普通でいることの願望
小島ちひりのプリズム劇場
この番組は、小島ちひり脚本によるラジオドラマです。
プリズムを通した光のように、さまざまな人がいることをテーマにお送りいたします。
取引先の横井さんは、背が高く男前で、いつもハキハキとしていて、いかにもエリートサラリーマンという感じだ。
こんなドラマみたいな完璧な人、本当にいるんだなって、いつも芸能人を見るような感覚で見てしまう。
俺は普通でいい。かもなく、不可もない人間でありたい。
子供の頃からずっとそう願ってきた。
横井くん、結婚したの?
新村部長が横井さんに聞いた。
確かによく見ると、横井さんの左手の薬指には指輪がはめられている。
前回の打ち合わせではなかったはずだ。
横井さん、結婚したのか?
横井さんの奥さん、どんな人なんだろう?
実はそうなんですよ。
自己受容の葛藤
へー、この色男を射止めたのはどんな女性なんだい?写真ないの?
ありますよ。見ます?いいのかい?
いいんですか?
横井さんの部下の野村さんが驚いた表情を見せた。
確かに取引先とここまでフランクに話すことは珍しいことかもしれないが、
話の流れとしては違和感がなかったので、野村さんの反応が印象に残った。
いいのいいの。
横井さんがスマホの画面を新村部長に見せると、新村部長は一瞬固まった。
君、これは、その、男性では?
気になって首を伸ばして横井さんのスマホの画面を覗き見た。
そこにはタキシードを着て満面な意味の男性二人が写っていた。
横井さんは嬉しそうに笑って、
俺の夫です!と答えた。
それで、俺に何か話しでも?
横井さんは俺の顔をじっと見ながらそう言った。
野村さんはコーヒーに砂糖を入れて混ぜている。
俺はうつむいて硬直してしまっている。
あの、私、席外しましょうか?
野村さんに気を使わせてしまっている。
あ、いや、その、野村さんにもいていただいて、何も問題ありません。
すみません、急にお電話なんてしてしまって。
いいえ、全然問題ないですよ。何か話したいことがあったんですよね。
俺は先ほどの打ち合わせが終わった後、勢いのまま横井さんに電話してしまった。
そして、話がしたいなどと口走ってしまったのだ。
あ、あの、意味がわからないと思うんですけど、
俺、普通でありたいと子供の頃からずっと思っていたんです。
普通ですか?
横井さんは、突然始まった俺の話に困惑しているようだ。
とにかく普通で、かもなく、不可もなく、目立たない普通の人生を生きていくことが俺の目標であり、夢でした。
子供が見るにはちょっと変わった夢ですね。
そうなんです。それだけ普通を願うということはつまり、俺は普通じゃないんです。
なるほど。
特別、ここが人と全然違うってわけじゃないんです。
かといって、普通のことを当たり前にできるわけでもないんです。
例えば俺、人を好きになったことがないんです。
恋愛をしたことがないってことですか?
はい。女の人を見ても綺麗な人だなとか思うことはあるんですけど、好きだなとか、付き合いたいとか、デートしたいとか思ったことないんです。
かといって、別に男の人に対しても、好きとか付き合いたいとか思わないんです。
まだ若いですし、そこまで気になさることでもないのでは?
特にこれといって好きなものもないんです。
他の人たちは色んな趣味を持っているじゃないですか。
スポーツしたり、キャンプしたり、映画見たり、俺そういう好きなものが何もないんです。
お仕事はどうなんです?
仕事は頑張ることが普通だと思っているから頑張っているだけで、楽しいとか好きだとか思ったことはないです。
なるほど。
あの、どうやったら普通じゃない自分を受け入れられますか?
どうやったら自分の好きなものを見つけられるんですか?
まず、中村さんのその普通じゃなくちゃいけないという、まあ言うなれば脅迫概念のようなものはどこから来ているんですか?
脅迫概念?
中村さんは普通というか、その社会のルールの範囲にちゃんといるじゃないですか。
なのにどうしてそんなに普通ではないことに恐怖を感じているんですか?
恐怖?
俺は自分が恐怖を感じていることにそもそも気がついていなかった。
普通であることは良いことであり、目指すべきことであり、そこから外れることは許されないことだと思っていた。
あ、そうか。この許されないと思っていることが恐怖を感じているんですか?
俺もね、自分が女性を好きじゃない、恋愛対象として見られないと気づいたときは戸惑いましたし、男性が好きだって受け入れるまでずいぶん時間がかかりました。
家庭と生き方の違い
でも、今の夫と出会って腹がくぐれたんです。
これが俺だ。俺はこの人と生きたい。
それにね、普通ってもっと大雑把なものだと思えばいいんですよ。
大雑把?
そう、社会のルールの範囲内のことは全部普通。
そう考えれば、中村さんはとっても普通の人です。
そうですよね。
そうですよね。
そうですよね。
そうですよね。
そうですよね。
そうですよね。
そうですよね。
そう考えれば、中村さんはとっても普通の人です。
じゃあ、横井さんも野村さんも普通の人ですね。
そう、俺たちはみんな普通の人です。
そう言って、横井さんは歯を見せてにかっと笑った。
この人は一体、どれだけの葛藤を乗り越えて今、こうやって笑っているのだろう。
家に帰ると、親父がソファーに寝そべりながら、テレビを見ていた。
ただいま、親父。
おう、おかえり。
親父は顔をこちらへ向けた。
どうだった、会社は。
今日は取引先の人に会ったよ。
そうか、別に辞めたくなったらいつ辞めてもいいんだからな。
親父はそう言うと、顔をテレビに向けた。
親父は大学を出てからずっとこんな生活をしている。
祖父を早くに亡くし、親父は21歳で莫大な不動産を手に入れた。
その結果、家賃収入だけで暮らしていけるようになり、就職もしなかった。
別に好きなことをしたってよかったはずだが、毎日毎日ゴロゴロしながらテレビを見ている。
こうやって30年以上飽きずに暮らしてこられたというのは、ある意味才能だったのだろう。
ただいまー。
あら、ケンタロウも帰ってたの。
母さん、おかえり。
今ちょうど帰ったところ。
夕飯ピザでいい?
お母さん、今日仕事でいいことあったからピザ食べたくって。
うん。
お父さんもいいわよね。
ういーす。
親父はソファーから手をひらひらさせている。
よくよく考えてみると、親父が母さんの言うことを否定しているところを見たことがない。
お母さん、今度ドラマの衣装の仕事をやらせてもらえることになったの。
なにそれ、すごいじゃん。
頑張ってきた甲斐があったわー。
母さんは、仕事が大好きなんだね。
大好き。これがないといけない。
大好き。これがないと生きていけないって感じ。
好きなものが特にない俺と親父。
大好きな仕事が生き甲斐の母さん。
嫌いじゃないのに、この家族の形が俺にはとても重かった。
それでも俺は、この至って普通の家庭で今日も生きていく。
いかがでしたでしょうか。
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それでは、あなたの一日が素敵なものでありますように。
小島千尋でした。