1. 哲学以前の違和感
  2. 第5878回 雑談から始まる哲学
第5878回 雑談から始まる哲学
2026-07-12 1:00:33

第5878回 雑談から始まる哲学

この番組では、最初に日常の話から入ることもありますが、そこから話題が次々と移り変わっていきます日常のささいな出来事をきっかけに、人間の認識、意識、存在、そして意味づけの仕組みを観察する思考実況ポッドキャストです。

哲学や心理学を教える番組でも、人生の答えや救いを与える番組でもありません。

「何を知っているのか」

「それは本当にそうなのか」

「確信はどこから生まれるのか」

人はなぜ何かを信じるのか。

なぜ物語を作り、意味を見出し、自分や世界を理解しようとするのか。

私たちが見ている世界、自分という存在、記憶、感情、快感、思い込み、そして後から作られる物語を静かに掘り下げます。

信じることで成り立っていた世界から離れたとき、人は何を見るのか。

意味や物語が最初から存在するのではなく、人間がそれらを作り出していることに気づいた後の世界を観察します。

人生に意味はあるのか、どう生きるべきなのかという答えを探すのではありません。

意味や目的が揺らいだあと、それでも人間はどのように日常を維持し、考え、動き続けるのかを記録します。

結論よりも、考えている途中の揺れ。

完成された思想よりも、変化していく認識の記録。

自己啓発ではなく、答えを急がず問い続ける。

虚無を終点ではなく前提として、人間という存在の仕組みを見つめる哲学的独白番組です。

書き起こしサービス LISTEN

https://listen.style/p/ponsudati?hABcy07H 

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

サマリー

このポッドキャストでは、日常の些細な出来事や言葉遣い、人間の行動原理から哲学的な問いを探求します。例えば、不合理に見える言葉の多用や、恨みといった感情が合理的な判断を鈍らせるメカニズム、そして執着の多様性について考察します。また、虚無を前提とした上で日常をどう維持するか、規律を守る動機、純粋な目的と悔しさからくる動機の違い、そして「幸せ」という概念の後付け性や、絶対的な目標設定の危険性についても掘り下げます。変化を受け入れることの難しさや、自由と制約の関係性、そして最終的には、人間は「絶対」を求めるが、それは幻想であり、方向性として捉えることが重要であると結論づけています。 番組では、人生の意味や答えを提示するのではなく、思考の過程や認識の変化を記録することに焦点を当てています。意味や目的が揺らいだ後でも、人間がどのように考え、行動し続けるのかを静かに観察し、虚無を前提とした上で、問い続ける姿勢を大切にしています。自己啓発ではなく、答えを急がずに探求する哲学的独白が展開されます。

00:04
これから、倉木さんのラジオ収録始まります。
現在ここです。
日常の習慣と不合理な言葉遣い
自分はですね、この1年、豆腐を3丁、昼に食べるっていう生活を続けてて。
でまぁ、豆腐ももちろん飽きてるんですよ。
でもですね、量は多く摂ってるから、まあいいだろうと。
体を騙してるようなものなんですよ。
飽きたという感覚を無視しようとしてるんですね。
普通であればですよ、その反動で別のものを食べたくなったり、食事自体が家になってるってこともある。
だけどなぜか続いちゃってますね。
では次。
説明するのにあってもなくても意味変わらない言葉って人は多用してるような気がしてて。
不合理なことをするように人間でできてるか、あるいは
うちらが考える意味あるか役に立たないか
どうかの判断って愚かで、実は意味ないけどもうちらにわからない形で意味あるみたいなことがあるのかなと思ったんですよ。
情報だけ見たら決して意味がほとんど変わらないって言葉ってあるんですよね。
別にとか正直とか本当に多分とか。
もちろんクッション語もそうですよね。
なんかそのまあとか。
不合理にも見えるわけです。
無意味な言葉を大量に使ってるわけですから。
感情を乗せたいっていう、伝えたいっていう欲も言葉に現れるのかもしれないし。
あと会話のリズムを作ったり、相手への圧力を読めるっていう効果もあるみたいですね。
で、自分はですよ、そんな不合理なことは絶対してないはずだと思ってたんですよ。
特に言葉なんか自分はこだわりが強いんで。
だから同じ意味で何種類か言葉があったとしたら
別にその一つを使えばいいと思ってるんですよ。
対応する必要はないと思ってるんですよね。
だって意味が変わらないんだから。
っていうすごい合理的というか、
こだわりが強いだけなんですけど。
だから自分がこれだけ無意味な言葉を大量に使ってることにちょっと愕然としたんですけど。
だからこそ何かしらの意味があるんだろうと思ったんですよ。
でもこうやって人間ってものがすごい、やっぱり普段使うものだから現れてて。
やっぱり無意味かどうかに関わらず、結果的にも扱ってしまってるような言葉っていうのもたくさんあって。
では次。
恨みや憎しみと合理性の乖離
恨んでる人はやめるのって理解できないんですよね。
苦しむのはその人の周りの人だろうと思うんですよ。
本人は一瞬苦しいだけで、恨んでるなら一生苦しい思いをさせるのは合理的だと思うんですよ。
で、合理的な真理だと思うんですね。
逆に命を絶つ人は自分を苦しませた人にいい思いをさせてしまうと思わないのかなと思うんですよ。
ちょっと言い方悪いですけど、本当に純粋に相手に苦しんでほしい目的なら、
謝るより生かして苦しませる方が合理的に見えますよね。
でも激しい怒りや憎しみを持つときって、そこら辺多分理性が働かないんでしょうね、きっと。
あとは存在を許せないとか、もう見たくないとか、という感情が混ざるから、
存得計算よりも存在そのものを消したいっていうのが優先される。
まあ存得感情まであったら、そもそも自分がこのシャバに入れられなくなる可能性もあるし、自分がもう生きられなくなる可能性もあるわけだから、そんなことはしないわけですよね。
だからこそそういう事件を無くすって結構むずく、結構というか無理でしょうね。
執着の多様性と完璧主義
では次、執着する脳なんですね、自分は。
でもオタクマニアックみたいになめり込んだりはしないんですよ。
ただ熱がないってわけではないんですね。
一生懸命知識集めたりっていうことはしないんですよ。
基本ストイックだがネットで調べたいことを調べまくってしまうってことはあるんですよ。
ちなみに発達障害はこういうタイプ多いんですよね、マニアックに。鉄道を極めるとか。
何かに執着するんですよ。
コレクションをしたり。
自分は気になったら何時間も検索するとか、同じテーマを掘り続ける。
は起こるんですよね。
疑問の解消とか理解とかには執着するんですね。
執着には種類があるみたいです。アイドル、アニメ、ゲーム、スポーツにのめり込むタイプ。
気になった疑問を。もう一つは問題への執着。
気になった疑問を調べ続けるとか納得するまで考えるとか。
ちょっとわけあって。
乃木坂にAR子がいて、乃木坂を応援し始めて。
アイドルはのめり込んでるけど、オタク的なのめり込み方なのかって言われると多分違うんだけど。
これが唯一あれかな。
だとするとですよ。
執着の仕方がマニアとかオタクと違うというか。
そういうものに興味を持っても。
理由は何なのかこの後話しますけど。
多分完璧主義な理由だからですね。
興味に位置づけているんですね。
自分でももう10年以上なりますね。
虚無と日常の共存
しかし、最低限の意味は感じ。
あるいは変化しない。
規律守って、でも時には虚無に立ち返る。
いつも虚無にいるのに何故か帰還しているという矛盾があると思うんですよ。
わかりますかね。虚無に位置づけているのに戻るっておかしいっていう話ですね。
とりあえず考えてみますか。
虚無にいると言ってもご飯を食べるとか寝るとか英語を勉強するとか
こうした行動までは消えるわけじゃないですよね。
というか、これは普通の感覚から言ったらずれてるんで。
自分の場合、虚無と生活の過渡をさせるのとはまた別なんですよね。
この話も根本的にちょっと難しいんだけど説明するのが。
だから虚無を理解した状態と日常を維持するための規律が
同時に行ったり来たりしているとも言えますよね。
確かに宇宙的な意味、絶対的な意味がないと思いながら歯を磨くってことはできるんですよね。
でも目の前にあることに多少は意味を感じないとできないので多少は意味を感じている。
だからベースは宇宙的な意味はないと思っているんだけど
生活を維持するためにそれはできている。
だから行ったり来たりしているっていうのは
確かにこれ難しい問題ですね。
虚無のレイヤーと過渡のレイヤーがあって同時並行で動いているというか
別の領域にあるんですよ。
過渡につかれてしまうと虚無レイヤーが前面に出てくるということです。
それも自分は危機感と思っているのかもしれないですね。
だからすべてに意味を感じながらなんですよ。日常の行動もそうだし。
確かに歯を磨いているときとかは意味を感じているかもしれないけど
明らかに他の人が意欲的に意味を感じながら生活しているというのとは違うんですね。
歯を磨いているときも。
普通であれば清潔にしたいとか健康でいたいとか自分を良くしたいっていう
思いは多少ある。
それは自分もそうか。
でも他の人も歯を磨くとき意味なんか感じてないですよね。
でも生活全体が違うんですよ。他の人とは多分。
というか自分の過去と比べて違うのが分かるんですね。
ロボットと言ったら言い過ぎかもしれないけど
ルーティンをこなしているだけなんですよ。
意味を感じているから行動をするわけじゃないんですよ。
だって本当に生きていることに意味を感じていないから
歯を磨いて健康にしたいなんて思いとかない。
とりあえず生きている感じですからね。
もう一つ言いますが宇宙的な意味のレイヤーは常々で
行動の意味レイヤーと稼働レイヤーが
前面に出たり引っ込んだりする。
だから時には目の前になること意味を感じなくなることもあるし
ちなみに人間になれば誰でもですね
怪異的になったり意味を感じたりするのと行き来してるんですよね。
自分の場合で言うと行動意味レイヤーが行ったり来たりするっていう。
普通の人は宇宙的な意味レイヤーも使うし
行動の意味レイヤーも使うし
怪異レイヤーも使うんですよね。
3つ行ったり来たりしてる。
次の話です。
規律を守る動機と不安
規律に意味を感じてはいけないがルールというのは
感情が動かないと守る動機がなくなるんですね。
だから罰ゲームとかあるじゃないですかね。
だから規律崩れることの不安を感じる必要があるんですよ。
だから少しは意味を感じる必要がある。
もしかすると意味を感じなくても
変化することへの本能的な恐怖でルールを守るのかもしれないです。
これはやっぱりアスペルガンのルールを守る動機と似てて
単に破ると不安になる。先が読めなくなるとか
変化が起きるとか慣れたパターンが崩れるとか
人間って感情がないと行動しにくいので
不安とか恐怖心とかが行動の燃料になることがあるんですね。
自分は特に達成感はないです。
安心感でもないです。
弾薬感でもないです。
不安と恐怖が行動の燃料になるんですよ。
だから規律を守ることに少し意味を感じている時もあるし
意味ではなくて不確実性とか変化への不安で守っている場合もあるんですね。
だからこの生活のルーティンとか自体に意味を感じているわけじゃないんですよ。
破ってしまったらまずいからってこと。
ルールを破ってしまった時に何とも思わないのって困るんですよ。
例えばゲームをする時に罰ゲームがないと一生懸命にならないっていうのと似てるんですよね。
純粋な目的と悔しさからの動機
では次。純粋な目的で何かを始める人の方ですね。
何くそ根性で悔しさから来る変な理由で始める自分より素晴らしいと思ってたんですよ。
でも純粋な目的な人って辛くなったら気持ちすぐ変わっちゃうから続かないんですよ。
純粋な目的好きだからやる。興味があるからやる。楽しいからやる。
あとは純粋に人を助けたいとか海外に行ってこういうことを達成したいとか。
本当に純粋な目的で何か始めてるなっていう人。
した心とか計算とかがあるようには思えない人。
でもそういう人って飽きたとか興味がなくなったとか別のことがしたくなったって。
これも純粋なんだろうけど。
やめても不自然ではないんですよ。
一方悔しい見返したいとか負けたくない逃げ場がないっていうのは動機だとあまり美しく見えないけども結構強力なんですね。
気分が変わってもですね。やらないと気持ち悪いし。
それだけ何か欠落の思いがあるから始めてるからとてもとても気分でまたさらに別のことをやるというのはならないんですよ。
ただ別の問題もあって悔しさや怒りだけで続けると
怒りが薄れた瞬間とか悔しさが薄れた瞬間燃料切れになることがある。
これ自分もありました。それで完全燃焼してしまうこと。
でも自分の場合は長く続く場合。
動機はどうであれ週間とか日常の一部になり続けるという場合続けてこれたっていうこともありますね。
ちなみに自分がこのポッドキャストを始めた理由はですね。
この話しときながらなんだろうと思うけど結構純粋な目的だったんですよ。
自分と同じような苦しみの話に届いたらいいなっていう。
でも続けてこれましたね。
虚無と鬱、そして乃木坂への応援
では次。隠密な曲歌っている人がいてですね。アイドルなんだけど。
鬱な部分が出てしまったと言ってるんですけど。
どうも疑問というか全く理解できないんですよ。
歌詞を見るから虚無に直面するような歌詞。
だから虚無に直面して通列ににひろを感じてしまい目を下げたくなるならわかるんですけど。
自分の鬱が出てくて鬱な感じが出るっておかしくないのかなと思うんですよ。
もちろん音楽を聴いて寂しさとか怒りとか虚しさが意識に上がることはあるけど。
歌詞が明らかに単に絶望するというよりも絶望的に映ってしまうのかな。
自分は人生は空虚だとかそういう歌詞にも思えたんですね。
でもそれに入り込んで気分が沈む人もいるのかそれはしょうがないけど。
でもそれは副次的な二次的なことであって。
本来であればもうちょっと世界の痛いところを見てしまったぐらいのものだと思うんですよ。
目を塞ぎたくなったぐらいのものだと思うんですよ。
さっきの話に戻りますけど、乃木坂は応援する理由があるから応援できてる。
これは特別なんですよ。こういうことはなかなかないんでね。
他のものはのめり込む前にその段階で何か問題があるんじゃないかと思うんですよ。
結局乃木坂も流れに乗ってしまえば、もちろん歓声の法則なのかもしれないけど応援できたので。
寝しやすく寒いやすい人の典型的なパターンですね。
あとタイミングとかいろいろ偶然が重なったのかもしれないし。
だとしたらもう何にも他はのめり込めないですよね。
では次です。不安なこと重なるときに…
家庭のお菓子文化と日本の違い
あ、間違えました。日本はアメリカのクッキーみたいに家庭のお菓子ってないなと思ったんですよ。
やっぱりそういう文化って弱いみたいです。アメリカは予想通りでした。
オーブンが広いし、あとクリスマスとか感謝祭とかあるし。
パジャマ作ってくれたり、子どもたちも作ったり、一緒に作ったりするわけです。
日本はオーブンなんてないし。
あとコンビニのお菓子もあるし、ブルボンとか。
お菓子メーカーがすごいわけですよね。
向こうは多分どうなっても作るのかな。買いもするだろうし。日本の場合はそうじゃないですよね。
逆にコンビニツイッチとかの方が美味しいからそっち買っちゃうんですよ。
考えてみるとなくないですかね。あんこ作るの自体も大変ですしね。
団子作ったり、日本じゃしませんよね。
アップルパイなんかもですね、昔から多分欧米に至るところで作ってるんじゃないかな。
水分が変わるみたいです。
幸せの定義:後付けの物語と解釈
次ちょっと幸せについて考えてみたんですよ。朝ですね。
この後は寝しますけど、ある考えが出てきて。
快感かどうかではなくて、何かをやってる時。
何かをやってる時自体、もしくはそれを振り返り出てくるもの。幸せ。
ただの後付けのものでしかない。
つまり事実に対して後から物語を書いて、その物語自体に心が動いて幸せ感あるいは
感情とは関係ないものがあるのかもしれないと思ったんですね。
つまり何かをやってる最中の体験そのものとあれは良かったなと振り返ることと体験に意味が物語に当たることは別のものなんですよね。
例えば山登り中は苦しい。でも登頂した瞬間もそれほど感動しない。
意味わかりますかね。何かをやってること自体なんですよね。
快感が出るからとかじゃなくて。それをやってるという事実、もしくはそれを振り返りなのか。
だから数年後に写真を見て、あの登山の経験は人生の財産だと感じるっていうこともあるし。
この場合、幸福感って快感そのものっていうよりも、その出来事をどう位置づけたかですよね。
人間は出来事そのものだけで生きてるわけじゃなくて、記憶ってものもあるし解釈もするし意味付きも含めて生きてる。
だから幸せとは快感っていうよりも、後から振り返ってみて、あるいは自分が成長したなとか、そういう物語に心が動いてる。
ドキュメンタリーを見てる感覚ですよね。自分の人生を見て苦労に意味があったなとか人生は無駄じゃなかったとか。
だからあれ意味あったなっていう。
だから幸福は出来事じゃなくて解釈に宿ってることになりますね、そうすると。
幸福も不幸も物語も全部後付きだということを悟ると、本当の幸福っていうのは快感でも物語でもなくて、
幸福かどうかはあまり問題にしてない状態。
なのかなって思うんですけど、別にこれ深い思想の話とかじゃなくて、あまり幸せに囚われないほうが良さそうだなって時あるじゃないですか。
最近あまり意味を感じすぎてる幸せかどうかっていうことに囚われてる。そこに意味を求めすぎてるってことあるじゃないですか。
自然な流れですよね。後付けな物でしかないのであれば。
事実しかないんだからあまり幸せとかどうかに囚われてないほうがいいんじゃないかと。
多幸感の儚さと幸福の追求
では次。多幸感ある時ってこれ何の意味があるんだろうと思ったんですね。
だってこの感情どうせすぐ消えるわけですよ。多くの人は実はこのことに気づいてるのではないか。
ということはこの幸せだなと感じることは求めてないのかもと朝急に思ったわけですよ。
それでちょっとこのことを考えてみたんですよね。深く思考してみたんですけど。
数分後消えるかもしれない。数時間後消えるかもしれない。
大きな出来事だとしても数日後には消えるかもしれない。その感情そのまま維持できないわけです。
切なですね。でも確かに桜とか散るじゃないですか。でもその切な自体に幸福感を覚えるっていうのも人間ではあるんですよね。
ただですよ。一年に一回あることと日常よく起きることであったら別なわけであって。
一年に一回ぐらいいいかもしれないなってなるけどこれ何回も繰り返してたら何か馬鹿らしいなってなるじゃないですか。
自分はずっと幸せになる方法なんて追い続けてこなかったんですよ。
なぜ幸せを追い続けるのかということに勝手にかかる興味があって。だから旅行だって終わるじゃないですか。
アイスクリーム食べたらすぐ溶けてなくなるじゃないですか。口の中に入れたら終わるじゃないですか。
欲しかったものを手に入れたら多少持続性はある。恋愛だってそのうち終わるじゃないですか。
それを何度も経験したらずっとずっと幸福感ではないことを知ってる。
でも多くの人が求めるのは、この前のケーキの話でいうと次の幸せがあるから。
でも今の幸せはなくなるわけじゃないですか。
だから永続すると信じてるからというより、その瞬間その瞬間心地よければいいという動物的なことなんでしょうね。
でも他の動物と違って、他の動物だったらどんな幸せなんか求めないですよね。
自分にとっては幸せを感じることは、消えると分かっているからあまり価値がないんですよ。日々が回っていることとか。
興味を持つことが持続すること、淡々と続いていることの方なんですね。
だから幸せになりたいというよりもは、不幸にならなければいいという感覚なんでしょうね、自分は。
そういう人はいると思います。では次。
変化の受容とルーティンの役割
自分は変化してしまうことを受け入れているんですよ。
ではなぜこんなに必死にルーティンを守っているのか、と分からなくなるんですね。
こんなことを繰り返していると、変化することを受け入れるなら、なぜ必死にルーティンを守っているのか分からなくなるんですね。
何かをしている最中にどうせまた変わるんだと気づくんですよ。
変化を嫌う相当、変化すると崩れるから、変化は負荷があるし。
変化って物語の入り口にもなるんですよね。だからルーティンを安定させる。
変化してしまう層というのがあって、気分とか体調というのが変わる。考え方も変わる。価値観も微妙にずれる。
これは生物としての層ですよね。だからA層とB層の衝突なんですよ。
変化しないようにしているのに変化しているという矛盾が発生する。
ルーティンは変化を止める装置ではないんですよ。変化の幅を狭めることであってほしい、そういう装置です。
変化の暴走を防いだり、崩壊を防いだり。
ただ自分の場合、変化しないという姿勢が崩壊を防ぐんですよね。
でもどうせまた変化するんだという気づきがある。
でもこの変化は自分の場合、ゆっくりだし小さいし、破壊的でない。
だから保たれているんでしょうね。
でも変化するのであれば、変化を許すのであれば、何なんだとなるわけですよ。
変化することを少しでも許してしまうと、そうすると固くないルーティンをやってきたのは何だったんだということになるんですよね。
でも変化を受け入れなきゃいけないと思う。
自分もいる。
というか実際そうしなきゃいけない。
変化を受け入れないことによって、逆に変化の振り幅を大きくしてしまうというのもわかっているんですよ。
だから自分の中の変化を許す自分と変化を拒む自分が同時に存在していることの問題なんでしょうね。
そうならざるを得ないんですけど。
気分とか思考とか変わるし周りの関係も変わるから、行動が変わらざるを得なくなる時があるんですよね。
体調とかぐらいだったら、行動は無理に変化しないようにはできるんですけど。
逆にルーティンがあるから変化を許しても大丈夫という部分はあるかもしれないですね。
ルーティンによって極めて変化が少なくいられるから、
だからこそ物によっては変化を許せるという、ちょっと変化という言葉を使うのがわかりにくいですね。
幅が広すぎて。
ただ全て相互作用があるわけですよ。感情の変化が行動の変化を与える。
次なんですけど、こうやって話していることを全てメモしておいてですね。
いずれまたPodcastで考察して話できたらいいなと思ったんですけど、
メモが大量になって、意味ないのかなとか、相当今悩んでますね。
なんとなくのプランとしてはまた振り返って考察して話すという感じなんですけど。
自由と制約、そして自己規律
次、自由。自由は支障がないと思ってるんですよ。自由ですね。
真空に放り出されるようなものだと思ってるんですよ。
家にずっといるとですね、価値観が薄らぐんですよ。
宗教やめて、基準となるもの、支障なくなり、しかしどう生きてもいい、どうでもいい、
何悪いことをやってもいいじゃん、という下に構えたニヒルになっている場合ではないんですね。
本物のニヒルになる必要があったんです。なぜなら虚無というのは途方もない自由だったから、
この中で正気でいるには自分でルールを設ける必要があったんですね。
自由なはず。実は以前よりも自由でなくなったんですね。
以前と違うのは自分を自分で規律により縛っているところなんですね。
芸術の本質っていうのは表現の自由がある。
だったらそれも基本や方なんて存在しないはずですよね。
決められたものなくなるはずなんですよ。しかしそうではなく、創作ではなくなるんですね。
ということは表現の自由なんてもの、幻想でしかなく成り立つことはあり得ないですよね。
宗教辞めて基準がなくなって途方もない自由で、外部の基準がないと何をしてもいい、善悪も絶対もない。
善悪も絶対もないんですけど、そこから何をしてもいいんだ、適当でいいんだとなっては自由すぎて何も決められていない状態にしかなってない。
だから正気でいるために自分でルールを設ける必要があったんですね。
誰でも仕事、家族、趣味とかある程度制約をしているわけですよ。
あとは国家とか思想とかで、社会ってものが人間を制約してるしされてるし、完全な自由で生きてる人なんていなくて。
自分の場合は家にいるようになって、自由なはずが以前より自由でなくなったんですね。
以前は宗教が縛ってて、今の自分は自分で自分を縛る仕様が出てきた。
自分の場合ストイックだから揺り縛るようになった。
そして自由による感情の爆発が崩壊を導くので、外からの規律が内側に移ったわけですね。
さっきの芸術の本質は表現の自由なら、型なんて存在しないはず。
これは間違いなくそうだと思うんですよ。
ただ現実的にそうにはならない。
ということは逆に言うと、とりあえず現実という形を保っているわけであって、
うちらが思うような崇高なものじゃないかどうかはわからないところがありますね、そうなってくると。
そもそも言語には文法があるし、音楽には音階があるし、絵には記法があるし、今言ってるのはそういうことです。
小説には形式があるし、だから完全には自由ではないわけですよ。
普通だったら自由ではない、ある程度の制約があるから創作って生まれるんだって話になるんだけど、
今言ったように、表現の自由が芸術なのであれば、まあ限界があるでしょうっていう話。
完全な自由では創作が成立しにくい。
中でやっていくしかないねっていう。それを受け入れてやっていくしかないねっていう。
でもそれをプラスに添加、勝手にして説明するのもどうかって思うんですよ。
別に残念なものだという必要もないけど。
あと芸術家って何でもいいから描けって言われるよりも、ある程度決まりがあった方が創作はしやすいわけですよね。
でも自由と制約は互いを成立させる関係であるってきれいごとじゃないですか。
だから自由ってのは制約の中でどこまで動けるかっていう戦いになるんでしょうけど、完全ではないっていう。
責任を伴う生き方と幸せ
あとですね、さっきの幸せの話だけど、こうやって考えてたからなのか。
最近ドラマを見てて、付き合い立てなんだけど男子の方が学校に来なくて久しぶりに来て、男子たちがお前いないから寂しかったぞって言って。
でもマンズランでもないって感じで、否定しときながらすごい会いたかったというか、来てくれて嬉しいって感じでずっと見つめてるんですよ。
あの表情は一生忘れないですね。
でですね、あんな視線を見切られたら幸せだなって思ったんだけど、あとは自分が幸せが訪れるとしたら彼女ができて、その人のために毎日を生きるようになり、多分プレッシャーもすごいと思いますよ。
でもそれでも、それが今想像できる幸せですね。
自分のために生きるよりも方向が一点に収束するだろうし。
まあ自分の場合、一点に収束しすぎるだろうけど。
あと日々の行動に理由ができるし。
まあだからこそ、別れた時の代償はやばいだろうけど。
だって普通の人でさえ、もう何だろう、完全燃焼っていうか、もう途方に暮れて虚無になる、空虚になることあるじゃないですか。
自分の場合どうなるかわかんないですね。
それはたまに考えることあるんですよ。
そもそも付き合ってないのに何の空想してるんだと思うけど。
まあさっきの自由の話とも関係があって、そうやって責任を伴ったほうが、なんか生きてる感じがするんですね。
幸せな感じがするんですよね。
でも相当な理由がないと、そんな状況には追い込まれないだろうけど。
不要もなくそんな責任とか持たないですからね。
責任っていうのか、まあ責任でいいのか。
もちろん彼女ができたら不確実性も増えるし、不安も増えるし、不安も増える。
まあそれでもですね、だから基本的にはそうなんですよ。
それを幸せと言っていいのかわかんないけど。
まあそれでもこの人のために何か尽くしていこうみたいな。
もしそういう風になれたら、その間だけは、ああどうだろうっていう。
では次の話。
変化しない努力のパラドックス
変化しないようにするとですね、ミクロの動きを強制的に止めようとすることになるんですよ。
恐ろしいですね。
この後ですね、大きな変化、破綻が起きるんですよ。
つまり変化しない努力が最大の変化要因になることってあるんですよね。
普通の人は普遍でいたい自分と変化は避けられないっていう戦いなんですね。
これは価値観の問題だから、変化してもいいが今はこうしてるに落ち着くんですよ。
自分の場合は、維持するために変化してはいけない。
これは生存構造の問題だからですね。
変化しても戻れる場所を維持することが必要なんですよ。
普通の人は変化をしてもいいだろう、例えば年老いてしまうのもしょうないだろうとか、
そういう変化を許容する方向に向かうんですけど、
自分はまた戻れる基準点を維持する方向に向くんですね。
だからですね、微細な揺れ、行動のずれとか生活の誤差っていうのは、
変化ではなくノイズとして扱うべきなんですよね。
意識しすぎると壊れる変化。
あと生活の型を変えるような、ルーティンを壊すような、基準点を動かすような変化。
これは変化として扱うべきなんですよ。
今言った小さなノイズなんだけど、小さなものと感じられる変化と、
誤認して止めようとして大きな変化を生む。
これが自分にとってどうしもなくなる状態なんですよ。
少し気分が違うだけでノイズに感じる。
それを変化していると判定する。
そうすると、やっぱり違和感を感じるわけですね。
ミクロな動きに対して。
それに対してルーティンは変えないです。
でも何とかしようとしますよね。
でも普通であればですね、そこでルーティンは変えてしまうんですよ。
何か調子が悪い時に、スポーツ練習であれば練習量を増やすとか、
ルーティンを壊すとか。
自分はそういうことはしないですけど、
ただですね、そもそもですね、
変化とは何だということがつきまとうんですね。
変化しないことが変化であったり、
変化の定義の問題ももちろんあるけど、変化の定義じゃないですね、これ。
でも何をもって変化というのか。
でも変化について考える必要があるのか。
でも何か目的というか、自分が崩壊しないためのことができてれば、
結果的にできてればいいので、変化について別に追求する必要はないんだけど。
変化しないことによって保たれてきて、
でもよくわからずやってきたようなもの。
例えばスポーツ選手が調子が悪いと、
でも今ではなんとなくできちゃったんだと。
でも壁に立ち上がって、壁にぶつかって、
変化というものを、フォームというものを考えなきゃいけない、一から。
自分はそうやって変化というものを一から考えなきゃいけないということが出てくるわけですよ。
少しの気分が違うぐらいじゃ、行動の変化はすることはないんだけど、
ただ興味が少し変わった。
こういう場合、そもそも前やってたこと自体にそこまで意味全く感じていなかったら、
まあ興味移り変わったなら別に行動を変えてもいいでしょうってなるわけですよ。
ただ見る動画を変える、ポッドキャストを変えるとか。
でもそれってどうなのって思うんですよね。
そういうノイズに。
そういうノイズをノイズとして。
だから今の話でいくと、他の動画見たほうがいいのかもしれないですよね。
だから自然に収束するのを待つしかないんですよね。
ちなみにルーティンが増えることはないんですよね。
確認作業は増えます。
これはしょうないんですよね。
これはノイズに影響を受けている。
ただこれはしょうないですよね。
これも必要な変化ではあるんですよ。
人間って色々変化してますよ。
呼吸の変化、気分の変化、考え方の変化、毎日を変化していることになるわけですよね。
することまで変化と言い出したら。
だから維持も管理も不可能になりますよね。
だから許す変化も必要だし。
どう許してかですよね。
物理学でも勉強すればなんとかなるのかもしれないけど、心理学を勉強したり。
例えば気分が揺れているときにどうするのか。
それを止めようとしたら逆に大きくなるんだとしたら。
じゃあ行動はどうすればいいのか。
家族何守ろうとすればいいのか。
ルーティンって変化を止める装置っていうよりも、
戻るための座標なんですよね。
だからイチローも言ってました。
ルーティンをするからこそ自分の体調の悪化とかに気づけると。
ちなみに季節の変わり、変化、あと効率化っていう変化、興味の変化っていうときもあるし。
どうしてもそういうときは変化して。
時間をかければなんとか整理はつくんですけど、
そのときに変化しないことで変化してしまったり。
でもその変化はしょうがなかったり。
次の話ですが、
ゴールなき追求の危険性
例えば宝探しの地図に公園の木まで行こうと書いてある。
これなら行けたら行くし。
別の日に行けばいいし。
これは普通のゴール。
でも自分のゴール、
もし自分が避けたいゴール、つまり完璧な自分になろうというゴール。
だとすると、完璧な自分ってどこだと。
つまり、この世界に完璧なってないから、正確に言うとないはずなので、
完璧な自分ってどこなんだってなるわけですよね。
どんな状態だと。
いつ着いたと分かるんだと。
誰も答えられないわけで、つまりゴールが見えないんですね。
つまり、毎日まだ着いてないになるんですよ。
昨日も着いてない、今日も着いてない、明日も着かない。
本当はゴールがないだけなんですよね。
だから自分がダメだから着けないんだとなってしまうんですよ。
先生の例にすると、教室の後ろまで歩いて寝と言ったとしますよね。
これはできます。でも、もっともっといい子になって寝って言われると、
どこまで行けば終わりなのか分からないですよね。
だからずっと不安になる。
存在しないゴールを本物だと思って追いかけることは恐ろしいんですよ。
ゴールがないと着けないんですよね。
着けない自分がいる。だから直そうとする。
もっと苦しくなる。
というグルグルが始まるわけですよ。
頭グルグル、生活もグルグル。
だから本当にある場所を目指すのは大事なんですね。
ない場所を目指すと、ずっとまだ足りない自分というのが生まれてしまうんですよ。
まだ足りない自分が生まれるんですね。
でも、たまにはこれはあることです。
例えば、美を追求しすぎて足りなくてとか、教職生も同じことですよね。
自分も最近こういう壁に突き当たっててですね。
なんか脂肪がついてるような気もする。ちょっとだけですよ。
でも、これも分かんないし。
絶対以前より大丈夫なはずなんですよ。糖質の量だって、ご飯とか食べる量だって。
なのに脂肪が増えてるとしたら、これは原因も分からない。
土地のせいかもしれない。運動してないせいかもしれない。
だからゴールも分からなければ、今問題なのかどうかさえ分からないんですよね。
遠もくれない。単なる不安ということの繰り返し。
不安が不安を呼ぶわけですよ。
現在あさとってます。
神は絶対だと考える構造って、そこに到達しないとダメだという発想を自動で生むと思ったんですね。
こんなこと起こるのかと最初はにわかには信じれないけど、理論上起こりるんですよね。さっきの話からすると。
簡単に説明すると、絶対に正しい場所というのがあると、そこに行けてないと。
生きてない自分が生まれた後、そこには自然、これは自然に起きるわけですね。
絶対という言葉はゴールがここですという意味を内側に持っているから。
もちろん、自分が迷路にいて悩んでいる時、出口というものを絶対化してしまうと、ないゴールを探しているようなイメージですよね。危険なんですよ。
絶対という概念を置くと、そこに間違いなく到達しない自分が生まれてしまうんですよね。
絶対というのは動かない基準点だし、唯一の正解だし、完成形だし、自分はそこに届いていないとか欠けているとか、埋められないとか、自分が悪いとか、自分が未完成だとなっちゃうんですよ。
神というのは絶対、絶対はゴール、ゴールに届いていない。これが起きる人と起きない人がいるんですね。
神は完全だから、自分は不完全で近づかなければいけない。だからもっと努力しなければいけない、到達しないという感覚の人もいるし、神は支えであるという人もいるんですね。
だから神が裁判官になるか、支えになるか分かれるんですよ。
絶対化の構造と人間の心理
これ宗教以外でも起きるんですよね。
完全な自分、完璧な自分、完全な人生、理想の人生、真の幸福、100%の正しい生き方を目標にしてしまうと、あるいは理想のものとして頭の中にある状態だと、
自分が常に比較対象として現れてしまうんですよね。
未到達の自分が生まれるんですよね。
なんだか生き方講座みたいな話に聞こえるかもしれないですけど、苦しいじゃないですか、こんな生き方。
絶対を到達線じゃなくて、方向として扱うということが起こるのか。
それだったらいきやすいんですよね。
単なる方向として、指標として扱うなら。
でもですよ、出口が絶対なら、そこに到達してないのはダメとなってしまうのではないかと思うんです。
まあでも、例えば船乗りが北極星見るのって別に北極星に行くわけじゃない。進む方向見てるため。
でもそれに近いことなんでしょうかね。
いや違うと思いますね、自分は。
目的地に行くのとは違って。
絶対ってものは逆にない前提で行くとですよ。
そしてそんなものを目指せない前提で考えると、絶対なんてないんだからそこに近づく必要性がないわけですよね。
でも絶対化してしまうと、あそこがゴール。絶対なんてないんだとすると、絶対に近づくことさえできない。
だから指標になるものが全くない状態。
つまり北極星に行けなくても、北極星に近づこうのほうが近いんですよ。絶対を置くってことは。
今の例えを借りるとですよ。北極星を大理に目的地に行くんじゃなくて、ロケットに乗って北極星に近づこうとしてる状態なんですよ。
絶対に向かう、絶対を置くようにするってのは。結構無謀ですよね。
まあでも絶対を目指すってのは結構どころか無理なんですよ。
では次。神は絶対を作る。と、逆に裁判官がいる。つまり正解ができる基準というものはできますよね。
だからそういう意味では行きやすいですよね。
例えば教師がいると、これが正解だと言ってくれるから、逆に教師がいないと、好きにやっていいとなると、どこに向かえばいいのか分かんない。
だから絶対っていうのがあると、絶対的な善とか、唯一の正解があると、正解から失礼しやすくなるんですよ。
でもそんなものをどうでもいいくなるくらい代償があって、自分は正解か間違ってないかとなってしまうんですよね。
これがだから、絶対じゃなかったらいいバランスなんですよ。
絶対っていう無いものを置いてしまうと、いつまで経っても自分は間違ってないかという問いが生まれるんですよ。
だから人間は絶対を求めてしまうんですよね。分かりやすいし、安心しやすいし、行動しやすいし。
でも自分は宗教に入っているから分かりますけど、本当にただの幻想でしかないんですよ。
そうですよね。無いもの、無いゴール、正解があるから、生きやすくなっちゃってるんだから。
だから歴史的に見ても多くの人は、完全な自由と、完全な絶対の中間くらいで生きてるんですよね。
何らかの基準を持つけど絶対死はしない。
まあそのくせ神を信じてるけど、神を信じる以降は絶対死するってことですからね、自分。
そこを土台として人生が進んでいくわけですから。
方向としての絶対と幸福の原理
ちなみに自分は宗教離れてから、完全な自由なと広大な土地にいて、
だから完璧している、全く欲してはいないけどそういう自由を手に入れたんですよね。
特にうちなんかあんまり親は干渉してくることもないですしね。
まあこれで教育ママみたいな感じだったらそもそも火曇りになってないかもしれないけど。
まあそしたらこの世界にもういないかもしれないし。
では次。出口がもし絶対でないとすれば、完成形でないんですよね、出口が。
だとしたら、目印や方向に近くなるわけですよね。
例えば山の頂上に着いたら終わり。これははっきりしてる。
北へ向かうわ。
まあ北に向かってるかどうかもわかるし、でも着いたという終点がないから。
着いたという終点はないのか。
まあ違いはですね、方向として大体の目標を決めるっていうのは、
あと理想を置くっていうのは、神を求めるのと同じで終点はないんだけれども、
終点がないということを自覚できるかどうかっていう違いはあるんですよね。
例えば優しく生きるとか正直に生きるとか。
あるとき優しさ100%達成ってならないけど、絶対を求めると、
今の優しさは優しさではないんじゃないか。あるいは全然足りてない。
っていつまでもありえないゴールを目指してしまうんです。
でも人間って完璧にならないし、この世界自体完璧がないですからね。
あとさっきの幸福の話ですけど、やっぱり何かをやっていること自体、
その事実に幸福を感じている場合もある。
まあそうですね、幸せな感情というのはなくなるけど、
この事実自体が幸せだと感じる場合もあるんじゃないかと思ったし。
あと桜の切なさに幸福を感じるけど、
幸せな感情は消えるものでも幸福なの同じ原理なのかなと思ったんですけど、
これはわかんないしね。
あと動物は幸せに求めるのかなと思ったんですよ。
まあ幸せになりたいとはもちろん考えません。
なんでかって言うと幸せって人間が作った概念だから。
だから幸福とは何だろうなんて考えないし。
あと人間ってこの幸せには意味があるのかと考えるから、
だから快感を味わいながらどうせ消えるとも考えられるわけです。
人間って幸せを求めると言っておきながら、
自分からしてみたら自分が観察するからにはですね、
結局楽しければいいや、好きな人といればいい、おいしければいいっていう、
その場合その場の体験を繰り返し求めている、言ってみれば切なしげですよね。
まあこれは現代人の特徴なのかもしれないし、いつの時代も。
でも多分そうなんだろうけど。
だから他の動物と変わらないですよ。
それはそうですよね。動物なんだから。
01:00:33

コメント

スクロール