大学入学の経緯
はい、おはようございます。本日の放送は、2025年の10月4日、土曜日です。
本日は第1315回目のお話となります。
このチャンネルは、福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が、
日々気になったことをダラダラと話をしていくという番組です。
よろしくお願い致しまーす。
今回はですね、推し勝二次元ライフラジオの水城誠さんの企画のポッキャトーク、
ヤングアダルト編に挑戦致しまーす。
イェーイ!
ヤングアダルト編って、20歳ぐらいの頃何してた?ってお題らしいので、
今回、自分の大学時代の話をしようと思います。
話は、大学に合格した時の話から始まるんですが、
ちょっと事情がありまして、実は3歳上の兄が産老してまして、
結果同じ年に、兄、老人明けの1年生。
私、現役の1年生。
というダブルで大学1年生となりました。
兄弟で私立大学の1年って、親からしたら地獄じゃないですか。
そんなわけで、私は高校時代から絶対に老人するなと親に言われ、
合格確実な大学だけを受験することになりました。
で、合格したのですが、親に負担をかけたくなくて選んだのが、
家賃4500円の下宿です。
4500円、安すぎでしょ。
当時でもこれ激安でした。
もちろん激安なのには理由があって、部屋が台形なんです。
4畳半って言うけど、入り口から見たら6畳間、
窓側から見たら3畳間にしか見えないという錯覚間取りでした。
位置が変わると身長が違って見えるトリックアートのような部屋でした。
しかも壁の向こうには共同洗濯機があるので、
常に誰かが洗濯していて、ブンブンブーンと響いている。
さらに自分の窓の外はみんなの物干し台になっていて、
誰でも窓から自分の部屋の中を覗けるという部屋でした。
オタクサークルの活動
食事付きの下宿で、仕送り3万もあれば生きていける生活でした。
自分大学に入ったら、当時あちこちの大学にあったSF研究会に入りたかったんです。
SF研究会、昔はいろんな大学にあったんです。
ところが自分の入った大学にそんなサークルはなかったんです。
読書系のサークルもなし。
次に入りたかったのは映画研究会なんですが、それもなし。
仕方なく一番近い漫画アニメ研究会に入会しました。
同人誌作っているし、映画も作っているからと。
これが運命の分かれ道でした。
当時大和ガンダムの大ブームの後、そのサークルには60人以上のオタクが集結していました。
中にはエッチな同人誌をコミケで売って学費を稼ぐ先輩とか、
フラット大学を辞めてアニメーターになってしまう先輩とか、
みんなに長老と呼ばれる7年生の先輩とか、
あんまり人生の参考にしてはいけない先輩ばかり。
毎日昼休みにも集会があり、学食で定食を素早く流し込んで、
残りの45分をミーティングというオタクトークをしていました。
夜は夜でサークル活動に呼ばれます。
60人もいるというので、サークル内向けの手書きのオタク新聞を週に発行して、
年に6冊も同人誌を作ったりしていました。
さらに実績アニメや8ミリ特撮映画まで作ります。
土曜日は毎週徹夜。
夏休みには合宿としたタコ部屋がなっていてセルガ地獄、
睡眠3時間で1週間続けてアニメのセルガを描き続けるという、
完全にブラック企業の研修合宿か、信仰宗教の洗脳部屋でした。
年に1回の学園祭では、近所の子供たちに売り付ける人気アニメのパチモンバッジや、
偽のアニメセルガ、ガレージキットで勝手に復習したフィギュアを販売して、
映画制作の財源を作りました。
その他、ローカルな同人誌即売会を企画したり、
勝手にアニメ映画の上映会を行ったりしていました。
その忙しい特撮アニメの活動の一方で、自分は元々SF小説が好きだったので、
隣の大学校にあるSF研によく出張していました。
また市内の創作系SFサークルに参加して、
SF同人誌を作ったりしていました。
ゴールデンウィークはSFセミナー、夏は日本SF大会、
秋は新潟県のローカルSFコンベンションのガタコンなど、
まさにSFイベントのオタク武者修行も続けていました。
大学院での経験
その頃自分、全国のオタクってみんなこのように忙しいんだって思ってたんです。
それが普通なんだって。
ずーっと後になって、漫画の原子研を読んでショックを受けました。
えっ、こんなにゆるくてもオタクって言っていいの?
原子研と違ってデートもバイトもする時間もゼロ。
大学の便所以外はもうオタク活動一直線。
下宿の仲間も変人ぞろいでした。
ある人はミニFM局を自作していて、
半径100メートルにしか電波が届かない放送局を下宿に作って放送していました。
自分も参加してラジオ番組の真似事をして遊んでました。
ミニFMの中継器を作って大学周辺の下宿に置いていけば、
いずれは大学全体をミニFM局で覆えるはずだっていう夢は大きかったんですが、
誰もその放送を聞いてこれなくて、下宿の仲間も聞いてなくて、
このポッドキャストを聞く人が少なくても耐えていられるのはこの頃より真下からかもしれません。
また当時の下宿では入学すると吐くまでお酒を飲まされるのは当たり前でした。
宴会部屋からトイレまで新聞紙を広げていくのは一年生の仕事。
いつ入ってもOK状態で宴会がスタート。
野球の宿外のビールがけじゃないって。
女性が全くいないグランブル状態。
当時アルコールハラスメントなんて概念がなかったんですからひどいもんですよ。
大学2年になった時は仕送りのお金を貯めていたのがたまったのでパソコンを買いました。
とはいっても今のパソコンと違って当時のパソコンって驚くほど何もできないんです。
ベーシックという言語の勉強しかできない。
パソコン雑誌に載っているプログラムを自分でちまちまと打ち込んでようやく簡単なプログラムが動く。
データの保存はカセットテープフロッピーディスクもなかったです。
保存に失敗すると入力した3時間の努力がすべてピーって消えて終了という残酷なものでした。
うちにパソコンのゲームソフトが通販で売られるようになり
自分の部屋でゲームができるようになると下宿の先輩たちが遊びにやってきて自分の部屋がゲームせん状態。
人が大学に行っていない間も平気でパソコンで遊んでいる状態。
大学3年になって下宿をおさらばして風呂トイレ共同のアパートに移りました。
この頃この漫画アニメサークルから足を洗って独自に sf のサークル作ろうかと思っていたら
漫画アニメ会長に強制就任。
なぜか就任式は幽霊の出ることで有名な心霊トンネルでの引き継ぎ式。
どこの階段サークルだよ。
この頃サークル内であちこちの心霊スポットに行くのも流行っていました。
そして大学4年。就活と卒業でサークルをほとんどフェードアウト
のはずなんですが、体はすでに完全にオタク仕様、オタク活動を続けていました。
その頃兄は映画オタクになって映画を見すぎて大学を留年。
弟の後輩になるのはというので大学中退。映画業界へ。
親の経済的にどうやら自分大学院に進学してもいいらしいみたいなことで親に頼んで進学。
結局大学院でもオタク活動を継続。 その大学院の頃はパソコン通信という新たな武器を手に入れて
全国のオタクとつながりができるようになり、さらにどっぷり深みに。
というわけでたまたま入ったオタクの虎の穴のようなサークルで3年間しごかれてすっかり特撮 アニメ漫画のオタクになってしまったよというお話でした。
女性なんて不思議な存在がいることに気づいたのは大学院の修士課程を終えてからでした。 遅いですね。
それからうーんと何十年。 未だにオタクのことを続けているというか、抜け出せないのはあの大学時代の経験があったせいですね。
はいそれではまたもしよろしければピョン吉のオタクの話にお付き合いくださいね。 本日もお聞き下さいまして誠にありがとうございました。