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2021-10-18 28:48

#51 のらじおのお二人と私(前編:子どもの参与観察について)|Radio Memorandum|ラジメモ

とあるパパの日常を切り取る "Radio Memorandum" 。第51回は子どもの参与観察について、のらじおのお二人(ムロさん・かえさん)をお迎えして根ほり葉ほり聞かせていただきました。前編は参与観察とは何なのか?という話から、かえさんが実際に行っている参与観察について説明していただきました。

のらじおの該当エピソード

恐るべき子供たち

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はやぶさのラジオメモランダム、この番組は私とはやぶさが毎回テーマに沿ったエピソードを話すことで、
パパかけるまるまるの授業や自分の考えをお伝えする番組です。
今回のテーマは、子どもの参与観察と私というテーマでお話をさせて、スペシャルゲストをお招きしました。
ノラジオのぐろさんとかえさんにお越しいただきました。
こんにちは。よろしくお願いします。
はい、ということで、僕もノラジオを聞かせていただいていて、
ありがとうございます。
非常に、子どもの参与観察ってめちゃくちゃ面白いなと思って。
ただなんか、自分はね、むろこしさんの全セミネール、有志の勉強会で文化人類学の勉強をしてもらっているぐらい、
触りの触りしか知らないので、せっかくならここら辺をちゃんと勉強した人たちに、
いろいろとお話ししたいなーみたいな感じで、今回はお会いをさせていただきました。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ということで、ちょっと急に番組っぽくしゃべると固くなるんで。
そうですね、まず早速、参与観察とはなんぞや、みたいなところからざっくりお伺いできればと思うんですけど、
僕は割とどちらかというとビジネスの文脈でなんとなく、参与観察というかユーザーインタビューみたいな感じで、
インプットすることはちょいちょいあって、
例えばウェブサイトのリニューアルをするときに、どういうユーザーがそのウェブサイトを使っている、
そのサービスを使っている、みたいなところを、自分たちで仮説を立てつつも、
実際に使っている人の話を聞いてすり合わせしていく、みたいな文脈でインタビューをするというのが、
割とやっていることではあるなぁとは思うけど、
なんて言うかね、それもなんだろうな、あくまでもどこに課題があるかみたいなことを前提として話を聞いたりするので、
なんかちょっと違うかな、みたいな感覚的にはあってですね、
もうちょっとフラットに見る感じなのかなっていうのが、
関与観察の話とかをインプットする限りはあるんですけども、
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その辺で実際どうなんですかね。
関与観察を、なんていうのかな、ちゃんと答えられるような立場にはないんですけど、
なんかすごい僭越ながら答えさせていただくと、
そこで飯島先生も話されていたと思うんですけど、
飯島先生って僕とかえちゃん先生なんですよね、
僕とかえちゃんとやんやんみんな先生で、
僕はフィールドワークを基本的には飯島先生から習っているんですよ。
飯島先生の初めの学生が僕たちだったんです。
僕が研究室に行き始めたときはまだ飯島先生が学生で、
僕が研究室に配属されたときに先生になってたんですよ。
それで先生の一番初めの学生として、
飯島先生からフィールドワークを習うっていう感じだったんですけど、
フィールドワークって現地に入り込んで、
現地の人たちと一緒に生活したり、一緒に何かをやることによって、
つまり参与することによって、
現地の人たちの物の見方っていうのを獲得していくっていうことなんですよね。
例えば言葉を理解するようになるとか、
その人たちが何をやっているかっていうのを一緒にやることによって、
それがどういうことかっていうのを一緒に理解するみたいな。
それを自分の研究室に持って帰ってきたときに、
自分のそれまで持っていた物の見方や考え方っていうのと、
比較して新しい物の見方っていうのを考えていくっていう、
そういうようなことになるかなと思います。
だから、本当に参与して観察するっていうことだと思うんですけど、
普通、社会調査とか行っても、別に参与しないことが多いですよね。
そういうことか。
一緒に行って観てるみたいな。
だから、お祭りとか見に行っても、お祭りを一緒に行って観てる人すごい多いじゃないですか。
けど、僕たちって一緒にみこし担いだりとか、一緒にご飯食べたりとか、
そういうことを通して、その人たちの仲間として認めてもらうというか、
よそ者なんだけど、なんかいるやつみたいな感じのところまで持っていくっていう、
そういう感じです。
なるほど、なるほど。
そういうふうな話を聞くと、ある意味、
例えば、飯島先生の話もオーストラリアの話だったじゃないですか。
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オーストラリアの話もされてたんですけど、
ある人、全く違う文化圏にアクセスするみたいなイメージがすごい強いなという印象があって、
一方で、子供ってめちゃくちゃ、そういう意味で言うとね、
ほぼ自分の環境の延長線上にいる人間っていうんですかね。
文化としてめちゃくちゃ近いところにいるけど、
もしかしたら全く違う文化を持っているかもしれないみたいなところになるなっていうのが、
その一般的な産業観察っていう、
ワードで取り上げると違和感があるというか、
なんかちょっと違うかなって。
そこって例えばかやさんがどういう形で、
違う文化がある人としてコミュニケーションをとっているのかなとかは結構気になります。
私が子供を興味を持って観察している時っていうのは、
私のもちろん延長線上に、私の環境に現れているので、子供がポンと。
なので、私の世界の中、私の環境の中に入ってきたわけなんですけど、子供の方が。
そういう意味では、同じ文化を共有はしているけど、
でもゼロじゃないですか、最初。
子供。
そう、ゼロ。
最初ゼロじゃないですか。
だから、それをゼロから始まっていくのを見たいみたいな感じなんで。
だから本当に、これ何度も、野良ちゃんのほうでもいいんですけど、
こういうふうに育ってほしいのでやっているとかいうことでは全くなくて、
完全に私が面白がってるだけなので、
真似していいかどうかは、かなりご自身で判断されてくださいって感じですけど、
なんていうんですかね、なかなかそういうことってないじゃないですか。
私たちが産業観察の調査に行くときも、もうそこにあるものの中に入っていくんだけども、
ゼロから始まっていくものを観察できることってなかなかないことだと思うので、
でも私の環境の中に入ってきたわけだから、全く影響しないってことは不可能なんですけど、
何か、こちらが意図しなくても読み取っていくだろうし、染まっていくだろうことなので、
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私が全く影響を与えないってことは無理なんですけど、
でも最大限、何かそこから発生していくものを捉えたいみたいな興味を持ったときに、
産業観察の方法が有効。
というか、私はそれを学生のときに一応勉強して、
その観察の仕方で得られる面白さみたいなのを一回体験してるので、
それをまた繰り返し実践してるっていうか、楽しんでるっていう感じですかね。
なので、もうまず前提として、
この子は私と同じ文化を持ってるっていうことを一回捨てるっていうか、
なるほど。
そういう感じですかね。
じゃあなんだろう、ある意味ゼロだから、
見たてとしては全く知らない文化というよりかは、それともまた違うってことですかね。
そうですね。
でも私が子供のときにいた環境とは全く違うので、今、子供がいる環境は。
だから何かしら影響を与えたことがあって、それに子供が反応したことも、
あ、これにはこんなふうに反応するんだなみたいな感じで、
あんまり誘導、もちろん教育的に絶対教えないといけないこととか、危ないこととか、
社会のルールとか道徳とか、そういうのはある。
もちろん一応やってますけども、自分なりに。
それ以外の子供が人間界から獲得していく過程みたいなのを、
こちらも発見したいみたいな感じですかね。
なんだろうな、これって新規と既存で結構変わるのかなって思ったんですよね。
新規っていうのは、子供が新たにインプットをするってことだと、
インプットをしてもらえばよくて、既存っていうのは文化の中で生活をしているっていうイメージで、
僕今ちょっと分かったんですけど、そこの違いっていうのは、
あんまりその産業観察というアプローチにおいて、あんまり変わんないんですかね。
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発見という観点で言うと。
しかし、そういうふうなことをしないというか、
彼らが持っている文化とか、彼らが持っている物の見方みたいなのが、
新規であるか既存であるかということは、彼らにとっては関係ないわけじゃない。
それはこちら側が勝手に分けたってことですね。
だから、何て言うんですか。
例えば僕たちが日本語しか知らなかった時に、
英語を喋る人がやってきて、これはポークですかピックですかっていう聞き方をされたら、
多分僕たちにとってはそれメイクセンスしないと思うんですよ。
だから子供にとって、子供の文化っていうのが新規か既存かっていうことはあんまり関係ない。
関係なくて、彼らがどのように見てるかっていうことを見ようとするっていうことですよね。
その、なんていうか、行動がどうかというよりかは、
そのプロセスを見ることから何かが発見できるかみたいなところがポイントっていうイメージですかね。
子供の場合はそれは結構大きいですね。
一般的な産業観察になったらちょっと違うかもしれないですけど、
最初のうちはそうかな。
でもそのうちに保育園に行ったり学校に行ったりして、
こう、得てくるものっていうか、またそこの文化から得てきたりするものもあるので、
だんだん自分の中からだけ発生するものじゃなくて、
私の全然預かり知らぬところから、
得てくるものみたいなのが出てくるので、
だんだんそれだけじゃなくなってくると思うんですけど。
はいはいはい、そういうことか。
一番最初、ゼロ歳とかは、自分の環境の、なんていうかね、
園の中にほぼほぼいるけど、
保育園が始まり、小学校がとかってなっていくと、
どんどん重ならない部分が増えていくっていう。
そうですね。
多分、けど、新生児って、僕は子育てしたことがないから分かんないけど、
新生児って言語を持たなかったりとか、目が見えなかったりとか、
例えば、自分が手を持ってるということを知らなかったりとか。
それって、僕たちとは全く違う世界ですよね。
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そうですね。
それは、彼らが見てる世界って、僕たちが見てる世界と同じではないと思う。
そういう観点を踏まえるということなのかな。
そうですね。
同じか違うかっていうことがポイントなんじゃなくて、
彼らがどう見えているんだろうということを見る。
なるほどな。
そのフレーズだけ聞くと、むちゃむずいって思います。
だから、その都度その都度何かが発見されるわけじゃなくて、
1年観察し続けた結果、おそらくこうじゃないかみたいな。
それぐらいのスパンの話ですね。
一個一個には全然何かないんだけど、
ずっと見てたら、これ今、たぶん手を見つけたっぽいなみたいな。
この半年間の様子とその後の様子を見ると、
これどうも、あの瞬間にたぶん手を発見したなみたいな。
ということは、それまで手を知らなかったんだなみたいな感じかな。
そっかそっか。
こういうふうに考えると、なかなかそのアーシュの長いスパンで、
その変化をつぶさに観察し続けるって、
あんまりできてないかもなみたいな、急に内省が今始まっている。
それってやっぱめちゃめちゃ難しいと思って、
同じか違うかっていう話をすると、
僕もかえちゃんも実は学生の時同じフィールドで研究してたんですよね。
同じお祭りを対象として。
かえちゃんの方が2年ぐらい早くフィールドに入ってて、
僕の方が後からフィールドに入ってたんですけど、
僕がその研究結果を論文にしてまとめて発表したときに、
それを聞いてたよその大学の先生なんですけど、
それを聞いてた先生に言われたのは、
むろこし君、そこの方言喋れないでしょって言われたんですよ。
僕なんかね、喋れないんですよ。
少なくとも上手には喋れないんですよね、その場所の方言。
なんていうかな、論文を読むとそれがわかっているぐらいの深さでしか
僕は入れなかったんだなっていうことをその時に気がついた。
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だから、さっきの同じか違うかっていう話をすると、
同じ21世紀の日本にいるんだから、
大体同じだろうというようなことがあった。
多分僕の側にあったんだと思う。
けど本当はその人たちの方言を喋って、その人たちの言語世界に入っていかないと
見えないものがあるんじゃないのかっていうことを。
それが見えてないなっていうことを論文を読むとわかる。
結構有名な、人類学者じゃなくて社会学者になるのかな。
近い領域をやっている人の先生で、佐藤先生としているけど、
その人が暴走族のエプノグラフィーっていうのを書いてる。
で、暴走族の人たちの民族史を書いてるんですよね。
暴走族って当時は結構一般的な現象だったし、
同時代を生きている同じ日本人だけど、
けどやっぱ独特の言語体系を持っていて、
独特の象徴体系って言うんだけど、
シンボルの体系を持ってるわけですよね、彼ら。
とか僕たちから見ると、
一般社会から外れた日本人と思わせる。
その違いを見に行ってるのかなって思っちゃうと思うんですけど、
そうじゃなくて、彼らから世界がどうなってるのかって見ると、
彼らのシンボルがあって、彼らの言語があって、
彼らの論理があって、社会論理、社会規範。
それが、我々とただ違うだけだってことが分かるわけですよね。
僕たちの社会から外れてると見るのではなくて、
それ自体が一つの文化だと考える。
視点が持てるじゃないですか。
それってすごく大きい違いですね。
マジョリティーかマイノリティーかではなく、
フラットに並列する世界観の中で、
僕らと違う世界にいる人たちっていう捉え方をするみたいな感じですかね。
そうですね。正しいのがどちらかということを考えるんじゃなくて、
もしくは標準がどちらかということを考えるんじゃなくて、
それを見るということで。
そちら側の視点に近づく努力をする。
そうそう。
自分と子供だと、なかなかね、
全然、例えば暴走族とか、
お祭りとかって、
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そんなずっと一緒にいられないじゃないですか。
だけど、おそらく子供はこのままいけば、
誕生してから十数年はかなり近くで観察できるので、
こんなチャンスないみたいな感じ。
別に現地に赴く必要がないわけですよね。
家にいながらにして。
それでもやっぱり面白いですね。
言葉とかももちろん、確かに、
通頭、暴走族とかも方言とか、
彼らの言葉からを通して見るってことじゃないですか。
彼らの言葉視点から世界を見るみたいな。
子供も結構そういうのできるっていうか、
例えば、いろいろあるんですけど、
例えば、結構多くの、
保育園とかでよく見る光景が、
多分、はよよささん保育園行ってますか?
はい、行ってます。
最初行き始めとか、泣くじゃないですか。
嫌だって、行きたくないって。
みんな、ママがいいみたいな表現をするじゃないですか。
それ、めっちゃ面白いと思って。
家に帰りたいじゃないんだ、みたいな。
想像ですけど、そこから想像して、いろいろと。
この人たちもしかして、ママに所属してると思ってんのかな?みたいな。
自分という存在が、家族の一員とか、
家の中の子供ってよりは、
ママに所属しているっていう認識で、もしかして生きてるのかな?みたいな。
もう、ニコイチみたいな。
ニコイチみたいな。
だから、自分の延長線上がママだと思ってるのか、
ママの延長線上が自分だと思ってるか、
自分の延長線上がママだと思ってると思ってると思うんですけど、
手足みたいな。
あー、そういうことか。
そうなんじゃないかな?みたいな。
例えば、自分が脳みそだとしたら、ママはそれを考えてくれる。
そうそう、みたいな。
そうなのかな?っていう想像を巡らしたりするのが、楽しいみたいな。
それが本当かどうかは、
おそらくこうなのではないかってことこまでは近づけるけど、
私は子供に本当になれるわけではないので、
絶対にこうだとは言えないんだけども、
そうなんじゃないかな?
じゃあ、そうなった時にこれはどうかな?みたいな。
じゃあ、こういう時はどういう様子かな?みたいな感じで観察すると、
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面白いみたいな感じですね。
そうだな、いろいろ聞きたいことあるけど、
一つは、
そういうスタンスを保つために、
ある種の時間的な余裕が必要なんじゃないかな?っていう風に思ったりもして、
時間がないことによって、
自分が子供にどうにかしてほしい状況が生まれると、
もうその時点で半分積んでるから、みたいな。
ね、やっちゃった方が早いですもんね。
そうそうそう。
そういうのはあるし、
ある種、自分の都合の良いように誘導をかけないと、
生活が回らないみたいな状況にはなるかなと思う。
全部はだから無理ですね。
本当に全部自由にさせるのは無理なので、
余裕のある時とか、
これは絶対、どちらが誘導してでも無理やりでも力尽きでもやらせるけど、
これは時間をかけてもほったらかすみたいな、
ちょっと分けてはいましたね、小さい時は。
観察のタイミングっていうのは、
この辺みたいなのは、ある程度振り返ってみてあります。
一人遊びしてる時とか、
そういうのは、ひとしてこの辺かな、みたいなタイミングがあるとか、
あんまりそういう感じではない?
そうですね。
今からやるっていう感じではなく、
生活の中で、
揺らいぎながらっていうか、
今は観察しようとかいう感じじゃないですね。
気づいたらやってるみたいな感じ。
ある意味それってもう癖なんですね。
癖ですね。
癖だと思います。
例えばそういう風に、
やってやるぞと思ってやってないとはいえ、
急にある意味子供の側の視点に寄せようってなった時に、
なんかきっかけってあるんですか?
それとも、癖だから気づいたらやってるのか、
どういう観点でどっちの世界に行くのか。
癖だから気づいたらやってるって感じかな。
むずいな。
我慢する時もありますけど、
決める時もあるので、
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例えば、
宿題を、
宿題あるんですよね、小学生なので、
宿題やった?って聞いちゃうんですよね。
やってないの分かってんのね。
そういうことか。
だけど、これ聞き続けたら、
本人にもよくないっていうか、
ちゃんと自分で気づいてやってほしいし、
言われたからやるでは困るし、
っていうのと、
これ言わなかったらどうなるんだろうみたいなのがあって、
でも言っちゃいそうなんですよ、
イライラするから、
早くやればいいと思ってるから、
だけど、絶対言わないって決めたから絶対言わないぞみたいに、
我慢する時もありますね、そういう時もある。
けど、基本的には癖ですね。
これって勉強っていうか、
学問に触れたからその癖がついたっていう感じですか?
どうなんだろう?
うろこしさん普通に生活してて、
やっちゃいませんか?
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