まあでも、ブッダは言うところの悟りではあるんですよね。
キリスト教的にもこれが楽園だと言って。
だからそこから出るわけですよね、アダムとイブは。
これによって、ある意味大人になったということですよね。
分別がつくわけですから。
まあそう考えると分別が大人の方が、 ある意味私なのかなと思うとちょっと腹が立ちますけど、
まあそんなことはないで、ないであろうと思うけど。
あとエデンのそのでは、自分と他に区別もないわけですよ。
だからエゴがないってことですよね。自我がなかったり。
他者と自分って言っても、物と自分だとそうだしね。
ということは処方無眼の状態ですよ。やっぱりブッダの悟りの状態ですよね。
どうですかね、人間って子供の頃はそうやって自意識なんてない状態。
で、死に分別ができるようになる。
でもブッダもそうやって言いますし、
そうやって善悪でこたわってはいけないとなって、
そのうちそういう価値観が逆に取れていく。
とも言えますよね。変にこだわらなくなる。
まあ性格が丸くなる。
でもこれって哲学、人生哲学の問題じゃなくて、生物学的に脳が老化していって、
そういうこだわりがなくなって丸くなっていく。
そう分別が出てきたとか、煩悩が出てきたと言い表しているだけに過ぎないような気もするんですよ。
だから煩悩が出始めたら出るし、
年取って逆にこだわりが薄くなるっていうのは、
そうしようとせなくても、なってしまうのは人間だと思うんですよ。
仏教的にはエデンのその2から一回出て立ち枯れなさいと言うんですね。
まあでもその行ったり来たりが大事なんでしょうね。
時には迷走とかして、
まさとりまで行かなくても、
無の境地に至って、また独生圏で生きて、
繰り返しなさいという教えなんだろうな、きっと。
まあでも時短の境がなければ、恋愛なんていう概念もないだろうし、
友情もなければ、
まあ比較することはなくなるでしょうね。
まあ比較する苦しみってやっぱりこの自意識が生むわけですよね。
前回ですね、
青森県民は、
青森県から出て山形に行ったりすると青森の良さがわかる。
まあ悪さもわかるだろうけど。
っていう話しましたが、
青森の似てる人たち、自分と似てる人たち、
中にいたらさっきのペンキの話だけどわかんない。
でも全く違うところに行くと、
青森の良さっていうものもわかるんじゃないでしょうかね、今の話からすると。
そうすると、環境を飛び出してみる。
今まであった居心地の良い環境を飛び出してみるって、
まあ自分っていうものを知る手がかりなのかな。
だからインドに自分探しに行くって、
そういう意味では間違ってないけど別に、
もっと近い国でも、もっと治安の良い国でもいいと思うんですけど、
別に海岸まで行く必要もないだろうし。
ただ自分の本質を探すとなると、
それは間違いだと思いますね。そんなもの見つからないと思うんですけど。
自分らしさは何なのか、
まあただインドに行っても日本人としてのアイデンティティ
わかるかもしれないけど、そこばっかりフォーカス行くかもしれないですね。
そういう意味ではやっぱり、自分と似てる人と対峙したほうが
自分についてわかるかもしれない。
さっきのペンキの話とは矛盾してくるのか。
あとはですね、思ったのが、
中世の頃、ヨーロッパ中世の頃は、
まあ日本、アジアでもそうだろうけど、
恋愛とか、あと子供、大人なんていう概念がなかったらしいんですよ。
子供とか大人、これさえも概念でしかないんですね。
まあでもそうは言っても、そんな概念生まれても生まれなくても、
やっぱり子供は子供だし、と思いますよね。
だからこれは、もう今こういう、これが普通になってるから、
当時の頃のことなんてわかんないけど、
やっぱりものすごくインパクトを与えた波形だと思うんですよ。