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2023-01-01 09:49

#308 桑折町出身の宍戸左行が日本マンガ史で重要な「スピード太郎」を描いた話

手塚治虫さん以前に映画的な手法をマンガに持ち込んだということで、日本のマンガ史に名が残る宍戸左行さん。どうやら宍戸さんは福島県伊達郡桑折町出身らしい。福島中学(現・県立福島高校)で学んだあと、アメリカで9年間絵を学んできて、アメリカのマンガや映画の文化を吸収してきた方。もっと評価されてもいいと思うんですけどね。

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本日の放送は、2023年の1月1日、元旦、日曜日です。
本日は、第308回目のお話となりまーす。
このチャンネルは、福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好きおやじのピョン吉が響きになったことをだらだら話をしていくという番組です。
そんなおやじの一言を気になりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。
悪意はなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
明けましておめでとうございまーす。
本年もね、ピョン吉のバカなお話にお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
福島県が生んだ漫画家でね、漫画の歴史でですね、最初に現れる人物をご存知でしょうか。
ししどさこうさんという方です。
さこうっていう字はね、左に行くって書くんですね。で、さこうっていう風に読ませるんですね。
この方ですね、スピード太郎っていう漫画をですね、1930年に書いたということでね、有名な方なんですよ。
日本の漫画家にね、深く名前を刻んでいるんですよね。
現在の漫画はですね、手塚治虫さんのね、ストーリー漫画を元になっているっていうのが通説ですよね。
その映画的なね、手法をですね、手塚治虫さんの前にね、日本に持ち込んだ人物なんですよ。
手塚治虫さんがね、漫画家としてデビューする前にね、16年前にですね、そんな漫画が書いてるんですね。
この方ですね、ウィキペディアによりますとね、1888年、福島県生まれと書いてあります。
で、旧姓のね、福島中学校、後の福島県立福島高等学校、卒業と書かれています。
そして1969年にお亡くなりになったんで、80歳でお亡くなりになったところらしいんですね。
日本美術年間の方にね、もう少し詳しく書いてありまして、福島県でもね、伊達郡だそうです。
伊達郡って言ってもひどいからね、もう少し詳しい情報をね、知りたいなと思ったんですね。
とあるところからですね、氷町ってことがわかりました。
というわけでね、福島県のね、伊達郡氷町、その出身の方がね、そんな漫画を書いていたわけですね。
旧姓福島中学校というね、もしかしたらこれ尋常福島中学校だったんですね。
氷町とね、朝霞高校の間違いじゃないかなと思ったんですよね。
しかし調べてみましたね、年代的に確かにですね、現在のね、福島高校の前のね、福島中学のようですね。
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福島第三中学がですね、福島中学にね、名前に変わったりね、その時期にですね、通われていたようです。
その旧姓福島中学校を卒業したとですね、1907年、絵の勉強のためにですね、アメリカ合衆国のシアトル、そこに渡ったそうなんですよ。
そこでですね、9年間もですね、絵の勉強をしてきたっていうんだからすごいですよね。
今より116年前の話ですよ。
バイトをしたね、お金を稼いだそうなんですがね、旅費とかね、どうしたのかなと気になってしまうんですね。
まあその9年間のね、絵の勉強をしている時にですね、アメリカの漫画、それにですね、触れたそうなんですね。
そしてまた多数のですね、映画を見てきたそうなんですよ。
そのアメリカ大絶頂はですね、ししぞさんのね、中学時代の英語教師である内村淳也さんという方ね、その方と共同生活していたらしいんですね。
その内村淳也さんということなんですがね、実はですね、内村勘蔵さんのね、その弟さんなんですよ。
実はってね、言いましたけども、ごめんなさい、知ったかぶりしました。
内村勘蔵さんってね、すごく聞いたことあるんですけどね、何やってる人か全然私わからないんですね。
とりあえず有名な人、すごい人とだけ知ってるんですよね。
その弟さんね、なぜ福島市のね、中学校のね、教師にしたのかっていうね。
そしてなぜですね、教え子と一緒にね、アメリカで共同生活していたのか。
それもちょっと謎なんですけどね。
とりあえずですね、佐藤さんはですね、日本に戻ってきましてね。
で、絵で生計例を立てていくようになります。
佐藤っていうね、ペンネームはですね、アメリカで帰ってきた時にですね、左側通行という縦札から取ったらしいんですね。
ただその時ですね、英語で書いてるんですがね、苗字をですね、シシイトッと書いてるんですよ。
シシイドじゃなくてシシイト。もしかしたらですね、シシイトッと読むのが正しいのかもしれませんね。
ちなみにですね、シシイドっていう苗字はですね、宮城県の南部、それから福島県の北部に多い苗字らしいんですね。
タレントのシシイド嬢さん、エースの嬢、シシイド嬢さんもお父さんもですね、福島県伊達市の出身ですからね。
だから福島県の氷町出身っていうね、シシイドさんっていうのはね、まあおかしくないということですね。
そしてですね、日本に戻ってきた後ですね、1926年にですね、日本漫画連盟っていうのを結成するんですよ。それに参加するんですね。
これは後にですね、日本漫画学協会の元になってるんですね。
というわけでね、現在のね、日本漫画学協会のね、名誉会員になっていたんですね。
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そして1930年にスピード太郎を描いたわけですよ。
これはね、書いたのはね、読売新聞の別釣りのね、読売サンデー漫画っていう雑誌なんですね。
それに連載した漫画なんです。児童向けのSF冒険漫画なんですね。これはもう大ヒットしたわけですね。
アメリカ時代に見た漫画、それあと映画、それが元になってね、描かれた漫画っていうふうに言われています。
クローズアップ、俯瞰的構図の多様、それあと映画的な展開、バカ抜けた車やメカ、それらのものが登場していくんですね。
というわけで、当時の子供たちにとってね、大ヒットする要因があったわけですね。
スピード太郎ゲームですね。いくつか作品を発表しています。
アコちゃん日記、アトム太郎、郵政探検、声優記などなどがあります。
この題名を聞くとね、自分はね、うんとなるんですよね。
手塚治虫さんの初期の漫画のタイトルによく似てるんですよ。
アコちゃん日記はね、手塚治虫さんはね、マーちゃんの日記帳が1946年です。
アトム太郎はね、有名なアトム大使、1951年に描いています。
郵政探検は火星探検隊、1948年に描いています。
声優記、これは僕の孫悟空といって1952年に描いています。
この僕の孫悟空はね、声優記っていう名前でね、東映の方でね、映画になるわけですよね。
たまたま1,2,7,8の気になるところですよね。
手塚治虫さんはね、静祖さんの漫画を見ていないのかなとね、ちょっと思うんですけどね。
ちょっとね、勝手な邪推ですけどね。
第二次世界大戦中はね、福島県に疎開していたそうなんですよ。
その頃ですね、水木による風景のことが多くてね、
また晩年にはですね、多くの仏教関係の絵をね、仕事としていたそうなんですね。
で、先ほど言った氷町出身ってわかった経緯なんですかね。
実はですね、今古本屋さんの方でですね、戦時中で筆に描いた漫画が売られていたんですよ。
聖戦必勝大勢紅葉肉筆漫画っていうのもですね、一枚きりの漫画なんですが、
それをね、戦時中にね、戦争を勝つことを祈って描いた漫画。
それが売られていたんですね。
一枚8000円だそうです。
というわけでね、氷町の図書館でね、ぜひですね、
ししどさんのね、作品を集めてほしいなと思うんですね。
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既に集めているといいんですけどね、それは無理なのでですね、
県立図書館かですね、県立美術館の方でね、
ぜひともね、ししどさんの作品を集めてほしいなと思うわけですね。
福島県のね、文化ですから。
ぜひともね、そういう活動をしてほしいなと思っております。
はい、それではまた次回よろしくお願いいたします。
本日もお聞きくださいまして誠にありがとうございました。
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