仏陀の教えと仏教の関係
最近、原始仏教、仏陀の教えについて勉強していたら思うことがあったんですが、その話をしていきたいと思います。
早速ですが、仏陀の教えってね、仏教とはかけ離れているんですね。
仏教は、人が救われるために、いろいろ仏陀がいたことを、ああだこうだと改良に改良を重ねてね、都合よく人々が救われるように。
たぶん本人たちも分かっているんだろうな、それは。
仏陀が言おうとすることはこういうことじゃないって。
でもね、本気でそう思っているんですよ、たぶん仏陀がこういうことを言おうとして。
人間というのは都合よくね、自分が楽になるように、物事を歪んでみてしまいますから。
そうやって、できたのが仏教だとか言ったらちょっと問題であるわけだ。
そういう言い方に留めておきますが、実際、全部知らないですから。
こういったものによってね、人ってすごい救われるわけですね。
これだとどの宗教もそうだと思います。
日本人に合う宗教、合わない宗教あるだろうけど。
多神教や異神教もどう違うか、人それぞれだと思うけど。
異神教で一つのものを守った方がいいという人もいれば、
荒いものに神がいると考えた方がいいという人もいれば。
神なんていないと証明されてからもね、
ニイチが神は死ぬと言ってからも、いまだに宗教は人類の中から消えていませんが、
やっぱりそれだけ救われるからでしょうね。
人生、悩みはつきもので、その人たちを救うからでしょうね。
教え自体にはあまり意味を感じていない人もいるかもしれないけど。
まあでも多少は、教えもわかって救われてはいると思うんですよ。
どこまで話しましたかね。
一番話したいのはね、こういうことなんですよ。
まずですね、この後逆パターンのことも話しますが、
こういった人間によって都合のいいものって、割と単純なんだけど、
裏があって、裏がある理由、単純なんですよ。
この世界には、一つ前のエピソードで話した通り、完全なものはないんですよ。
でも完全なものはないと言ってしまったら、世間の人は疲弊してしまいますよね。
落胆してしまいます、もちろん。
だから嘘をつくしかないんですよ、あと一週間は。
そしたらどうなるかっていうと、矛盾がありますよね。
矛盾があるとどうなるかっていうと、
いやこれは自分が信じているもので、矛盾なんかないはずだと思いますよね。
じゃあ妄信してしまうんですよ。自分の都合のいいように捉えてしまうんですよ。
でもいずれね、
疑心暗鬼になりますから。
これは宗教やっている上で、誰でも通過することなんだけど、
ここで宗教の競争は、
倉木も宗教入っている間、そう言われてたけど、
これは宗教をやっている上でつきものだと。
そうやって疑うっていうことはあるから、
自分が成長するのだと言う風に言い聞かされてましたね。
現実を受け入れることの重要性
っていう風に競争は、自分の矛盾をね。
競争も矛盾があることを承知している人もいれば、
ないことにしている人もいれば、中には気づいていない人もいるんだけど、
まあでも疑問に思うのは当然だと言うわけですね。
人は自分の矛盾を気づかれないようにしたり、
あとは大解されては困りますから、こうやって言うわけですね。
矛盾があっても、矛盾を感じてもいいんですよと言って、
大解させないようにしようとするんですよ。
この宗教、これが嘘がつきものだという言い方を
やっぱりしてしまうのは、あれかもしれないですけど、
まあそれが宗教ですからね。
古代文明の頃からそうやってやってきたわけですよ。
神を信じること自体、
教祖だってもう、現代を生きる教祖であれば神がいないことぐらい、
分かっていると思うんだけど、
いや分かっていない人もいるのかな、そこまで無知はないと思うんだけどな。
まあでも神がいると信じ込ませているわけだけど、
神を信じること自体がね、
造作もないことではありますが、ただ残念ながら、
いないものはいませんからね。
いるというのは嘘でしかないわけです。
逆にですよ、さっき言った仏陀の教えとか、
この世界の事実、クラキが言ったようなこととかは、
苦しい時に宗教は人の救いになるのに対して、
楽しい時も苦しい時も、あんまり救いにはならないし、
そもそも意味があるのかと思うかもしれないですけど、
本当に苦しい時は、この仏陀の教えとか、
クラキが言ってることが助けになればなと思うんだけど、
自分も実際そうでした。
本当に苦しい時は、世の中の現実を知ることによって、
身が清められると言うんですかね。
今でいろんな雑念があったけど、
完全ではないにしても、逆に宗教入りより身が清められますよ、本当に。
そうだよなと。
世の中の真相真理じゃないけど、事実を突きつけられると、
そうだよな、人間って物でしかないんだよなって気づいたり、
そりゃ神様なんかいないんだから、
無理に真相真理を追い求めなくていいんだよなってなるんですね。
結局今回言いたいのは、宗教だったり、
人間によって都合のいい教え、
例えばクラキの場合、それはビジネス書に書いてあることであり、宗教であり、
ビジネス書なんかもね、
これの問題点は語りがあることですね。
それが人間にとって魅力的であればあるほど、
語りがあったり曲論であったり、
嘘っぱちな話であったりするわけですよ。
本人は自分がこれができたんだからと言って書くんだろうけど、
ほとんどの人には当てはまらなかったりするわけです。
逆に嘘偽りのないことを人に突きつけると怒る人もいるだろうし、
意気消沈してしまう人もいるだろうし、
そんなんじゃ生きてる意味がないと思う人もいるだろうし、
難しいところですよね。
じゃあ中傭がいいんじゃないかと思うかもしれないけど、
本当に悩んでるときはね、
やっぱり宗教を求めるだろうし、
逆にクラキみたいに、
そんなん生きてる意味なんかないんだよって、
あっさり詐欺欲を受け止める人もいるだろうし、
どっちかというと偏ってしまうと思うんですよ。
そんな話でした。それではしたっけ。