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2022-05-09 09:26

#71 アニメ絵本を作った会津若松育ちの平田昭吾さんの話

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子ども向けのアニメ風の絵柄でできた「アニメ絵本」を作った平田昭吾さんは、会津若松育ち。笹川ひろしさんと古くからのつきあい。マンガ、アニメ、特撮にいろいろと影響を与えた人物です。あまりに行ったことが多いので今回は簡略版の予定。

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はい、おはようございます。本日の放送は2020年の5月9日、月曜日です。
本日は第71回目のお話となります。
ゴールデンウィークも終わって、皆様はどのような気分でお過ごしでしょうか?
多くの人がね、自分と同じくですね、どういう気分なのかなぁと想像しております。
月曜日の朝はですね、忙しいんでね、日曜日の夜にこれは収録しております。
いつも朝に起きてね、すぐに収録するんでね、整体も寝起きでボロボロの状態なんですね、いつもね。
で、頭も回転しない状態なんですね。
えー、ちょっとね、ちょっとそういうわけで今回は収録条件を変えてみました。
少しは声がまともでしょうかね。
このチャンネルは福島県小島市在住の特撮アニメ漫画家大助役のピョン吉が響きになったことをだらだらと話をしていくという番組です。
そんな話のひと言を聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。悪気はなかったんです。
今後もこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
そんなわけで、だらだらと行かせていただきます。
シャープ67、合図といわきで育った村野もりびさんが漫画アニメで大活躍した話。
で、ちょろっと話をした平田翔吾さんの話を今回はしたいと思ってます。
平田翔吾さんというのは、1939年生まれの本作家さんですね。
満州でお生まれになって、合図若松で育った方です。
アニメ監督となりましたね。笹川ひろしさんの隣町育ちらしいんですね。
合図漫画研究会という組織を立ち上げた時、開覧書を作って閲覧していた仲田翔吾です。
この平田さんなんですけどね、アニメ絵本という文化の先駆者なんですよ。
現在300巻を超える絵本作品を出版された方です。
アニメ本ってなんだろうと思った方いかがでしょうか。
スーパーとか小さな本屋さんにあるレジ近くにある回転と空転があって、
その中に子供が手に持てるような絵本があって置かれているやつがありますよね。
最近では子供が好みそうなアニメ風な絵柄になっているやつですね。その絵本です。
たぶん誰もが見たことがあるんじゃないでしょうかね。
中身も昔私たちが知っている話と少し変わっていたりしますけどね。
このアニメ本なんですが、日本国外でも評価が高くてですね、
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現在3億冊以上の突破したという話があります。
また本当かどうかわからないけど6億冊以上も売れているという話もあります。
6億冊も売れたとするとハリーポッターよりも売れているんですね。
ハリーポッターシリーズよりも。
またワンピースのシリーズよりも売れているという形なんですよね。
というわけでこのアニメ本を企画した日畑さんのことは
全然福島県の人でも知っていないという状況なんですね。
このアニメ本ですけどね、日本ではだけではなくて韓国や中国でもすごく売れているらしいんですね。
そんな日畑さんとアニメ特撮の関わりといいますとですね、
1957年後に笹川博史さんがアシスタントを要望されたときに
アシスタントになるべきということを勧めた人物なんですよ。
もしも彼が勧めなかったら現在アニメーションが笹川博史さんになるので
どのように変わっていたのかなという想像すると面白いです。
そして自分も翌年に勤めていた日活撮影所の研究室を退職して
手塚治虫さんのもとアシスタントとして働き始めるんですね。
手塚治虫さんと二職を共にして
ダメうやしとかグータルマワラで後でヒットしますフリア三人さん
それと狼少年ケンダとかNHKみんなの歌の北風小僧のカンタロウなどの
アニメーションで有名な月岡貞子さんと一緒に手塚治虫さんの家で
一緒の生活をしていたらしいんですよ。
59年には笹川博史さんと平田さんが藍津出身というのを
手塚治虫さんが藍津若松に訪問していたときに町を案内したそうなんですよね。
65年にはマジンバンダーという作品が手塚さんにあるんですが
そのチーフアシスタント井上悟さんが
冒険王に連載の際に連盟となって作品を作ったそうです。
そして69年から70年にかけては1年間手塚さんのマネージャーを務めたんですね。
この頃というのは手塚さんの作った虫プロが
ちょっと危うくなってきた頃ですよね。
ですから虫プロがどんな状態だったのか
最初から最後までよく知っている人物です。
そして1971年にアニメ本アンデルセン童話
ポプラシャーから出したんですね。
現在日本のアニメーションはアニメって言いますよね。
本当は世界的に言うとリミテッドアニメーションって言うんですが
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アニメというふうに簡略に言うようになったのは
もしかしたらポプラシャーの平田さんの作品が原因かもしれません。
1972年には平田さんの特撮テレビ番組のサンダーマスクの企画に参加いたします。
手塚さんのマジンガロンを実写化する計画が虫プロ党さんなどがありまして
ひろみプロというところが制作したものです。
マジンバンダーも元はマジンガロンという手塚さんの作品が元なので
詳しくは分かりませんがそのへんの関係もあるかもしれません。
ポプラシャーのアニメ本はその後ですね
世界名作ファンタジーだとかアニメ立体絵本世界の名作など
呼び名が色々変わって現在も制作が続かっております。
その他ですね、長岡書店というところからも名作アニメ本シリーズだとか
ビティック社という会社からも世界名作シリーズ
よいことままのアニメ本というので同様のアニメ本シリーズをたくさん出したんですね。
現在も外国語に翻訳して海外でも発売し続けているんですね。
ちなみにアニメ本を大量に出版していたポプラシャーはこれでたくさん売れたというね
そのお金が潤沢にあったものですから
たとえばズックク3人組でとかね
あるいはこの間私見てきましたが原豊さんの駆けつじどろいシリーズみたいなね
そういったものを発売して出版できているのはアニメ本というのがたくさん売れているからなんですね。
その他ですが1979年に相原博史さんが宇宙戦艦ヤマトの西沢プロデューサーに引き合わせて
タツノコプロから送りさせてしまった人でもあるんですよね。
これによってタツノコプロに与えた影響もはかり知れないですよね。
この年ですけどねちょうど押井桃子さんもタツノコプロも退職してるんですね。
もしもこの二人が抜けてなければタツノコプロはかなり国産の先に出せたんだと思うんですよね。
それから1986年には笹川博史さんをまた誘ってしまって
ポップラッシャーからドッキリ2話目探偵シリーズという児童向けの小説を書かせてしまったというような影響を与えた人です。
というわけで現在でも積極的にアニメ関係に影響を与えている人なんですね。
ところがこれがあまり話題となっていないんですね。
先ほど言いましたようにたくさんのアニメ本を普及させた。
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子供たちに色々と夢を持たせたということではこの教科書でもいいんじゃないかなと私は思っております。
それではまた次回よろしくはぴょん吉のオタクの話にお付き合いくださいね。
本日もお聞きくださいましてありがとうございました。
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