しかし、最低限の意味は感じ。
あるいは変化しない。
規律守って、でも時には虚無に立ち返る。
いつも虚無にいるのに何故か帰還しているという矛盾があると思うんですよ。
わかりますかね。虚無に位置づけているのに戻るっておかしいっていう話ですね。
とりあえず考えてみますか。
虚無にいると言ってもご飯を食べるとか寝るとか英語を勉強するとか
こうした行動までは消えるわけじゃないですよね。
というか、これは普通の感覚から言ったらずれてるんで。
自分の場合、虚無と生活の過渡をさせるのとはまた別なんですよね。
この話も根本的にちょっと難しいんだけど説明するのが。
だから虚無を理解した状態と日常を維持するための規律が
同時に行ったり来たりしているとも言えますよね。
確かに宇宙的な意味、絶対的な意味がないと思いながら歯を磨くってことはできるんですよね。
でも目の前にあることに多少は意味を感じないとできないので多少は意味を感じている。
だからベースは宇宙的な意味はないと思っているんだけど
生活を維持するためにそれはできている。
だから行ったり来たりしているっていうのは
確かにこれ難しい問題ですね。
虚無のレイヤーと過渡のレイヤーがあって同時並行で動いているというか
別の領域にあるんですよ。
過渡につかれてしまうと虚無レイヤーが前面に出てくるということです。
それも自分は危機感と思っているのかもしれないですね。
だからすべてに意味を感じながらなんですよ。日常の行動もそうだし。
確かに歯を磨いているときとかは意味を感じているかもしれないけど
明らかに他の人が意欲的に意味を感じながら生活しているというのとは違うんですね。
歯を磨いているときも。
普通であれば清潔にしたいとか健康でいたいとか自分を良くしたいっていう
思いは多少ある。
それは自分もそうか。
でも他の人も歯を磨くとき意味なんか感じてないですよね。
でも生活全体が違うんですよ。他の人とは多分。
というか自分の過去と比べて違うのが分かるんですね。
ロボットと言ったら言い過ぎかもしれないけど
ルーティンをこなしているだけなんですよ。
意味を感じているから行動をするわけじゃないんですよ。
だって本当に生きていることに意味を感じていないから
歯を磨いて健康にしたいなんて思いとかない。
とりあえず生きている感じですからね。
もう一つ言いますが宇宙的な意味のレイヤーは常々で
行動の意味レイヤーと稼働レイヤーが
前面に出たり引っ込んだりする。
だから時には目の前になること意味を感じなくなることもあるし
ちなみに人間になれば誰でもですね
怪異的になったり意味を感じたりするのと行き来してるんですよね。
自分の場合で言うと行動意味レイヤーが行ったり来たりするっていう。
普通の人は宇宙的な意味レイヤーも使うし
行動の意味レイヤーも使うし
怪異レイヤーも使うんですよね。
3つ行ったり来たりしてる。
次の話です。
自分は変化してしまうことを受け入れているんですよ。
ではなぜこんなに必死にルーティンを守っているのか、と分からなくなるんですね。
こんなことを繰り返していると、変化することを受け入れるなら、なぜ必死にルーティンを守っているのか分からなくなるんですね。
何かをしている最中にどうせまた変わるんだと気づくんですよ。
変化を嫌う相当、変化すると崩れるから、変化は負荷があるし。
変化って物語の入り口にもなるんですよね。だからルーティンを安定させる。
変化してしまう層というのがあって、気分とか体調というのが変わる。考え方も変わる。価値観も微妙にずれる。
これは生物としての層ですよね。だからA層とB層の衝突なんですよ。
変化しないようにしているのに変化しているという矛盾が発生する。
ルーティンは変化を止める装置ではないんですよ。変化の幅を狭めることであってほしい、そういう装置です。
変化の暴走を防いだり、崩壊を防いだり。
ただ自分の場合、変化しないという姿勢が崩壊を防ぐんですよね。
でもどうせまた変化するんだという気づきがある。
でもこの変化は自分の場合、ゆっくりだし小さいし、破壊的でない。
だから保たれているんでしょうね。
でも変化するのであれば、変化を許すのであれば、何なんだとなるわけですよ。
変化することを少しでも許してしまうと、そうすると固くないルーティンをやってきたのは何だったんだということになるんですよね。
でも変化を受け入れなきゃいけないと思う。
自分もいる。
というか実際そうしなきゃいけない。
変化を受け入れないことによって、逆に変化の振り幅を大きくしてしまうというのもわかっているんですよ。
だから自分の中の変化を許す自分と変化を拒む自分が同時に存在していることの問題なんでしょうね。
そうならざるを得ないんですけど。
気分とか思考とか変わるし周りの関係も変わるから、行動が変わらざるを得なくなる時があるんですよね。
体調とかぐらいだったら、行動は無理に変化しないようにはできるんですけど。
逆にルーティンがあるから変化を許しても大丈夫という部分はあるかもしれないですね。
ルーティンによって極めて変化が少なくいられるから、
だからこそ物によっては変化を許せるという、ちょっと変化という言葉を使うのがわかりにくいですね。
幅が広すぎて。
ただ全て相互作用があるわけですよ。感情の変化が行動の変化を与える。
次なんですけど、こうやって話していることを全てメモしておいてですね。
いずれまたPodcastで考察して話できたらいいなと思ったんですけど、
メモが大量になって、意味ないのかなとか、相当今悩んでますね。
なんとなくのプランとしてはまた振り返って考察して話すという感じなんですけど。
次、自由。自由は支障がないと思ってるんですよ。自由ですね。
真空に放り出されるようなものだと思ってるんですよ。
家にずっといるとですね、価値観が薄らぐんですよ。
宗教やめて、基準となるもの、支障なくなり、しかしどう生きてもいい、どうでもいい、
何悪いことをやってもいいじゃん、という下に構えたニヒルになっている場合ではないんですね。
本物のニヒルになる必要があったんです。なぜなら虚無というのは途方もない自由だったから、
この中で正気でいるには自分でルールを設ける必要があったんですね。
自由なはず。実は以前よりも自由でなくなったんですね。
以前と違うのは自分を自分で規律により縛っているところなんですね。
芸術の本質っていうのは表現の自由がある。
だったらそれも基本や方なんて存在しないはずですよね。
決められたものなくなるはずなんですよ。しかしそうではなく、創作ではなくなるんですね。
ということは表現の自由なんてもの、幻想でしかなく成り立つことはあり得ないですよね。
宗教辞めて基準がなくなって途方もない自由で、外部の基準がないと何をしてもいい、善悪も絶対もない。
善悪も絶対もないんですけど、そこから何をしてもいいんだ、適当でいいんだとなっては自由すぎて何も決められていない状態にしかなってない。
だから正気でいるために自分でルールを設ける必要があったんですね。
誰でも仕事、家族、趣味とかある程度制約をしているわけですよ。
あとは国家とか思想とかで、社会ってものが人間を制約してるしされてるし、完全な自由で生きてる人なんていなくて。
自分の場合は家にいるようになって、自由なはずが以前より自由でなくなったんですね。
以前は宗教が縛ってて、今の自分は自分で自分を縛る仕様が出てきた。
自分の場合ストイックだから揺り縛るようになった。
そして自由による感情の爆発が崩壊を導くので、外からの規律が内側に移ったわけですね。
さっきの芸術の本質は表現の自由なら、型なんて存在しないはず。
これは間違いなくそうだと思うんですよ。
ただ現実的にそうにはならない。
ということは逆に言うと、とりあえず現実という形を保っているわけであって、
うちらが思うような崇高なものじゃないかどうかはわからないところがありますね、そうなってくると。
そもそも言語には文法があるし、音楽には音階があるし、絵には記法があるし、今言ってるのはそういうことです。
小説には形式があるし、だから完全には自由ではないわけですよ。
普通だったら自由ではない、ある程度の制約があるから創作って生まれるんだって話になるんだけど、
今言ったように、表現の自由が芸術なのであれば、まあ限界があるでしょうっていう話。
完全な自由では創作が成立しにくい。
中でやっていくしかないねっていう。それを受け入れてやっていくしかないねっていう。
でもそれをプラスに添加、勝手にして説明するのもどうかって思うんですよ。
別に残念なものだという必要もないけど。
あと芸術家って何でもいいから描けって言われるよりも、ある程度決まりがあった方が創作はしやすいわけですよね。
でも自由と制約は互いを成立させる関係であるってきれいごとじゃないですか。
だから自由ってのは制約の中でどこまで動けるかっていう戦いになるんでしょうけど、完全ではないっていう。
変化しないようにするとですね、ミクロの動きを強制的に止めようとすることになるんですよ。
恐ろしいですね。
この後ですね、大きな変化、破綻が起きるんですよ。
つまり変化しない努力が最大の変化要因になることってあるんですよね。
普通の人は普遍でいたい自分と変化は避けられないっていう戦いなんですね。
これは価値観の問題だから、変化してもいいが今はこうしてるに落ち着くんですよ。
自分の場合は、維持するために変化してはいけない。
これは生存構造の問題だからですね。
変化しても戻れる場所を維持することが必要なんですよ。
普通の人は変化をしてもいいだろう、例えば年老いてしまうのもしょうないだろうとか、
そういう変化を許容する方向に向かうんですけど、
自分はまた戻れる基準点を維持する方向に向くんですね。
だからですね、微細な揺れ、行動のずれとか生活の誤差っていうのは、
変化ではなくノイズとして扱うべきなんですよね。
意識しすぎると壊れる変化。
あと生活の型を変えるような、ルーティンを壊すような、基準点を動かすような変化。
これは変化として扱うべきなんですよ。
今言った小さなノイズなんだけど、小さなものと感じられる変化と、
誤認して止めようとして大きな変化を生む。
これが自分にとってどうしもなくなる状態なんですよ。
少し気分が違うだけでノイズに感じる。
それを変化していると判定する。
そうすると、やっぱり違和感を感じるわけですね。
ミクロな動きに対して。
それに対してルーティンは変えないです。
でも何とかしようとしますよね。
でも普通であればですね、そこでルーティンは変えてしまうんですよ。
何か調子が悪い時に、スポーツ練習であれば練習量を増やすとか、
ルーティンを壊すとか。
自分はそういうことはしないですけど、
ただですね、そもそもですね、
変化とは何だということがつきまとうんですね。
変化しないことが変化であったり、
変化の定義の問題ももちろんあるけど、変化の定義じゃないですね、これ。
でも何をもって変化というのか。
でも変化について考える必要があるのか。
でも何か目的というか、自分が崩壊しないためのことができてれば、
結果的にできてればいいので、変化について別に追求する必要はないんだけど。
変化しないことによって保たれてきて、
でもよくわからずやってきたようなもの。
例えばスポーツ選手が調子が悪いと、
でも今ではなんとなくできちゃったんだと。
でも壁に立ち上がって、壁にぶつかって、
変化というものを、フォームというものを考えなきゃいけない、一から。
自分はそうやって変化というものを一から考えなきゃいけないということが出てくるわけですよ。
少しの気分が違うぐらいじゃ、行動の変化はすることはないんだけど、
ただ興味が少し変わった。
こういう場合、そもそも前やってたこと自体にそこまで意味全く感じていなかったら、
まあ興味移り変わったなら別に行動を変えてもいいでしょうってなるわけですよ。
ただ見る動画を変える、ポッドキャストを変えるとか。
でもそれってどうなのって思うんですよね。
そういうノイズに。
そういうノイズをノイズとして。
だから今の話でいくと、他の動画見たほうがいいのかもしれないですよね。
だから自然に収束するのを待つしかないんですよね。
ちなみにルーティンが増えることはないんですよね。
確認作業は増えます。
これはしょうないんですよね。
これはノイズに影響を受けている。
ただこれはしょうないですよね。
これも必要な変化ではあるんですよ。
人間って色々変化してますよ。
呼吸の変化、気分の変化、考え方の変化、毎日を変化していることになるわけですよね。
することまで変化と言い出したら。
だから維持も管理も不可能になりますよね。
だから許す変化も必要だし。
どう許してかですよね。
物理学でも勉強すればなんとかなるのかもしれないけど、心理学を勉強したり。
例えば気分が揺れているときにどうするのか。
それを止めようとしたら逆に大きくなるんだとしたら。
じゃあ行動はどうすればいいのか。
家族何守ろうとすればいいのか。
ルーティンって変化を止める装置っていうよりも、
戻るための座標なんですよね。
だからイチローも言ってました。
ルーティンをするからこそ自分の体調の悪化とかに気づけると。
ちなみに季節の変わり、変化、あと効率化っていう変化、興味の変化っていうときもあるし。
どうしてもそういうときは変化して。
時間をかければなんとか整理はつくんですけど、
そのときに変化しないことで変化してしまったり。
でもその変化はしょうがなかったり。
次の話ですが、
例えば宝探しの地図に公園の木まで行こうと書いてある。
これなら行けたら行くし。
別の日に行けばいいし。
これは普通のゴール。
でも自分のゴール、
もし自分が避けたいゴール、つまり完璧な自分になろうというゴール。
だとすると、完璧な自分ってどこだと。
つまり、この世界に完璧なってないから、正確に言うとないはずなので、
完璧な自分ってどこなんだってなるわけですよね。
どんな状態だと。
いつ着いたと分かるんだと。
誰も答えられないわけで、つまりゴールが見えないんですね。
つまり、毎日まだ着いてないになるんですよ。
昨日も着いてない、今日も着いてない、明日も着かない。
本当はゴールがないだけなんですよね。
だから自分がダメだから着けないんだとなってしまうんですよ。
先生の例にすると、教室の後ろまで歩いて寝と言ったとしますよね。
これはできます。でも、もっともっといい子になって寝って言われると、
どこまで行けば終わりなのか分からないですよね。
だからずっと不安になる。
存在しないゴールを本物だと思って追いかけることは恐ろしいんですよ。
ゴールがないと着けないんですよね。
着けない自分がいる。だから直そうとする。
もっと苦しくなる。
というグルグルが始まるわけですよ。
頭グルグル、生活もグルグル。
だから本当にある場所を目指すのは大事なんですね。
ない場所を目指すと、ずっとまだ足りない自分というのが生まれてしまうんですよ。
まだ足りない自分が生まれるんですね。
でも、たまにはこれはあることです。
例えば、美を追求しすぎて足りなくてとか、教職生も同じことですよね。
自分も最近こういう壁に突き当たっててですね。
なんか脂肪がついてるような気もする。ちょっとだけですよ。
でも、これも分かんないし。
絶対以前より大丈夫なはずなんですよ。糖質の量だって、ご飯とか食べる量だって。
なのに脂肪が増えてるとしたら、これは原因も分からない。
土地のせいかもしれない。運動してないせいかもしれない。
だからゴールも分からなければ、今問題なのかどうかさえ分からないんですよね。
遠もくれない。単なる不安ということの繰り返し。
不安が不安を呼ぶわけですよ。
現在あさとってます。
神は絶対だと考える構造って、そこに到達しないとダメだという発想を自動で生むと思ったんですね。
こんなこと起こるのかと最初はにわかには信じれないけど、理論上起こりるんですよね。さっきの話からすると。
簡単に説明すると、絶対に正しい場所というのがあると、そこに行けてないと。
生きてない自分が生まれた後、そこには自然、これは自然に起きるわけですね。
絶対という言葉はゴールがここですという意味を内側に持っているから。
もちろん、自分が迷路にいて悩んでいる時、出口というものを絶対化してしまうと、ないゴールを探しているようなイメージですよね。危険なんですよ。
絶対という概念を置くと、そこに間違いなく到達しない自分が生まれてしまうんですよね。
絶対というのは動かない基準点だし、唯一の正解だし、完成形だし、自分はそこに届いていないとか欠けているとか、埋められないとか、自分が悪いとか、自分が未完成だとなっちゃうんですよ。
神というのは絶対、絶対はゴール、ゴールに届いていない。これが起きる人と起きない人がいるんですね。
神は完全だから、自分は不完全で近づかなければいけない。だからもっと努力しなければいけない、到達しないという感覚の人もいるし、神は支えであるという人もいるんですね。
だから神が裁判官になるか、支えになるか分かれるんですよ。
これ宗教以外でも起きるんですよね。
完全な自分、完璧な自分、完全な人生、理想の人生、真の幸福、100%の正しい生き方を目標にしてしまうと、あるいは理想のものとして頭の中にある状態だと、
自分が常に比較対象として現れてしまうんですよね。
未到達の自分が生まれるんですよね。
なんだか生き方講座みたいな話に聞こえるかもしれないですけど、苦しいじゃないですか、こんな生き方。
絶対を到達線じゃなくて、方向として扱うということが起こるのか。
それだったらいきやすいんですよね。
単なる方向として、指標として扱うなら。
でもですよ、出口が絶対なら、そこに到達してないのはダメとなってしまうのではないかと思うんです。
まあでも、例えば船乗りが北極星見るのって別に北極星に行くわけじゃない。進む方向見てるため。
でもそれに近いことなんでしょうかね。
いや違うと思いますね、自分は。
目的地に行くのとは違って。
絶対ってものは逆にない前提で行くとですよ。
そしてそんなものを目指せない前提で考えると、絶対なんてないんだからそこに近づく必要性がないわけですよね。
でも絶対化してしまうと、あそこがゴール。絶対なんてないんだとすると、絶対に近づくことさえできない。
だから指標になるものが全くない状態。
つまり北極星に行けなくても、北極星に近づこうのほうが近いんですよ。絶対を置くってことは。
今の例えを借りるとですよ。北極星を大理に目的地に行くんじゃなくて、ロケットに乗って北極星に近づこうとしてる状態なんですよ。
絶対に向かう、絶対を置くようにするってのは。結構無謀ですよね。
まあでも絶対を目指すってのは結構どころか無理なんですよ。
では次。神は絶対を作る。と、逆に裁判官がいる。つまり正解ができる基準というものはできますよね。
だからそういう意味では行きやすいですよね。
例えば教師がいると、これが正解だと言ってくれるから、逆に教師がいないと、好きにやっていいとなると、どこに向かえばいいのか分かんない。
だから絶対っていうのがあると、絶対的な善とか、唯一の正解があると、正解から失礼しやすくなるんですよ。
でもそんなものをどうでもいいくなるくらい代償があって、自分は正解か間違ってないかとなってしまうんですよね。
これがだから、絶対じゃなかったらいいバランスなんですよ。
絶対っていう無いものを置いてしまうと、いつまで経っても自分は間違ってないかという問いが生まれるんですよ。
だから人間は絶対を求めてしまうんですよね。分かりやすいし、安心しやすいし、行動しやすいし。
でも自分は宗教に入っているから分かりますけど、本当にただの幻想でしかないんですよ。
そうですよね。無いもの、無いゴール、正解があるから、生きやすくなっちゃってるんだから。
だから歴史的に見ても多くの人は、完全な自由と、完全な絶対の中間くらいで生きてるんですよね。
何らかの基準を持つけど絶対死はしない。
まあそのくせ神を信じてるけど、神を信じる以降は絶対死するってことですからね、自分。
そこを土台として人生が進んでいくわけですから。
ちなみに自分は宗教離れてから、完全な自由なと広大な土地にいて、
だから完璧している、全く欲してはいないけどそういう自由を手に入れたんですよね。
特にうちなんかあんまり親は干渉してくることもないですしね。
まあこれで教育ママみたいな感じだったらそもそも火曇りになってないかもしれないけど。
まあそしたらこの世界にもういないかもしれないし。
では次。出口がもし絶対でないとすれば、完成形でないんですよね、出口が。
だとしたら、目印や方向に近くなるわけですよね。
例えば山の頂上に着いたら終わり。これははっきりしてる。
北へ向かうわ。
まあ北に向かってるかどうかもわかるし、でも着いたという終点がないから。
着いたという終点はないのか。
まあ違いはですね、方向として大体の目標を決めるっていうのは、
あと理想を置くっていうのは、神を求めるのと同じで終点はないんだけれども、
終点がないということを自覚できるかどうかっていう違いはあるんですよね。
例えば優しく生きるとか正直に生きるとか。
あるとき優しさ100%達成ってならないけど、絶対を求めると、
今の優しさは優しさではないんじゃないか。あるいは全然足りてない。
っていつまでもありえないゴールを目指してしまうんです。
でも人間って完璧にならないし、この世界自体完璧がないですからね。
あとさっきの幸福の話ですけど、やっぱり何かをやっていること自体、
その事実に幸福を感じている場合もある。
まあそうですね、幸せな感情というのはなくなるけど、
この事実自体が幸せだと感じる場合もあるんじゃないかと思ったし。
あと桜の切なさに幸福を感じるけど、
幸せな感情は消えるものでも幸福なの同じ原理なのかなと思ったんですけど、
これはわかんないしね。
あと動物は幸せに求めるのかなと思ったんですよ。
まあ幸せになりたいとはもちろん考えません。
なんでかって言うと幸せって人間が作った概念だから。
だから幸福とは何だろうなんて考えないし。
あと人間ってこの幸せには意味があるのかと考えるから、
だから快感を味わいながらどうせ消えるとも考えられるわけです。
人間って幸せを求めると言っておきながら、
自分からしてみたら自分が観察するからにはですね、
結局楽しければいいや、好きな人といればいい、おいしければいいっていう、
その場合その場の体験を繰り返し求めている、言ってみれば切なしげですよね。
まあこれは現代人の特徴なのかもしれないし、いつの時代も。
でも多分そうなんだろうけど。
だから他の動物と変わらないですよ。
それはそうですよね。動物なんだから。