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おはようございます、鶴岡慶子です。
この配信では、花火や天気、言葉に関することなどをお話ししています。
視界やナレーションを通じて日々感じたことなどを語る声の日記です。
日本の秋田県から毎朝更新しています。
今日は、葬儀司会で担当した方のお話です。
昨日担当した方は、昭和2年生まれの女性でした。
ご主人を30年前に亡くされていたんですが、その後、私が今あるのは夫のおかげだから、ということで、
お寺に通ってお経を覚えて、毎日お仏壇に唱えていたり、仲間とゲートボールで汗を流したりとか、
あとは地域の民謡クラブに通ったりと、本当にたくましく生きた方だったんですね。
昭和2年生まれですから、戦争も体験しています。
秋田市の北部で生まれ育って8人兄弟、弟は学徒出陣で戦地に行きました。
終戦前夜の昭和20年8月14日。
どんな日なのか、皆さん。
ご存知ですか?
土崎空襲の被害と逃げる人々
この日は、秋田市北部に位置する土崎地区が空襲に襲われた日なんです。
8月14日午後10時半頃から15日未明にかけて、この土崎地区というのはおよそ4時間にわたって激しい空襲を受けたんです。
この空襲は、日本で最後の空襲と呼ばれています。
この土崎空襲の攻撃目標は、
最大の産油量を上げていた日本石油秋田製油場だったんですけれども、
もちろんこれはそこだけの話じゃなくて、近隣の民家も、当然といえば当然ですけれども、本当に大きな被害を受けました。
この土崎空襲は、グアム島を出発したアメリカ軍のB-29を中心とした爆撃機132機が、
12,047発、953.9トンの爆弾を投下したんです。
私たちは歴史を知っていますけれども、この半日後に戦争は終わるんです。
でも、犠牲者は、氏名を確認できた一般市民が91名、軍人50名、確認できない人を合わせると250名以上を数えます。
製油所のほか、104個が全焼、そして全半壊したと言われています。
この時のことを、私の父からも話を聞いたことがあります。
父は当時、まだまだ幼かったんですけれども、30キロ離れた自宅から、土崎の空が真っ赤に燃えているのが見えたと話してくれたことがあります。
燃え続ける火が消えるまで、実に1週間ほどかかったという資料も残っています。
さて、葬儀の話に戻るんですが、今回担当した昭和2年生まれの女性なんですが、
この土崎空襲の時のことを、ご遺族、お子様たちによく話していたそうなんです。
その時は、夜だったのに辺りはすごく明るくなって、爆撃機B-29が飛んでいくと、田んぼの稲が風で大きく揺れるのが見えたということなんです。
それほどに明るかったということなんですよね。
そして、この故人を含め、地域の人たちは必死に山の方に逃げたという内容だったと、そんなふうにお聞きしました。
生き抜いた女性の幸せな過程
まさに、昨日、葬儀が行われた場所は、土崎ホールというところです。
まさに、その土崎地区にあるホールです。
まさに、その土崎地区にあるホールです。
まさに、その土崎地区にあるホールです。
まさに、その土崎地区にあるホールです。
そこで、司会を担当してきました。
ニュースを見ると、明日の命がわからずに生きている人たちがたくさん世界中にはいるんだということを、毎日のように見ている中で、
昨日のこの話を聞きながら、ぜひ、故人追悼のプロフィール紹介の中で、土崎空襲を経験したんだということを入れ込みたいなと思いました。
そして、必死にこの方が生き抜いたこと、ひたむきに生きたこと、
そして、その後、幸せな過程を築いたことも、ちゃんとちゃんと話したいなと思いました。
今日は、葬儀司会で担当した方のお話、ご紹介しました。
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では、また明日もお会いしましょう。
鶴岡恵子でした。