サイコロアイランド、この番組は、長野県のとある小さな村の住民が、サイコロの目で決めた話題を話し合う番組です。
振ります?
振ります。
振りますか?
私、さっきね、振った柄、やってみてください。
このコロコロは。
どうしましょう。
どうしましょう。
じゃあ、私、振ってみますか。
ぜひぜひぜひ。
えっと、テーブルから落ちないように、そっと振ります。
ゆうけいさん、振ります。
えっと、3。
もっとしゃべれ。
そういうこと?
本当?
さっき。
この話題に吸い寄せられるようにする。
吸い寄せられる。
もう1回振りますかね。
もう1回振りますかね。
じゃあ、もう1回。
もう1回。
はい。
もう1回3出たら、3しゃべるしかない。
6。
謝り。
これ?
うん。
これだけは、子どもの頃の自分に謝りたいこと。
謝りたいこと。
私、これある。
あるの?
ある。
いいですか、どうぞ。
ぜひお願いします、えみさん。
そうだな。
自分に謝りたいことが、本当に1つあるとしたら、
私自身が、自分に対して、
なんか、なんなら、今のほんと気づきだけど、
一番厳しかったのは、自分だったのかもなって、思えた瞬間があって、
もちろん、人の目だったり、
じゃあ、親戚だったりの、どうだったんだとか、
いい子にしてなきゃいけないとか、
この普通でいることが大事って思うような環境だったりは、もちろん、いろいろはあったんですけど、
そういうのも分かった上で、ちょっとちょっと入った時に、
自分自身が、一番普通でいないと、お前嫌われるぞとか、
普通、男でも女でもないなんて、そんなことしてたら、
あの人、どっか行っちゃうぞとか、
心の中の自分の声が、だから、自分自身からわき出る、
そういう声が、ある意味、守ろうとして言ってる言葉なんだけど、
とても、ある意味、厳しくもあったりして、
だから、自分が、くーってなってる時って、
誰かが、そんな厳しいこと言っただろうかって、ふっと思った時に、
あれ?って、これ、心の中の自分が、ある意味、いじめられないようにとか、
きっかけは、守るなんだけど、守る自分の声が、とても自分に厳しかったかなって思った。
で、頑張ってる自分のことも、もっと頑張れって、
私も部活とか、いろいろ、ピアノとか、いろいろやってたんだけど、絵もそうだけど、
どれやっても、もっとうまくなる、もっと頑張れ、もっと頑張れって、もっとって感じだったんですよね。
でも、それも、いいじゃんって言ってくれる声はあったろうに、
いや、私なんてとか、
だから、自分に対する自分の声が、本当に同じモットーを使うなら、
もうちょっとだけ、自分に優しくあれたらよかったなっていうのは、なんか気づけた自分がいて、
だから、ああ、あの時の自分、よく頑張ったねとか、
いやだーって泣いてる自分の感覚に、泣いててもダメとかじゃなくて、
悲しかったねとか、何々したかったねとか、
そういうふうに、子供の頃の自分に謝りたいこととしたなら、
もうちょっと自分が自分に、優しく、優しい言葉かけられてたらなって、
それだけは浮かんでなかったなっていうのを、ちょっと最近気づけた。
うん、なのでそこかな。
いつっても言えないんですけど、なんなら今までずっと厳しかったかなって、守りたかったからなんだけど、
って思いました。
なんか伝わります?うまく言えてるかな?
伝わる、伝わる。
そんな感じかな、です。
なんだろ、底辺がないっていうか、底辺じゃないの?
底辺、ずっと底辺っていう感じなのかな?
なんか、そう、自分なんてって気持ちがどこかで強くなっていってしまった。
あの、見せてる顔はすごく笑顔だったりするんだけど、
自分なんてってのも、でも自分が作ってたかなって思うから、
今、自分はすごく、今大人になった自分、ここ数年ようやくだけど、
自分にどんなちっちゃなことでも、花丸をあげられるようになったし、
心がけてることで、
でもなんか、その前の自分は、花丸なんて、いや、これぐらいで花丸はちょっととか、
もらってても、ありがとうなんだけどちょっととか、
子育ても今、私2人の男の子の母もやってるんですけど、
うん、頑張ってるねって言われても、いや、でもって、そうは言ってもとか、
みんなのほうがとか、いや、そうは言っても息子、今結構言葉きつくなっちゃってとか、
なんか、あの、花丸もらっても、ちょっと、なんだろう、
謙遜って言うと言葉きれいなんですけど、謙遜が過ぎるぞ、お前っていう感じというか、
なんでしょうね、これは。だから自分に厳しくが、悪いことじゃないとは思ってるんですけど、
そのおかげでね、できることは、ある意味、レベルを上げてくって、向上心みたいな、にもつながるんだけど、
もうちょっと、それこそ、生きづらさを生んでるのは、環境っていうよりかは、それもあるけど、
自分、そんな中でも、私は私って、たとえばジェンダーの話も、
いや、私は私、僕は僕、私はスカートを履きたくない、スラックスを履きたいって、
制服を選ぶときに、自分がもうチョイスをガンと、できる自分を許可してあげたなら、
きっと中学のときの制服も、きっとよしってできたろうし、そのなんて言うんですかね、決定するときに、
周りの目を採用する自分だったり、ほらほらって、悪魔のささやきみたいにしてしまってたなっていうのはあって、っていう感じ。
全部否定はないんですけど、そんな感じ。
今ね、でもね、中学生とかはね、選べますもんね。
今、選べますね。
すごいいい時代だなと思って。
最高ですよね。
ちょうどそれこそ、制服の話だと、私が中学生のときに初めて選べるようになったんですよ。
松川中学校が、今の制服になって、で、女子も今、普通に選べるんですけど、スラックスかスカートを選んでもいいよっていう選択肢はいただけて、
で、私自身もうすぐにスラックスってものを見て、もうまるつけようとしたんですよね。
これだと思って、ほんとにもうまるつけて、親にもお願いしようって思ってて、カミングアウト動向じゃなくって思ってたんですけど、
そのときに、同じ学年で、ちょっとこういじめられてた子がいて、
で、その子が、それこそ当時すごく珍しく、ベリーショート、女の子なんだけど、ベリーショートで、
ちょっと、俺はさ、みたいな、一人称を俺にしてて、で、ある意味、なんだあいつ男か女か、みたいな感じでいじめられてたり、
他にもいじめられる原因はあったろうけど、なんかやっぱり、男なのか女なのかっていうとこでいじめられてる子がいて、
で、その子がスラックスを選んだんですよね。学年で1人スラックスを選んだんだけど、
私、そのとき、まあ臆病な自分、ずるい自分の1人がやっぱ買っちゃって、
ああ、私、あの子と私っていう、学年に2人スラックスになることが、怖さが増さってしまって、
だから、すごくウキウキ丸つけようとしてた自分の気持ちが、ピューンってなって、
スカートに丸をつけるっていう感じになったっていう、そういうときがあって、そうなんですよね。
今、だから、私、中学校の近くに住んでるけど、本当にいろんな子たちが、それぞれの、
かっこよく着てるとか、なんかもう素敵って、すごい思いながら、それはいいねって思いながら見てますね。
じゃあ、今の子供たちって、自分の好きなものをみんな選べてる感じなのかな、松川の子たちはね。
うちの一番上の娘が中学2年生なんですけど、本当に同級生の子で、もう借り上げてる子がいたり、
もう本当に、そら、クスグレザーの子がいたり。
へー、あ、そうなんだね。
それこそ、本当になんか、服装とか髪型も含めて、そのジェンダーレス、性がない、どっちの性でもっていうのを、
ね、あの、すごくいいものとして、今あるから、最高な時代到来したっていう感じが、すごくしますね。
ただ、男の子でスカート履いてる子はいない。
そうですよね。私もそこが、すごくね、だから、生まれ持ったせいが、女子、女の人っていう人は、結構生きやすくなってきたかなって。
でも、知り合いで、男の人の体を持っていてっていう人はいるんですけど、やっぱり、もう数年前だけど、石投げられちゃったりとか、
その人はね、スカートを履くことを、勇気出して、許可して、やってるんだけど、松本のほうだけどね、そうやってなっちゃったりとか、
やっぱり、生きづらさだったりは、ほんと人それぞれ、グラデーションで、いろいろあるなーって、それぞれ戦ったり、自分の心、なでなでしたりしながら、生きてるなーをすごく感じる、ジェンダーのことについてもですね。
私も、息子がちょうど6年生から中学生に上がるときなんですけど、今、制服を選びに行ったときに、女の子のところには、当たり前のようにズボンとスカート準備してあったから、
ああ、そういう時代なんだなって思って、でも、男の子は当たり前のようにね、ズボンだけ出てきたから、ああ、そういう時代なんだなって、そこも思って、
自分をジェンダーのことで受け入れるっていうのは1個、しんどくて、またそれを外に向かって表出しても、それで自分でいられるっていうのは、すごく大変っていう表現であってるかわかんないけど、
まだ難しさがあるところなのかなーなんて、制服を選びながら、ぼやーんと思ってたんですけど、ちょっと私もジェンダーのこと、あんまり意識せずに生きてきちゃって、
そうだな、よく最近新聞とかで、品の毎日新聞で取り上げられてたりして、制服も半数の学校では、男の子がスカートを選んでもいいようにはなってるとか書いてあるけど、でもね、そうやって表現していって、それで自分の心もちゃんと保っていける環境になるのには、
いい時代になってきてるっていう話だったけど、やっぱもうあと何歩か必要なのかなーなんて思いながら、今話を聞いてました。
だからある意味、これは私の今の感覚だけど、自分を100%出すかいなかも、だからカミングアウトするのがオッケーではなくて、ここではっていうセンサー、自分の安全センサーだと思ってて、ある意味私たち3人の共通でもある人の目を気にするって、
さっきゆきえさんも、いいことでもいい能力でもあるよって言ってくれた、まさにそれで、ここでは安全だろうかっていうところで、じゃあスカート履いても大丈夫なとこでは、きっと履けるようになるから、だから無理にそれこそ学校で、それでも俺はスカート履くってしたかったらオッケーなんだけど、
いじめられるの覚悟でって、そこまでいじめなくてもいいかもしれないなって、今ふと思ってて、でも私たち3人ともそれぞれ、またそれも共通だけど、必ず出会うじゃないですか、自分が自分の等身大のままでいられるときが、思わずとも出会えたっていうことは、そういうときのために、
自分は実はスカート履きたいんだよっていうこととか、自分は実はスラックス履きたいんだよっていうことを、自分が自分のことをちゃんとわかってあげる、気づいてあげる、その本音、そこだけでも一ついいのかもって、今ふと思った、なんか本当にちゃんとスラックス履かなくても、私は気づけていれば、自分だけはそれを否定しないで、
よし、履くとき履こうね、みたいな、思ってあげてれば、もしかしたら、それだけで救いなのかも、自分が自分を否定し始めたら、それこそ私のこの6番、ごめんねって思ったときとなっちゃうけど、
自分の声を否定しちゃうと、何も聞こえなくなっちゃうっていうか、自分がいなくなっちゃうから、うんうんってすごいうなずいちゃったけど、やっぱりそう、自分の心の声はいつも聞いてあげて、
で、それを行動にするかどうかはまた一つ別の課題だけど、自分の気持ちはここにあるっていうのは大事にしながら、いつも自分も今もそうだけど、そうしたいし、
そうだな、私も子供の頃の自分にそこらへんは謝りたいかもなって、今聞きながら思いました。
なんかそう、6番の謝りたいことないなとか思ってたけど、聞いてたら自分もそうだったね、思いました。
やすくん、やすくん、ありますか?
ないんですよ。
思い浮かばなくて。
自分に謝りたいこと。
なんでないんだろう。まあ、強いて言うなら、靴を履かなくてごめんなさいですね。
ちょっとどういうことですか?
子供の頃はすごく、靴下なんかもはや、靴までもが、旧靴で旧靴で、履きたくなくて、常に裸足でいて、
小学生の時とかですか?
小学生、もう、保育園生の頃から、もう裸足でいるのがもう当たり前で、うちの中でも裸足ですし、
最高じゃないですか。
そのまま外に飛び出してて、裸足で遊んでたりしてて、
昔はね、今に比べて土のところが多かったかな、公園とかも。
アスファルトが少なかったから、まだよかったんですけど、あるとき、裸足で、この速攻の中を歩いてたんですよ。
落ち葉がもう溜まってる中をザクザクザクザク、もう面白いなこれ、つって歩いてったら、
急に足の裏に痛みが走って、痛っとって見たら、瓶の破片が、
兄におんぶしてもらって帰ったお前が、
靴を履いていれば、そんな痛い声がしなかったんじゃないかと。
それね、ちゃんと謝ったほうがいいね。
そうだね、謝ろう、そこは謝ろう。
ごめんなさい。
聞こえたかな。
そういうエピソードがありました。
心理的な安心、安全が確保された対話の場を地域に作る、それがサイコロアイランド。
番組ではお便り、感想を募集しています。
概要欄にあるグーグルフォームからお送りください。
もし気に入っていただけたら、番組のフォローと良い評価をいただけると励みになります。
今日はここまで。ありがとうございました。