サイコロアイランド。この番組は、長野県のとある小さな村の住民が、サイコロの目で決めた話題を話し合う番組です。
第4回目のサイコロアイランドです。最初に自己紹介していきましょうか。
今、しゃべり始めている私から、岩崎康子です。よろしくお願いします。
松川村に来て3年目になるんですけれども、現在地域おこし協力隊として、村にあるあずみの千尋公園で活動しています。
ちょっと深掘りした自己紹介ということですけれども、年齢は36歳。昭和の最後の生まれです。
静岡県出身なんですけれども、大学行って、ちょっと会社員して、JICAの青年海外協力隊というので、中央アジアのキルギスという国に行ってました。
その後に、ニュージーランドにワーホリに行ったり、ちょっとフラフラして、フラフラの道中で松川村にたどり着いて、今、ちょっと田舎暮らしをしたいなということで、ここに来て楽しくやっております。
よろしくお願いします。
いい経験ばっかり。
はい。
じゃあ、どうぞ。お願いします。
草深です。会長職を4つやってまして、今。本職は草深製作所という会社で、おかげさまで会長職になりまして、今、社長が一生懸命やってくれてるもんですから、僕は意外に自由にやらせてもらってます。
その他に、今、松本信用金庫の会があるんですが、それの新商会という会の会長です。
それからもう1個、台北法人会という会があるんですよ。台北法人会の今、全部の会長です。
それからもう1つ、こっちのほうのつなぎがあるんですけども、保護士の仕事の関係もあって、もう1つ。
ちょっと保護士と言うと、またちょっと後で紹介するんですが、悪いことをした人たちを会社に雇いなさいよっていう国の方針みたいなのがあって、そうしないとまた悪いことしちゃうっていうお金が稼げないしっていうところで、雇用主会っていうのがありまして、協力雇用主会っていいまして、それの会長です。
それとさっきの話で今、保護士をやらせてもらってるんですが、僕の一番似合わない仕事です。もう悪いことばっかりしてきたんで、もう人に言えないようなことばっかりしてきたんで、これが一番僕に似合わない仕事なんですけども、今反省しながらやってますっていうところです。以上です。
ありがとうございます。
浅田マミと申します。松川村でブックカフェとお宿を経営しております。1人店主で、オーナーをしながら1人店主をやっていて、毎日1人なんですけれども、いろんな松川のお客さんがお店に来ていただけますので、毎日楽しく過ごしております。
松川村に来て、もう7年ぐらいになりますかね。松川に来る前は、私、東京に住んでいたんですけれども、東京に住んでいるときにちょっと働いてた仕事がいろいろ大変だったりして、いろいろやぶれかぶれになって、当時若かったので、元気さと時間と、あとちょっと貯金があったから、この産業史が沿ってないところに行ってみようと思って、エブレストにトレッキングに行ったんですよね。
その時、非常に感動したんですよ。一言で言うと。非常に感動して、日本に帰ってきて、当時、夫とは婚約している状態だったんですけど、私、エブレストの近くに移住したいみたいな話をしたんですよね。ネパールに住みたい。
ネパールの日本神社みたいなところで、とんかつ屋とか和食屋とかやれば、結構儲かるんじゃないかとか、本気で考えてたんですけど、そしたら夫が、すごく応援したいんだけど、もうすぐ結婚するから、とりあえずちょっと日本にいてほしいな、しばらくは、みたいなこと言われて、いや、それは本当にごもっともと思って、日本に泊まることにして。
日本国内で一番かっこいいところかなと思ったのが北アルプスだったので、いろいろあってこっちにやってきまして、松川ブランド非常に環境としては気に入っていて、ここでお店も始め、こっちに来て子供も生まれたんですけれども、そんな感じの暮らしを送っております。
うちの娘が何年か前にここで泊めさせてもらっているんですよ。
本当に始めたばっかりの子ですね。
そうですね。
嬉しいです。
本が好きでね、やっぱり。
そうですね。
一度見てみたい。今もずっと浅間のある旅館に勤めてるんですけども、ずっとホテルにいたりして、その勉強も固めながら、ちょっと一人になりたいなみたいな、松川に自分で家があるのに、ここに泊めてもらって。
私はもう多分娘さんと同じだと思うんですけど、自分の好きなようにこの店作ってるので、私もやっぱり本が好きなんですよ。
この場が居心地良すぎてずっとここにいます。
そろそろサイコロします。
今日はサイコロアイランドとしてね、サイコロを振ってこの出目が出たテーマに沿ってみんなで話していくってことですけど、ちょっとやらかした話の出目が出るかわかんないですけど、ちょっと振っていきましょうか。
草深さんちょっと近いんでお願いします。
いいですか。
聴過半から。
聴過半から。
2番。
自分の親の理解不能だった行動ってことなんですけど、パッと出る方いらっしゃいます?
ちょっと私事前に考えてきたので。
大前提に言うと、うちの両親は本当に仲が悪くて、私の高校を卒業と同時に離婚したんですよ。
で、父親は本当に家にいなくて、遊びほうけてたのか何なのか知らないんですけど、なので父親らしいことをされた思い出もあんまりなくて、なので全てが理解不能だったので、ちょっと父親の話は置いといて。
で、その中でも母は本当に一生懸命育ててくれて、すごい良い母だなって思ってるんですけども、自由に育ててくれたんですけど、今でもたまに思い出す、ちょっともやもやしたことなんですけど、私がやりたいことに一度もNOとか言ったことはないんですけど、教育ままでも全然なくて、
三者面談ってあるじゃないですか、小中高ってあると思うんですけど、三者面談に行くと、だいたい友達とかが、昨日うちのお母さんも質問責めでさ、時間伸びちゃって恥ずかしいとかって言ってる友達がいる中で、うちの母、先生がちょっと私の話をして、
あ、お母さん何かありますかって言ったら、あ、ないです、大丈夫ですって言うのを、もう小学校の時はずっとそれだったんですよ、三者面談。で、なんか、なんでうちの親って何も質問してくれないんだろうっていうのがあって。
で、高校3年生の、たぶん私の人生で最後の三者面談で、あの、もう進路が決まる、なんか大事な時だから、お母さん、今日はなんか質問してねってお願いしたんですよ。
そしたら、お母さんも、あ、わかった、わかったって言ったんですけど、あの先生が、さらさらって、なんか、岩崎さん、普段こんな感じですよって言った後に、お母さん何かあります?進路で不安なこととかしたら、あ、ないですって言って。
いや、そうもう、え、終わり?みたいな感じで、たぶん高3の、あの、その時の三者面談で、なんか5分ぐらいで終わっちゃう人もいないのか、先生も、え、お母さん本当に何もないですか?みたいな感じで、あ、大丈夫ですって言って、ほんと5分ぐらいで終わっちゃって、なんか子供ながらに、もう高3なのに、なんか寂しくなっちゃって、え、お母さんなんで私のことどうでもいいの?みたいになっちゃって、それをたまに今でも思い出して、うーん、何だったんだろうなっていう。
私は今でも親父ではないんですけど、ま、本当にNOって何、私の決断に言ってくれない、言わないので、本当に自由に育ってはくれたけど、なんかもうちょっと興味持ってほしかったな、どう、どういう心情だったのかなっていう、今でもたまに思い出すエピソード。
兄弟一人だって。
あ、姉がいます。
お姉さんとちょっと同じような感じ。
そうですね、はい。親としてはどんな感じですか?
いや、私はちょっとお母さんに似たところがあるかもしれなくって、あまり息子の将来のこととか、子供はね、男の子なんですけど、どういう人になってほしいとか、あまり自分の思いを込めないようにしようと思ってるんですよ。
息子の名前をつけるときも、なんかこう健康になってほしいとか、頭良くなってほしいとか、そういう願いが一切こもってない名前をつけたんですけど。
なので、なんか自分が楽しく、楽しくなくてもいい、好きなように彼が望むように生きてくれればいいと思ってるから、もう私から言うことは何もないなって本気で思ってる。
でもそれも一つの愛の形。
そう、もう生まれた時点で私とは別の生き物だから、今ちょっと保護されてないと生きていけない年だけども、絶対ほったらかしといても人間って絶対そう考え知らないから、勝手に育っていくものなのかなというふうに思ってるので、なんかちょっと私はお母さんの気持ちもわかるかなと思いました。
お母さんとちょっと会ってみたい。どうですか?お父さんとして。
みなさんよく独立したと思う。ヨーロッパだと思う。早く取り出しできて。
父親が家にいなかったからかもしれない。
どうしていなくなったかっていうのは後からわかったんですけども、本当にはライオンが子供を突き落とすっていう感覚で何もわからないんですよ。
何が起こったかもわからなくて。
まだ25、6だったんで、どうすればいいかもわからないんだけども、その後はいろいろ一つずつ勉強して、今ここまで来れたんでねっていうところでいるんだけども、
本当この辺のだけで小説書こうかと思ってて。
成功すれば小説もかっこいいんだけど、そうなんですよ。
いまだにまだこの辺のところにいろいろやってるんで、というところでね。
ただ母親はすごく綺麗好きで、何でもかんでもさっきの一通り自由にさせてくれて、
そんなにギチギチやる親じゃなかったですよ、両方ともね。
親父親父のいいとこもあるし、お袋もいいとこもあるしっていうところもある。
喧嘩する姿も見たし、それが子供たちのいい悪い。
親が悪いから子供も悪くなっても、これも間違いだと思うし、絶対その親がどうであろうと。
さっきのもう一個保護士のやつもあるんですけども、やっぱりこうお子さんたち見てると何人か見てるんですけども、やっぱり家庭の問題はあるかなっていうのは少しはあります。
でもね、最後は自分だからね、どこで修正していくかっていうのはあるんですけども。
その辺のところを今も一人、刑務所に入っている子を見てるんですけども、やっぱりその家へ帰ってきたいって気持ちもあるし、親は帰ってくると困るっていうのはあるんで。
この辺の線引きがね、すごい難しい。
親子の関係というのが難しいと思います。
というわけでね、親は少し悪い方がいいと思う。
あんまり良い親は良くない。
皆さん、裕福じゃないですか、今。
親っていうのはどうしても子どもたちは苦労させたくない。
これ間違いで苦労させた方がいいんですよ。
そう思いながら、自分のことを含めてね、って思いつつ、今はもう72なんだけども、いろんなことを考えながら来てる中でね、今が一番楽しいと思います、僕も。
そうは言っても、この前後の話はいろいろあるんでね、またやりましょうか。
すごい相対の話しすぎてね。
浅田さん。
自分の親の理解不能だったことですか。
ちょっと真面目な話になるんですけど、私は二人兄弟なんですよね。
それで、三つ差なので、ちょうど大学が被るんですよ。
私が4年、弟が1年で。
その年に、いろんな都合で父親もフルで働けなかったりして、お給料がそんなに多くない年で、かつ学費めちゃめちゃかかって、しかも私東京に上京してて、下宿もしてるしで、家の中のお金がもう本当にショート寸前だったんですよ。
それでね、マイホームに住んでるんですよね。
父親がローン払ってて、だからもう売っちゃえばいいじゃないかみたいな。
でね、おばあちゃん家近くにあるし、おばあちゃん家に住めばそんなに苦しい思いをせずに、血の滲むような節約をしながら生活したから、人に貸すなり売るなりして、おばあちゃん家行けばいいじゃんみたいなこと言ったら、父親にものすごく怒られたんですよね。
私その時は、父親が家を買った時の思いとかも全然わかんないし、ただお金がないなら節約すればいいじゃんってそれだけのことで言ったんですけど、当時は父親がなんでそんなに怒るか全然わかんなかったんです。
母親も私がそれを言ったことにしたとして、とても悲しそうな顔をして、ちょっと泣いてたんですよね。
当時はもう本当に理解不能だった、両親がなんでそんな反応するのか。でも今になってわかるんですよ。やっぱりマイホームって大きな買い物ですよね。
自分で一生かけて払うもので。だからある種、今っぽい若い人の感覚からすると、コスパが悪いとか、住めればいいのになんでそんな苦労してお金返すのか思うんだけど、家を買うってそういうことじゃないんですよね。
自分の収入の大半の部分がそれに持ってかれちゃうとしても、そこでその箱の中で過ごす時間、そこが欲しくて買うのに、それを合理性で割り切るってことじゃなくて、うちの両親は、だから私も弟ももうすぐ大人になって出ちゃうけど、その最後の大切な時間をそこで過ごしたいと思って、住宅ローンを4人家族用の家で設計して作ったんですよ。
みんなで住む最後の時間なのに、私がそうやって言っちゃうのが、すごく悲しかったんだと思うんですよ。当時は、私本当に若いから分からなかったです。本当に分からなかった。でも、お金よりも時間とかその密度とか、それに込められて気持ちの方が大事なんだっていうのも、最近になってようやく分かるようになって、だからあの時は理解不能だと思ってごめんねって感じです。
両親がそんな思いを込めた家に住まわせてもらえて、私は幸せだったと思う。あの時、売るって言わない親で良かったんだと思いますね。