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2022-07-29 10:22

#152 いわき市にあるアニメスタジオのスタジオダブについてのあれこれ話

1980年代の中ごろから2000年代にかけてたくさんの優れたアニメ作品を制作したいわき市のスタジオダブ。それらが福島県内で生み出されていたことにあまり知られていないのが残念です。自分の知っている創設時の状況などをあれこれ話してみています。

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はい、おはようございます。本日の放送は、2022年の7月29日、金曜日です。
本日は、第152回目のお話となります。
このチャンネルは、福島県高齢無視在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことをだらだらとナッシュをしていくという番組です。
そんな親父の一言を聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい、悪意がなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご引きのほどよろしくお願いいたします。
この間、水木しげうさんの展示会の方に行ってきましたって話をいたしました。
いわき市に行ったんでね、そのついでにですね、明治団地の方へぐるっと回りましたね。
そして、スタジオダブのところを見学してきたんですよ。
スタジオダブっていうのは、いわき市にあるアニメスタジオです。
このスタジオダブがですね、バンダイナムコピクチャーズの子会社であるバンダイナムコピクチャーズいわき、BNPいわきになったっていうんでね、そう確認しに行ったわけですね。
ですけどね、スタジオダブはスタジオダブとしてちゃんと存在していました。
相変わらずですね、草がコインランドリーになってましたね。そのコインランドリーの方はちゃんと動いておりました。
ダブが作った子会社、アーククリエーション、こちらの方はですね、実質バンダイナムコピクチャーズいわきになったっていうのが本当のところみたいですね。
なんか外から眺めてただけですよね。そちらの方は忙しそうに車が出入りしてましたね。
1980年代から90年代にかけてですね、スタジオダブっていうのは非常に活躍したアニメスタジオだったんですよ。
サンライズだとかね、東映アニメーションのアニメのね、かなりな作品がこのいわき市のスタジオダブで作られていたんですね。
この代表者の方がですね、八幡忠さんって言うんです。現在だとちょうど80歳でしょうかね。いわき市出身の方なんですよ。
もともとはですね、電気メーカーで働いていたらしいんですけどね、漫画が大好きだったんでね、手塚治虫さんに憧れて旧ムシプロに入社したんですね。
そのムシプロで作画マンをされていたんですけども、ジャングル大帝とかね、あるいはワンパク探偵団などに参加していたんですね。
24歳前後でしょうかね。ムシプロが成人向けに作ったアニメ映画のアニメラマ千夜一夜物語などの制作にも参加しているそうです。
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ムシプロ以外の作品だとね、東映アニメなんですけども、スタジオゼロとムシプロが参加して作ったサブ都市取物控えなどにも参加していたらしいですね。
当時のエピソードとしましてね、ムシプロに入ってきたばかりの安彦義一さん、ガンダムのキャラクターですよね。その安彦義一さんについてね、作画について教えたらしいんですよ。
ですけどもね、安彦さんを教えることはなかったというほどですね、優秀な作画マンだったらしいです。
当時のムシプロはですね、今だったらありえないぐらいの労働環境だったみたいなんですよね。月の残業70時間は当たり前ってことらしいんですよね。
70時間以上残業してもね、でもそれ以上残業代は出ないよって言うのでね、将来ね、有給休暇がありますからって言うのでね、そして仕事にしていたって言うんですよ。
結局ムシプロが76年に倒産した時にですね、チャラにされちゃったって言うんですね。
そんなこともありまして、八幡さんはですね、過酷な労働が経ったのからですね、体を壊してしまうんですね。
そのため、故郷の岩岸へ戻って身体の療養生活を始めたらしいんですよね。
その時ですね、岩岸に戻ったものの仕事としてアニメの作画は続けていてね、昔の姿勢でアニメ制作に関係していたそうなんですよね。
日本昔話などにも関わっていたそうなんですよ。
それで後、ムシプロから別れたグループがありまして、その会社が作ったのがサンライズなんですね。
というので、そのサンライズからですね、やっぱり話が元の仲間だというので、八幡さんのところに来るわけですね。
そして特にですね、サンライズの方ではですね、ガンダムで80年代にアニメ大ブームが来てね、人手が非常に足りなかったんですね。
サンライズの方から仕事もたくさんですね、八幡さんのところに来るようになったんですよ。
というわけで、八幡さんはこのチャンスと思ったのか、一人ではどうしようもないと思ったのかね、夜明け時にアニメスタジオを作ったんですね。
それがスタジオダブなんです。
ダブっていうのはね、野生の鳩っていう意味でしょうかね、トレードマークが鳩のマークなんですね。
というわけで作ったのが1983年なんです。
八幡さんが41歳頃ですかね。
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実を言うと八幡さんと同じくですね、虫子で仕上げの仕事をしていてですね、同じ校にアニメスタジオを作った人がいるんですよ。
その人の場合はね、結婚のため京都に移ってね、仕上げの仕事をしていてね、
そしてそれでまあ人手が足りなかったっていうね、で会社を作ったという方です。
それが八幡陽子さんという方で、要するに京都アニメーションですよ、京アニ。
その80年代の頃のアニメブーム、それであちこちにアニメスタジオを地方に放ってきたってことですね。
というわけでですね、1983年に大アニメブームの真っ只中、新聞に求人知らしを出したんですね。
県内からですね、アニメに関係したい、仕事をしたいという若い人がね、大勢集まるようになったんですよ。
八幡さん自身はね、その後もアニメ作画監督として活躍されていまして、
サンライズの装甲機兵ボトムスだとかね、あるいは国際映画社の超高速ガルビオンだとかね、
あるいは東映のトランスフォーマー・ザ・ヘッドマスターズだとか、
スタジオピエロの気まぐれオレンジロード、そんな感じで作画監督ですね、されてるんですね。
そして湯脇街でもね、スタジオダブはですね、エリアを拾いまして、
大韓民国の方にソウルダブっていうのを作ります。
中国の方にね、上海ダブっていうのを作りますし、
ベトナムの方にはね、そちらの方もダブを作るんですね。
というので海外でね、アニメの人材を育成してね、日本のスタッフを派遣して行ってたらしいんですよね。
多分ですね、自分がね、東京から生まれた湯脇でね、アニメスタジオをしているっていうので、
これはですね、他の海外でもできるんじゃないかっていうので、
海外の方でね、自分の会社の子会社を作ったんでしょうかね。
一方ですね、1999年にね、八幡さんはですね、57歳頃なんですが、
スタジオダブの子会社の有限会社アーククリエーションを設立するんですよ。
全てデジタル化した会社です。
今の2020年だとね、当たり前のことですけども、投資としては画期的だったんですね。
これもまた、湯脇市がですね、東京から離れたところにあるってことでしょうかね。
というわけで、デジタル化すれば、そうすれば東京と同じことが仕事ができるってことで、
そちらの方にシフトしたんだと思うんですよね。
普通だったらですね、年齢的に機械に弱くなる年齢の時にですね、完全デジタル化っていうチャレンジをする気になったのもですね、
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先ほど言いましたけど、虫プロに入社する前にね、電気メーカーに勤めていたってこともね、理由だと思うんですよね。
そんな中でね、1980年代中頃からですね、90年代にかけて、あちこちにスタジオダブっていう名前を見ることがあると思います。
湯脇市のところでね、アニメーションを作ってたんだな。
そしてそのアニメーションの会社がね、たくさん海外のところにアニメーションの技術をもたらして、
そしてデジタル化、そちらの方にチャレンジしたんだなってことを知ってもらうといいかなと思っております。
それではまた次回よろしく。ペンキちゃんと話をお付き合いくださいね。
本日もお聞き下さいまして誠にありがとうございました。
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