主体性の欠如
今日はちょっと嫌な思いを思い出してしまったんですけど、
倉木は主体的に能動的にできないことってこうなってしまうという話ですね。
それでは話を聞きたいと思います。
ちょっと漠然としてますね、主体的。
倉木が主体的って、自分で思いを考えて計画して、
自分がやりたいタイミングで、でなくてもいいけども、ある程度ですね、
主体性を持って自分でやるっていうことを主体的にやってるってことなんですけど。
これができない場合、すぐ思いつくのは野球部時代ですね。
ただただ監督の奴隷になり、何の喜びもなく言われるがまま。
これはもしですよ、自分で主体的にやろうとすれば、
倉木は負けず嫌いなんだって、他の人と違うことを、負けず嫌いでかつ、
他の人と違うことをしたいっていう芸術家派だというかね。
そこで主体性があるかどうかってすごい大事になってきて、
それで自動的だとそれがいかんなくはっきりできないんですね。
自分の個性を出せないんですよ。
だからうまく、うまくっていうか全くうまくじゃなくて、収まってしまうあるところで。
具体的に言うと、他の人にバカにされないようなフォームで。
で、ほんと別の人格になってしまうんですよ。
あとはですね、そんなに自分を卑下してしまうんですね。
自分はこんなもんだと思ってしまうんですよ。
だから他の人より打てないんだからこんな格好つけたフォームしても絶対、
とにかく言われてしまうんだから。
そこの変なプライドはあるんですね。
これがもし自分の個性を発揮できるとしたら、
とにかく自分が思っていること、思った通りのフォームで自己主張できるんですね。
こういう動きって無駄だろうとかね。
さすがにフォームに関しては、プロに対しても何で縦の突き方しようとしたのかと思うけど、
ソフトボールの時こういう風にしてればよかったなってね。
これ引きこもり10年以上色々空想してました。
足は引くのは意味のある動きとは思えないから、
体重はこういう風にかけるべきだよなとか。
よくこういう風に指導されるけど、これって間違ってるよなとか。
そういう自己主張はできるんですね。
もし主体的にできるようなことは。
主体的にできるかどうかって大事なところは、
そうやって奴隷的な感じの構図はないってことですね。
自己主張の重要性
上から指図されたり、上の圧力は、
上から指図されたり、上の圧力はないってことです。
バカにされたりするような状況ではなくて。
負けず嫌いな自分が出てくるかどうかって大事で。
野球部時代は負けず嫌いよりも、とにかく試合でミスらないことしか考えてなかったですから。
先生に怒られないことしか考えてなかったですから。
負けず嫌いがもちろん穴となることもありますけど、
これが最低限必要なことなんですね。
でも中学生の時の勉強は、別にやりたいようにやって、
もう塾の先生っていうのはもう潤滑になってくれたようなことではあるんですけど、
これが自分で主体的に出来てたか、自分で個性を出してやられたかっていうと、
そうじゃなくて、これは何でかっていうと、
あまり合理性重視してなかったし、根性でやってたからですね。
こればっかりは野球部のホームと違って、
頭で考えてどうのこうのってならないですから、とりあえずやるしかなかったんですよ。
これも条件として加わりますね。
頭でシミュレーションできることじゃないとダメなんですね。
もしくは俳優になったら、こういう時はこういう風に演技するべきだとか、
俳優でなくても他の芸術家でも。
そういう自己主張はいかんなくできると思いますね。
もし芸術の才能が少しでもあれば、
ある程度体制できたんじゃないかと思うんですけど、残念ながらないんですね。
あと周りの奴の能力が凄すぎて、例えばクラッキーは経営者になって、
周りが凄すぎて、そういう場合も、
とてもとても自分の個性を出そうっていう気にはならないですね。
とりあえずしがみつきながら、やれることをやりますみたいな。
これと似たことを言うと、
あまりにも忙しくて疲労感がある時、こういう時は、
もう主体的に何かやろうというよりは、
やらざるを得ないことをやろうという感じにしかならないんですよ。
こうやって主体的にできないことって、本当に苦痛でしかないんですよ。
工場のライン作業をしているのと何らかはないですから、野球。
入って練習しているといったって。
あとですね、もう一つ状況がありました。
ゼロから100まで教えられて、そのとおりやらなきゃいけない、マニュアルがあるようなものとか、
今言ったようなものはダメですね。
その隙間が必要というかね、自分で、頭で考えてやられていると思い込めるものじゃないと、
主体的に何かやっている気がしないんで、つまり個性をいかんなんか発揮しようとか、
自分を表現しようとか、自分らしさを出そうという気にならないんですね。
あとはそういう余裕が大事なんですよ。
因果関係と人生の選択
だから疲労感があまりあるときとか、忙しいときなんかはダメなんですよ。
でも自分を出そうとするのが決していいことばかりじゃないなと思ったときは、
ある程度忙しいほうが逆かけて自分にとってはいいのかなと思ったこともあるんですよ。
一番の問題は完璧主義になっちゃうことですね。
自分を表現できるようになることの問題点はそこですね。
自分を表現できるからこそ完璧なものにやりたいわけですよ。
高校自体は自分でやりたいように勉強できてたんだけど、逆にうまくいきませんでしたね。
高校の進路選択は完全にこれの受動的な方ですね。
大学の入試は能動的だったんだけど、全然うまくいきませんでしたね。
うまくいきませんでしたね。どっちがいいかってこれ難しい問題ではあるんだけど。
とはいえ、野球部時代みたいに、あれはああいう風になってしまうのは、
あれ何のために野球やってたんだと別にお金もらえるわけでもないし、ただの時間の無駄でしかないんですよね。
監督の言われるがままでしたから。何も面白くないんですよ。
技術を向上させようなんて気持ちもないし。
とりあえず怒られないように無難にこなしてるだけ。
もういずれかにしかならないですね。極端なんですけど。仕方ないんですね。
あと学芸界なんかもそうですね。
自分でこういう風に演技したらどうかとか、そういうことをやろうって発想なんないから、
だからテレビなんか見ててね、学生のうちからそうやってできてる人はすごいなと思いますね。
高校時代の結局やってたのよ、学校祭で。それもそうですね。
物作りするにしたって、演技するにしたって、とりあえず時間を潰す行為でしかないんですよ。
体育の苦手なスポーツなんかもそうですね。
さっきので言うと、だから負けず嫌いなところが出てない状態ですね。
こんなことやったってどうせ勝てないしっていうことなんですよ。
ソフトボールの時は負けず嫌いなところが出てました、逆に。
決して苦手なことは避けて得意なことをやるような性格でもないんですけどね。
書道の習い事なんかも。
あれはとりあえず親についていってたような感じなんで。
前者の方ですね。
でもね、家にいる間はいつもそうでした。
買う服、買ってくるパン、買うお菓子、すべてが
もう親の言いなりじゃないけど、親が買ってくるものをカップル、ラーメンだって、何だって食べる。
自分で主体的に何かやるってことは家でなかったから。
とりあえず生きてるっていう、生きた心地がしないって感じ。
だから筋トレの最中は自分なりにやってましたからね。
生きた心地するんですよ。
ホットキャストは完全に主体的にやってる感じ。
だけどアフィリエイト時代はとりあえず必死に食らいついてるような感じだし。
それでね、できるものもあるかもしれないけど
それでただただ時間に追われて、続きませんしね、クラキの場合はストレスでしかないですから。
あとクラキにとっては、他の人にとっては嫌な作業でしかないだろうけど
自転車を越え学校に行くっていうのはね、クラキにとっては結構実りのある時間だったんですよ。
あとただのものを貸さない、貸さないって言い方あれだけど
イチョウの木から落ちたりんなんとか、拾って帰るとか、お祭りの屋台、歩くのとかもね
他の子供だったら、あーこれやりたいとかなるんだろうけどクラキはただただ親についていってるだけでしたね。
ドライブとかも全部そうですから。旅行とかね。
それでは明日だけ。