命の哲学的考察
今回、命は誰のものか❓という話をしていきたいと思います。
正直、倉木はこんなこと考えたことあまりなかったですけど、
最近哲学の話をしているので、これはいい機会にと思って話そうと思うんですが、
なぜ今まで考えてもなかったかというと、
そもそも命なんてものは、
便宜上ね、命というのはわかるんだけど、
ブッダが言うと、この自分ということかな、
生物学的に言うと、
命ってなんか複雑すぎて難しいと思うんですよ。
人間が生み出した概念でしかないですね。
生物学的にはこれは、
単純に心臓が動いていること、脳が動いていること、
と言えるかもしれないけど、でも世間の人の命とは、
それでは相違が生じてしまうわけだし、
命っていう概念は、
なんか宗教とも結びつけられそうだし、
なんかスピリチュアルな雰囲気もあるし、だからあんまりね、
今回はそういう意味は取っ払って、
もちろん考えますけど。
でもね、確かに誰のものかと言われたら、
誰のものか疑問ですよね、不思議ですよね。
逆に自分というものはないことがわかると。
なんか自分のものって感じ、
そう単純にいるようなものでもないなって気がするし。
あと生物学者からしてみたらね、
いろんな捉え方できるわけですよ。
この一つの種で、
なんていうかな、一つという捉え方もできるし。
生物全てが運命共同体。
今同じ時代が起きる運命共同体。
という意味では間違いなく自分のものではないし。
あとは、いろんなものに生かされてるっていう意味では、
自分のものではない。あとは、
生物の生きる意味って言ったら、
地図を残していくことって意味では、
やっぱり命は自分だけのものではない。
わかりやすいのがあとはですね、
例えば牛とか豚は人間にその命を捧げてくれてるわけですね。
だから彼らの命によって人は生きてるわけですよね。
なんだか今回の話、全体的に
どうもクラキらしくないなんか話になってしまったけど、
とにかく言いたいことは、
生物学的に見れば命ってのは
共同体としての命
自分一人のため、自分一人のものとは言いがたいなと思うんですよね。
でもキレイごとでね、
家族もいるわけだし、子供もいるわけだから、
とかそういう捉え方するのはあまり好きじゃないけど、
あまり表面的な捉え方に感じてしまいますね、それはね。
まあまあそういうふうに言えれば、
まあそういうふうに感じてる人は、まあそうなんだろうけど、
この理論において、
娘息子のための命だとか、
それなんか浅はかな気がしますね。
まあこれだと非常につまんないなんか回になってしまうんで。
ただ命っていう概念自体がね、
クラキにとってはあんまり使わないというか積もらないというか、
なんか宗教を交えて話すことが多いんで、あんまり好きじゃないんですよね。
この身体自体は誰のものかというと、
誰のものでもないし、
そもそも自分なんて存在しないし、
宇宙でありますよね。
宇宙なんですよ自分の。そう思ってるんですよ。
宇宙の一部とかじゃなくて宇宙。
だとしたら誰のものでもないし、誰のためのものでもないし。
この議論自体がクラキにとってはね、結構しょうもないんだけど。
でも今回あえてね、ちょっと取り上げてみましたが。
まあでもさっき言ったのは本音ですよ。
命ってことを考えたときは、
誰のものでもない。
だからね、クラキは自分で命を断つっていうのはね、
間違いなく人に迷惑を受けるし、親は悲しむし、
嫌な思いをする人はいるし、
その人と関わってきた人って絶対いるわけですからね。
近所の人だったり、お世話になった人だったり。
まあそういうことですよね。命は自分のものではないっていうのは。
あとはもっと高次元で考えると、さっき言ったように生物。
一種で一個。
だからAさん、Bさん、Cさんではなくて、
人間っていうもので一つっていう捉え方もできるし。
この人間によって、生物はこういう風な流れがあるとか。
だからもうちょっと抽象的に捉えるってことですよね、人間ってものをね。
ああ、自分ってものを。
そう考えると、この命っていうのは、
単体で存在してるわけじゃないってわかりますよね。
なしに生物全体は運命共同体でもいるし。
という意味では、自分だけのものじゃないんじゃないかなと思いますね。
それでは、したっけ。