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2023-07-14 11:59

#501 会津若松出身の山田広野監督の本を読んでますます観たいと思った話

会津若松出身の山田広野監督の「山田広野の活弁半生劇場 活弁映画監督のつくりかた」を読みました。当時の会津のテレビや映画の状況など懐かしかったです。どのようにして映画を作るようになったのか、活弁士になったのかエピソードが面白かったです。この本を読み、一度も観たことがない山田広野さんの作品がますます観たいと思いました。

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サマリー

福島県出身の山田広野監督の本を読んでいます。読んでいるうちにますます彼の映画を観たくなりました。

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はい、おはようございます。本日の放送は2023年の7月13日、木曜日です。 本日は第501回目のお話となります。
このチャンネルは福島県郡橋市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことをただただ話をしていくという番組です。
そんな親父の一言をお聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい、悪意はなかったんです。
今後もこの番組に意気を持ってしまったら、ぜひ今後もご引きのほどよろしくお願い致します。
山田広野の滑弁反省劇場 滑弁映画監督の作り方
ようやく読みました。山田広野の滑弁反省劇場 滑弁映画監督の作り方
2009年にですね、ポッド出版というところから出している本です。 山田広野さんという名前を知ったのはですね、7年ほど前ですかね。
県内出身の映画監督をですね、ネットで検索していましたね。映画監督をしている。 しかもですね、滑弁師もされているっていうね。
というのでびっくりしたんですね。 滑弁というのはですね、映画に合わせて話をしていく仕事です。
昔ですね、映画は音がない時代、サイレント映画っていう時代ですね。 その時ですね、その映画を盛り上げるためにいたお仕事なんですね。
ウキペディアにですね、山田広野、1973年は福島県出身の滑弁師、映画監督、様々な挑戦を行い、自らの活動作品をネオ滑弁と称するって書いてあったんで、気になってたんですね。
しかしですね、その作品を実際見たことがないんですよ。 福島県の方にですね、なかなか仕事できてくれないんでね、見ることができないんですね。
そしてですね、この本ですね、アマゾンの方で販売していると気づきましてね、買おうかどうかと悩みましてね、アマゾンの欲しいものリストに入れてあったんですね。
映画作品を見ましてね、気に入ったらですね、購入しようとね、待ってたんですね。 ところがですね、その機会はですね、ずっと訪れなかったんですね。
7年ぐらい過ぎてしまいました。 その間にですね、3年ほど前ですかね、東京の方で活動されている
もとみや映画劇場のその3代目さん、やってますですね。 もとみや映画劇場祭っていうイベントがあるんですよね。
そのイベントの方でね、司会をされているっていうニュースが流れてきたんですね。 わー面白い繋がりだなぁ。
もとみや映画劇場、そちらの方と滑弁。 面白いなぁと思ったんですね。でもそちらの方も東京でやってるんですね。だから見に行くことできないんですね。
で結局、映画を見たこともないんでね、本も買わないものはあったんですよ。 どんな作品を作ってかも全然わかんないんですね。
すっかり忘れていたんですよね。その本がですね、図書館にあったんですよ。 というわけでね、借りて読んだわけなんですね。
いまだに映画を一つも見てないんですね。
まずこの本が出された背景を推察しますとね、2009年に出た、バサラ人間って言うんですね。 バサラ人間って映画ね、その時ですね、山田博の監督がね、映画を公開させたんですね。
で、山田博の監督がどういう人かを形にしようとして、そういう動きがあったんで、この本が出たんでしょうね。
バサラ人間、これまでね、滑弁でね、自分の映画を公開してましたんでね。 政府がある映画なんで、陶器って言ってるのがね、笑えますね。
バサラ人間の主演はですね、この間亡くなられたダン・ジロウさんです。 自分たちの世代はね、帰ってきたウルトラマンのね、ゴーヒデキ。
あと少年探偵団のね、怪人二重面相の方ですよ。 その方がね、主演されてるんですね。
山田広野の映画制作の思い
これまでですね、ウキプリであります1973年生まれっていうことしか分からなかったんですね。 この本を読みましてね、藍澤若松氏出身ってことが分かりました。
自分よりね、ちょっと下なんですけどね。 そんな福島県の子供時代のテレビ屋とかね、映画の話が書いてありましたね。
うんうん、そうだったね、そうだったねっていうふうに読みましたね。 子供時代ですね、福島県のテレビ屋ですね、再放送天国って書いてあるんですね。
早朝ですね、つぶらやプロ作品でね、起きましてね。 そして、ザ・トーイチ物語とかね、必殺シリーズだとか、ザ・ハングマン、ルパン三世、
5時ごろからね、懐かしいアニメ。そういったのがね、空いてる時間で放送されていたんですね。 書かれてあるようにですね、つぶらやプロが作った
恐怖劇場アンバランス、これなんかも放送してたんでね、私も喜んで見ましたね。
またあと、合図若松にはね、当時映画館が3館あったそうなんですね。 子供時代ね、ご時代の映画、そういったものね、様々な映画を見ることができたらしいんですね。
そして映画不安になったそうなんですね。 今は合図若松ですね、映画館が全くない町になってますよね。
非常に残念な話です。 そして、まあ中学時代にですね、高校の映画部が作ったですね、
名も知らない監督によるですね、術製作バカ映画、それに出会ったそうなんですよ。
うんうん、要するに自分たちの世代の映画ですよね。 当時ですね、高校生はですね、少年時代に見えましたね。仮面ライダーとかね、ウルトラマン、それに影響されましたね。
自分たちね、仮面ライダー本郷みたいなやつ、それをたくさん作ってたんですね。 まあそのうちの一人がですね、あの新仮面ライダーを作った庵野秀明監督ですよ。
あんな風になってね、大人になったのも作ってる人たちいるんですよね。 そのおバカ映画に出会ってしまったのね、人生を変えてしまったようですね。
その後ですね、山田さんはね、映画監督になりたいって言いましたね。 映像系の大学を受験するんですが、全てダメと。
ローンにしてね、さらに受験をするんですが、やっぱりダメで、映像系の専門学校に行ったようなんですね。 そして卒業してレンタルビデオのバイトをしながらですね、次第次第に自分のね、映画を作っていくようになるみたいですね。
ただですね、ちょっと驚いたのはですね、専門学校に行ったらですね、やっぱり映画作ってなったらね、ピアフィルムフェスティバルとか、あるいはイメージホラーのね、映画とか、そういった感じのね、
そういった映画関係のね、方向に行かないんでね、中学の時に見たらですね、現在でいうとこのおばか映画、そちらの方に進んでいったってことですね。
当時ですね、自分たちもね、憧れだったZC1000というカメラをですね、8ミリカメラ、それをね、手に入れましてね、そして映画を作っていったらしいんですがね、
途中でですね、画面がね、暗いと、音が悪いってことでね、70万円ぐらいのね、高級なビデオカメラを使いましてね、撮影するようになるらしいんですね。
で、それを使いましてね、この本を書く時にはですね、もう200本以上のね、映画を作ったという話なんですね。
リリー・フランキーさんとの関係
どうしてね、バイト生活しているのに70万円というね、高級なね、カメラを使えたのかと言いましたね。
そこにはですね、俳優でありね、文筆家であるリリー・フランキーさんが絡んでるんですね。
リリー・フランキーさん、当時ですね、ロフトワンというところで使いましてね、スナックリリーって名乗りました。そういったイベントをやっていたらしいんですね。
そこに通ううちにですね、リリー・フランキーさんからですね、毎回この場所を使ってね、映画の発表する機会を得たらしいんですね。
というわけで、人前にですね、映画を発表する機会がね、与えられたんですよ。
で、あの当初ね、8ミリ映画で作った作品を映像した方がですね、そしたら暗い。
というので、フランキーさんからですね、ビデオカメラ、高いのを借りたらしいんですね。で、そのまま返してないという状態らしいです。
この本にはですね、中頃にね、リリー・フランキーさんとの対談もね、入ってますね。読んでみるところが面白いんですね。
何をしてもね、容認されるんでね、普通じゃね、意味不明ってね、突き返されるようなですね、善意的な、あるいは実験的なね、そういった映画をですね、どんどん作っていったみたいなんですね。
またちょっとビデオになったことになりましてね、映写機持っていられてもいい、プロジェクターあればね、どこでも映画が上映できる、というようになったらしいんですね。
で、その中にですね、作った作品の中にね、音声の悪い映画がありましてね、そしてそれに対してね、あの、滑弁付きの映画なんですってね、ごまかしたらしいんですね。
それで実際にですね、滑弁を行なったみたい。そのきっかけになりましてね、滑弁師になったそうなんですね。
びっくりしました。
山田広野監督の作品の影響と上映の課題
2001年頃にはですね、リリー・フランキンさんのイベントがなくてもですね、自分の名前でもね、イベントを組めるようになったらしいんですね。それでお客さんが来るようになったらしいです。
そして今作った作品の中をね、オールナイトで5時間ぶっ続けてね、上映する、みたいな上映会なども行っていたみたいですね。
で、テレビ番組のね、トナイトツーっていう番組があったんですね。そちらの方でね、今自主制作映画が熱いっていうね、というのでわざと取り上げられたこともあったらしいんですね。
そして2005年からですね、お金をもらいましたね、商業映画、それも作り始めたようなんです。
ところがですね、かなりすごい映画だったみたいですね。
後半の方にですね、Wの悲劇、どんどん脚本されました、新井春彦さんという方の対談も入っているんですけどね。
新井さんがね、これがひどい出来でね、俺たちの作った映画と別物と言われているんですよ。
いっぱいの人が目にするですね、映画、あるいはテレビ、そういったものと全く違うですね。
ショートした映画ってことだったんでしょうね。
その後ですね、携帯データ、前衣型ライン、そちらの方でね、の活弁誌として出ましたりね。
あるいはエコエコアザラクのね、テレビシリーズの第2シリーズの方でね、その作品でもね、ちょっとね、テレビに出たりとかしてたらしいんですね。
そして2009年にバサラ人間を作ろう、ということになったらしいんですね。
是非にですね、見てみたいなと思ってるんですけどね。
残念ながらですね、山田さんの作品っていうのはですね、地方であるこの福島県ではね、公開されないんですね。
またマスメディアであるですね、そちらのもの上映されませんのでね、見たことないんですよね。レンタルも多分ないと思うんですね。
また当時自分はね、子育て忙しくてね、そこまでですね、アンテナを張り埋め濡らしてね、見ようとしてる時になったんですね。
山田さんの作品ね、非常に今見てみたいなと思ってるんですね。
県内ですね、是非ですね、上映会とかね、ショーとかね、それやって欲しいなと思ってるんですね。
というわけでですね、山田博之さんのね、本を読みましてね、面白そうな映画を作ってきた方がいらっしゃると。
ね、滑弁士もやってらっしゃる、その山田博之さんのね、作品、いろいろさらにですね、興味を持ちましたっていう話でした。
本当にどっかでね、上映してくれないかなというふうに思っております。
はい、それではまた次回よろしくお送り致します。本日もご視聴ありがとうございました。
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