人に平等に接することの可能性
今回は、人に平等に接することは可能かという話なんですが、なんでこのエピソードを撮ろうと思ったかというと
倉木もこれは、正義感が強いからこそ
こうしなきゃできないという思いもあるんだけど、でもできなくて情けない思いをしたことが何度もあるからですね
早速話していこうと思いますが、可能なのかということで
話していきたいんですが、そもそもこれが前提になってくるけど、生まれながらにして平等ではないですよね
親がちゃだ、親がちゃだっていう人もいるけど
まあ正確に言うと平等でないっていうよりも、平等かどうかなんていうのは
計り知れるものではないと思うんですよね。例えばクローンでみんな同じように
背丈同じ見た目で生まれてきたら
果たしてそれは平等と言えるのか。教師がみんな個性があるのに
人それぞれ違うのにみんな同じように接するということは
平等なのか。変化に対して全く同じだと
それよりも変化に対応して、起点が効いて
変化させた方がある意味で変化がなかったりするわけですよ
そういう意味では平等に接しようとした時に、クラキなんかは
以前はねみんな同じように
これは平等にする
頭の中に平等っていう概念があったわけでもなく、そういった正義感によるものでもなく
正義感は正義感なんだけど、その人がね
その人に対して誰なのか振り分けて接し方変える
だからその自分より下だと思ったもの、弱いものには
強く当たって
そんな人が自分より強いと思ったものに対しては
媚びへつらうのがもう嫌で嫌でしょうがなくて
クラキは
それを反面教師にしてみんな同じように扱うんだけど
これは失敗でしたね
あとそもそも
動物っていうのは自分より弱いものに強く当たるというのは
そういう本能がありますから
別に動物らしく生きてたんだなと
人間なんでね、他の動物とは違うんでやっぱりそういうのは
行けつかないですね
ここまで話しただけで
人に平等にせせるって人主治なのではいかないなと
理解してもらえたんだと思うんですけど
でもね、人に
平等に接せられるか、この問い自体が大事だし
人に平等に接しようと
いう意識は大事だと思うんだけど
平等と不平等の葛藤
だからクラキはね、これが一番悲惨だと思うんだけど
感情的になったら結局
弱いものをいじめしてしまったり
強く当たってしまったり
これだったら普段からね、別に
そんなこと意識する人いないと思うし
まあでも人に平等に接しようという
発想があるだけまだわしですよ
こんなこと思ってる人ほとんどいないですから
人間ってのは
弱いものに強く当たってしまう、そういう生き物ですからね
で、クラキはね
今言った弱いものをいじめてしまったり強く当たる
これはもう普遍的なことだし絶対変えられない
人類変わることは
今後500年経っても1000年経っても変わんないだろうと思うから
そういう意味ではやっぱり平等に接する
ないんだけれども
でもですよ
他の動物も同じことだろうしそういう意味じゃ
自我によるものじゃないんだから
まあこれは別に平等ではないっていう
反中に入らないんじゃないかなと思うんですよ
逆に
なんていうかな人間的な
ところというか頭で考えて考えて
平等に接しようとしたらそれはね
違ってくると思うんですよね
でもそういうことって生活してたらまあまああると思うんですよ
逆に弱いものを優しくしようとして
逆に晴れ物を触るようにしてしまったり
これを平等と言えるのか
骨折してる人がいて
逆に晴れ物に触るようにして接したらダメだから
普通に接してしまったら
今まで通り接して
骨折してるところに体が当たるかもしれない
だとしたら
不平等と言われるのはなんだろうか
接し方を変える必要がある
今の話聞いてちょっと
なんていうのかな
違和感はあったかもしれないけど
でも今回の話はとても深い話なんで
ちょっとこうやって現実に具体的に照らし合わせてみて
考えてみる必要はあると思うんですよ
実際ですよ
骨折してる人がいて
どう接したらいいかなんてそんな深く考えないだろうけど
あとお金がどうしても欲しいっていう人がいる
貸して欲しいという友人がいて
他方でも
どうしてもじゃないけどお金貸して欲しいっていう友達がいて
同じ友人という条件
条件は変わらない
平等に接しなきゃいけないからって言って
どっちも貸しませんじゃ
単に生きれない人
考えが固い人に終始してしまうことになりますよね
かといって
まあそうやってね
結局はでもそれで
片方に上げてしまうと
片方からしてみたら不平等に感じるだろうし
前回のエピソードの話も綴るとこあるけど
これの見てる
誰がこの状況を見てるかで
平等と呼ぶか不平等と呼ぶかが変わってくるだろうね
だからある国で行われてる施策が
これは国民に対する不平等だ
扱いをしてると差別だと言っても
ある意味ではそれは差別なんかではないかもしれない
平等に接しているかもしれない
ただ倉木は差別っていう概念は大事だと思ってて
そこを厳粛に差別を差別だと
言う必要があると思うんですよ
今回みたいにそれは公平なのか不公平なのか
分かりませんねなんていう難しい
議論に持ち込んではいけないと思うんですよね
人に平等に接することは可能だし
人に平等に接しなきゃいけないのかというと
その心構えは大事なんだけど
平等にしようとした結果
不平等になってるかあるいは人から見たら
誰が見るかによって平等と呼ぶか不平等と呼ぶか
分かんないから
結局でも平等に接しようとしても
その意思がある方がいいのが悪いかっていうのは
なんとも言えないかもしれないけど
倉木はそれでも平等に接するという
心意気っていうのは大事だと強く主張したいですね
倉木はこの人に平等に接しなきゃいけない
弱いものに強く当たってはいけない
弱いものをいじめやしてはいけないって
してはいけないという考えは一生
取れるものではないと思ってます
簡単に拭い去ることができるものではないと思ってます
そういう仕組みの下で生きていくしかないんですよ
それが不正解であっても
それではしたっけ