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こんにちは、こんばんは、おはようございます。カフェインよわおです。
なんとですね、なんとこのポッドキャスト、口は背中よりモノを言う、総再生回数が1000回を超えたらしいっすよ。
すごい、すごくないですか?自分で言うのもなんですけど、よくもまあ、こんな一人喋りが1000回も再生されたもんだなっていう感じですね。
えーと、今、僕が配信しているのが、トータル40エピソードぐらい、多分あるんですよ。
だから、1エピソード25回ずつくらい再生されて、1000回を超えましたというふうな感じなんですけどね。
いやー、なんというか、ありがとうございます。皆様、ご愛顧いただきまして。
なんか、ほんと、想定の10倍ぐらいのスピード感で、物事が動いておりまして。
ほんとにね、僕一人が自分で自分の配信を再生するぐらいの回数しか回らんだろうっていうふうなノリでやっていたんですけども。
いやー、なんか、なかなかすごいところまで来たなっていうふうな気持ちですね。ありがとうございます、ほんとに。
特に1000回超えたから何を変えるというふうなわけでもありませんが、引き続き気が向いた時にやっていこうかなと思います。
ToGatherのまとめ記事と境界線の概念
さてさて、今日はですね、
ToGatherというサービスがあるのをご存知でしょうか。
ToGatherというのは、旧Twitter、現Xの専用のまとめサイトみたいなのがありましてですね。
で、そのToGatherのまとめ記事のうちの一つが、そのXのタイムラインに流れてきて。
ややこしいなぁ、なんだか。
でね、その内容を見て、はぁ、俺やんって思った話なんですけれども。
その記事というのがですね、概要欄にリンクを貼っておきますが、
ジタの境界線がガタガタの人の話っていうToGatherのまとめなんですね。
で、これはですね、美森美沙さんという漫画家をやられている方が、
その自身が受けた心理療法の体験談を漫画にして公開したものをまとめられているっていうふうな感じのね、中身なんですけれども。
で、その漫画のメインテーマというのが境界線、バウンダリーなんだそうですね。
で、もうそのまま、僕心理学方面は学校でやったっきり全然知識がないので、とりあえずその漫画に書かれていることをそのまま読み上げさせていただきますけれど、
心理学における境界線とは、自分と他人を区別する物理的もしくは心理的なラインのことであると。
様々なところに境界線は存在する。
例えば、持ち物、私の持ち物、あなたの持ち物、体、私の体、あなたの体、責任、感情、思考、価値観、性的などなどっていうふうなところに境界線というものは存在するよというふうな話なんですね。
で、その境界線が曖昧だと、人間関係でのトラブルやら心身の疲労やらが多く、親子関係の問題を抱える人は健康的な境界線の考えが習得しづらく、まあいろいろ大変ですよというふうな、そういうふうなことが漫画の中で書かれておりましてですね。
で、あのここら辺まではね、ああなるほどそういう人もいるんだなあ、そういう考え方があるんだなあっていうふうな感じで上からザーッと読んでたんです。
で、この作者であるミサさんと臨床心理師の方とのカウンセリングの工程みたいなのがね、漫画で記されてるんですけど、その先生の方がですね。
私とあなたの間に境界線は何本あると思いますか?っていう問いかけをミサさんにする。
で、ミサさんの方は境界線は1本だと思いますと。自分と他人の境界線なので自分と他人の間に1本引かれてるんじゃないですか?っていうふうに言うんですけど、正解は2本なんだそうなんですね。この先生曰く。
つまり、自分の境界線があって他人の境界線があって、その自分の領域でも他人の領域でもないその中間地点みたいなゾーンがその2本の境界線の間にあって、2本の境界線があってそのなんでもない中間地帯みたいなものが存在することによって、
自分の意見や相手の意見をその中間地帯の間に留めることができますと。で、そこに留めることによって、つまりお互いが安全権、お互いに自分の領域を侵されていない安全なポジションの中でその意見に対して話すことができる。
ああ、あなたの意見はここがあってますね。私の意見はここが違いますね。なるほどなるほどみたいな話し合いをすることができる。これが境界線が1本だったとすると、自分が何かの意見を発信したときに自分の意見が相手の境界線を踏み越えて相手を障害してしまうのではなかろうかというふうな懸念が発生するし、
逆に相手が何か意見を発したときに自分の境界線を侵害されている、攻撃されている、恐ろしいみたいなそういう捉え方になってしまってその意見そのものに対しての話というものを行うことが難しくなるみたいなそういうふうな解釈をね、僕はこのまとめを見てしたんですけど。
自分の境界線を歪ませることと攻撃について
これさあ、僕、前にね、このポッドキャスト上で自分の殻を出っ張らせたい話みたいなのをね、したことがあるんですよ。
えーと、第何回だったかな?あれは。あーこれだな。第18回、シャープ18、自分の殻を出っ張らせよう論っていうのをね、したことがありまして。
ざっくりと僕が話した内容を思い返すと、僕は相手が何かしら意見をしてきました、何かしら発言してきましたっていうときに、当たり障りない対応をすることが得意であると。
ただ、その当たり障りない対応をするために、自分の殻、ここで言うところの自分の境界線をぐにゃんとたわませることによって、自分に対してクリティカルなダメージにならないように避けることによって、当たり障りない対応ができているのではないか。
ただし、その境界線をたわませることによって、少なからず自分がストレスを受けているから、それが続くとちょっとよろしくないよね、みたいな話をしたことがあるんですよ。
これまさに、境界線が一本だと思っている人だったな、自分って思ったんですね。
このジタの境界線がガタガタの人の話を読んで、俺やんって思ったんですよ。
僕が過去のエピソードで話した内容では、家族とはこうあるべきだ、父親とはこうあるべきだ、みたいな発言を誰かからされたときに、
内心、ふざけんじゃねえよ、俺はちげえよ、と思いつつも、それを適度に言い返すこともできず、そうかもしれませんね、っていうふうに適当に受け流していると、最終的に相手がもっともっとグイグイ深くまで攻め込んできて、致命的なダメージを負ってしまう、みたいな話があってね。
自分がそういうものものに対応して、境界線をどんどんどんどん歪ませていくことによって、ここら辺まで行っても大丈夫なんだというふうな感覚を相手に与えてしまうことによって、最終的にもっと大きい一撃が相手から飛んでくるようになるのではないか。
なので、こっちはこっちで、そういう際どいことを言われたら、ちょっとした反撃を食らわせるぐらいの覚悟が必要なんじゃないか、みたいな。確かなんかそんな感じのことを話したと思うんです。
僕はそういうね、ちょっとギリギリのラインに触れてくる奴に対して、何かしら別の意見を言うことを攻撃することだと思って認識していたわけですよ。
攻撃することって基本あんまり良いことがないから、極力やりたくないな、でもやらないとしょうがないのかもしれないなっていうふうに思っていたんですね。
同時に、家族はこうです、父親はこうです、みたいなことを論じられた時に、それを僕に対する攻撃だというふうに捉えている。
家族とはこういうものですよって相手が言ってるのを若干裏読みにして、つまりあなたは違うからそういうふうにした方がいいわよって言われているように感じてしまうみたいな。
自分の脳内で自分への攻撃に勝手に返還してしまっている。勝手に自分の境界線を脅かす発言だと認識してしまっていたんだろうと思うんです。
一般的なざっくりとした言い方にすると、いわゆる気にしすぎっていうくくりになるんだと思うんだけど、
それって結局境界線が一本だと認識しているから、境界線と境界線の間の中間地帯がないと思っているからそうなってしまうんだろうな、なるほどなっていうふうにすごく納得したんですね。
別に家族はこうあるべきであるっていうふうに言われたら、いやでもこういう家族の形もありますよねっていう家族というカテゴリーを自分と相手の中間に置いて、こんな家族もあるよね、こういう家族もいいよねっていう話ができればお互い別に傷つかない、ハッピーで終われるはずなんだけど、
家族について触れられるイコール自分が足りてない、自分の境界線を犯されているというふうに感じていたのがどうやら気にしすぎに該当していたゆえんではなかろうかという感じ。
2人体制のポッドキャストに対する傾向
ちょっといきなり話が飛ぶんですけど、僕ね、聞いているポッドキャストが2人体制で話しているポッドキャストにかなり偏っているんですね。
まあ本当に一部分1人で話されているポッドキャストも聞いてはいるんだけれども、9割方ぐらい2人が話しているポッドキャストばかり聞いているんですね。
ユートタワーだったりとか、どんぐりFMだったりとか、デコボーFMだったりとか、サーティーサムシングだったりとか、ネオ御城楽園だったりとか、なんかそういうところね、2人体制で話されているポッドキャストばかり聞いているんだけれど。
で、その2人体制で話している中でも特に双方が気兼ねなく相手のことを強めに突っ込んだりとかディスったりとかしても、別にその2人の間の関係性が何ら崩れない…関係性?
なんかちょっと言葉がおかしいような気がするな。が、そういう関係性が聞いてで伺い知れる番組がとても好きなんですね。
例えばそのデコポンFM様だとね、その愛さんとのぞみさんっていう女性を2人がやられているポッドキャストなんですけど、そののぞみさんの方が愛さんに対してまあまあ強めの突っ込みをするんですね。
僕の基準で言うと、さっき言ったバウンダリーが1本だと思っていた頃の自分からした時に、僕の基準で言うとまあまあ強めの突っ込みをされるんです。
だからまあまあ強めの突っ込みをされた愛さん側も、ああそうかもねー、確かにちょっとおかしいかもねーくらいの受け止めがそこの間でなされているわけ。
だから別に僕のこれまでの価値観で言うと、強めの突っ込みをされていても別にそれで気分を害することがない前提としてお互いがお互いを尊重し合っている前提のもとに強めのことを言っても崩れない関係性。
そういう感情を持って聞くポッドキャストを選んでいるんですね。
俺が一方がこの番組面白くしたるで回したるでみたいな感じで肩ブンブン回してたりとか、そういうのは自然と聞かなくなっていくんですけど、今も聞き続けている二人体制のポッドキャストっていうのはだいたいそういう構成が多い。
で、常々僕もそういうふうな会話をしたいなというふうに思っていたんですよ。
それは別にそのきつめの突っ込みをしたいなとかっていうふうなことではなくて、
一方がいわゆる一般常識から外れた行為をしているときに、もう一方がそれはおかしいじゃんとためらいなく言えて、それはおかしいじゃんと言われた側も別にそれによって気分を害していない。
ああそうかもしれないねって言ったりとか、いやいやいやこれ今こういう考えがあってって言ったりとかね。
そういうふうにその肯定し合うだけではない関係性が素敵だなというふうに思っていて、自分もそういうふうな関係性を人と築いていきたいなというふうに思っていたんです。
で、同時にそういうふうな関係性を築くためには、まず先に自分がその自分が言ってることを何か否定された、否定されたって言うとちょっと大げさだけど、
自分が何かねこう発言したことを行動したことに対してそれ違うんじゃないって言われたときに、傷つかない自分にならねばならないなっていうふうに思っていたわけ。
傷つかなさを相手にだけ求めるのはあまりにも都合が良すぎると思うし、その関係性は多分ゆくゆく破綻していくだろうと思うから、まずは自分がその相手によって傷つけられることはない、傷つかないぐらいの強さを手に入れなければならないみたいなね。
そういうふうな感覚でいたんです。
それはそのあくまでも境界線が一本と認識していたときの話であって、つまり自分がいて相手がいてその間に一本の境界線があって、
なると自分が何かしらの行動をしました、それに対して相手がその否定的な意見を言いましたっていうのは、もうダイレクトに境界線を踏み越えて自分のテリトリーに入ってくる行動になってしまうから、
それはこいつ俺の領域に侵入してきやがった、なんて不届き者だみたいな認識になって、多分嫌な気持ちになるんだと思うんです。
ただ、自分と相手の間に2本の境界線があって中間地帯がある状況なのであれば、自分が何かしら行動しました、発言しましたっていうものが一旦その中間地帯に置かれて、
それに対してそれは違うんじゃない、こうなんじゃないって言われたこともその中間地帯に留まって、自分が行った行動だったり言動だったりをお互いにちょっと遠目に眺めながら議論ができる、お互いの領域を守った状況で話ができる、になるんですよね。
そういうふうにお互いの言動だったり行動だったりを常に中間地帯に置かれるんだっていうふうなイメージがあれば、別に僕がした行動や言動を否定されたりとか何か言われたりしようが、それは行動、言動、またその内容を否定されているだけであって、僕自身を否定されているわけではない。
だから僕は別にダメージを負ってないことになるよね。
本来そういうふうな姿なんだと思うの。
多分、人間関係っていうのは。
だから多分、お互いがお互いに自分と相手の間には明確な境界線があって、その境界線の間に中間地帯もあって、その中間地帯で話をうまく転がすことができる人たちっていうのが、僕が憧れている2人体制で配信されている番組の方々なんだと思うわけですよ。
境界線と攻撃への恐怖
伝わったかな?
言いたいことがわかりますか?皆様。
というふうに思うとですね、僕はいわゆる嫌われる勇気がない人なんですね。
一時よりはマシになっているとは思うけど、それでもどちらか嫌われる勇気がある人ない人っていうふうな二分するんだったら嫌われる勇気がない人側だと思うの。
周りは敵がものすごく多いなというふうに思っていたんです。
誰かと接したときに、まず第一にこの人は自分を傷つけてくるタイプの人かどうかっていうふうなそこの見極めをするところから、初対面と人との関係性をスタートさせるようになっていたんですね。
そういうふうなスタートのさせ方をしている一方で、お互いに気兼ねなく好きなことが言える関係性に対しての憧れみたいなものを同時に持っていたんです。
ただ、繰り返しになっちゃうけど、当時の僕はお互いの間の境界線は一本だと思っていたから、相手が相手自身の境界線を越えてこちら側に手を伸ばしてくれる時っていうのは、それは自分に対しての攻撃の意図がある可能性がある行動だと思ってたんですね。
なので、それはとても怖いことだったので、突っ跳ねてたんです。こっちに来ないでくれと。もう俺の境界線を越えてこないでくれっていうふうに突っ跳ねてたんですね。
ただそれは、境界線が2本あるよって自然に認識されている人からすると、中間地点に話を転がしに来ただけだったかもしれない。
こういうふうなことがあったんだけど、どう思う?っていうのを、ただ中間地点にコロコロ転がして話したかっただけだったのかもしれない。
けど、それを俺は全部攻撃と捉えているから、もうちょっとそういうのはわかんないんで、僕って言って突っ跳ねて、自分を守ることを優先して、うまくコミュニケーションを取ることができていなかったと思うんですね。
今は、当時と比べると、数時間前まで境界線1本だと思っていたけれども、それでも社会性みたいなものが当時より身についているので、社会性っていう防具をまとえば、
多少こっちの境界線を踏み越えようとしていると、俺が捉えている物事でも、自分の境界線を歪ませるという技を使うことによって耐えられている、みたいな感じで思っていたんですね。
でも、きっとそれらの相手の行動だったり言動だったりっていうのは、相手にとっては別に俺に対して攻撃しようとか、傷つけようという意図は全く持っていなくて、
自分の境界線を越えて、中間地帯の部分に言葉などを投げ入れて、これをどう扱うかによってはあなたと仲良くなりたいなとか、もっとこんなことも中間地帯に投げ入れてみようかなっていう風に思うための第一歩の行動だったんだと思うんです。
今にして思えば、すごくこうそう思うとね、色々な人との出会いをきっと僕は無限にしてきたんだろうなっていう反省です。
つまりは、僕が言いたいことは反省です。
すごくこうもったいないことをしていたんだろうな、きっとこれまで。
なのでね、これまで35年間、境界線が1本だと思い続けてきたことによって、他方面で結構損してきたんだろうなっていう風に思うんですけど、
逆に35歳のタイミングで気付けたから、まだ多分人生45年ぐらいは残ってくれていると思うので、そう信じたいので、
ちょっとここから具体的にどうとは言えないんですけど、人との接し方を変えられるようになるかもしれないなって思えた一つの発見でした。
だから、僕がこれまで身につけてきた社会性っていうのは、
僕がいて相手がいて、僕と相手の間に当時の僕が考えていたところによると1本の境界線があって、
境界線の手前側に社会性という役割っていう分厚い壁を立ててたみたいな、そういう感じのイメージなんですね。
それは何だろうな、例えば親だったりとか、夫だったりとか、医療従事者だったりとかね、そういうふうな役割をその壁に対して持たせていたと。
なので、その医療従事者たる立ち振る舞いをする。
で、それに対して、相手が例えばその境界線を越えてきて、その当時の僕にとって攻撃と受け止められるような言動や行動をする。
でもそれは、その僕の医療従事者という役割の防御壁が一応ある程度受け止めてくれてたから、その僕自身は比較的傷つかずに住んでいたんじゃないかと思うのね。
今までその境界線を歪めていたと思っていたものは、たぶんその壁が守ってくれていた分なんだろうと。
だから、冒頭に戻りますけど、その家族とはこうだ、親とはこうだ、みたいなうんぬんかんぬんうるせえ奴らの言動とかがじわじわその壁を削り取っていって、
その壁を越えて僕の境界線、僕の領域内にくんって入ってきたって認定して、
バウンダリーの概念
お前ふざけんじゃねえよっていうふうな気持ちが多分芽生えていたんだろうと思うんです。
ただ実際には、僕の境界線があってその手前に仮に役割という壁を置いたとしても、その壁と相手の境界線との間にはもっともっと広い中間地帯があるから、
わざわざそんな壁なんて置かなくても、僕を傷つけようとする奴は、もちろん一部はいるけどね、そんなにみんなね、わざわざ人の境界線を犯していきたいとも思ってないんだろうね。
本当はね、落としどころがわからなくなっちゃったな。
なので、僕が誰かに何かの意見を投げかけたとして、その意見が否定されたとしても、決して僕自身に対して攻撃する意図があるわけではない場合が多い。
僕が例えば誰かを遊びに誘ったとして、その誘いが断られたとしても、僕自身への攻撃の意図が込められているわけでは多分ない。
遊びの場合はなんかちょっと微妙なラインになってくるけどね。
相手が何かの言葉を投げかけたり、何かの誘いを投げかけたり、行動をしてきたりしたとしても、その多くは僕の境界線を踏み越えてこようという意図があるものではないから、安心してその言葉や行動などなどを扱って大丈夫。
ただしその上でも、これはお前境界線越えてるやろうと思う奴には容赦をしなくてよい。多分ね。ということなんだろうと思います。
ちょっと勉強しようかな、このバウンダリーについて。
ちゃんと勉強した方がいいような気がする。
いわゆる自己啓発本とかで書かれるような若干噛み砕かれた内容じゃなくて、普通に学術的にちゃんと勉強してみたいなという気持ちが芽生えております、今のところ。
まあでもなんかこう、今僕の気持ち的には、ちゃんと自分がこの認識を持って生きられたら、きっとなんかもうちょっと生きやすく過ごせるんじゃないかなっていう風な気がしておりますので。
番組の終了と感想募集
なんだろうな、こう皆様から見て、幸いなんか合計1000回も再生回数回してくださる方がいらっしゃるみたいなので、皆さんから見てね、なんとなくこの配信の内容の雰囲気とかがちょっと変わってきてくれると多分いいんだろうね、きっとね。
ふわふわしちゃったな。
ということで終わります。毎度なんか中途半端に最後はなってしまいますけれども。
番組概要欄にダイルフォームを用意してありますので、番組への質問、意見、感想、バウンダリーってそういうことじゃないですよ、など、ご興味いただける方がいらっしゃいましたらお便りくださいますととても嬉しいです。
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ではまた。ありがとうございました。