おはようございます、Studio Kitschの三木裕蘭です。
ということで、【RADIO Kitsch ルネサンス女性美編】前回からの続きですね。
前回までで、まずヨーロッパ史の基本的な話と、あとはルネサンスについてのちょっとした簡単な概要までお話ししたかと思います。
今回やっていくのは、ルネサンスといえば、みたいなところに入ってくるかなと思います。
メディチケですね。メディチケはフィレンツェを牛耳ったブルジョアなんですけど、そのブルジョアたちの話をしつつ、そいつらがどんだけルネサンスに関わっているのかっていうところも見つつ、
そのメディチケを通してルネサンスというものが、その時のイタリアという社会がどういう社会文化であったのかっていうところを見つつ、ルネサンス、そしてあとは女性美につながる話まで広げていきたいなというふうに思います。
まずはその前回のやつで話した、ルネサンス鬼人伝みたいなのをやったと思うんですけど、鬼人伝ではなくて、ちゃんとした有名人も紹介しとこうかなと思うので、真面目に有名人の紹介でもしておこうかなと思います。
そうですね、まずはラファエロの紹介をしようかなと思います。
ラファエロ皆さん名前は聞いたことあるんじゃないかなと思います。
代表作でいうところのバチカン宮殿にあるラファエロの間ですね。
これは1508年に教皇に依頼を受けて制作して、その中の有名な作品だとアテネの学童とかね、そういうのも含めて4つぐらいの絵の合わせ技みたいな。
有名な絵を4つ描いたラファエロの間っていう通称言われてるところで、具体的な作品名でいうとアテネの学童とかね。
皆さんアテネの学童は有名すぎて、皆さんの家の近くでも見ることができると思います。
サイゼリアにあります。
サイゼリアに飾ってあると思うんですけど、ボッティチェリの春とか置いてあると思うんですけど、あそこらへんに普通にアテネの学童飾っているので、皆さんサイゼリ行ったときはここがラファエロの間なんだなというふうに思ってもらいながら作品見れると思いますので、ぜひサイゼリア行ってみてください。
そういう有名な作品を作っているラファエロですね。
作品ということに関してもラファエロはすごく有名ですし、あともう一つラファエロの功績としては弟子を多く育てているということですね。
ラファエロを師匠に持つ画家って本当に多くいるんですよ。
なんか西洋美術史を調べていて、マジで名前も聞いたことないみたいな画家にあたることがたまにあるんですけど、その画家をwikipediaなり本であったり、そういうところで調べてみると師匠にラファエロがいるとか、ラファエロの工房で絵を学びみたいなのが書いてあったりして、比較的弟子の多いタイプの画家だなというふうに思います。
ちょっとさっき言ったんですけど、工房を持ってたんですね。前の方でちゃんと話しましたけど、この時代の有名な画家っていうのは自分一人で作品を作るというわけではなくて、工房という自分の弟子が多く在籍している絵の工場みたいなものを持っていたんですね。
現代でいうところの熊賢吾のデザイン事務所みたいなものですよ。熊賢吾が作ったって言ってますけど、熊賢吾のデザイン事務所の中のスタッフさんが作っているみたいなことよくあるっていうね、都市伝説が今出回ってますけどね。あれと同じような感じですね。
工房っていうのがあって、そこにいる弟子が基本的な作業を行って、仕上げだけをラファエルがするみたいな、そういった感じで作られていたのが当時の絵画だったので、この時のラファエルもですね、例に漏れず大規模な工房を営んでいました。その結果弟子が多いというような感じですかね。
次、ティチアーノ行きますか。ティチアーノの紹介もしようかなと思います。ティチアーノはですね、同じイタリアで活躍した画家なんですけど、特にベネツィアで活躍しましたね。なので、いわゆるベネツィア派の画家です。
ベネツィア派っていうのは、イタリアの中にもですね、当時のイタリアっていうのは統一権力ないので、イタリアっていう国自体は存在してないので、その中にフィレンツィアであったりベネツィアであったり、教皇領であったりというようにいろんな国がイタリア半島の中に乱立しているという時代なので、そういう時代の中で国ごとの特色みたいなものがやっぱり画風にも表れているんですね。
特にベネツィア派っていうのは、ベネツィアで栄えた世俗的で色彩をすごく豊かな、そういった作品たちをまとめてベネツィア派というふうに呼んでいます。
ベネツィア派の主題っていうのは、あんまり宗教的な話題を好んで描かないんですよね。本当に世俗的な一般的な話題というのを好んで描いて作品にするっていうのがベネツィアの主流というか流行でしたね。
単純に主題っていうものだけじゃなくて、使われる色にも特徴があって、原色を多く使うんですよ。なのでベネツィア派の画家が描いた作品はもう一目見ればわかるっていう人もいるぐらい、すっごい鮮やかなんですね。原色の赤を使って青を使って緑を使って黄色を使ってみたいな。
こういう原色・陽色を普通に使っていくっていうのがベネツィア派の特徴なので、絵を見ればすぐわかるんじゃないかなと思います。
皆さん今スマホかパソコンかなんかある方はベネツィア派の画家、特にティチアーノの絵とか見てみるといいかもしれないですけど、ティチアーノの場合は晩年の方はちょっと自由な絵になってくるんですけど、特に若い時のティチアーノの絵とかはすごくベネツィア的な絵だと思いますね。
そういったような特徴がある派閥に属していたのがティチアーノですね。ベネツィア派です。
ティチアーノが描いたものといえば、今回の話題にテーマにちょっと関わってくるので紹介するんですけど、フローラとかダナエとかウルビーノのビーナス、海から上がるビーナスっていうようにローマ神話とかギリシャ神話のいわゆる古代神話の女神たちっていうのを多く描いています。
有名なのはウルビーノのビーナスとかですかね。ダナエフローラも有名ですけど、ウルビーノのビーナスは特に有名な気がします。
ウルビーノのビーナスに関してはすごく有名なんですけど、惜しい点が一つあって、これサイゼリアで見ることができないんですよ。
僕はサイゼリア大好きなんですけど、サイゼリアにウルビーノのビーナスが飾られているとこは見たことがないですね。
というのもウルビーノのビーナスめちゃめちゃ裸なんですよ。
すごい裸で、布あるかなあれ。
タオルケットみたいなのがあったようななかったような、そのぐらいの露出度の高い感動的な絵なんですね。
別にウルビーノのビーナスだけじゃなくて、ティツヤヌが描いた女神っていうのはそのほとんどが裸かもしくは半裸ですね。
ほぼ裸に近いか、さっき言ったように布一枚ぐらい、そのぐらいしか描いてないっていうようなすごくエロティックな女神たちを描いているのがティツヤヌですね。
これ別にティツヤヌがそういう趣味だからとかいうわけではなくて、どうしてもその時の社会文化っていうのが影響しているんですね。
じゃあなぜティツヤヌはエロティックな女神だけを描いたのか、そればかりを描いていったのか。
これは今回のシリーズのメインテーマなのでここでは話しません。また後で話していきたいと思います。
ただこういう学科がいるんだよというのを知っておけば後々の話がなかなかわかりやすい、理解しやすいんじゃないかなと思うのでここでティツヤヌを紹介しました。
別にティツヤヌはギリシャ神話、ローマ神話の古代的な神話の主題を好んで描いていたというわけでもなくてですね、普通に宗教画も描いています。
マグダラノマリアとかよく描いてましたねティツヤヌは。
あとサロメとか描いてましたね。サロメはユリとサロメぐらいを描いてましたね。
ちなみにマグダラノマリアでいうとティツヤヌの改身するマグダラノマリアの主題を何回か描いているんですけど、
どっかの本に載ってあったのがティツヤヌの3作品ぐらい確か有名なのを描いてるんですよマグダラノマリアで。
ただそのマグダラノマリアが年代が下っていくごとにどんどん布が薄くなっていくっていう、ちょっと胸が裸けてるみたいな状態のマグダラノマリアになっていくっていうのがあって、
要はティツヤヌが若い時に描いたマグダラノマリアはちゃんと服を着ているんだけど晩年の方に描いたマグダラノマリアはちょっと胸が出てたりするみたいな状態があって、
一発でこういう理由があるんだよということは言うことはできないんですけど、それも含めてティツヤヌらしいなというのは僕は思いましたね。
そういう古代ギリシャの話でもキリスト教主題の話でもどちらも描いているというのがティツヤヌですね。
ただティツヤヌに関してはとても感能性の高い絵を描いているというのが一つ特徴として言えるんじゃないかなと思いますね。
最後にもう一人だけ紹介しましょう。
ペトラルカですね。
ペトラルカは名前はどうだろう少しは有名なような気がしますけどこの人画家じゃないですね。
別に絵を描いているわけじゃないです。
ペトラルカは文学の面で活躍したアルネサンス時代の有名人です。
文学者というのが適切な彼の肩書ですかね。
文学者で言うと有名なのはダンテとかあとボッカチオとかね。
ここらへんが上がってくると思うんですけどこのダンテとかボッカチオに並ぶほど実力のある文学者だというふうに言うことができるんじゃないかなと思います。
それがペトラルカです。
ペトラルカの代表作カントニエーレですね。
カントニエーレは知ってる人いないんじゃないかなと思います。
僕もねこれ知られるまで全然知らなかったんですけどカントニエーレといえばですね中身がすごくですね単調というか単純でこれラウラという女性に捧げた恋愛女子誌なんですよ。
ただひたすらにラウラのために書いたそういう文学なんですね。
これ内容が非常に面白くてラウラの面影だけを書き続けるそういう話なんです。
ラウラについて書いているんです。
ラウラについてまとめた詩なんです。
ただそこにラウラは登場しないんです。
ただひたすらラウラの面影、ラウラの残りがみたいなものを詩として作品として残していくっていうのをやっているのがこのカントニエーレなんです。
なのでラウラが登場しないんですよ。
ラウラっていう登場人物はいないんです。
いないんですけどこれはラウラのための詩なんだと。
そういうちょっと不思議なロマンス女子誌にはなるんですけど、でもこれすごくルネサンス的だと思います。
現代にはこういう絵ないですしそのルネサンス以前にも以降にもあんまり出てこないようなタイプの詩だろうなというふうに思います。
これはですね一つルネサンス的な芸術感というもの、ルネサンス的なものの捉え方とかそういうものが非常に関わってきている。
そういう作品だなというふうにカントニエーレのことを思いますね。
ただそれがどういうことなのかみたいなことはもうこれもちろん後で話します。
今は話さないですね。
ということでラファエロ、ティツィアーノ、ペトラルカみたいなところを紹介できてルネサンスの紹介をしますよというところでの義務を果たせたんじゃないかなと思います。
本当にラファエロの話だけはしたくないんですよ。
ティツィアーノの話もしたくない。
本当に義務みたいなものですね。
義務ラファエロです。
ただ推測ではもともと医者か何かだった医者か薬屋かそういう医療関係の家だったんじゃないかなというふうに言われてます。
そういうのもこのメディチケのメディチという言葉、これは医者とか薬とかそういう意味なんですね。
今の英語で言うとこのメディシンと同じ語源ですね。
メディシンとメディチって語源が同じなのでおそらくメディチケも医者か薬屋かそれ関係の医療系の医院だったんじゃないかなというふうに言われています。
そんなメディチケが何で芸術を保護していったのかというとこれは単なる権威づけですね。
この家っていうのは芸術に関してもお金を出しているんだよとかそこに関心を向けているんだよということによってこの家としてのポイントをゲットできるんですよ。
ポイカツできるんですね。
なのでちょっとランク上がるっていうかなんかいい家の人たちなんだねっていうふうに思われる。
だから芸術家にお金を渡していたそういう人たちを保護していたというふうに言われてますね。
メディチケさっき言ったように政治の業界でも力を握っていたのでそういう場面でもやっぱり権威づけっていうのがすごく重要だったんだというふうに言われています。
これは本に書いてあったから引用するんですけど、現代の企業による社会貢献みたいなものの起源だと言えるというふうに本には書いてありました。
現代のいろんな有名企業が頭の中に20社ぐらい頭の中に浮かびましたけども全てを言わないようにしておきます。
ただそういうふうに本には書いてありましたね。
だからメディチケにとっての芸術保護っていうのはただの社会貢献であって、現代の企業がいきなり森に木を植えたり、サステナブルドータルコートラーみたいなことを言い始めるのと同じですね。
要は社会貢献事業をしているってことは大きな会社だと思われるみたいな風潮があるじゃないですか。
あれを利用していたのがメディチケとも言えるというふうな感じですね。
ちなみにメディチケが保護していた芸術家っていうのはブレネルスキーとかあとドナテンロ、あとさっき言ったフィリッポリッピとかですね。
こういう有名な画家を保護していました。
素敵なジンダーハローを学んだラジオキッチュということなので一応この女性のパトロンはいたのかというところまで話しておこうかなと思います。
女性のパトロンいるにはいました。
ただ有名じゃないんでほとんどの人が知らないんじゃないかなと思います。
有名な女性のパトロンはマントバコーヒ・イザベラデステですね。
マントバコーという皇爵のお妃であるイザベラデステさんという方ですね。
マントバコーヒ・イザベラデステ。
イザベラデステが一番有名というところです。
一応他にいるにはいました。
イザベラデステが誰のパトロンになっていたかというと、これはさっき言ったティツヤノとかレオナルド・ダ・ビンチとか。
ティツヤノ、レオナルド・ダ・ビンチはもうすごく有名なので、この2人のパトロンが一応このイザベラデステだったというふうに言われるとなかなか意外かなと思います。
イザベラの肖像画って何点か残ってるんですけど、イザベラの肖像画を描いてくれた画家がね、まあまあ有名なんですよね。
それこそレオナルドとかですよ。すごいですね、レオナルドに肖像画を描いてもらえるって。
それくらいちゃんとしたパトロンをやってましたね。
イザベラは一応領主として政治的な権力を持っていたので、イザベラの普通に政治的手腕の巧みさでも評価が高いような人物ですね。
特にフランスとの不可侵条約を結んでたりしますね。
これだいぶすごいですよ。
彼女の人生としては16歳でマントバ公と結婚します。
ただ夫がすぐ死ぬんですね。
残されたのが自分と息子。
という時に息子を支えるために自分が摂政となってマントバ公国を統治していたりしますね。
分かる方がどれだけいるか分からないですけど、不足点と大いなる違いがありますね。
不足点とか生態語よりはすごくマシだと思いますね。
こういう不足点を持っていたのか。
こういう結構波乱の人生ではあるんですけど、さっき言ったようにフランス王ルイ十二世との会議で不可侵条約を締結していたり。
結構当時から高い評価を受けていた人物ですね、イザベラの。
結構波乱の人生ではあるんですけど、さっき言ったようにフランス王ルイ12世との会議で不可侵女役を締結していたり、結構当時から高い評価を受けていた人物ですね、イザベラデステ、そういった女性のパトロンもいましたよというふうな話ですね。
さらに驚くべきパトロンがまだまだいます。それがローマ教皇です。実はローマ教皇もパトロンとして芸術家にお金を出していたんですよ。
ただ考えてほしいのは、前回以前前回とかで話したと思うんですけど、この時代の芸術っていうのは宗教家だけじゃないんですよ。キリスト教主題の作品だけが、この時の芸術はもうなくなってきてるわけです。
何が来てるかと言ったら異教芸術ですよ。いわゆるローマ神話だったりギシャ神話、キリスト教科をすると異教と呼ばれるような全く違う宗教の主題、こういうようなものを芸術として書いているのに、そういった芸術を書いている画家たちにローマ教皇も出資していたんです。
これなぜか権威づけです。もう一回言います。権威づけですね。教会の権威づけのために普通にパトロンになってました。
この時の教会、教皇、一応教皇寮っていう領地があって、そこの領主なのでもちろん軍隊も持っていたし、他の都市貴族と同じように外交とか内政とかいろいろやっていたので、普通に領地の拡大であったり権力の維持であったり、そういうところに奮闘していたのが当時の教皇なので。
やはり権威づけしなきゃいけなかったんですね。どうやって権威づけしようかなと考えたら芸術家にお金を出す。これが当時のやり方ですね。有名なところだとユリウス二世とかそういうふうなところはいるんですけど、紹介していくと長くなるので、ぜひ皆さん調べてもらえれば嬉しいかなと思いますね。
ユリウス二世の話はしないんですけど、ちょっと大事なところの教皇だけは紹介していきたいなと思います。
ちなみに誰が教皇に就任していったのかっていうと、ほとんどが名門貴族の出身ですね。そういう有名なお家のところから出た坊ちゃんたちが教皇になっていたというのが当時でしたね。
ついこの前、1ヶ月前ぐらいにコンクラーブがありましたよね。普通にローマ教皇を新しいのを決めるっていう会議があったと思うんですけど、教皇会議ね、コンクラーブがあったと思うんですけど。
この時はちゃんとコンクラーブしてたのかどうかわかんないですけど、それでもほとんど名門貴族の出身になるので、いろいろねというふうな次第ではあるんですけど、貴族でないとちゃんとした教育を受けていないので、貴族であればある程度賢い教皇を選ぶことができるっていうのが当時の合意的な考え方ですね。
なので名門貴族、高級貴族の出身の坊ちゃんたちが教皇になっていたよといった感じですね。有名なところで言うとボルジア家。ボルジア家有名ですね。ここからの2、3人ぐらい。もっといたかな。結構教皇出てますね。スペイン発祥の名家なんですけど、こういうとこから貴族が教皇になっていたり、あとはメディシケですよ。
メディシケからも教皇になってます。レオ10世とかクレメデス7世とか、レオ10世とか特に有名かなと思いますけど、そこら辺のメディシケ出身の貴族が教皇になっていたりしています。
さっき教皇が異教芸術を作っていた画家たちのパトロンになっていたという、すごく不思議な関係について説明していたんですけど、もちろん教皇がお金を出していた芸術っていうのはほとんどが教会建築であったりとか教会芸術。
教会の中に飾るような壁画であったり、聖堂の中の祭壇があったり、ミサの時に祈る時に用いられる遺体だったり壁画だったり、そういったところがメインですね。
教会に関するものの芸術を作ってもらうためにお金を出していたのが教皇でしたね。
有名なところだとミケランジェロのセスティナエーハイドの天井側であったり、あとサンピエトロ大聖堂の建て直しとかも一応教皇がお金を出した芸術家にやってもらってますので。
このサンピエトロ大聖堂の改築に関してはその後の宗教改革にすごく重要なファクターとなってくるので、ここら辺は高校世界史とかでやった人が多いんじゃないかなと思います。
だから皆さんが学校で学んだ知識とここで知ったレネサンス知識が合致していれれば嬉しいかなと思いますが、ではちょっとメディチケの話に戻していきたいなというふうに思います。
まずこれですよね。レネサンスにメディチケがどう貢献したかという話です。
まず有名なところで言うと、政治として政治的にもすごく力を持っていた、特に優れた大政外交もどちらも政治力を持っていたのがメディチケだったので、イタリアに一時的ですけど平和をもたらしたのがメディチケです。
これ本当にすごくて、巧みな外交力を使ってですね、イタリアの五大国と言われる大きな国があるんですけど、そことですね、平和協定を結んでいます。
イタリア五大国っていうのはフィレンツェ、ミラノ、ベネツェ、ナポリ、であと教皇領のことですね。
ローマのことです。本当に当時のイタリアっていうのは軍有格局時代というふうに言われていて、ほぼ戦国時代なんですよ。
ただそんなイタリアに平和な時代をもたらした、そして平和な時代になるということは文化が交流するわけですから、そういった文化の時代というのを作り上げたのがメディチケです。
だからメディチケはこのレネサンスを推進していくにあたって、単純に芸術家にお金を渡すっていうことだけでなく、政治的にも平和な世を作った、そういう巧みな外交力を駆使したことで、結果的にそれも文化の交流、レネサンスの推進につながっていく。
こういうふうなのがメディチケの功績ですね。だから本人たちがどう思ってるかわかんないですよ。単純に戦争したくなくて、今うち財政的にきついから戦争したくないよねと思って平和的な外交をしていたら、それが結果的にレネサンスの推進につながっていたということかもしれないですよ。
本人たちがどれだけ気づいているかまだわからないですけど、どうせわからないですけど、結果的にはレネサンスの運動を動かすための非常に大きなファクターになっていたというのは事実ですね。このメディチケがフィレンツェにいて政治をやっていた時期っていうのがレネサンスの最盛期だというふうに言われています。
これだけこういう政治的な力を持っていて外交が巧みでしたよみたいな話をしたんですけど、どうして銀行家の一家がただの成金の一族がこんなに強い権力を握れたかっていうのは単純ですね。ローマ教皇との深い関係を結んでいたからですね。
実はですね、メディチケの中の一人であるジョバンニ・ディ・ビッチという人がいるんですけど、名前覚えなくていいですよ。ジョバンニ・ディ・ビッチの代理人ですね。15世紀初頭ぐらいですかね。そのぐらいの時期にですね、彼がローマ教皇庁会計員の財務管理者というふうになるんですね。いわゆる教皇庁の経理担当ですね。
お金の管理を任されるわけです、メディチケが。こういうことによって教皇庁との関係を深めていって、教皇関連の金融業務で莫大な富を得ていくんですね。教皇関係のお金の動きはとんでもないですから、そこら辺からですね、いろいろお金を抜いてくればそれは儲かるという話です。
それでも直接のコンタクトが取れるので、教皇と。そういうふうに繋がりを深めていって、結果的に強い政治力を持つようになっていったというふうになります。
メディチケが実際どうやってフィレンズの支配者になっていったかというと、これは簡単です。まずさっき言ったように教皇庁の経理担当になって死ぬほど儲けますよね。
この死ぬほど儲けた金を使ってですね、選挙の際とか議会とかそういうところで多数派工作をしたんですね。選挙で人を買うんですよ。
人を買って、お前俺の派閥だよな。お前メディチケ支援するよな。これだけ金渡すから、うちを支援するように言いなさいみたいな。そういう形で汚いですけど、金を使ってメディチケの権力を高めていきます。
これは現代日本だったら公職選挙法に違反するので、何とも現代の価値観ではいいというふうに言えないですけど、当時は別にルールなんてないですから、ルールできる前にやっちゃったもん勝ちみたいなところは社会みたいなもんですから。
こういうふうに多数派工作をしてですね、フィレンツ教国の政治というのを実質的に支配していく。支配者となっていく。こういうふうな歴史になるんですね。
確かフィレンツ教国政府の中にいるほとんどがメディチケ系の人物になったというふうな話を聞いたことありますが、どれだけ確かかわかんないですけども、それぐらいやるとこまでやったんだろうなというふうに思います。
ということでフィレンツ教の中でメディチケがいろいろやりまくって、結果的にはレネサンス最盛期をもたらすまでには影響していたんだよというようなことを話しましたが、そういえばメディチケの肩書きを言ってなかったですね。
メディチケの人たちがどういった地位についていたかというと、フィレンツ教国内の地位はどんな感じだったかっていうと、特に何の地位もなかったですね。
これ面白いのが、何でかわかんないですけど、当時にそういうシステムがなかったのか制度がなかったのかなのかはよくわかんないですけど、こんだけいろんなことをやっているにもかかわらず、特に何の地位もついてなかったというのが、何の役職にもなかったというのがフィレンツですね。
コジモさんとかロレンザさんとかいろんな人がいますけど、特に何の地位もないので、接種とかはできないですけど、その時その時で権力を握っていろいろやっていたというのがメディチケでしたね。フィレンツ教国のメディチケでした。
メディチケ自体の最盛期っていうのはロレンザさんという人の代が最盛期なんですけど、このロレンザの死んだ後のメディチケがどうなっていたかというと、メディチケ銀行業やっていたというふうに言ったじゃないですか。このメディチ銀行が赤字になりすぎて、その結果第一次イタリア戦争でフランスに抵抗できなかったんですね。
その結果市民の怒りをかい、メディチケごとフィレンツを追放されます。なかなかやられますね。追放までしなくてもいいんじゃないかなというふうに思うんですけど、これぐらい重い処罰をくらってますね。
なので一時期、イタリアの平和であったりルネサンスの流星であったり、そういうとこまで映画を極めたメディチケではあったんですけど、銀行で赤字を作りすぎてしまった結果銀行潰れかけまして、政治でもいい結果残せなかったのでフィレンツから追放ということになります。
メディチケ後のフィレンツがどうなったかというと、これも皮肉なことに共振的な真剣政治に走りました。
具体的に言うとドミニコ回収同士のサボナローラという人が政権を掌握します。
厳格なキリスト教主義に立ち戻るために、このルネサンスの華麗な作品とかを破壊しまくりながら真剣政治を行っていきます。
フィレンツにメディチケがいたときは、メディチケっていうのは特に宗教的なバックボーンを持った人でもないので、比較的自由な政治を行っていて、特に芸術面においてもそれこそ異教美術、ローマ神話であったり、キリスト教神話であったり、ローマ神話だったり、古代ギリシャ神話であったり、そういうような異教美術、芸術を支援して自由にやっていたのが、
メディチケではあったんですけど、その反動として厳格なもうちょっとキリスト教に立ち戻ったキリスト教の原理的な社会に戻そうよという風潮が出てきてしまうんですね。
そういう風潮の中で、この風潮の主導権を握っていったのがサボナローラという人です。このサボナローラという人に権力が集まっていって政権を取って、その結果非常に厳格な非常に厳しいキリスト教主義、ここに立ち戻った政治をやっていきます。
なのでその結果的には、異教美術みたいなものをたくさん扱っていたルネサンスの作品たちを破壊しまくるんですね。ここまでがだいぶ飛躍ありますけども、結果こういう風になっているんですよ。
ちなみに有名な学科でいうと、ボッティッチェリーがこのサボナローラの考えに賛同して自分の作品を焼いたりしてますね。なのでボッティッチェリーの作品が消失していたりとかいうのがあるんですけど、その原因はこのサボナローラの真剣誠意が直線の原因だというふうに言われてますね。
実際このサボナローラの政治がどうだったかというふうに評価されているかというと、このサボナローラというのはメディッシュ家のすごい豪華な、豪勢なもの、その豪勢さというのを批判していたんですが、ついでに教皇まで批判してしまうんですね。
その結果、このサボナローラも市民と教皇に怒られて破門されて追放されます。なのでメディッシュ家よりひどい追放を受けてますね。
破門ということなので、当時の人権がなくなる、キリスト教徒じゃねえよお前はっていうぐらいまで行って、その結果フィレンチェ追放に遭っているので、なかなか厳しい処罰を受けてますね。
こういうことがあってサボナローラの真剣政治は終わります。
その後メディッシュ家が復権しまして、フィレンチェ共和国からフィレンチェ公国というふうになります。なので共和国から公国になるということは、つまり一人の権力ができて、その権力のもとに国を作るというのが公国なので、共和国っていうのはいわゆるワントップではないですよね。
トップがいないから共和国なんです。みんなで話し合って国をやっていこうねっていうのが共和国なんですけど、公国っていうのは基本的には王国帝国というものと変わらないと思ってください。
一人のリーダーがいてそのリーダーのもとに国を作るというのはいわゆる君主国ですね。
この君主の座に誰がついたかというとメディッシュ家なんですよ。だからいろいろありましたけどメディッシュ家っていうのはフィレンチェ共和国の中でこの政界の中で権力を握る。
権力を握ってお金をたくさん使いましたからね。権力を握っていろいろやった後に追放されて、けど戻ってきてフィレンチェ公国の王になるんですね。正確に王ではないですけど、要はリーダーになるということです。君主になるということです。
いろいろ説明を省きますけど、ハプスブルッケの力とか借りながらこのメディッシュ家はフィレンチェに戻ってきて政権を再び握るということになります。
この後にジョバンニとかジョバンニのいとことか教皇に選出されて、さっき言ったようなレオ10世とかレオ7世とかそういうふうな教皇になっていきますね。
さっき言ったようにフィレンチェが公国になった、いわゆる君主国になったということなので、これからはメディッシュ家世襲のフィレンチェというふうになります。いわゆるその国のリーダーというのがずっとメディッシュ家でやっていきますよというふうになります。
ここに来てですねメディッシュ家の国というふうになりますね。メディッシュの国というフィレンチェが成立します。
ついでのお知識ですけど、この後フィレンチェ公国は隣にあったシェーナを併合してトスカーナ大公国というふうになります。
ただ、ただ、ただなんですよ。ただこの後のフィレンチェはルネサンス運動というのが下火になっていくんですね。
フィレンチェ運動自体がイタリアであまり起こらないというか、その前の時期よりかは活発ではなくなっていくんですねこの後。
フィレンチェでのルネサンスが終わった後、ルネサンスの中心がローマへ移ります。
メディッシュ家の没落であったりサボナーローラの神権政治というものを経てフィレンチェのルネサンスっていうのは勢いを失います。
さすがに混乱しすぎたんですフィレンチェが。神権政治であるメディッシュ家の復権とかなんかそういうようないろいろが行っている頃ですね。
カトリックがカトリック教会が権威を取り戻すために動き始めていたんですね。