2025/05/23
サマリー
運動会を含む学校行事の必要性について議論が行われています。子供たちの挑戦を奪うことへの懸念や、教育現場におけるプロセス重視の重要性が強調されています。
運動会の意義への疑問
おはようございます。花火鑑賞士、気象予報士の鶴岡慶子です。 この配信では、花火や天気、言葉に関することなどをお話ししています。
毎朝更新している声の日記です。今日も最後までお付き合いください。 SNSでこんな投稿を見かけました。
運動会、そろそろやめにしませんか?というものです。 理由はこうです。
熱中症になる子どもが多いのはもちろん、運動が苦手な子を保護者の前でさらし者にするような行事は、もうやめるべきでは。
運動会でしか輝けない子がいるって言われるけれど、それって運動会じゃなくてもいいんじゃない?
対外試合で活躍すればいいし、先生の負担も減る。 こういう投稿だったんです。
なるほど、こういう声があったりして、学習発表会で例えば桃太郎の劇をやろうとして、桃太郎役が何人もいたりすると、それってなんだかよくわからなくなったりします。
こういうことを聞いていつも思うのは、少数の意見も大事なんだけど、すべて少数の意見、しかも大声を出した人に合わせるっていうのはおかしいなっていうことです。
運動会、そろそろやめにしませんか? 同じ論法で言いますと、課外授業もバスに寄っちゃうしやめませんか?だし、
音楽会、そろそろやめませんか? 学習発表会、そろそろやめにしませんか?
文化祭もやめませんか? 修学旅行もやめにしませんか?ということじゃないでしょうか。
対外試合で活躍すればいいし、というのであれば、課外授業、社会科見学も、音楽会も、学習発表も、文化祭も、修学旅行も、同じ論法で行くと家庭でやってもらえばいいということになります。
学びの環境について
それこそ先生の負担が減るってもんですからね。
運動が苦手な子が晒し者になるとか、リレーで足が速い子が遅い子と組むと損をするとか、
運動会で感じること、学べることってそれだけなんですかね。 運動も勉強も芸術も得意不得意があります。
学校教育の中では勝ち負けや順位だけじゃなくて、挑戦することだったり協力すること、
あとはその中で育まれる学び合いだったり、そのプロセス、過程が大事だなって思うんです。
学校現場のお話をしますと、教科書っていう言葉、これ略語だってご存知ですか?
正式名称は何かっていうと教科書用図書というものです。教科書用図書の略語が教科書なんです。
つまり教科に使うために編集された、いわば公認の教材というわけですね。
でも教科書って教える科目の本と書きますから、どこか一方的で教える側の視点に立った言葉だなとも思います。
あるいは教わる科目の本と捉えたとして非常に受け身ですよね。
もう一つ、教室も漢字では教える部屋、教わる部屋と書きます。
でも教えるだけじゃなくて、教わるだけじゃなくて、子供たちが主体的に学んで挑戦して失敗も経験していく、
そういう空間としての場所であってほしいなって思うんですよね。
それを反映するとするならば、教室ではなくてもしかしたら学習する部屋、学室という名前がもっといいなって思ったりします。
それはまあ置いといたとして、そろそろ運動会をやめませんかっていう、そういう考えをする大人に囲まれる子供って挑戦をする経験を得られる場が少なくなってしまうって思うんですね。
教室も教科書も学校行事も教わる場じゃなく、誰かに見守られながら安全を確保されながら安心して挑戦していい場所なんですよね。
だから決して傷つかない場所ではないんです。
傷つくこともあるでしょうけれども、失敗してもやり直せる場所なんですよね。
なんか嫌だったんだよねとか面倒だよねとか、そう言って避けられたり逃げられたりするほど社会は甘くないですよね。
もっと言うと、学校では何かを活動するその過程、プロセスを見てもらえますが、社会ではプロセスなんかよりも頑張ってるねじゃなく、どうなってるっていうことの方が大事なんですよね。
成果が大事なんです。
そろそろ売り上げ考えるのやめませんか。
そんなことあり得ないですよね。
子供時代よりも大人として生きる時間の方がずっと人生長いですから、学びの場には安心と同じぐらい、挑戦することが必要だと思います。
それはたとえ小さな挑戦だったとしても、その挑戦する機会を奪うべきではない。大人がそれを言っちゃいけないなって思いました。
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それではまた明日。
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