どうもみなさんこんにちは、文学ラジオ空飛び猫たちです。
この番組は、いろんな人に読んでもらいたい、いろんな人に語りたい文学作品を紹介しようコンセプトに、
文学と猫が好きな二人がゆるーくトークするラジオ番組です。
お相手は、私小説が好きなダイチと羊を巡るカフェのミエの二人でトークにします。
文学のプロではない二人ですが、東京と京都を繋いで、お互いに好きな作品をそれぞれの視点で紹介していく番組です。
番組は、概要欄に詳細情報を記載しているので、初めてお聞きになる方など、そちらを見ていただけるとありがたいです。
本日紹介するのは、クラリッセ・リスペクトルさんが書いた、「星の時」という作品になります。
福島伸広さん役、川手書房審査より2021年3月に出版されています。
こちらもですね、先週ご紹介した「星のせいにして」に引き続き、日本翻訳大賞の二次選考に残っている作品でございます。
これ収録は3月13日段階なので、まだ最終候補作等は発表される前なんですが、この二次選考の段階でちょっとご紹介しているという状況になります。
率直な私の印象なんですけど、「星の時」っていう小説自体は知ってました?
発売当時から話題になっていて、売れてる印象がすごいあるんですが、みえさん知ってました?
そうですね、僕も当初から知ってましたし、確かに結構周りの人とかも読んでいたなっていうので、売れていたかもっていうのは思いましたね。
これが売れているっていうのは、一般的にすごい売れているっていうイメージではなくて、海外文学好きはだいたい買ってるよみたいな、そんなイメージですよね。
そうですね、海外文学好きの間で読まれているんじゃないかも。
だから結構気にはなってましたね。
今回実際読んでみて、なかなか紹介するのが難しい小説だなっていうのが率直な感想なんですけど、その辺の感覚も含めて今日はちょっとお話ししていきたいと思います。
じゃあまずですね、ちょっと補足ではないんですが、この作者について少し触れていきたいと思います。
このフラリシスさんはですね、ウクライナ生まれ、ウクライナ出身なんですが、ブラジルに移住していくという影響を持っております。
ブラジルだけじゃなくて、他にもいくつか国は渡り歩いているようなんですけれども、最終的にブラジルのリオに定住することになる方です。
なんでウクライナからっていうのは、ちょっとこれタイムリー、タイムリーなんですけど、ロシアの大戦下に当時もあって、
このユダヤ人迫害から逃れるために一家で移住したという敬語があるみたいです。
今の情勢とはまた違う状況だと思いますが、この方なんですけれども、ブラジルのバージニアウルフと呼ばれるぐらいめちゃくちゃ評価された人物です。
ちょっとこれ、名だたる人がですね、帯裏で褒めてまして、この人すごいなっていうのがちょっと率直な感想ですね。
この作品自体は1977年に描かれている、その年にこのクラリスさんはお亡くなりになっておりまして、この作家の遺作となっております。
そうですね、この本そのものでいうと作りがすごく凝っていて、見た目の部分なんですけども、想定とかすごくおしゃれで、
いやもうなんかその、なんでしょうね、このマカベーヤを語ってるんだけど、それを語ることによってこのロドリーゴっていうのが自分を語っていくっていう構造になっていて、
もうなんかこんなとこに差し込んでくんのかよみたいな感じで、あのそのロドリーゴの自分語りみたいなのが結構頻繁に現れるんですよ。
正直私はもうよくわかんなくて、うざたく感じたんですけど、
でもね、なんかね、なんとも言えない面白さがあるんだよな。ちょっと上手く語らせる自信がないんですけど。
で、この著者からの献辞っていう最初の文章の中に入っている言葉があって、
で、そうか、これ最初にちゃんとこのロドリーゴは我々読者に対して断りを入れてたなっていう部分があって、
読み上げさせてもらうと、ほんと最初なんですけど、「それは僕が自分でしかないことに耐えられないからだ。自分として立ち続けるために僕には他人が必要だ。」って書いてあって、
要は自分というものを、存在を保つためには他人というものが必要なんだっていうことなんだと思うんですけど、
それをこの表現している作品で、この作家のロドリーゴっていう僕が存在し続けるための物語、文章なんだなっていうのが、
ちょっと読み終えるとわかってきて、なかなかすごい小説だったなと思います。
でも、だからなんだってちょっとなっちゃうところもあるんですけど。
こんな作品ですけども、ちょっとこれからあらすじの話をしていこうと思います。
高野からやってきた北東部の女、マカベーヤの人生を語る、彼女、ロドリーゴSM、リオのスラム街でタイピストとして暮らし、映画スターに憧れ、
コカ・コーラとホットドッグが好きで不幸であることを知らない鳥の女の物語は栄光の瞬間へと導かれていく。
23言語で翻訳、世界的再評価の進む20世紀の巨匠が生んだ奇跡の文学となっています。
さっきブラジルのバージニア・ウルフという話もありましたけど、他にも20世紀の最も謎めいた作家の一人とかですね、
パフカやジョイスと並ぶ聖伝に属するとかですね、オブライエン、ボルフェス、ウッサーと並ぶ20世紀の隠れた天才とかですね。
だからもうすごい呼ばれ方をしている、すごい作家さんの奇跡の文学ということになっています。
評価されまくっているからちょっと恐れ多いよね。
本当ね。もうちょっとですね、ざっくりこの話を私の方から分解してみたいと思います。
まずちょっとさっきから話しているように、この作家のロドリーゴの語りから始まる小説でございます。
彼が描くのはマカベアという女性なんですけど、このマカベアという人物が具体的に出てくるのが38ページからなんですね。
この小説170ページぐらいの小説なので、結構ですね、全体のボリュームから見てもこの主人公出てくるの遅いし、
その38ページまでの間、このロドリーゴがひたすら自分が何を語ろうとしているのかを語るっていう前置きがめっちゃ長いんですよ。
そこにはいろんな自分が描かなきゃいけないのはこういうことでとか、なんで描きたくなっているのかとか、なぜ自分は突き動かされているのかとか、
で、急に話が止まって、3日間執筆をやめることにするみたいになって、で、また何食わぬ顔で、そのマカベーヤの時間軸では全く3日間経ってないのに、あのー、実続きで話が展開するっていうところがあって、
3日間、僕は一人で登場人物たちから離れ、我を忘れて、服を脱ぎ捨てるみたいに自分を脱ぎ捨てていた。眠り込むくらいまでに我を忘れるんだ。そして今僕はまた浮かべ上がってきて、マカベーヤを懐かしく思う。続けよう。なんだんだろうっていう。
でも、ここもすごく面白かったですね。で、なんていうか、こういうのがありつつ話が進むんで、やっぱ最後まで全部読むと、やっぱなんかちょっともう全然違う感覚になってるんで。
で、結局この距離感っていうのを最終的には意識できる作品で、なんかすごく面白い。何かを書くっていうことをしてる人からすると、たぶんめちゃくちゃ面白い小説なんじゃないかなとは思いました。
ロドリーゴがちょっとうだうだしてるところが面白さ、ちょっとしたユーモアなところなのかもしれないなとはね、思いました。
その辺なんかちょっとなんだろうな、ロドリーゴのいい加減な感じもちょっとあるかもしれないんですけど、なんか若干ちょっとこれが南米っぽいのかもしれないなと。
思ったりしましたね。
で、ちょっとストーリーというか、マカベアの話をすると、軸であるマカベアの話をすると、私もこれ最初ちょっと読んでるときに、
あの、何だろう、あの、今村夏子の紫のスカートの女を読んでるような感覚がちょっとあって、
あ、まあ、えっと、ちょっと似て非なるものなんですけど、ちょっとその辺を思い出すんじゃないかなと思います。
このマカベアっていう女性がだいぶずれておりまして、世間から。
で、あの、あらすじとかでもあるように、不幸であることを知らなかったみたいな表現がされてるんですけど、
ただ、なんていうか、いろんなことに無自覚なのか天然なのか、言動が結構ひどいんですよ。
デートで訪れた動物園でサイを見て、サイのことをすごく怖がって、その恐怖のあまりおもらしをしてしまうんですけども、
まあ、それを誤魔化したりとかするんですよ。
その話はまあ、それはそれで進んでいくんですけど、
で、最終的にですね、結構彼氏が不器用になっていくんですけど、
それが自分がおもらしたせいだなって思ってしまうところがあって、
で、実際ね、彼氏は全く違う理由ですごい不器用になってるんですけど、
そういうちょっとトンチン感なところがこのマカベアにはあって、
まあ、そのあたりは結構面白いところですね。
で、この彼氏さんをグローリアっていう同僚に取られるんですけど、
そのグローリア、このグローリアもだいぶひどい女なんですけど、
こいつの神経もどうかしてるなって思うんですけど、
グローリアはですね、あのマカベアに、「ねえ、ブサイクなのって苦しい。」って聞くんですよ。
このシーン結構ドキドキで、彼氏を奪った同僚に、「あなたってブサイクだよね。ブサイクなのって苦しい。」って聞く感覚が全くわからなかったんですけど、
まあ、そういうことを言わせしまうようなマカベアだなとは思うんですが、
で、その時のマカベアの会心がもう秀逸で、「あなたはブサイクで苦しいの?」って聞き返すんですよ。
もうこの感覚がもうすごいやばくて、結構このマカベア、このあたりからちょっとですね、
こう言い切ってしまうのはあれなんですけど、今村夏子感がこのあたりはですね、私は感じてですね、結構面白かったですね。
なんだろうな、マカベアの中ではなんか、良かれと思ってであったり、どう答えていいかもわからないから、
なんかそういう会話であったり、そういうやり取りになってしまってるっていうのが、ちゃんと理由もこの文章の中で書かれているので、
そういうのを読むと余計になんかね、かわいそうなところっていうのもあるし、痛さっていうのもやっぱり伝わってきますね。
あとこのロドリーゴがですね、やっぱりこのマカベアをいろんな形で表現していくんですけど、
結構通列だったなと思うのが、かなり印象に残ったりしたのが、彼氏に振られた後のマカベアのことを描いているところで、
ロドリーゴはですね、マカベアのことを、彼女は決まったことしかできない人物と言い出して、絶望しないと表現してるんですね。
で、この時に、これはっていう表現を受けて、悲しみも贅沢品だって言い出すんですよ。
そっか、悲しみって贅沢品なんだっていう、この贅沢をすることを知らない人からは悲しみさえも味わえないのかっていう、
このロドリーゴの感覚がすごい、なんか刺さるというか、なんていうのかな、なんか僕もすごく感じる部分があって、
なかなかすごいことを言い出すなって思いましたね。
うん、確かにね、そんな表現はちょっと僕を初めて出会ったので。
悲しみは贅沢品だって、すごい、すごい感覚だなって、なんかあの想像さえもしなかった言葉だったので、
ハッとさせられたけど、でもなんだろう、なんか飲み込めないまま、今ちょっとモヤッとしますね。
そうですよね。それはマカベイアがそう思ったんじゃなくて、ロドリーゴがマカベイアをそうだって書いてるんで。
でもそういうところで、僕思ったのは、この小説読み終わった後に、一体何だったんだろうかっていう疑問は残りましたね。
面白かったのは、役者跡書きで、作者のクラリスがマカベイアに自分を重ねていて、ロドリーゴにも自分を投影していると。
生きる自分、それがマカベイアで、語る自分、それがロドリーゴと、この2つを分けて生きていかないといけないっていう、
この作者の運命っていうのが体現されているのが、この作品ではないかと、ところがあって。
そこはもう、マカベイアとロドリーゴ、どっちもちょっと哀れに思えたんですけど、
もしかすると、作者自身のことだったのかもしれないとかですね。
ちょっとそんな考えてしまって、あとちょっとこれも後々で思ったことで、ロドリーゴの語りっていうのは、ちょっと言い訳地味なところがあったかなと思って。
で、マカベイア、さっきの悲しみも贅沢品っていうのもそうなんですけども、マカベイアは不幸だったからですね。
今は悲しみは感じてないけど、本当はマカベイアじゃなかったらこれは悲しみを感じるものであるとかですね。
やっぱりその、なかなかマカベイアっていう人間が、ちょっと恵まれない人間であるっていうように書かれているようにも読めてる。
これも最後まで読むとまたちょっと印象が変わるかもしれないですね。
ただ、これ見方によっては、マカベイアこそ本来の人間の姿で、かもしれないって見ることができて、
今の社会の尺度で考えるとマカベイアって不幸になると思うんですけども、
でもその社会の尺度で考えるからそうであって、本来の人って何なんだろうって思った時に、何かね、一体何だろうっていうのはですね、残りますね。
ロドリーゴがマカベイアを愛しているというところで、もしかするとロドリーゴはマカベイアの中に人としての然るものっていうか、こういう感じで、
でもそれを果たしてちゃんと語れていたのかどうかっていうところはちょっと僕もわからなかったですし、
語れていたのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれないしっていう、すごく曖昧なことを思いました。
これは結構もやりますよね。
そうですね。
本編はちょっとこれぐらいにしてですね、最後ちょっとテーマトークを設けてまして、そちらにちょっと移りたいんですけども、
今回ですね、役者跡書にマカベイアとロドリーゴのことを比較している流れでですね、
無知すぎるものか、知りすぎているものか、どちらを憐れむべきなのかという言葉が出てきて、
この言葉は結構跡書読んでも残るワードだったので、ちょっとこれについて2人で話したいなと思います。
知らなすぎるもの、自分が不幸であることさえも知らないものを憐れむべきなのか、良いとするべきなのか悪いとするべきなのか、
全てを知ってしまっている作者である人物を憐れむべきなのか、良いとするか悪いとするか、みたいな感じだと思うんですが、
なかなかこれが結構問いとしては両極端ではあるんですけど。
そうですよね。これも絶対にこうって答えの決まっているものではないので、思うところを話すしかないと思うんですけども。
どうなんでしょうね。でもマカベイアには絶対になりたくはないなとは思います。
自分の置かれている状況っていうのがどうなんだろうな、それがゆえに彼女は自分の幸せだと思って生きてきたわけだから、
それって結構幸せなことだとは思うんですけど、実際にマカベイアみたいになりたくないじゃないですか。
これもどうなんですかね。これも知りすぎているものからの視点だと。
そうですけど、知らないものだったら逆にもうそこで世界が浮き上がってしまっているというかですね。
確かに。知らなければ幸せですもんね。
そうなんですよね。不幸を知らないという。
でも知りすぎてしまうともうあれか。逆に幸せっていうのを味わえない。
幸せを感じられなくなっていくのかな。
そうですね。知れば知るほど悩みは出てくると思うので。
でも一つはやっぱりすでに知っているものとして、僕も大地さんもやっぱり無知すぎる人に戻ることができないというかですね。
やっぱりその人の立場に立つということがもう結構難しいんじゃないかと思うんですね。
戻れないですよね。
お題でどちらを憐れむべきなのかっていうところでいくと、
無知すぎる人を憐れ、かわいそうと思うこと自体が、もしかするともう自分にはできないのかもしれないっていうのはちょっとあってですね。
これは共感とかそういうところなのかもしれないんですけども、
ある意味自分とは違う世界で生きている人で、その人に対しても自分の物差しを当てるっていうことはもうできないんじゃないかなと。
そういうことを知りすぎている人っていうのは、これもその人には何か自分の物差しっていうのをもし当てはめることができるんだったら、
やっぱり哀れに思うところっていうのは出てくるんだろうなと思ったりしてですね。
哀れに思うってなんか結構自分の中では感覚が薄いんだと思うんですけど、どう表現すればいいと思うか悪いと思うかみたいな。
ってことはもうあれか。なんとあれだな、やっぱり知りすぎているものの方が哀れに思うだろうな。
たぶん。
そうだね。
でもさ、そうなっていくとさ、いろんなことをどんどん知れば知るほど、俺たちは哀れになってくる。
そういう運命かもしれない。
なんだろうな、人間というのは。
またちょっとここでSF的な、なんかより高度な宇宙人から見ると人類は未知すぎて、
人類がもしかすると哀れと思っているものは、そんなのも哀れじゃないっていう。
それはもう無知だから、人類の悩みとか、そもそも宇宙的な悩みからするとどうでもいいことじゃんっていう。
確かに。
そんな枕の支点も入ってきそうだし。
確かに。これあれだよね。確かにより知っているものが、なんていうか、どんどん入れここうとなっちゃうけど、
より多くを知っている人から、自分たちよりも知らないことが多い人かを見ると、哀れに思うけど、っていう連鎖ですよね。
そうですね。
いやー、冷静に考えると、日常の素直なところでも起きてるかもね。感情のレベルでも。
で、知らなきゃよかったって思ったりすることもあるしね。
これもね、他者がいて初めて知るってことは、誰か他人があって、で、それをどんどん知っていくことによって、
確かにこう、なんだろう、自分のことを知ることになるんで。
ということは、やっぱり知りすぎたものが、知ることが及ぶのが辛いということなのか。
そうですね。
このロドリーゴも完璧な人間じゃなくて、マカベイアンのような人間を描いてる時点で、
それだけ苦悩が大きかったんじゃないかっていう曲はちょっと感じたりするんですよね。
自分が今の状況だと知りすぎているものっていうところに、ちょっと大きな哀れみってあるのかなと思ったんですけど、
これも自分が置かれている状況が、よりスケールの大きなものとかに出会ってしまった時、
もしかすると、持ちすぎる方に感情が傾くかもしれないなと思うんですよね。そういうのは思いましたね。
じゃあ最後、感想とどの人に読んでもらいたいかお伝えして終わりたいと思います。
で、私の方から。前回の星の精鋭にしてとは真逆で繰り返しになっちゃいますけど、
距離感が来る、距離感がなんか遠いというような感覚がある小説でした。
これは何度か読まないと落ちてこない小説で、今正直1回しか読んでないので、消化不良を起こしているなと思っております。
でもこれやっぱり小説を書くとか書きたいっていう人には、結構読んでもらいたいなと思った小説です。
この視点の入れ方っていうのは、書くという行為を結構客観的に捉えることができる助けになるなと思いました。
これも新潮クレットドックスなんですけど、以前読んだ夜、僕らは輪になって歩くという小説がありまして、
これペルーの人の作家の小説で、ラジオで紹介したわけではないんですけど、
私が個人的に読んだ作品の一つで、ちょっと違うんですが同じような感覚を持った小説です。
それはかなりストーリー性が高い小説で、語りっていうのがちょっと別のところにいたっていうのが後々わかる話なんですけど、
ラテンアメリカの小説ってたまにこういうのに出会うけど、この感覚は何なんだろうなってちょっと思いますね。
どういうこの環境というか感覚がこういう作品を生ませるんだろうっていうのは、やっぱり今回もちょっとクラリスさんはウクライナ生まれですけど、
まあでもブラジルでの経験とか長いと思うので、そのあたりが気になったのはちょっとあります。
ちょっと1回読み直してからまたリベンジしたい作品だなと思いましたね。
確かにね、また読んだ時にどう思うかっていうのは、この作品もそういった印象とかもまた変わりそうですよね。
いや全く変わると思うな、これは。
ちょっとね、なんか捉えどころのない小説で、今回はこんな話ですよって簡単には紹介しづらかったなと思いましたね。
そうですね、やっぱり単純にマカブエアの物語を不幸でしたって片付けるわけにもいかなくて、どういう解釈ができるかって考えていくっていうのが、
この小説を考える上で大事なのかなと思います。
1回目読んだ感じでは。
あとはやっぱり、ドリーゴ・マカブエア、作者のクラリシステという、そういった人たちのいろんな角度から想像できる余地があるっていうところも面白いところで、
不思議な小説ではあるんですけど、これが作家クラリシステの祈りであり叫びであると思ったとしたら、
もしかするとこういう作家の声に触れてみるっていうのも、ひとつの経験として面白いものかなというのは思いました。
いや、なかなかすごい作品ではあるのは間違いないんですけど、やっぱこううまく話せなかったなっていうのがちょっとありますが、
まあ、みなさんもちょっとぜひ読んでみて、あーもうわかんないってなったらその気持ちは共有できると思うんで、
ぜひ読んだ後、我々のSNSアカウントとかに連絡くれたらなと思います。
じゃあ、次回告知で終わります。
次回はですね、番外編となります。
計算が間違いなければが前提なんですけれども、
次回がですね、このラジオ100回目の配信になります。