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はい、おはようございまーす。本日の放送は2023年の6月10日、土曜日です。 本日は第468回目の話となりまーす。
このチャンネルは福島県氷橋在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことをだらだら話をしていくという番組です。
そんな親父の一言を気になりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい、悪気はなかったんです。
不幸にこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
合図若松育ちの平田翔吾さんについて、その話を何度かしております。
小さい子供がよく絵本として触れるアニメ絵本、小さい絵本を作ったって話をしたと思いますし、
手塚治虫さんのウルトラマンを作ろうとサンダーマスクを作ったなんて話もしました。
その他、平田翔吾さんは漫画アニメ特撮に色々と影響を与えている人物なんですよ。
正岡健三の講義録について
今回はその一つのアニメーターの正岡健三さんの講義録の話をしたいと思っています。
正岡健三さんは、戦中にクモとチューリップという伝説的なミュージカルの震わせるアニメーションを作った方なんですね。
戦前にも、津村英二監督とかぐや姫という作品を手掛けまして、そのアニメ部分を担当したらしいんですけど、残念ながらそのアニメ部分は残ってないんですよね。
戦後も、すぐに名作ステ猫トラちゃんというアニメーションを作っております。
また正岡健三さんは、現在の東映アニメーション、その前の東映動画の前の日本動画株式会社という会社を作ったメンバーの一人でもあるんですね。
そのため、日本アニメの父で呼ばれる人物なんですよ。
手塚治虫さんの原作、僕の孫悟空、これをもとに東映動画、アニメ映画を作るっていうので、手塚治虫さんとか石上翔太郎さんとか、それを参加させまして、最悠久を作っていた1959年頃の話です。
当時、虫プロでアシスタントをしていました平田さん、手塚治虫さんにお願いしまして、アニメーションや映画の勉強をしたいと申し出たそうなんですよね。
漫画の神様手塚治虫さんといえど、アニメーションに関しては畑違いということで、東映動画から、これではアニメは使えないというリテイクをされている状態なんですね。
平田さんを手塚治虫さんのアシスタントをしているものを、どうも自分は漫画家やアニメーターとしての才能を、笹川博史さんだとか、月岡貞子さんとか、それらに比べて負けているという自覚があったみたいなんですね。
でもそんな自分でも、日本のディズニーを目指している手塚治虫さんのお手伝いができるのではないかと、それで申し出たそうなんですね。
そんなわけで、手塚治虫さんの紹介で、手塚さんが尊敬しています、三岡健三さんを紹介されたそうなんです。
1960年に陽光アニメーションカンパニーという会社のところに入社する形になります。
その会社でアニメーションの作り方を平田さんは学ぶことになるんですね。
一緒に学んだ動機の中には、小さな声の物語だとか、「はーい、あっこです。」の道橋千佳子さんもいらっしゃったそうです。
その会社で平田さんは、正岡健三さんから授業を受けるんですね。
正岡さんは、自分で作った動画研究レポート、正岡健三動画講義録、これをもとにして実践的な講義をされています。
1ヶ月の研修で参加した全員がアニメーターとして規制を身につけることができたそうなんですよ。
正岡健三さんは、戦後ステネコトラちゃんの時からアニメーター育成のために、講師と漫画映画特別教育講座を開講していたそうなんですね。
そのため、非常にわかりやすかったそうです。その講義で教えられたノウハウ、技術は平田さんのノートを通じまして、手塚さんのもとにも渡りましたね。
1963年の鉄腕アトムの制作に使われたことは、まず確実ですよね。
平田昭吾のアニメーション学習経歴
平田さんは、せっかく身につけたアニメーターの技術なんですが、アニメーターになることはなくて、今度は日活の特撮映画の勉強に行ってしまうんですね。
ですが、これはまた別の機会の話とします。
手塚治虫さんが作りましたね、鉄腕アトム。
それでテレビアニメでアニメを経験してしまったのが、同じく虫プロにいました笹賀ひろしさんなんですね。
笹賀ひろしさんは、友人の吉田達夫さん。
その吉田達夫さん達と、達の子プロとして1965年に宇宙衛星を制作することになるんですよ。
もともとは東映動画の方から達の子プロに打診があったそうなんですね。
それで計画していたら東映動画の方が辞めるって言ったんで、それで自分たちアニメスタジオを作る形になったんですね。
その達の子プロの方でも、正岡健三さんを講師として参加して教えていたそうなんですね。
もしかしたら先ほど言った平田さんと笹賀ひろしさんって友人関係ですか。
そういった関係もあって達の子プロで講師をされたのかもしれませんね。
またPプロがアニメーションに乗り出したとき、1964年のときにも、
正岡健三さんを新人育成の顧問としてPプロに入社するんですね。
そこで講師として活動しています。
ウルトラマンより早く特撮ヒーロー作品となりましたマグマ大使。
そのマグマ大使でアニメーションも使われているんですね。
というので正岡さんのアニメーションもそこで使われているんですね。
つまりですね、正言いたしますとね、
正岡健三さんのアニメの作り方のノウハウっていうのはですね、
政岡憲三さんの抗議録
日本動画会社からですね、東映動画を得てですね、
東映アニメーションと現在も伝わっているという普通のルートがあるわけですよ。
それと別にですね、平田さんがね、ノートを通じて虫プロの方にね、
通じて広まったルート、
それあと達の子プロを通じてね、広まったルート、
それからPプロを通じて広まったルートなどがあるってわけですよ。
また鉄腕アートも非常にヒットしまして、
それで虫プロの給料が良いっていうのでですね、
東映動画に行った人たちが大量にですね、虫プロの方に集まっちゃったんですね。
その際にもですね、抗議ノート、それがですね、
虫プロの方に渡ったっていうルートも多いと思うんですね。
何が言いたいのかって言いますね、正岡健三さんのアニメの作り方、書き方、
それがですね、日本のアニメのね、全ての基準となってしまったわけですよね。
その際にですね、平田さんの抗議ノート、それは非常にかなり役立ったってわけですよ。
特にですね、虫プロはですね、その後ですね、倒産しましてね、
そしてそのメンバーの人たちはね、サンライズとかね、
多数のアニメ会社がね、発声したわけですよ。
そんなことがありましてね、正岡さんのアニメーションの作り方はね、
各アニメ会社の方に広まっておりですね。
またメインだったのはね、東映動画でも日本アニメーションとかね、
そこからジブリに行ってね、宮崎駿さんのルートもありますしね。
その大元のね、正岡健三さんの抗議録なんですけども、
正岡健三さんの抗議録の価値
正岡健三さんが亡くなられた1988年の時にですね、
平田翔三さんの方にね、託されたそうなんですよ。
この抗議録、非常にアニメ界にとって価値あるもんだ。
どうしたもんかなというふうに思ったんですが、
元手塚治虫さんのアシスタントをされていまして、
東映動画の方でね、活躍されました月岡貞夫さんにね、相談したところですね。
自分のところでね、動画論、それをね、出版する時に参考させていただきたいというのね、
預けたそうなんですね。
今そのね、正岡健三さんの抗議録、どうなっているんでしょうね。
日本のアニメの全ての原点と言える抗議録です。
非常に貴重なものですよね。
アニメ特撮アーカイブ機構、そういうところでね、もしかして確保しているんでしょうかね。
もしも確保していないようでしたらね、
すぐさまね、確保した方がいいんじゃないかなというふうに思っております。
というわけでね、相沢河松育ちの平田翔三さんがですね、
正岡健三さんのね、アニメーションの技術作り方、そちらの方にね、
かなり関わっていたというお話でした。
はい、それではまた次回よろしくお願いいたします。
本日もお聞きくださいまして誠にありがとうございました。