ニーチェの解釈の重要性
では、哲学雑談会に始めていこうと思います。
では早速ですが、ニーチェのこんな言葉、ご存知でしょうか?
事実は存在しない。あるのは解釈だけだ。
これの例えとして、コップに半分水を注いで、これを半分だけだとあるか、半分もあるとあるか。
これが単なる解釈。
主観的なものだということですね。解釈でいいすぎないと。
半分入っているということ自体も、グラムなんていうのは、人はこれぐらいの量がグラムだと定義しているけれども、これも曖昧なものなんて実は。
学校の理科の時間はそんなことを教えてくれないけれども、よく哲学的な命題になることですね。これも実は曖昧なんだと。
ニーチェは全ては解釈でしかないと言ったけど、確かに半分しか入っている。半分しかコップには入っていない、水が入っていない。
半分入っているっていうのは確かにそうですよ。
グラムっていうのも曖昧なものだから。
これが本当に半分かどうかはわかんないから。半分だというのも解釈にしすぎないから。グラムっていうのも解釈にしすぎないから。
つまりはこれが半分ということも解釈にしすぎない。
だけども、ここに水が注がれているということは事実ですよね。
もちろんですよ。
人が見ているものなんて、これは実は主観的なものでしかなくて、他の人と同じように見ているかわかんないということはあるんだけども、ニーチェはそこまでのことは言っていないわけですよね。
半分だという、それは解釈だということはニーチェは言っているかもしれないけど。
だからつまり何を言ったかというと、すべて解釈であり事実がないっていうのは、どうもね、少なくとも今のコップの例だとは違うと思います。
水がそこに注がれていること自体は見て取れるわけですから、それ自体は事実だろうと思うんですよね。
雑談会なので次行こうと思いますが。
イエス・キリストの神格化
クラキュラーの歌詞とか芸能人が深刻化される場合って、人民にとってそれは都合がいいからこの人を深刻化することによって、物語が都合よく解釈できるから深刻化している。
それに過ぎないと思っているんですよ。
その人より優れた人がいたとしてもその人を深刻化するのに至る経緯ってそういうことだと思っていて、実はイエスキリストも、別に悪く言うつもりは一切ないんだけど、この人もなぜこの人自身が神だと崇められたかというと、似たような経緯なんですよ結局。
まあ都合は悪いに決まってますけど、でも世界の多くの人からしてみたらですよ。
どんな厳しいことをやるよりやっぱり信じていれば救われてほしい。
人間の本能ですよ、楽な方がいいっていうのは。
その都合がいいわけですから、この人たちにとって。
またこれを言うのが誰かっていうことも大事ですよね。
これはもういくら説明したところで、コニガンスってなかなか難しいけど、まあユダヤ、京都の両親から生まれて、元々はユダヤ兄弟とか、
このイキリストが、まあ運よく、運よくというかたまたまというか、この人が言ったから意味があったんですよね。この人じゃ意味なかったんですよ。
この人が言うことによって信じられるし、絶妙なラインだったんでしょうね。信用できるし、でも都合がいいし。
ということで、そこでこの人が救世主なんだとみんなとして思い込みたいわけですよ。
辛い状況に立つと人間ってそういうときほど都合よくそうやって物事を捉えて信じたくなるんですね。
それでそういう話なんか聞くと、実際神の話なんか動画は置いといてですよ。
まあ似たような経緯なんだなと思ってね。では次の話。
正直楽器としてはね、キリストが神だと崇められるのはまあまあそういう理屈なんですね。
そうですねっていう感じで。結構納得いっちゃったんだけど。
単純にそれだけのことでしかないなってね。楽器なりには解釈したんですけど。
日本人の生き方の考察
では次の話。問いたいんですけど、通行人Aになる人生って嫌ですよね。
でも日本人ってそこに甘んじてるというか、疑問にすら思ってないしですよね。
疑問に思ってもいざ行動に移そうとなると無理で、結局通行人Aに結局なっちゃうんですよ。
時が過ぎれば。
というか通行人Aになることがそんな問題視してる自分でちょっとやばいと思いませんか。
そんな人日本人にはほとんどいないんですよ。だから。
逆に通行人A以外の人ってどういう人か。
主役級とかそういうことですよね。
ただ倉木は前話した通り人生の主人公になるっていうのはね。
全くおかしな発言だと思ってて。
そういった場合、人生の主人公じゃなくてその組織の主人公になるのをイメージで大抵の人は言ってるんだ。
人生の主人公になんてなろうともなくてもなってしまうんだという自我がある限り。
そんな話は依然しましたが。
だとするとですよ。
主役級というか、ドラマでいうと登場人物ですよね。
ちゃんと見られる人たちですけども。
カメラのピントも合ってるだろうし通行人と違って。
全く歴然とした違いはあるけれども。
組織の中でそういう存在でありたい。
通行人Aに甘じるのではなくて、しっかりした、ある程度キャラがある、そういう存在でありたい。
こういうことを思う人は学生時代からみんな思うんじゃないですかね。
暮らしは休みは通行人Aという意識があったかなと思いますね。
それとは別なことだと思うんですけど。
自分というものを持つことを日本人は心がけているかというと、心がけていたとしてもそんなことを忘れるだろうし。
人に合わせることも最優先ですからね。
優先順位でいうと相当順位は違うと思います。この2つ。
自分を持つのか人に合わせるのか。
日本人というのはその場の雰囲気に合わせてテンプレートを話しているだけですからね。
例えば大事な話し合いでさえ。
となるとですよ。
それってやっぱり通行人Aなんじゃないのかなと思ったりもするんですよね。
でもみんながそうだから通行人Aにはなり得ないんだけど。
一応主役を気取っている月並みなことしか言わない人たち。
それが日本人という民族性なんですかね。
ちょっと言い過ぎではないと思うんですよ。それぐらい言っても。
でも日本人って出る杭は打たれるのわかってるし、出る杭は打つし。
なんとなくその場の雰囲気で。
だからつまり尖った人もいなければもやがかかったような意見の言い合いというか会話ばかりしてるけど
もうでも暗きからしてみたら通行人Aになるのは嫌で
結局みんな通行人Aとも言えるわけですね。
では次の話なんですけど。
目的を持つってことは少なからずあると思うんですよ。何かの行動をしようとすれば。
でもですよ。
ひょっと疑問に思ったんですよ。
どうやったって人類は悪いになってしまう。これは生物学上人間って理工的な遺伝子でできてるからしょうないんだけど。
でもそんなことって今まで意識してなかったなと思うんですよ。
どうしてこう思ったかっていうと
これだけボットキャストを取るにあたり
自分ってものを知ってほしい。
言い換えると
自分が本当に発信したいものを発信するんだと。
当たり前のように聞こえるかもしれないけど言葉だけで言うと。
これをモットーにしていきたいしこれからも。今までもそうだったし。
なんだけどよく考えてみたら
リスナーさんのことを考えるとですよ。
それよりももっと大事なことがあるんじゃないかと。
でもそこを大事にしすぎると
自分のなんでそもそもボットキャストをやり始めてるのか、何のためにやってるのかっていう
どこどこのズレが生じてしまうし。
これが単純に収益化のためだったらそこのズレって起きにくいのかもしれないけど
こういうことってあると思いますね。
どうせ一回の人生なんだから
こういうふうにやりたいのにやろうとか
例えばそういう志を持ったとして
周りの人にいるとってはどうなのかなんて
考えなかったら逆に周りの人のことを大事にしたら
自分の考えが置き去りになるというか
自分の原動力となるようなことが置き去りになるというか
自分の大事にしている信念がなくなったり
そこはジレンマだと思いませんかね。
矛盾だと思いませんかね。
それでは明日っけ。