自分の存在の錯覚
今回はですね、自分はいないという話、また商法無我の話なんですけど、また今回はね
超簡単哲学雑談ということを話していこうと思うんですが
今でも自分がいないと思う理由は話してきましたが
今回はまた別の視点で話していこうと思うんですが
まず自分というものは存在するとしたら
存在していると人間は錯覚しているんだけど
自分を現すとしたらどんなことですかね
って考えたらね、それを考えていったら
昨日も明日になっても変わらないことだとわかると思うんですよ
というか、間違いましたね。自分というものを認識しようとするとき
っていうのかな
昨日とか明日で別のものになったらそれは別人、別のものじゃないですか
だから昨日も明日も相変わらず
この見た目とか性格が大体変わらない
ここにいるこの自分、これが自分
そういう認識だと思うんですよ
それは自分の兄弟についても同じですよね
大体こんな見た目で
で、いつも8時に家に出てて
で、なんだかいつも怒りっぽくて
これがある日はいつも帰ってくる時間に
全く別の格好した、全く髪の長さも違うし
明らかに見た目違う状態で帰ってきたら
そしたら別の人だとわかりますよね
じゃあどうでしょうか、自分のね
昨日も明日も絶対変わらないもの
絶対変わらないと言えるものがないと
自分というものが存在しているとは言えないんですよ
なんでかというと、それが自分だと思っているから人間は
そういうものがあると思っているから
じゃあ何でしょうね、体重そのまま変わるでしょう
年齢変わりますよね
身長も厳密に言うと変わってる
今回の話で言うともう変わってるわけですよ
あと兄弟、これも人の命なんて
いつどうなるかわかりませんから
これも変わる
住所そのものも変わる
というと、なので自分を言い表せる
普遍的なものなんてないわけですね
それはすなわち自分というものは
存在しないんだという証拠なんですよ
変化と関係性
パッとはわかりませんよね、今のね
それがこの世界の事実なんです
でも自分はここにいると錯覚してしまってるんですよ
この世田谷区に住んでて
18歳で、それはでも一瞬を切り取ったその人でしかなくて
でもそれは自分ではないですよね
一瞬を切り取ってるだけなんですから
でもそれを、それでもね
この世田谷区に住んでる18歳の
この自分を一応自分だと認識して
国も戸籍を与えて一人の人物だと
代わりの幻想を作り出してるだけで
自分なんて存在しないんですよ
これは周りの人もそうですよ
自分の親だって兄弟だって
なんとなくこの挑発で
なんかたまにサングラスかけてて
で、一重で
これを自分の兄だと
なんとなくやると認識してるだけなんですよ
厳密に言うと
昨日のお兄さんと
今日のお兄さんと別なんですね
で、この考え方は
普段生きてて
こんな考え方してはとても生きていけないけど
でもまあ事実ってものをね
知らないがゆえに人間って苦しむことがあるんですよ
例えば自分ってなんなんだろうって
自分探しの
探す旅に出たのにね
自分の個性ってなんだろうと
いくら自分の奥底を見ても
自分なんて存在しないんですから
いくらインドにね
旅に出て自分探しに出ても
外でもないしうちにもないんですから
そりゃインドにあるわけないですよね
で、いくら自分の内側を見つめようとしたって
探せるわけがないんですよ
ちなみに
仏陀はね
存在に実体はなくて
全てのものってことですよね
実体はなくて
本質なんてものもないんだと
だから存在してるに見えてるだけ
実体はないんだと
存在してないってこととも違うんだけど
だから存在ってのも単なる概念なんですよね
で、その関係
これもね
くらくらちょっとよくわかんないんだけど
関係性があって成り立つと
存在してると全てのものは
いろんな説明の仕方されるんですよ
因果によって成り立ってるとか
でもこれも難しい概念だし
たぶん
たぶんというか
こんなものを知る必要
仏教信者でもなければ知る必要もないですし
くらくも前に入ってた宗教で
算数は教えられたけどよくわかんないんです
また言葉の定義も違ってきちゃってるしね
で
これでわかりにくかったら
まあでもね
くらくも
昨日必死にね
わかろうとして
なんとなくわかったとは思うんだけど
これ点なんですよ
だからやっぱり存在しない
存在の概念
実態はない
でどういう点かっていうと
関係性の結び目
世の中にはいろんな関係性があるわけですよ
だから自分はね
親との関係
さっき言った従役との関係
18歳っていう
まあそういう
情報との関係性もあるんだからね
物だけじゃなくてその出来事も
存在ですからね
だから考え方も
存在
全ての物ってことですから
処方ってのは
だから父親と自分だとしたら
父子の
親子の
親子という関係性
の結び目であると点であると
ちなみに西洋哲学では
存在ありきでそれで
こういう親子関係なんだという
理解の仕方なんだけど
東洋哲学では
もともと存在なんていう
風な考え方はしなくて
関係性ありきで
存在のような
成立するという考え方ですね
処方無垢と処業無常って根本は同じことですから
あらゆるものが変化していると
だから
この
関係性だって変わりますよね
だからつまり
さっき言った住所なんか変わるでしょっていう話
年齢なんかも変わるでしょ
親も変わるかもしんない
でこの
関係性の
ものごとのことを縁起って言うんだけど
縁は起こすですよね
つまり存在っていうのはすべて
この関係性ありきで
今はちょっと調べてみたんだけど
その因縁が
もとになって
ものごとは生じているという考えが
処方無垢なんですけど
だとするならば
関係性変わってるわけだから
自分っていうのはね
明日も今日も変わんないもの
って言ったけどやっぱりそんなことは絶対あり得ないわけで
処業無常ですから
あとはね
別の言い方すると関係性
ではなくて状態という捉え方もできるんですよね
分かりやすいのが
飛行機なんですが
プロペラじゃないし
羽だの
コックピットだの
椅子だの
あれがね部品が
ただそこに集まってる
だけじゃダメですよね
それがちゃんと組み合わさって
分かりやすいのがプラモデルの最初の状態じゃ
違うわけですよね
組み合わさって
プラモデルって完成して
その形になると
存在しているすべてのもの
この状態を指していってるんだということなんですよ
だからその部品の一つ一つが
関係性になるのかなだから
だから
関係性っていうのは
兄弟関係
兄がいて自分がいて
だからその部品の一つ一つが
兄であったり
母親父親
その
組み合わさり方のことであると
いうことですね
だからその
組み合わさり方を
見てその関係性を見て
だから車だと
部品だけだったら
本当に誰も車だとは思えないわけです
それでは明日っけ