよ。
そういう視点を持つみたいなことだと。
めちゃくちゃイメージ湧きます。
モードを変えるわけじゃないっていうことと、
その事象に遭遇したときに、主観だけじゃなくてそれを客観で見られることによって面白がるみたいな。
そういうイメージなんですけど、面白がるはモードじゃないんだけど、面白がるトリガーみたいなのはある方がみんな教えてしやすくなるだろうなっていう、なんとなくのイメージはあって。
けどそれは確かに人間の個人個人の特性があるかもしれないと思います。
面白がれない人がいるっていうのはもしかしたらあるかもしれない。
自立を重んじる人とか、何か正しいことがあって、正しくないことがあると考えている人とかって、おそらくその自分の視点から出てくるのはすごく難しいと思う。
そうすると自分の価値に基づいた観察の結果になっちゃう。
けど、つまり起きた現象に対する物の見方が結構普通的になっていくと思うんですよね。
自分はこう思ったけど、子供から見たらそうだったんじゃないかみたいな。
そういうことかなと思うんですよ。
06:02
ごめんなさい、ちょっとあんまり僕今わかってない。もう一回言ってください。
つまり、起きた現象を一つの物の見方で語らなければいけないわけじゃない。
宿題をやらない子供に注意をしたときに、自分は別に宿題やればいいのにと思ったっていいわけじゃない。
けど、子供は今宿題やれって言われたの嫌だっただろうなって思ってもいいわけじゃない。
そうすると、その二つが大きくなって思うことがおそらくできるはずだった。
それを、例えば客観的であることがいいことだとして、
親が宿題しろという子供は指摘されたみたいな物の見方をしなければいけないわけじゃない。
けど、今少なくとも三つの視点っていうのがここで出すことができました。
そのような複数視点を股門に持つことができるんじゃないかと。
その瞬間には難しくても、後から思い出すことをしたりとか、
いつもリアルタイムでそれをしなきゃいけないわけでもないわけじゃない。
人類学者ってフィールドに行って返ってきて、返ってきて論文を書くんで、
つまり、現地の感覚とフィールドの感覚とフォームの感覚を持ってるわけですね。
フィールドにいるときはフィールドに埋め込まれてるし、フィールドの感覚なんか分かんないわけです。
フォームに帰ってきて教科ノートを読むときに、フォームの感覚で見ると、これ面白いなと思ったら映るわけじゃない。
そうですね。
子ども保育園にまだ行き始めついてって、うわーって泣かれて、
うわーもう先生もうめっちゃ困ってるのに、もう泣くやんねーと思って、ママがいいって言われて、
あーもうちょっと、ちょっとダメだって、後ろ髪引かねながら帰って、1日くらい経って、
あーあれって、みたいな。
私は黙って保育園に行ってほしかったし、
でも子どもめっちゃかわいそうだったなーと思って、子どもは必死で、ママがいいって泣き叫んだことがそれぞれあって、
で、なんでママがいいって言うんだろう、みたいな後から考えて、
なんで家に帰りたいって言わないかったんだろう、みたいな、
09:02
あー、みたいな、後からですね、確かに。
で、うわー面白いなーって思って、で、もう一回ついて行った時に、もう一回見て、
あ、やっぱり泣くわ、みたいな。
なんかその方がちょっと楽なんですよね、こっちも親として。
あーでもそれはそうですよね、自分がある種ちょっと当事者でありながら、監督としていられるというか。
たぶんその時に難しいのは、常に、なんていうかな、自分に一人一般性を求める人とか、
あの、社会に対して一人一般性を求める人って、たぶんそういう視点を持つのがすごく難しくなってくるのかな、
保育園に行けばいいのに、中島保育園に行けばいいのにっていうのを、
自分の感情とか自分の物の見方ではなくて、
あの、一つの社会的真理だと思っていると、
子供側から見たらどうなんだろうという発想になかなか至らない。
うーん。
まあ子供だろうが大人だろうが、社会の規定に寄せるべきだになっちゃう。
そうそうそうそう。
そこを外すのは確かにちょっと難しいかも。
なるほどなー。
やろうと思ってもできることができない人がもしかしたらいるのかもしれないし、
みんなができるようになろうが、
今、ちゃんと策定されているかどうかって難しいかも。
だって、自分が何を正しいと考えているかって、自分はあんまり考えなくていいわけだよ。
本当だったら。
うん。
なので、それを目線を外すっていうのはすごい難しいかなって。
だからその意味でもしかしたらフィールドの経験がいるのかもしれない。
株式会社コッテンのトラックでヤンヤン、ヨウくんが言ってたのは、
やっぱり弱者になる経験がないといけないんじゃないかみたいなことを言ってて、
あー。
深い蜘蛛ツイッターでそれを言ってたと思うんですけど、
つまり、自分が集団の中で弱者になると、
自分がいくら正しいと思っていても、それって意味がない。
うんうんうん。
そうですね。
なので、自分のものの見方を変えるしかない。
うんうん。
社会の中で弱者になる経験がないといけない。
うんうん。
社会の中で自分だけ精霊が見えない。
うんうん。
他の人は全員精霊が見えるみたいな状況になったときに、
本当は精霊なんかいないんだっていくら言ってもしょうがないわ。
うんうん。
だってその社会ではいるんだから。
12:01
うん。
だからその社会では精霊が見えない可哀そうな人なんですよね。
うんうんうん。
うんうんうん。
そういう、なんて言うのかな。
僕の経験だと、キューバとか行ったときに、
キューバの論理っていうのがわからない。
どうすればビザがもらえるかわかんない。
どうすれば入学許可がもらえるかわかんない。
どうすれば調査できるかわかんない。
そういうときに、本当はこんなこと、システムちゃんとやって、
誰にでも検証できるようにすればいいのに、
いくら思ってたらしょうがない。
うんうんうん。
じゃあどうしたらそれができるんだろうっていうのを、
現地の人との関わりの中で自分で探していただく必要がある。
うん。
そうすると、僕の考えとか僕の視点っていうのは、
相対化されてきますよね。
うんうんうん。
みたいな経験を持つことがもしかしたら必要なのかもしれない。
なるほどなぁ。
うん。
いや、なんか、その話聞いて、
やっぱり僕、僕ワーキングホリデーでオーストラリア、
1年弱くらい行ってたんですけど、
あれもある種の、何だろうね、
参与観察っていうほど高尚なものではないと思うんですけど、
やっぱりその、自分がある種ゼロから、
その文化って言うんですかね、
その、こっちとかその言語とかに、
新規で参入しないといけない。
だから、ある種の弱者である状況にいたことは、
もしかしたら、そういうこう、何て言うんですかね、
場所が変わると、そのアプローチが変わるみたいなことを
体感できていたのかもなぁ、みたいなことを今すごい、
なんか思いましたね。
フィールドワークってほどのことじゃないけど、
現地のプロトコロにのっとって、
ことを進めていかないとうまくいかないという意味で言えば、
まあそれでもなんか相当プライドを捨てて何かするみたいなのは、
今振り返っても全然できてなかったなと思って、
すごい恥ずかしい部分はありますけど、
なんか、とはいえやっぱここで生きていくための、
子供と子供混ざると言語が通じないとそもそも開門できないとか、
多分そういう部分も含めて、
ある種そういう経験を積んだのかなぁ、みたいなことを
なんとなく今思い出しました。
15:02
あとは子供に対してだったら、無意識にっていうか、
基本的に何か導かないといけない、
とか、教えないといけないみたいなのがあると、
ちょっとバイアスがかかってしまうと思うので、
私と違うやり方を持っているだけで、
この人たちはこの人たちなりに何か考えているぞ、みたいな、
そういう状況があって、
そういう状況があって、
この人たちなりに何か考えているぞ、みたいな感じが、
で、ちょっと一回立ち止まってみると、見やすいかもしれない。
やっぱりなんかちゃんと育てないととか、
ちゃんとこれはダメだって教えないとっていうのは、
自分が信じていることが正しいっていう前提があるじゃないですか。
このようになっていけばこうなるっていう概念とかが、
でもそれがあると、
作用観察的な見方はちょっと難しくなるかなと思うので、
今私にはバイアスがかかっているぞっていうのをちょっと意識するみたいな、
全部取り外すことは無理なんですけど、
無になってしまうんで、私は。
価値観を持って生きているので、
それなりに外す意識っていうか、
この人は私たちとは違うっていう意識を持ったらやりやすいかもしれないですね。
私の子供だとか、私の意思を継ぐじゃないけど、
私の血が入ったみたいなのじゃなくて、
ポンと現れた他人みたいな感じですると、
やりやすいかもとは思いますし、
その方が私は面白いなって思います。
あと一個だけお伺いしたいなと思ったのは、
かねさんがそういうスタンスで、
お子さんと接しているというのは分かったので、
そういう接し方について、
パートナーの旦那さんとどういうコミュニケーションを取っているのかなっていうのが。
違う人が同じ事象を見ると、
違うようには見えると思うんですよね。
それを面白がって見られる人とそうでない人がいるだろうっていう
村越さんの話もあった上で、
18:00
こう会ってほしいみたいな話も含めて、
家族として、
同コンセンサスを取るじゃないですけど、
コミュニケーションしている中で、
捉え方が違うことに対して、
どうされているのかなっていうのをお伺いします。
多分、
絶対いい例じゃないと思うんですけど、
何にも共有してないです。
勝手に私が一人やってることなので、
本当は良くないのかもしれないですけど、
夫も子供の一つの環境として観察してるみたいな感じなんで、
絶対良くないと思うんです。
だから一緒に何かを、
こうしていこうねみたいなのを絶対した方がいいと思うんですけど、
できてないっていうのが正しいと思うんですけど、
してないです。
私の思う行動と違う行動を取ることももちろん多々あるんですけど、
絶対に悪いようなことはしないですよ。
もちろん。
いろんな教育方針、ご家庭とか個人でいろいろあると思うけど、
絶対それはダメだって思うときは、
それは良くないと思うよっていうのは子供の前で言ったりするけど、
そういうのもあるっていうことに関しては、
そのような環境として一つの子供を取り巻く、
取り巻くそのような環境、
これやめた方がいいと思います。
それに反応する子供も見る。
良くないと思ったら後でフォローするみたいなぐらいのことで、
一緒に教育、一緒に子供を何か方針を持って、
みたいなすり合わせとかほぼなしです。
良くないと思いますけど。
そうか。
そこまでメタなんだなっていうか。
言い訳かも。
言い訳にしてるかもしれないけど、
全然いい話じゃないと思いますけど。
いやいや、そうきたかっていう感じだったので、
確かにそういうふうに受け取れるなっていうのはすごい斬新でした。
よく話した方がいいと思います。
はい、ありがとうございます。
じゃあもうちょっと時間ですけど、
21:02
最後むろこしさん何かありますか?
すみません。
なんか私ばっかりしゃべってすみません。
いやいやいや、僕子供を子供にしてるから。
いやいやいや、僕子供を子供にしてるから。
なんかね、すごい大変だろうなと思うんですけど、
僕こないだ友達に行ったら、
友達に行ってはね、6歳と5歳の年号の人がいる。
本当ね、両方いっぺんに別々のことを話しかけてくる。
そうそう。
両方いっぺん別々のことを話しかけられた時に、
自分がそうしたいこと?
つまり、本当は両方の話を聞いてあげたいわけじゃないですか。
両方とちゃんとコミュニケーション取りたいけど、
必ず時間的にラグが出る。
どっちかに先に答えざるを得ない。
両方に同時に答えることができないから、
どっちかに答えてる間にどっちか詰めたりする。
するする。
するする。
365日はきついね、と思いましたね。
ね。
ゲームとかをやったりとかするときに、
常に変化してきますね、子供ってなんか。
興味の対象もそうですし、話したいこともそうですし、
やりたいこととかも常に変化していく中で、
この2人の子供を見つつ、それを観察しつつ、
ゲームの相手をしつつ、みたいなのがやっぱり
すげえ大変だろうなって思いました。
だから、あの。
だから最終的に、もう勝手にしてくれっていう風になるんですよ。
私は見とくので、勝手にしてくださいみたいな感じで。
ありがとうございます。
いや、なんか。
こういった形で。
そうですね。
メーターに見るっていう風に意識しすぎてたので。
あー。
そうそうそう。
うん。
まあ、そういう、あるじゃないですか。
なんかあの。
別に意識してようが意識してまいが、子供を見てて、
なんか本当にあれ好きだよねみたいな話とかはこうするじゃないですか。
うんうんうんうん。
多分その延長線上なんだろうなと思って。
その観察の解像度が、
うんうんうんうん。
まあ、もう一段階高いとかなのかなみたいなイメージで、
なんとなく腹打ちをしたので。
まあ、なんかそういうところを意識しながら、
それが楽しめるっていうか、
なんかそういうところを意識しながら、
それが楽しそうにしてるんだったら、
もっとじゃあやればっていう、
なんか環境を用意してあげた方がいいかなみたいな話ができたりとか、
24:03
まあなんか、逆のことがあればね。
それが直接問題なければ放っておいてもいいし、
うんうんうん。
なんか解決した方がいいなっていうことがあれば、
そこは適宜、必要に応じて介入をするみたいな感じで、
いいのかなというふうに思いました。
なるほど。
はい。
まあこれ答えない、答えないので答えないよねっていう振り合わせもね。
答えないですね。
やっぱりあの、その夫婦でも振り合わせをしながら、
まあした方がいいよねみたいな部分には思っていて、
なので答えがないよねってことを僕も、
パートナーに改めて伝えようかなというふうに思いました。
はい。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
はい。
じゃあ今回のゲストはあのラジオの室尾さんと茅屋さんに来ていただきました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
それでは今回のラジオメモランダムはこの辺で。
See you again.
25:28

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