正しさの哲学的探求
今回も人生哲学回の話になっておりますが、これは絶対相対の話ですね。
例えば誰か文化人がですね、ある説を唱えて、それアンチがね、コメントとかで
間違いだと言っていたり、正しいと言っていたり、まあそういった場合は、まあ答えは
わからない、真相はわからないけれども、あとはそれぞれが
信じるか信じないか、こういうパターンが多いと思うんですね。結局答えはわかんないけど
とりあえず、まあ自分は
反対するか、これは信じれると思って
なんとなく信じておくか、というパターンが多いと思うんだけど
最近、あることに気づいてしまって
以前からですね、一郎の話なんか聞いてたら、正しい間違い云々以前に
一郎は次元が高いことを言ってたりして、だから時間が経ったら
正しいと思えるってことがあったんですね
別の次元で見てみるとまた、別の視点じゃないですよ、別の側面でもなく
別の次元で、ちょっと次元を変えてみてみる
やろうと思ってできることじゃないけど、まあ時間が経ったらまあ
捉え方変わったってことですね
こういうことってあると思うんですよ、正しい正しくない
人によって正しいとか思う、正しくないと思うとかいう話じゃなくて
だからですよ、やっぱりIQ高い人の話って
IQ高い人しかわからなかったり、抽象化能力の高い人しかわからなかったり
ってことはですよ、誰かが間違いだと言っても
それも一理ある
という限りではなくて
かといってその人が間違いだと言っていいかわからないけど
ただ否定していること自体は間違いかもしれない
この人の言うこと、反対している人の言うことを信じてしまったら
朝が当たられるか、多分なってしまうかもしれない
それだけIQ高い人の話ってなかなか凡人には理解できない場合が
多いのかなと思ってて
なんでこう思ったかっていうと自分がね
これは極端だろうとか
ずいぶん口では大きなこと言ってるけど
現実と照らし合わせみたらどうかなっていう場合でも
IQが高い人なりの世界の見方っていうかな
ってあると思うんですよね
やっぱり虫と動物と人間とみんな
すべても
すべての種は
この地球の
世界の見方も違うみたいで
そういう意味ではもう
批判と理解の複雑さ
どれも正解でないって言っていいのかな
例えば地動説も天動説も
どっちも
他なる人間の
見方でしかないっていうサイエンスの今の新しい説もあるみたいだけどそれと同じように
どっかに正解があるわけじゃなくて
IQが高い人なら高い人なりのその答えみたいなものがあって
っていう捉え方もできると思うんですよ
あとは文化事の話とかで
どっか
極端な部分があったり
穴があって
こういう場合もあるんであると思いますけど
こういう
意味では矛盾点がありますねとか
結構こういう例外もありますよとか
まあそういう指摘されたりね
そういうこともあると思うんだけど
でもそれは単なるただ別の捉え方別の側面での話でしかないっていう
場合もあると思うんですよねそれ
なんて言えばいいんだろうだから
その文化事の言ってることはほぼ100%
問題はなくあってるんだけども
批判されてしまう
っていうこともあるってことですね
批判自体の内容はあってたとしても
ちょっと的外れというかだから
そんなことも包括して量ができるぐらい
もっと次元の高い
抽象的なことを言ってたりすることもあんのかなーってね
最近気づきました
具体的なことはですね
一つ前か二つ前かのエピソードで
二つ前かな
話したんですけど
で結局今回の話でどういう話だったかというと
正しさって難しいって話ですね
単純に正しさなんてないっていう
風にも言えるんだけれども
なかなかこれを頭で理解しようとすると
とても難しいですね
それではしたっけ