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2024-06-24 51:58

第158回 現代に突きつける戦時下の空白だった物語「姉妹のように」クロエ・コルマン著

【今回の紹介本】
『姉妹のように』クロエ・コルマン著、岩津航訳、早川書房
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000015758/

パーソナリティ二人で作品の魅力やあらすじ、印象に残った点など、読後の感想を話し合っています。ぜひお聴きください!

【今回の内容】
第2回日本の学生が選ぶゴンクール賞受賞作/日本語でも読むのに苦労したから学生が原文を読んだのがすごい/二度読んだ/著者&作品紹介/戦時中に亡くなった親族の三姉妹を調べる著者/その三姉妹と本当の姉妹のように交流を深めたもう一組の三姉妹/現在と過去が交差する/ポストメモリーの手法/ドキュメンタリーな描き方/感傷的ではなく詩的で美しい文章/ストーリー紹介/本筋ではない小さな逸話がいい/著者が三姉妹たちの痕跡を見つけるくだりは泣ける/戦時中のユダヤ人の子どもたちの境遇に著者は問いかける/今の時代にも繋がってくる感覚/テーマは子どもだと感じた/最後は途方に暮れた/次回予告

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版元サイトより
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フランス文学を愛する日本の学生によって選ばれた、普遍性に富む歴史小説

著者クロエの親族だったコルマン三姉妹は、幼くしてナチの強制収容所で亡くなり、その人生の物語は空白のまま。クロエは生存者や資料をあたるうちに、彼女たちと実の姉妹だったかのような別の三姉妹の存在を知る。第2回「日本の学生が選ぶゴンクール賞」受賞作

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文学のプロではない二人ですが、 お互いに好きな作品を東京と京都を繋ぎ、
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サマリー

1942年、ドイツ占領下のフランスで、若くして亡くなったコルマン3姉妹の物語を、記録や証言をもとに描いています。 このエピソードでは、第二次世界大戦中にコルマン家とカミンスキ家の姉妹たちが収容所で出会い、友情を深める物語が描かれています。また、現代のパートでは、著者がアンドレに会いに行き、当時の出来事や収容所の状況を調査していく様子が描かれています。 第158回では、現代に突きつけられる戦時下の空白だった物語「姉妹のように」クロエ・コルマン著 - 収容所、子どもたち、アンドレが紹介されています。 また、この物語は、戦争体験を通じて過去と現在を繋ぎ、戦争によって大勢の死んだ子供たちの存在を感じさせます。読者自身に考えさせることができる、個人の経験や感覚を通じた物語です。

戦時下の姉妹たち
1942年、ドイツ占領下のフランス、ユダヤ人一世謙虚の波が押し寄せていた。
小さな田舎町、モンタル寺では、両親を謙虚されたある二組の姉妹が仲を深めていた。
まるで本当の姉妹のように。著者のクロエ・コルマンは、片方の姉妹の親族にあたる。
記録や証言をもとに、空白であったこの姉妹たちの物語を描く。
第2回 日本の学生が選ぶコンクール賞 受賞作
姉妹のようにを紹介します。
どうもみなさんこんにちは。文学ラジオ空飛猫たちです。
この番組は、いろんな人に読んでもらいたい、いろんな人と語りたい文学作品を紹介しようコンセプトに、文学と猫が好きな二人がゆるーくトークするポッドキャストです。
パーソナリティは、私ダイチとミエの二人でご送りします。
文学のプロではない二人ですが、お互いに好きな作品を時には厚く、時には愉快にそれぞれの視点で紹介していく番組です。
今回紹介するのは、クロエ・コルマンの姉妹のようにです。
与月浩さん役で、早川書房から2024年に出版された本になります。
はい、これはですね、第2回日本の学生が選ぶコンクール賞受賞作となってまして、
昨年受賞した第1回受賞作の受け入れるにはを紹介してきた流れで、
ハンダイビブリオの大西さんに、先行委員なんですね、日本の学生が選ぶコンクール賞の先行委員の大西さんにですね、
日本の学生が選ぶコンクール賞
ちょっとご推薦もいただけたので、ちょっと紹介しようかということで、今回取り上げさせていただきたいと思ってはいるんですが、
この日本の学生が選ぶコンクール賞の時にはですね、この人たちは原文で読んでたらしくて、
これ原文で読むの相当辛そうだなと思ったんだけど、構成が地味に複雑だし、結構話を整理しながらじゃないと読み進めることができない一冊なので、
これ母国語以外で読むって結構大変な作業なんじゃないかなって正直思いました。
そういう名詞とかもかなりそうですね、日本語でもなかなかピンとこないような名詞がちょくちょく出てきたりするんで、すごいですね。
すごいですよね。そして内容としてはもうちょっといろいろ話したいことあるんですが、すごい一冊だったなと思いますね。
そうですよね。この作品がこの前紹介した母を失うことというですね、今年の日本翻訳大賞を受賞したサイディア・ハートマンの作品で、
それは著者が奴隷を先祖に持っていて、西アフリカの方にちょっとルーツをたどるような気候文学を紹介したんですけども、
去年紹介した彼女はマリウッポリからやってきた、こういった作品とかなり通じるものがあるなと思いましたね。
完全に創作というわけではなくて、この著者の個人の家計にまつわるノンフィクションの部分と、あとそこプラス過去の話なんで、どうしてもその記録として残っていないものとかがあるので、
それを想像力によって創作も含めて、ノンフィクションと創作の融合するような作風ということで、200ページぐらいで、本としてはそこまで厚くはないんですけども、
かなり骨太な作品だなと思ってまして、これ読むのに結構労力いりましたね。僕2回読みましたしね。
1回読んで、もうすぐもう1回1からもう1回最後まで読んで、確かに弟子さん複雑って言われたみたいに、なかなか話を整理して読んでいくのちょっと難しかったんですけども、
ただ考えさせられる作品だと思うので、読みながらすごく考え事も、考え事というかね、なんかその思いを馳せてしまったりしながら読んでいけたので、そういうのすごく良い読書体験できたなと思ってます。
そうですね。私も第一章のモルタジは2回、もう1回読んでちょっと頭入ってきてないなと思ったんで、2回すぐ読んだんですけど、その後の章もやっぱり2回読まないとわからなかったなっていうのはちょっと正直あって、
ちょっとこれ後で触れるかもしれないですけど、あえてなのかどうかあれなんですけど、ちょっと話の時系列みたいなのが2つあって、それが明記されて始まってはいるのかな。
なんか開業のやり方はちょっと2種類あるんで、ちょっとそれで分けてるのかなとかちょっといろいろあるんですが、結構一瞬掴み損ねることが多くて、頭の中で今あれどっちの話なんだろうみたいなのを考えながらちょっと読むんで、
そうか、言い方を正確に言おうとすると多分負荷がかかる読書になるんですね。
だから200ページちょっとの、本当210ページぐらいで終わってるのかなくらいの作品なんですけど、文字量としてはそこまでないんだけれども、結構読み通すのは大変だなっていうのが正直な感想ですね。
ちょっとここに関してはもうちょっと後で、作者のこういう思いもあるんじゃないかみたいなところはちょっと触れたいなと思います。
じゃあちょっと始まってきちゃってるから行き先進めましょうか。
じゃあまず著者紹介したいと思います。
著者のクロエ・コルマンさんはですね、1983年パリの生まれの作家となっています。
リオンの高等師範学校を修了後、2年間米国留学中に訪れた西海岸とメキシコの旅の経験をもとに執筆したアメリカのメキシコ移民をテーマにした小説で作家デビューしてますね。
その後長編をいくつか書いていて、このシマイのようには4作目の長編となっております。
83年生まれだから30後半ぐらいの作家で、まだ若手なのかな。
シマイのようにて、ゴンクール賞の候補に入っているんで、実績もすでにある作家さんなのかなという感じです。
作品なんですが、まず版元のホームページからの引用。
いつも通りちょっとお話させていただくと、フランス文学を愛する日本の学生によって選ばれた不変性に富む歴史小説。
著者クロエの親族だったコルマン氏3姉妹は、幼くしてナチの矯正修了所で亡くなり、その人生の物語は空白のまま。
クロエは生存者や死霊をあたるうちに彼女たちと実の姉妹だったかのような別の3姉妹の存在を知る。
第2回日本の学生が選ぶゴンクール賞受賞作となっておりますね。
このあらすじもすごく端的ですけれども、さっきちょっと話した、我々が以前紹介した母を亡くすことや、本当に彼女はマリウポレからやってきたあたりに通じるですね、個人の歴史から空白を紐解いていく話かなと思います。
ポストメモリーという手法
これはですね、この作品の特徴に触れていきたいと思います。
まず何と言ってもですね、2つの物語が進行しているというのがありまして、まず1つがこれは過去の話です。
ドイツ占領下のフランスで実在したコルマン姉妹とカミンスキ姉妹、どちらも3姉妹なんですけども、その2つの姉妹が出会って交流したという物語。
で、もう1つが現代のパートですね。この著者と思われる私が語り手で、その著者がコルマン家になるんですけども、コルマン3姉妹、いとこの姉妹たちを、その痕跡を追うというですね、戦時中に亡くなったと言われていたというですね、その著者の物語でもあるというですね、過去と現在、時系列で言うと過去は1942年から1945年。
で、現在は2019年から2021年というこの2つのですね、ちょっと時代を切り替える2つの物語があるというのがまず1つの特徴ですね。
そうですね。で、話はまあこの中で進んではいくんですけれども、どっちの時間軸なのかちょっと分からなくなるって話を冒頭にしたんですけれども、これはやっぱ狙ってやってるのかな、どうなんだろうね。
なんかもしかしてちょっと一瞬区別させたくないのかとかちょっと思ったりしました。作者の意図として。
もちろん読んでいけばわかるからあれなんだけれども、冒頭はちょっとそういうなんだろう、この作者としてはこの本を書きたいっていう動機自体はやっぱりこの自分の不在であったという空白の自分の親族に関して知れることをすべて知りたかったということを書いてるんだけど、9ページの最初の1ページですね。
とこに書いてあるんですけども、まあ多分そういう思いがあるから書いてはいると思うんだけれども、てなるとこのなんだろうな、この黒絵さん自体ももしかしたら整理したくない部分とかありながら、とはいえいろいろ情報はどんどん出てくるので、ずっと整理しながら書いてるし、構成もすごくうまいなと思うので、めちゃめちゃ考えられて書いてらっしゃると思うんだけれども、
なんかどこか区別せずに書きたいような思い。で、それってもしかして自分にこうこの空白を引き起こせたいみたいな思いがあるのかなっていうのはちょっと勘ぐりかもしれないけど、ちょっと自分は感じたと思うんですね。
僕は個人的にそうですよね。時系列とかがちょっとわかりにくいっていうのはある一方で、それでも読んでいくと、なんかその過去の話だったものが現在の中にも生きているような、なんか読んでるとそんな感覚もあってですね。
だからそういったのもあると思いますし、なんか読んでる人もなんかそれが明確に過去のことで、で、こっちは今のことだからみたいなそんな線引きをせずに、もうなんか過去現在、本当はあるんですけども、それをちょっとあんまり意識せずに読んでいって、あ、これは過去の話だったんだって思うとかですね。
これは現在だったんだっていうですね。まあそういうのにちょっとハッと気づいたりするっていうですね。まあそういった効果も読んでるとあったのかなと思いましたね。
あれやっぱ狙ってやってるんだろうな。ちょっとね。だから多分一読してすぐこの読みにくさみたいのは絶対感じる部分だと思うんですよ。この小説に関しては。でもおそらくこの読みにくさには意味があるのは間違いないなってと思うので、
その意味について、なぜ読みにくいんだろうかみたいな部分をちょっと考えていくと、もしかしたらこの小説はなんかそれぞれ読んだ人に中で意味を持つのかなってちょっと思ったりもしました。
ちょっとうまく言えてないかもしれませんが。
次の特徴がですね、これはポストメモリーという言葉が使われているんですけども、そのポストメモリーの手法で書かれている作品であるという点ですね。
ポストメモリーとは何かというとですね、これちょっと役者後書きから抜粋するとですね、ポストメモリーとはマリアンヌ・ハーシュが提案した概念で、
当事者の記憶とその記録を通じて構築された歴史の中間にあたる当事者の家族などが継承した個人の記憶を指す、戦争体験の当事者が亡くなっていく時代だからこそ、
その記憶をどのように生きたものとして継承するかという課題は、日本の若い世代にとっても切実な意味があるのだろうというですね。
ちょっとそのように書いてみてですね、このポストメモリーというのが個人の記憶、家族が継承していった記憶、そのようなものを指すのかなというので、
これは特にこの戦時中でこのコルマンギというのがちょっとユダヤ人で迫害を受けてしまって、記録というのがなかなかなかった状況なんですけども、
この著者がもう調べていって、もうほんとわずかな手がかりとかをつかんでいって、そこからですね、これいとこの3姉妹とか、そのいとこ夫婦とかこういうふうに過ごしていたんじゃないかとかですね、
この時はこういう行動してたんじゃないかとかですね、そういうのを組み立てていくという、そこにはちょっと想像も含まれていると思うんですけども、というですね、空白があるのは事実なんですけども、
空白を埋めるための事実プラス想像力であったり、そういったもので書かれているというところですね。
この想像で補っていく部分っていうものって、これしかもここからここは記憶がないとか、記憶がないとかあれですね、またその情報がないかっていうこととか書かれながらなんですけれども、
本当これ母を失うことにもすごく同じようなことだったなと思うんですけど、やっぱりこの過去、自分の何でしょう、歴史的な事実とまではいかなくても、個人の記録とか何かに残っていた情報とか、誰かの語りから再現していくっていう、
それが引いては何だろう、自分と繋がっているものとして捉えるっていうことっていうのは、すごく当事者であることっていうか、当事者であるがゆえの上みたいな、その情報に対しての上みたいなのを、母を失うことにも感じたし、
彼女はマリウーポリーからやってきたにも関したし、この本にもすごく感じたんですね。この上というか、切実さみたいなところっていうのは、やっぱり第三者である我々が読んだときに、やっぱりこうすごく意味を持って立ち上がってくる部分だなと思っていて、
これがシンプルに教科書的に書かれていたとしたら、全然入ってこないけれども、こういう形で提示してくれるから、やっぱり自分たちの中にすごく入ってくる。それはやっぱり、母を失うことを読んですごく感じた部分。でも私、今回もやっぱり読みながら、あ、そっかっていう、何だろう、すごくこの話って、すごい些細な名も無きことみたいな、名も無きことって言っていいのかなって思った。
例えば収容所にはこういう人がいて、こういう世話をしてくれたみたいな、大変な状況だったけど、こういう人たちが少し自分たちを助けようとしてくれた。それは叶わなかったかもしれないし、多少救いにもなったみたいな、すごくミニマムなところも描かれたりとかしてて、ミニマムなところってこの歴史のダイナミズムというか、大きさからすると取り上げられることがないことだけれども、やっぱりこういう個人の経験を元に書かれていると立ち上がってくるみたいな、そういう部分もあって。
何だろう、このポストメモリーっていう手法が操作しているのか、この読んできたものの中の問題意識が操作しているのか、ちょっと分からないところはあるけれども、でも、あの、些細なことがね、なんかやっぱり胸に迫ってくることあるよなっていうのは、ちょっと感じた一冊でもありました。
そうですね。特にこの戦争を体験した当事者の人の直接声を聞くっていうのが、これからだんだんちょっと難しくなってくると思いますので、やっぱり昔に比べると今は特にそうだし、この先はもうそれがちょっとできなくなってくる時代になってくると思うので、なんかその、家族、自分の親族の周りとか、どうだったんだろうかっていうときに、
なんかその、言い伝えとかでは聞くかもしれないですけど、直接聞くことができないっていうときに、なんかもしかするとこのポストメモリーの書き方っていうのは、これからなんかもっと広まっていくというか、読まれていくのかもしれないなとかはちょっと思いましたね。
やっぱり今の若い世代、これからの世代の人とかが、なんかその一方的に、例えばその物語の主人公でその当事者を出すとかじゃなくて、物語の主人公は自分たちと同じ世代とかちょっと上の、このクレイ・コルマンさんのような30代ぐらいですかね、この時代と。
うんうんうん、そうですね。
なんかその取材をしていったりして、なんかその戦争当事者の人がどのように体験をしていたのかっていうのを構築していくっていうですね、という話ですね。
うんうんうんうん。
むしろそっちの方が確かに、仮説実にちょっと読めてしまうところがあるかもしれないというのは思いましたし。
ふえそうですね。みなさん言う通り、こういうのは今後、そしてすごく重要な意味を持ってきそうですね。
そうでしたね。じゃあ最後にですね、特徴のちょっと3つ目なんですけども、これは小説にはなるんですけども、どちらかというとドキュメンタリーな描き方がされている小説になります。
うんうん。
あのあらすじとかを読むとですね、和宣寺中にこの3姉妹が出会って交流して、別れていってというので、結構感動できるような物語なのかなと、ちょっと最初の初見では印象としていただいたんですけども。
実際読んでみると、その感傷的な描き方はされてなかったんですね。
うんうんうんうん。
この3姉妹たちが過ごした収容所の様子とかですね、かなり過酷なことが書かれてるんですけども、それを結構俯瞰で描いていて、
で、その3姉妹たちだけにクローズアップしているわけではないというところですね。その他の収容所で過ごした少年、少女たちはこんな大変なことがあったとかですね。
で、そういう俯瞰で描いているんで、結構そうした描写を通じて、この主役である3姉妹たちがいかに大変かっていうのを比較して間接的にちょっと痛感するような、もちろん直接書かれている部分もあるんですけども、なんかそんなようなところですね。
で、あとはまあ、もちろんその話としても、現代のパートと過去のパートがあって、現代のパートではその著者自身が語り手、主役であるので、ちょっとそこの物語とかもやっぱりあったりするんで、なんかね、わかりやすい泣ける話とかそういうタイプではないということですね。
うんうんうん。そうですね。なんかここに関しては、あの久しぶりに感情移入しにくい本を読んだなっていう感覚がすごいあって、まあ淡々と書かれているわけではないけれども、確かにその感傷的な描き方ではないし、あまりこの著者自体の感情が見えてこない作品だったので、まあ逆にまあそれによってちょっとこう、多分読み手に委ねようとしているのかなってところはちょっと感じたりはしました。
まあもしかしたらね、あの我々読み手側のこの感情を操作したくないみたいな意図とかがすごいあるのかもしれなくて、これは確実に読みにくさにもつながってはいる部分で、だからあらゆる意味でこうちょっとこうなんだろうな、いわゆる他の小説に比べて、こうなんか感情による揺さぶりみたいなのはあんまりない。
そうですね、希少転結でここで泣かせようみたいな、そんな思惑一切ないですからね。 そうそうそう、ないないないない。ので、ある意味新鮮だし読みにくいし、でもすごく狙ってることあるんだなって、やっぱりこう委ねようとしてきてるんだなっていうのはちょっと感じましたというところですかね。
あと逆に、逆にではないか、この描かれ方の部分で言うと、文章表現とかが上手いんですよね。あの、詩的で言うとなんとも言えないんだけど、なんていうのかな、あ、こうなんか詩的な文章、詩的な文章ってあのこのラジオでもよく使う言葉なんですけれども、でもそれこそちょっと例を出しちゃうと、あのオーシャンボンの地上で僕らは束の間煌めくっていう小説を以前紹介したときに、ここまで詩的な文章を書けるのかっていうちょっと驚きがあったんですよね。
あの詩的ってすごく感情が乗ってるから、すごく綺麗に響くんですけど、この本の詩的さっていうのは、そう感情があんまりないから、なんというかすごく美しい表現をしてるなって思うんだけれども、なんか届き方がいつもと違うっていうか、自分が読んできた中で、そこはなんかこの新しい体験だったっていうか、でもそうなんだよね、どこを引用したらいいのかってとこあるけど。
ちょっとこれ主題にもあるからちょっと後でも触れるかもしれないけど、なんか最初の一部めちゃめちゃ綺麗なんですよね。なんかね、ちょっと読んじゃうと、森のようにそこから抜け出すことが目的であるような物語がある。島や別の場所へたどり着くのに役立つような物語もある。船であれ、森であれ、そうした物語は同じ木材から作られている。っていうこの一文から始まるんですけど、この文章めちゃめちゃ綺麗だな、詩的だなって思ったんだけど、感情がないんですよね。
だからそこに関してなんかこう新しい自分の中の今回は発見があったなっていうのもちょっとこの本を読んで思ったところですね。
なんか比喩表現は何か所々ありますよね。なんかね、小説を読んでいる木にさせて、なんかそのノンフィクションとはちょっと違う何かで描き方をされているなっていうのを感じるんですけども。
そうですね。ちょっとその辺りも注目して読んでもらいたい一冊だなと思ったのでちょっと話を挟みましたというところですかね。
ここからですね、ちょっとストーリー紹介に入っていこうと思うのですが、その前にですね、ちょっと今回登場人物が何名か言いまして、この人物相関図ですね。
ちょっとそこを簡単に触れてからストーリーに入っていきたいと思います。で、主に2つの家系がありまして、まず1つ目がこのコルマン家ですね。
この著者であり、その語り手であるのがクロエ・コルマンさんもコルマン家になるんですけども、そのいとこになります。
お父さんの祖父母のお子さん、それが3姉妹になるんですけども、ミレイユ、ジャクリーヌ、アンリエット、このコルマン3姉妹というのが戦時中いましたと。
年齢も10歳前後、8歳、9歳、10歳、13歳とかそんなくらいになりますね。っていうコルマン家とすぐご近所にカミンスキ家という家系がいまして、
カミンスキ家にも姉妹がいたと。本当は4姉妹いたんですけども、ちょっと1人は一番末っ子が赤ちゃんだったんで、今回の話の中ではその収容所に送られて姉妹同士が出会うんですけども、
ちょっとこの赤ん坊は赤ちゃんは送られる、収容所送りをちょっと逃れることができたんで、そこから上ですね、このアンドレ・ローズ・ジャンドレ、
この3姉妹がこのコルマン3姉妹と同じ年代でいて、もともとはそんな接点とかご近所というだけであんまりなかったんですけども、ちょっと収容所の中で出会って交流して、
本当にその姉妹のようになっていくという、この6人が、というのがですね、始まりというか、そのような人物相関になります。
で、もうちょっと登場人物はたくさんいるんですけども、ちょっとですね、そこは割愛したいなと思います。
この人物相関図なんですけど、本書の冒頭に入ってまして、かなり繰り返しこのページを開くことになると思います。
この人物相関図のページだけ、ちょっと付箋をいつもと違うところにつけて、そこだけすぐに開けれるようにちょっと工夫しましたね。
ああ、なるほど。超重要ですよね、この絵。
そうですね。もうこのページがないと、この本は読み通せないというぐらい重要なページになりますので。
ではですね、ちょっとストーリーを簡単に説明したいなと思います。
戦時中の収容所での出会い
3章の構成の話にはなるんですけども、ちょっと全体的にもまとめて話していきたいと思います。
で、語り手は著者である黒江コルマンさんと思われる私になります。
で、妹さんがいまして、ある時ですね、この黒江コルマンさんの家の近くに住む女性を紹介します。
で、それはですね、戦時中に亡くなったコルマン家のいとこの3姉妹たちとほとんど姉妹同然に過ごしていた友人の女性、カミンスキ家の3姉妹の女性だったんですけども、
そのカミンスキ家の3姉妹の長女、アンドレですね、この家の近くに亡くなったと聞いていたいとこの3姉妹をよく知る人がいるということで、
このカミンスキ家の長女、アンドレに会いに行きます。で、そこで当時のこととかですね、このいとこの姉妹のこととかですね、いろいろ教えてもらって、
で、同時にですね、この著者がフランスにおける当時のユダヤ人迫害の実態ですね、そこを調べていくという、それが現代のパートになっていきます。
で、もう一つのパートは過去に遡って、この先ほどのアンドレやいとこの姉妹たち、コルマン3姉妹たちが過ごした1942年から始まる戦時中の様子が描かれます。
で、1942年はフランスの小さな田舎町モンタルジーから始まるんですけども、そこではユダヤ人一世謙虚の波が押し寄せていたという状況になります。
で、同じ町にコルマン3姉妹、カミンスキ3姉妹がいて、この姉妹たちが偶然にもちょっと連行された収容所で一緒になって、そこでほとんど本当の姉妹のようにこの6人で過ごすと友情が育まれていくというですね、そのような交流が生まれます。
で、いた収容所でですね、そうして交流深まっていくんですけども、ただそこは長くは続かなくてですね、期間でいうともう7ヶ月の間だったんですけども、ちょっと姉妹たち、コルマン家とカミンスキ家の姉妹たちはちょっと別れてしまうことになります。
で、またちょっと現代のパートに戻って、著者はですね、私はいとこ夫婦であったり、婚籍であったり、あと姉妹たちが過ごしたこの収容所、それがですね、ボーヌラロランド収容所と言うんですけども、そこであったりを調べていって当時の状況を把握していくと、このあたりのですね、この収容所の状況とかですね、結構その実態を小説の中でも詳細に述べられていたりするし、
じゃあそこで子どもたちどういうふうに過ごしていたんだろうかっていうのも結構ですね、このこんだけ過酷だったってことはこんな過ごし方をしていたんじゃないかとかですね、というのがですね、書かれていて、あったかもしれない人々の姿っていうのも、著者が描いたりしています。
さらにですね、あの話は続いて、これもちょっと現代ですね、2020年にちょっと冒頭で説明した、この著者がアンドレに会いに行くというところで、それがですね、2020年に実現します。
で、アンドレは91歳になっていたんですけども、すごく記憶がしっかりしていて、当時のですね、エピソードであったり結構ですね、そういうのを掘り起こして語ってくれます。
収容所に送られる子どもたち
で、ここからですね、もうちょっと話あるんですけど、その当時、子どもたちですね、大人とは別で子どもたちがその選別センターというところに収容されていて、その選別センターというところからさらに各地の収容所に送られたりするんですけども、その何千人単位という子どもたちが、そこのセンターに集められて、
で、1943年になるんですけども、1万5千人以上の子どもたちが殺されてしまったとですね、述べられていて。これはですね、その私にもう一気にですね、何千人単位で収容所に送って殺害したというですね、そういうのが続いていて、
このアンドレですね、1943年に周りの子どもたちがどんどん消えていくのを目の当たりにしてね、ちょっとここにいてはもうまずいというので脱出を決意します。
選別センターの中でも毎週日曜日とかですね、ちょっと一時的に外出許可が降りたりすることがあったりしたので、そういったのを利用してですね、ちょっとこのカミンスケの3姉妹、アンドレがローズジャンネルと一緒に脱出を選んでいこうとします。
で、ここでですね、ちょっと話、最初に戻るんですけども、コルマン家の3姉妹と、期間は7ヶ月間、7ヶ月間しか一緒にいなかったんですけども、別々の道を歩んでいくことになるというですね、ちょっとそのような話になります。
もうちょっと最後に書かれていることはあるんですけども、大まかな話としては以上になりますね。
そうですね。
いやでも、これをちょっと説明したものをですね、読んだら、こういう話だったんだって感じるのは、全然僕が話した印象と違うものを抱くんじゃないかなと思います。
そうですね、このクロエさんもこの時に途中でね、コロナがあったんで、調査を中断するような期間とかもあったりってところも描かれていて、
ほんとこの時代を感じる、この我々と同じ時間を生きているという感じるようなところもすごいあった、エピソードとかも盛り込まれてますね。
さて、じゃあそのところでちょっと話を続けていきますか。
そうですね、なんかこの振り返ってみると、今説明したのって本当に大まかな流れなんですけど、そこ以外のところもすごくたくさん描かれていてですね、
例えばこの、いとこ夫婦、コルマンさん姉妹の両親ですね、を調べていくとですね、なんか一つ面白いと思ったのが、ナタンという友人がいて、この両親には。
男性なんですけど、両親プラスナタンの3人で結構ずっと一緒に過ごしていたって言うんですね。
そう。で、このナタンっていうのはすごい陽気そうな人で、歌とか上手くて、ちょっと歌手かどうかわかんないんですけど、なんかそういうちょっとアーティストっぽいようなタイプの人で、
で、子供たちにもすごい大人気でっていうですね。そう、なんかそんなナタンみたいな人が、っていうそのナタンはなんていうか、最初のこのずっと調べていくまではそんな記録はなくて、
そんな人がいたなんて全然話も聞いてなかったんですけど、調べていくと実はそんな人がいたっていうですね。この辺りがなんかちょっと面白いなと思いましたね。
戦時中の社会とアンドレの生き残り
そうですね、あのこういう存在がちょいちょい描かれる、他にもチョコレートを送れる、あの女性の話とか、あの出てくるんだけれども、この個人の歴史をひもとからこういう人が出てくるみたいな人たちが結構いて、
その感情が乗ってないけれども、なんかちょっとエモさを感じる部分ではちょっとありましたね。
なんかそうですね、その感情がっていうところとあれですけど、なんか著者がいろいろ調べていって、そのいとことかの痕跡を見つけていく、そこのくだりとかやっぱり結構でもこっちがうるっときたりするところがありましたね。
そうですね、なんかね、そのお墓共同墓地を調べていって、そこに行き着いて、で、その墓地の中でこのいとこ夫婦の石碑ですね、そこにあのさっきのナタンの名前まであったんですけども、そういう自分たちが知っている人の名前を石碑の中で発見したりとか、で、そしたら実はちょっと誤字があって、
その夫婦、その旦那さんと奥さんがちょっと離ればたれに名前が載ってたんで、この著者がちょっとそれを誤りを指摘して、ちゃんと隣同士の名前が並ぶように修正してもらったとか、そういうところとかもあったし、あとアンドレに話を聞きに行った時にアンドレがある本を取り出して、その当時戦時中について書かれた本みたいでして、
その本の中の描写にですね、実はアンドレのお母さんが登場するというですね、それがなんか本当に一文なんですね、本の中の一文、彼女たちのうちの一人が家に6ヶ月の赤ん坊を残してきたというですね、この家に6ヶ月の赤ん坊を残してきたというその人はアンドレのお母さんって、そこにね、アンドレがそれを大事に残していたりというですね、結構ね、そういうところとか読むとですね、
本当になんか投げてくるようなね、なんか過剰でしたね。
そうですね。で、あとやっぱりこの本の中ではこのナチの動きのこととかも描かれているわけですけど、まあでもフランス側の何だろうね、決定みたいなところも描かれてたりするんだけれども、
非常に残酷なことが起きているけれども、国家がやってしまっていることだっていうことも描かれて、もちろん触れられていて、72ページの半ばぐらいから始まっていくんだけど、国家がどれほど堕落した嘘をつけるかということに気づくべきだっていう描かれ方してて、
保護するべき人々を殺害するのに、何の良心の過酌もなく、書類に警察の松蔭が押され、副知事は後援にも知事殿に、あるいは知事はお辞儀して大臣に、彼らの署名入りの連行児童名簿を渡すのだっていうね、もうこの国が、この子供たちを連行させる書類をね、が回るっていうことなんだけれども、リストが回るってことなんだけれども、
なんか今のこの我々の感覚からすると、過酌にない感覚からするとおいおいって思うところだけれども、やっぱりこの過酌にいると全然その引力というか力学が全く違うことが働いているので、そこもちょっと感慨支えられるところだし、それによってね本当大量の子供たちが収容所から収容所へ移動して、
で、果てにはアウシュビッツがあるわけですけれども、そこに強制労働とか強制収容所とかに入れられていくっていうのがあるから、実際これはこの本は結構いろんなその辺の前提に関してはあんま触れずに始まっているんだけれども、やっぱ時折ちゃんと触れているとこがあって、ううってなる、結構グサグサくるところもありますね
なんかそのね、国家のそのヤバさみたいなのもそうだし、あともうちょっとその身近な社会っていうところでも、これ114ページでこのアンドレですね、まあアンドレはもうね、その収容所から生き延びて、まあ現代までも生きてるんですけども、まあ生き延びて収容所を出て、モンタルジ、家に戻ってきた時ですね、そしたらなんかそのあら、あなた戻ってきたのねっていうですね、
なんか昔のクラスメイトが言い放ったりとかですね、そうなんか、あとこれはそのもともとっていうか、このあれから収容所に行く前とかに、なんかね、そのアンドレのことをなんかユダコらしいとかですね、
こんなもう、なんていうか、差別して言うような、なんかお店の店主さんがいたんですけど、なんかその店主が相変わらず同じ店にいたりとかですね、アンドレはあの、まあ学校の先生になるんですけども、1950年代、まあ戦争も終わった後なんですけど、
婦人先をですね、なんかわざわざこの収容所があったところのドランシーというところですね、に送られたりとかですね、なんかそういう本当に、なんかわざと嫌がらせてやってるんじゃないかって思うようなですね、なんかそんなあってしまってですね、なんかそのね、なんかその収容所から生き延びたりとか、まあ戦争が終わってもね、その周りの社会がなんか変わってないところがあるっていうですね。
うん、ね。 なんかそこもですね、読んでてかなりちょっと痛い。なんかね、こっちもなんかちょっとね、悲しくなるような、そう、なんかそんな思いましたね。
うん、これこそあれだもんね、両親の過酌がないもんね。この人たちはね。だから、うん、なんかこれに関しては、この本当に、まあ人間という社会っていうかね、人間が作ってる組織社会ではなんか起こりがちなのかもしれないけどね、なんかこう、立場が違うっているから、
まあね、なんかこう、なんかこの当たり前のようにね、この何かをこういうふうに扱ってもいいんだみたいなのが共有されているっていうのはなんかすごく怖いし、やっぱ人間が持つ何か群れとしてのなんか、あれなのかなとちょっと思っちゃったり、まあそこまで話し広げちゃうとあれだけど、でも第三者的に見るとすごくゾッとするポイントではあるなってとこですよね。
いや、他にも何か、何かいっぱいあるんですよね。この、なんかね、そういうのがありますね。例えば、なんか著者はこの収容所で子供たちがやっぱり集められるんですね。その大人とかとかとはまた別で子供ばっかり集めて、で、それもね、なんかすごいもう本当に何千人とかっていうね、集めてね、みんなもう丸刈りにして、で、もう病気とかが起きていったりするんですけども、もう医者とか全然いなくて、
なんかもう、もう訳がわからないまま死んでいったり、あとはね、違う所に怒られて遺葬されたりとかですね。で、両親もいないという。で、著者もですね、両親がいなくなった子供たちがグループを作って、まあそういう中でやっぱグループを作ったりするんですけど、で、グループ作るんですけど、でもすぐやっぱり、なんかその離れ離れになってしまうというのが起きてしまうという。
なんか両親がいなくなった子供たちがグループ作って、で、絶えずお互いを見失い、で、離れていくとき、どんな気持ちになるものかと述べてるんですけど、ね、著者が。これもね、なんかもう想像するだけでも、もうかなりね、なんかちょっときついね、エピソードではあるんですけども、こんなね、そういうことが実際にあったという。
そうだよね。この思いを馳せると、ちょっともうこの辺りはもう、こう言葉を失うようなところではあるけどね。
そうですね。なんかね、そういうのをやっぱ体験して、コルマン3姉妹とか、カミンスケ3姉妹とかも体験していたと思うとですね、いやー、かなりね、なんかもうイメージがちょっとね浮かんでしまって、なかなかね、ちょっとね、言葉にするの難しいんですけども。
という、その大変さも、なんか過去のパートで触れられていて、今のパートですね、なんか現在、この著者がね、その91歳となったアンドレと出会って喋っている話の中では、なんかアンドレのその過去の写真を見て、まあアンドレがその収容所の後、まあその生き延びて、その社会人になっていって、まあ結婚もされてっていうですね、まあいろんな写真を見ると結構その自分に重なるような写真があって、
なんかアンドレはその収容所だけ、なんかそこだけを切り取って生きてた人ではなくて、まあちゃんとね、そのアンドレ個人の人生を歩んできたんだっていうですね、なんか結構著者がね、そこに自分となんか重なるところもあるなーって思ったりする、下りとかもあってですね、なんかそういったところはすごくね、希望を感じるところでもありましたし、なんかいろんな感情をね、なんか読むと、
なんかそのすごく感情がなんかつかみにくい小説かなと思うんですけども、ただ部分部分をなんかね、こうやって振り返ってみると結構いろんな感情こっちも芽生えていたなーっていうのがなんか思いましたね。
そうですよね。 いやーそうそれは本当に思う、なんか、まあちょっとカミンスキさん姉妹とコルマさん姉妹以外にも結構焦点当たられる部分もあって、その人たちとがね、こうどういう扱いを受けていたのかとか、まあ殺されてしまったのかとかっていうところもあると結構ね、ちょっとなかなかあの、まあシンプルに言うと迫ってくるっていう言葉になっちゃうんだけど、なかなかね、ちょっと読んでるとこう、
複雑にもなってくるところがありますね。どこですか、ちょっと。 そうですね。じゃあ最後に、ちょっとこの小説を読んで、なんか感じたことみたいなんですね。
おーはい。 ちょっとそれをですね、なんかちょっと改めて、ちょっと話してみたいなとも思いまして。
うんうんうんうんうん。 そうですね。でも僕はですね、ちょっとこの小説って、まああえて感動的な物語性みたいなものを避けて描かれていたと思っているんですけども、まあそれで、
戦争体験を通じて過去と現在を繋ぐ物語
なんかその、なんかわかりやすいゴールを示しているわけじゃなくて、この小説の中で、なんか事実ベースとか、その著者が調べたり聞いたりしたことをね、なんか提示していって、それをなんか読んだら、じゃあ何が残るのかっていうのは読んだ人次第なのかなっていうですね。
ちょっとそんなタイプの小説かなっていうのは感じていまして、で、その著者が提示していくこの事実のベースのことっていうのが結構このユダヤ人、白外のもえげつな、えげつな差があったり。
で、まあナチスドイツはもちろんなんですけど、まあそこに協力というかね、まあ迎合してしまうフランス政府側もあって。
そう、そんな過去の事実っていうのが結構読んでいくと、やっぱり現在にもつながっていく、なんかそんな感覚があってですね。で、なんかアンドレのね、もう90歳超えていても、やっぱりこのアンドレにとってはその戦争体験したっていう過去っていうのはもう一切消えていないんだなっていうのがね、この話を、アンドレの話を聞くとね、本当思いましたし、今もやっぱり恨みとして残っているところもあるっていうので。
で、なんかその当時からもう半世紀以上経っているんですけど、で、なんかその戦争っていうものに対してのリアリティっていうのが、なんかもしかするとちょっと薄回りつつあるかもしれないっていうですね、中でなんかこういう本を読むとですね、なんか当時の実情に触れるのはそうだし、その当時を知る人が今もこういう感情を抱いているっていうのもですね、なんか同時に感じれて、なんか今社会で起きていることも、なんかそれをなんていうんですかね、
なんかその一面的な見方だけではなくて、やっぱりその過去も過去からつながって今があるわけですし、そうなんかそこのなんか今起きていることに対して、なんか偉大な印象っていうのも変わるんじゃないかなっていうですね、そんなことをふと思ったりしましたね。
そうですね、確かに。そのこの戦争によってどういうことが起きてしまうのかっていうのの、なんかもう一つの例ではあると思うんですよ、この諸説って。だからもう時代が違うし、もうナチスもいないしみたいな、アラシスもいないし、なんかこういう構造の戦争って起きづらいのかなとか思ってはいるけれども、ウクライナとガタに通じるようなものがもしかしたらあるのかなとか思っちゃったりもするし、
で、実際にこの繰り返さないでおこうみたいなことは多くの人が思っているはずなのに、やっぱりいろんなこと起きちゃうっていうことっていうのもあるし、まぁちょっとその辺まで飛んじゃうとあれだけど、うんってところもありますね。で、実際その今ミレイさんが言ったように、このアンドレをね、この主人公が尋ねていった時の空気、まぁ実際にはちょっと穏やかな部分とかも全然耳に言えるんだけれども、
まぁもちろんこの時の強制収容所での体験っていうのは、めちゃめちゃ幼い頃からちょっと成長してる間に起きたことだから、なおさら多分人生に刻まれちゃってるんだろうなっていうのはすごく感じるし、そしてあれだよね、このコルマンさんの親族っていうのがもうなくなってるっていうのもなかなか、このアンドレからしてもね、ちょっと問われたしねっていうところもあって、すごいあれだなと思うところですね。
なんか、まぁこう、ちょっと自分は繰り返しになっちゃうけど、まぁこういう強烈な体験っていうか、強烈なことが描かれている中で、本当こう、まぁ読めばね、こういう感情になっちゃう、こういう感情になっちゃう、こういう感情になっちゃうっていうのも絶対あるんだけど、それでもやっぱりこの作者の方がすごくフラットに描こうとしてるっていうのはすごく感じて、で、ラストもね、まぁ今回やっぱりその、まぁ子供なんだなって思いましたね、テーマはね。
なんか、やっぱりその、生きて成長して大人になって、まぁ大人になることができた人たちで世界は作られていると思うんだけれども、そこに到達しなかった子供たちがたくさんいたっていうことをすごく私は感じてしまったし、まぁそれこそこのラストにも書いてあるけど、やっぱりいろんなものが進んで、子供の生存率っていうのはめちゃめちゃ上がってる世界になってきてると思うけれども、やっぱり幼くして死んでしまった人たちがたくさんいるっていう、でまぁ大人よりも多いんじゃないかっていう。
成長した大人よりも多いんじゃないかっていう、この死だっていうところはちょっとこう、なんかどう受け止めていいかわかんなくなる部分ではあったなっていうところですね。
そうですよね。なんかその子供たちが本当にたくさんいた、存在していたっていうのをすごく感じますし、なんか今回のコルマン家、カミンスキ家の3姉妹って、なんかその偶然その著者の親族が身近なところでこの3姉妹がいたっていう話なんですけども、
まあということは、もう本当世の中に無数の、もう無名かもしれないし記録とかも残ってないかもしれないけども、でもこの小説の人物たちのようにすごい体験をしたりとか、やっぱりその人としてなんか人らしく人生歩んでいたのに突然それが止まってしまうっていうですね、殺されたり迫害されたりっていうですね。
うん。だからそんな人たちが本当にたくさんいるって、まあそれはもう結構ね、それをそういうのを結構強烈になんか意識させられましたね。
うんうんうんうんうん。そうですよね。まあ、で、うん。やっぱこうちょっと大人になっている自分たちはどう生きるのかみたいなところなんだろうね、結局ね。
うん。だし、まあ最後の方で出てくるこの守ってくれるっていう表現があるんですけど、215ページの終わりから216ページの最後のところ。
ああ、ここね、家ですよね。
そう、うんうんうん。そうなんだよね。ここね、うん。もうちょっとなんか、なんて言ってるのかな。この、うん。まあ、自分を守ってくれる衣服、うん。
まあ話を、まあ軽蔑から、跪くことを強要する言葉から、地味で見過ごしてしまいそうな存在のあるとしてもある言葉から、あなたを守ってくれる。それは、まあちょっと、えっと、今引用したことから戻ると、えっと、真面目に生命を与えているすべてのものか、というところに繋がってくるのか。
大地が迎え入れた多くの死んだ子供たち
真面目さを変えた真面目さ。集中していながら同時に不在である存在の在り方。うん。ちょっとこれ、なんか、あの、うまく説明できないんだけれども、うん。この自分を守ってくれるものというか、自分でいられるものっていうか、なんていうか、うん。
自分がどういう世界にいるのかとか、まあ自分が認識できる範囲でしかいれないっていうところもあるけれども、だからその中にどういう態度を取るんだみたいなことだと思うんだけれども、で、それに関して透明になることもできるし、うん。
あの、だからといって、なんか、うーん、なんか、あ、なんだろうな、まあ真剣に取り、まあなんだろ、いろんなものに対して、こう、真面目になる必要と、なんか不真面目にやり過ごしてしまってもいいみたいなところがあるんだろうかなってところ。深い感謝の念を抱くって書かれてるんだけれども、うん。
やっぱりこう、いろんなことがある中で、ここまで行っちゃったらなんだけど、なんか生き方を決められるまでは行かないけれども、なんていうか、少しこう、逃げながらでも自分をこう守れるものがあるのかなっていう、ちょっと意味合いのことが書かれていて、なんか生き方を自分で選択できるっていうことも含まれてはいると思うんだけど、でもなんかそこまで強いわけではなくて、その、
多分攻撃的なこととか、えー、自分を避難されている時とか、そういう時に自分が認識してる世界っていうのに、まあどう立つのかってところで、で別にそれはまあ守ってくれるって言い方をしてるんだけど、まあなんとなく自分はちょっとなんか、そこからちょっと距離を置くことができるんだよっていうようなことを言ってるような気がしましたと。
ちょっとこれラストのとこなんで、結構解釈分かれるところかもしれないんだけど。
いやラストは確かにね、そうですよね。なんかその、こういう、こういった存在の仕方もあって叱るべきだし、というですね、なんかそんな確かにすぐちょっと救われるような言葉かなと思いますし。
僕もそうですね、この最後の同じページ読んでると、この死んだ子供たちについて書いてる箇所もあって、そこのね、最後、この大地が死んだ大人よりずっと多くの死んだ子供たちを迎え入れてきたことを考えると、途方に暮れたと、まあね、著者が書いてるんですけども。
なんか考えてみると、僕も結構同じような気持ちになっていたなと思いましたね。なんか結構この本読んで、これってどうなんだろうっていろいろ考えていくと、途方に暮れてしまうっていうのはね、まさにそうかなって思いますね。
じゃあ最後、どんな人に読んでもらいたいかお話しして終わりたいと思います。ちょっとここ最近、母を失うことを踏まえて、ちょっとこういう個人の歴史からちょっと大きいものに対する視点っていう本がちょっと続いているので、しざが大きくなっているような気が勝手にしてしまうんだけれども。
でもやっぱり大切なのはこの個人の経験、感覚なんだなっていうのをちょっと思い出すことができた、思いを馳せることができた本なので、ちょっと読みにくさすごいあるって話をしていたので、ちょっとなかなかですね、ほんとこれ読んだよって言って読んでくれる人がどれぐらいいるのかなってちょっと不安になるような本ではあるんだけれども。
でもやっぱり読んだら読んだだけ何か返ってくるので、まあちょっと今回の我々のちょっと感想なんかを聞いて、ちょっと手を出してみようかなと思ったら読んでみるのもありかなと思います。ちょっと時間かかっても多分全然いい本だなと思うので、ページ数自体はそこまで厚くないので、ぜひ聞きになったら手を出してみてくださいというところですかね。
そうですね。僕もちょっともうなんかなかなかこういった本を読む機会がちょっとなかったので、まあ母を失うこともそうですけども、何か小説を読んでいて、でもちょっと違ったものを読んでみたいとかですね。なんかまだ自分が、自分とは関係なさそうなものを読んでみたいとかですね。
そういう時に読んでみると、まあ確かにね、この時代も国も違うんで、自分とは関係ないかもしれないけども、でも読んでいくと、いやこれはでも本当に関係ないんだろうかとかですね。なんか自分の中でいろいろ考えてしまうような本かなと思うので、なんかそうですね。なんかそのちょっとわかりにくさみたいなところはあるかもしれないんですけども、でもそれはすごく考える余地がある本ということだと思いますので。
何かちょっと違ったものを読みたいなという時にチャレンジしてもらえたらなと思いますね。
そうですね。じゃあ次回はここで終わりたいと思います。次回はですね、マーティン・エイミスの関心領域をちょっとご紹介したいと思います。今ちょっと映画が話題で、今回の話にも通じるようなちょっと作品ですが、ちょっとこれ映画と原作両方紹介しようと今思ってまして、この収録段階ではまだ我々ちょっと見てもないし読んでもないところなので、どっちの順番がいいかちょっと見てから決めようと思ってるんで、来週どっちから入ってくるかお楽しみにしていただいてください。
番組の最後になりますが、メルマガ会員募集しています。こちら無料版、有料版でございます。無料版はですね、毎回のエピソードで長すぎた部分をカットして音源化して配布しています。あと今後紹介する本の一覧なんかもですね、お送りしているので、ぜひ興味があればご登録ください。
有料版はですね、サポーター特典みたいな感じになってまして、ちょっと我々の雑文をお送りしているんですが、これは我々を応援したい人のためにご用意しているものですので、もしよければご登録ください。こちらの費用は我々の書籍代とか編集ソフト代とかにちょっと当てておりますので、ぜひご協力いただけると嬉しいです。詳しいことは番組概要欄に記載しておりますので、ぜひご確認ください。
では、番組の感想やリクエスト、またこのラジオを聞いて紹介された本を読みました、読み返しましたのでございましたら、ハッシュタグそろとび猫たちをつけて教えていただけると大変嬉しいです。Xやインスタの投稿などでお待ちしております。お便りフォームも番組情報欄に載せておりますので、そちらからいただけるとありがたいです。この番組気に入っていただけましたら、積極的に拡散共有してあげると助かります。番組のお気に入り登録もぜひお願いいたします。ではまた来週。ありがとうございました。
51:58

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