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2023-05-01 1:31:47

第百四十八回 『ナンセンスな問い』を巡って ゲスト:友田とん

作家・友田とんさんをお迎えし、待望の作品集『ナンセンスな問い』(H.A.B)をめぐって存分に語り合います。

00:06
はい、それではこんにちは、ポイエティークラジオです。お相手は、私柿内正午と、本日は特別ゲストでこの方です。
友田とんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ということで、お久しぶりな登場なのかしら?
多分最初が…
いつ以来?
本当に、パリカツの2が出た時に初めて出ていただいて
今の時ですか?
そう、そう言っていただいて。で、和歌手さんのウロン機構が出たタイミングでも和歌手さんと一緒にやっていただいて。
それ以来。
ポイエティークラジオでは…
ラジオ的にはそうですね。
そうですね。
一回ね、グリューブックスさんでトークイベントをしたりもしましたが。
あれももう結構…
あれもずいぶん…
2021年の5月かな?
さっきこのサイト重複を読んでて、読み返して、あ、そうそう。
そうかそうか。確かにちょうどその日記の頃ですね。
僕が今一番覚えてるのはグリューブックスさんで
友田さんは会社員をやりながら出版の活動もされてて
そこのバランスの取り方にすごい同じ会社員として何かいろいろと励まされたりするところもあるみたいなことを話していて
その後すぐぐらいに友田さんが
独立して会社を辞めながら
ちょっと僕あまり的確な発言をしてなかったなと思って
いかに職をいわゆるライスワーク的な職をやりつつ
別のサブっていうかもう一個違う活動を共存させていくかみたいなのの
妙みたいな話をしてもらったから胸が痛かったですね。
そうなんかイベント聞き返してて
ああ確かにここで友田さんすごいちょっと微妙な反応を返してくるっていうのは
後から聞き返すと気付いたりして
そこも含めていい転換点の頃にお話をしたなという感じでしたが
03:08
今回はいろいろ今日お話の中で聞いていったりとか聞きそびれたりすることも出てくると思うんですけど
本元で代わりに読む人でそれ以降も
2冊?3冊?
佐川強一さんとあとは文芸師代わりに読む人
そこ前ですね代わりに読む人の方も
っていうところで合着されているのもそうなんですけど
こちらは待望の短丁として羽生さんからナンセンスの問いという本が出まして
これについていろいろとお話をできればということで
来ていただきました
ありがとうございます
やっと1冊になりました
本当にありがとうございます
とてもいい本ですね
今日は大体これの話をメインに話していくことになると思いますが
なんだろう本当にまず僕はハブの冊子を1号から読んでいて
ここに納められているそれぞれのテキスト自体は
多分それぞれの媒体でほとんど読んでいる
月報も代わりに読む人から出ている月報もそうだし
ししししも双子のライオン堂さんで買っているし
ハブの冊子はもちろん前後読んでいるし
だからトイブックスさんでのね
全天フェアの小冊子のものと
あとユリーカンは僕はちょっと読んでなかったので
そこのあたりではあったんですけど
ある意味ほとんど読んでいるような中で
でもやっぱり1冊の本にまとまると
なんか全然違うんだよなっていう
そこの醍醐味というか
本の形になる醍醐味もあるなというのが
まず第一にこれはっていうので
どこから話していきましょうね
もうなんかどうしようかな
全部すごいなって
あんまりでも大したことは書いていない
いやでもなんかこうなんていうんでしょう
ご自分で出されている100年の孤独を代わりに読んだとか
やっぱりパリのガイドブックで東京の街を確保するのように
06:02
ある意味自作自演というか
自分で作って自分で書いて
自分で出して自分で売っていくっていう本と
やっぱりこういう形で出てくる本とでは
多少こうやっぱりなんだろうな
違うものだなっていう感覚はすごい強く持って
たぶんおそらく連載で
それぞれちょっと媒体の違ったりするような
テキストが入っているからっていうのもあると思うんですけど
割と大きくバリエーションが結構あるというか
それぞれの粒感が
なんか違いものがたくさん入っているっていう
そのパッケージが確かにこれまでなかったというか
ここにトムダートンエッセイ小説集1っていう風に
タイトルがついてますけど
まさに集められた作品集というところが
ひとつ強調されている感じがあって
そこがすごい逆説的にというか
それぞれが断片的であるからこそ
トムダさんの方法論だったり文体みたいなものが
こうなんか前面に出てくるというか
こういう作家だったのか
トムダトンという人はみたいな
気持ちになるような読み心地で
なんかそれこそが面白かった
なんかいただいた時に一旦割と目を通して
でお話しするってなってから1ヶ月ぐらいかけて
なんかそれこそ毎日の味噌汁のように
ちょっとずつちょっとずつ読んでいったんですけど
なんかやっぱりこう
サラッとも読めるし
サラッと読んでアハハって
ある意味その
使えるというか
サラッと読む本としても使えるんですけど
なんかそれで一個一個ゆっくり読むと
またこう違った地味深さがあったりもして
そういうその
どういう読み方も許容するところの平さが
あるなというのも含めて
なんか全体として非常にこう
じんわりといいなという気持ちを
持っていたんです
なんかすごい嬉しいですね
なんかまあいろんな読み方で読めるって
なんかまあ本としては
それはすごいなんかこう褒め言葉というか
嬉しいことで
これはこう読まないといけないみたいな本も
もちろんあると思うんですけど
いろいろな読み方ができるっていうのは
あとね書き始めてから
一番最後の書き終えたところまで
多分4年ぐらい時間のスパンがあるんで
だから一番最後の
そんなことないかな
前書きとか後書きが一番最後に書いてるけど
09:00
スーパーの息子っていう小説が多分
作品としては一番最後に書いてて
それが22年の去年の夏に
もううーんって言いながら書いてたんですけど
だからそうすると最初のが19年の2月
だから
最近暗算できないんですよね
3年半ぐらい間が空いてるから
やっぱりまあ置かれて
それこそ僕の置かれてる環境も違うし
社会のコロナ前後っていうのもあるし
ものすごくいろいろ環境変わってるので
だから結構そういう意味でも
本人は同じ人間のつもりでいても
書いてることとか書きっぷりとかも違うし
考えてることも違うし
そうなんです
というのがありますね
そうなんですよね
そうだからこの
食取式の書店だと購入特典で
裏返せた袋入れさなきゃいけないという
商品がおまけで冊子がついてきますが
なんか本当に
ここにもそういうことが書かれてるというか
本屋に行くの連続エッセイのシリーズの最初が
共同開発されたうどんめぐってっていう
これがとても面白くて
何がいいというか
書籍版になった後の
それこそこの4年後の補足
この部分まで含めて完璧に
すごいおかしさを醸し出していて
これね確か僕とか
ハンモトのハブの松井さんも
今これがこうなってるっていうことを
よく知らなくて
検索して調べたわけじゃなかったんですよ
そしたら構成者から
なるほど
指摘が入って鉛筆が書いてあって
発車会はこうですって書いてあった時に
なんか直すのは変なので
じゃあまあこれは後ろに細く打たなくて
すごいそのプロセスもいいですね
確かに直すわけにはいかないですよね
直すと何のことだか
ちょっとよくわかんなくなるし
書いた当時は実際そうだったから
じゃあって言って
この発表年月をここに入れようとか
あと今はこうだよって書いてやると
またこれもじんわりなんかが
そうなんですよ
本の形になっても
ここにそれぞれのテキストの末尾に
掲載の月が
年と月が書いてあるっていうのが
なんかこの本に関してはものすごい聞いていて
12:02
なんかそれこそその
本屋に行くっていう羽生さしで
今も続いている連載のテキストが
一つ中心にというか置かれているんですけど
途中でその本屋に行かないっていう
タイトルのエッセイが入るんですけど
この本屋に行かないの次が
コロナ禍に入っていくというか
この本屋に行かないが
ちょうどその2020年3月なので
ちょうどどうなるかなっていう状況のところで
次が6月っていう
この本屋に行かないっていう
手を封じた状態で本屋に行けない状態で
外にしてしまうんだっていう
ここのその連載ならではの
ルール感みたいなのがすごいこう
やっちゃったなーって思いました
次多分これがそうですよねだから
行かないっていうのを書いたのが
1月末ぐらいに多分書いてて
実際その時行かないっていうやつを
年末から頃見てたので
行ってなかったんだけど
次が5月でもうここは
コロナがもう
今ちょっともう記憶が徐々に薄らいできてるけど
あの時は本当にお店が
普通に店が全部シャットダウンしてたときも
しばらくあって
だからどうしたのかなっていうね
まあ本当に
だからなんだろうな
本屋に行くっていうエッセイは
とりあえず本屋にさ行けばいいと
その本屋に行くことで
色々と思考が脱線していく様を
エッセイにしているというものがあって
そこのそれぞれの本屋に行くの連載の合間合間に
各媒体で書いていた
エッセイであったりっていうのを
差し挟まれているっていう
エッセイが分量としてはかなり
大半を占めている
作品になっているんですけど
なんだろうな
僕この
エッセイ小説集って1じゃないですか
2がきっといつか出るわけですけれども
なんか2は
ジバジバと小説の
塩梅が増えていったら嬉しいなって
思ったんですよ読んでいて
松指に2編小説が入っているんですけど
15:02
この2編が大変面白くて
なんか
なんでしょう
経済史でも私の望遠鏡時代について読んでいたんですけど
全然読めてなかったなって
改めてこの流れで読むと
思って
なんていうのかな
この前も和歌書文庫さんと宮崎智之さんと
随筆会話教室というイベントで
随筆とはなんぞやみたいな話を
していたからというのもあるんですけど
やっぱりこの本の大半を占めているこのエッセイと
松指を飾る最後の2編小説というものとは
やっぱり全然違うものなんですよね
全然違うものなんですけど
なんていうのかな
友達さんとしての方法論というかスタンスだったり
眼差しみたいなものは
あんまり違わないようにも見えて
あれこれは一体何が
何がどこでここがジャンプするんだろうみたいなところが
結構不思議で
なんか
それが
この題材だからこそより一層こう
面白かったし
僕はそのエッセイパートでトリデーショーっていう
キャラクターが出てくることが何度もあるんです
出てくる度に大はしゃぎしてたんですけど
あれはだからある意味もそこでちょっと
嘘になっているというか
フィクションパートに入っていく
小説地味ってくるはずなんですけど
これはやっぱりでもエッセイの範疇になっている
っていう
なんかこのエッセイと小説のある意味境目をこう
割と行き来するというか
ような作りになっている本でもあるっていう
確かにそうですよね
すごいこう読んでいて
ちょうどそのツイスト・カイドル・プロセスのことを
考えたからっていうのもあるんですけど
ツイスト・小説
どこでどうジャンプするんだろうみたいなことを
すごいこう考えながら読んでいました
これなんかやっぱ
なんていうんだろう
ちょっとよく分かんないっていうのは
小説書いている時は
よし小説書くぞと思って書いているんですよね
エッセイの方書いている時は
これはエッセイと思って書いていて
だけどエッセイ書きながら
多分だからこの取りでしょうっていうのが
最近あんまりもう出てこないんですよ
そうですね
ちょっと寂しいんですよ
最初の何回かの本屋に
一番最初は出てこないのかな
一番最初は私自身が結構妄想する感じで書いていて
次その先の何編かで取りでしょうが
18:03
頻繁に出てくるんですけど
多分こういうふうな妄想したり脱線したり
取りでしょうっていうのを出したりすることで
小説にもうちょっと近づけていけるんじゃないかっていうのを
この頃は考えながらいろいろ実験してたんじゃないかと思って
かといって小説を書こうっていう感じでもなく
この時は書いてるから
なんていうのかな
塩梅がちょうどよかったっていうか
取りでしょうの物語を別に書く必要には迫られずに
取りでしょうをそこに挟んでいくっていうことをやって
程よく気軽っていうか
嘘の話にしか見えないわけじゃないですか
取りでしょうがって言ってまたこの嘘が始まったなっていうので
みんな書く方も読む方も嘘を了解した上で読めるから
気楽にここは書けたんですよね
それが非常にうまくいったパターンで
取りでしょうって超陽キャラっていうか
そうですね
私が書くものの中に登場する存在の中で
純度を最大限陽キャ純度を上げたものが取りでしょう
なるほど
なわけですよ
だから実際の観察でもこんな人はあんまり出てこないんですけど
妄想の中では出てくる人で
だからそういうのがこうやったら
肩の力を抜いて書けるなっていうのは
逆に後ろの小説はエッセイってそんなに書くの苦しくなくて
書けるなと思ったらサッサッサッサッって
実際書くときはサッサッサッサッって書いて
もちろん遂行はしてるけど
概ね書くのにそんな苦しんだりとかはもちろんなくて
アイデア1個あればサッサッサッって書けちゃうんですけど
小説は結構なんかもうしんどいんですよね書くの
そうなんですね
結構苦しんで
だからそれは肩の力が入ってるからだったので
あんまり肩の力を入れずに
エッセイだと思って書けばいいのにっていうようなこともあって
でもさっき沖内さんが
私の応援協時代は読み返したらすごい良かったって言っていただいて
すごい嬉しいんですけど
21:00
僕もこれ下段になった段階で読み返したら
いやーこれはよくできてるなって自我に伝わる
すごいよくできてますよね
なんか多分当時これは2020年の4月だけど
書いたのは19年の秋に書いてあるんだと思うんですけど
多分当時いろいろ読んで
なんかこう吸収してたものを
ちゃんとこの中にいろんなものをちゃんと入れてるっていうか
ここにこれあれ入れてる
工夫して入れたなっていうのが自分でも気づく
それがいいかどうかわからないですけど
でもとにかくいろいろやれることを
自分で入れようと工夫してるなっていうのがあって
この時しか書けなかったんだろうな
今だとこういう風に書けないなっていうのもあります
なるほど
でも本当に僕
前もお話ししたかもしれないというか
いろんなところで報道で言ってるんですけど
あんまり小説読めなくて
古人読む生活みたいなことをやってるくせに
逆にいうと失われた時を求めて以外
まともにあまり小説を読んでないみたいなところがあるので
どっちでなんていうのかな
やっぱりエッセイとかの方が
エッセイとか秘書の方が好きというか
秘書を読むために我慢して小説を読むとかちょっとあるんですよ
美術館とかでも絵よりもキャプションの方が面白かったら
キャプションでいいじゃんみたいなところがあって
面白い説明の方が
説明されてるものより面白いみたいな感覚がどうしてもあって
エッセイって割と説明な気がしていてそういう意味だと
だからある意味絵なしでキャプションだけ楽しめるみたいなところで
結構読むんですけど
小説はだからあんまりいまだに楽しみ方が
ようわからんみたいなことになりがちなんですけど
私のお勉強時代はすごいこう
なんだろう
自分で説明したくなってくるというか
ようなところも含めて
小説を読んだなっていう気持ちになったのが
結構個人的に嬉しかったんですよね
こういうのだったら読めるみたいな気持ちになった
私のお勉強時代の話をすると
すごい集大成感がありますよね
15ページくらいかな
すごい短い小説なんですけど
確かにねそんな長くない
作家どもだとしてのこれまでの仕事の要素が
ちょっと全部のせみたいな贅沢な作品でもあって
24:00
なんかその
百年の孤独を代わりに読むのような要素もあるし
パリカツのような部分もあるし
何よりここまで書かれてきた
それぞれのエッセイの中で蓄積されてきたものも感じられるし
っていうところで非常にね
これまでの活動がこういうふうに凝縮されて
一個のマテリアルというか
ものとしてドンと出てくるっていうのが小説の良さなんだというか
一個一個の説明じゃなくて
複数の説明がそのままギュッとなっている
すごい贅沢なものなんだな小説っていうのを
改めてすごい感じたんですよね
なるほど確かに
ちょっと違うかもしれないけど
プログラミングした時に
プログラミングのコードじゃなくて
コンパイルして実行ファイルみたいになるじゃないですか
そうすると文量としてはギュッとなっていて
何か投げかけたら答えがポンと返ってくる
ただの実行ファイルになるんだけど
だから意味とかはそれを除いてもあんまりよくわかんない
ソースコードをちゃんと見た方が色々わかるんだけど
でもギュッと中にちゃんと何でも入っているみたいな
もしかして小説っていうのは
いやそうかもしれないです
僕は普段はソースコードを読んでいる方が楽しいじゃんって思いがちだけど
ギュッとなっている方がある意味いろんな使い方ができるというか
そこから次に行けるじゃんっていう感じがあるのかなっていう
なるほどそうか
そうですねさっきのエッセイとか批評と小説の関係で言うと
実行ファイルを実行形式のものを見て
ソースコードを逆向きに書くみたいなことを
批評とかは場合によってはしてたりするのかなっていう感じがしました
いやそうだよ私の勉強時代とスーパーの息子
すごい
これはすごい
それこそこれをまとめてちゃんとテキストというか
自分なりにソースコードに迫っていくようなものを書いた方がいいかもなぐらいに
ちょっと今思ってたんですけど
すごいよくてちょっと一個だけ言うとすると
私の勉強時代に関しては
これはもしかしたら次の話題につながるかもしれないんですが
ちょっと早いのでもしかすると一回迂回するかもしれないんですけど
やっぱり友田さんの作家性というか一つの得意性として
27:08
ない否定権の何々しないが
すごいついて回る感じがある
それはそのないで打ち消すんだけど
ないで打ち消すってことは打ち消されるものに関しては
一回読んだが終わって浮かんじゃうので
打ち消しきれないで残像が残っていくっていう
なんかその残像の扱いが常に巧みだなっていう風に感じていて
この小説の話になると末尾の方になってきちゃうから
ネタバレをしないように話すと
パリカツのタイトルもまだ歩き出さないとか
読めないとか
これ多分この前増えていくらでも話してたのかな
もうないは3ではないですみたいなことを言ってたんだけど
なんかその歩き出さないって言ってる時には
歩き出してる様をやっぱりこっちはイメージしているし
そもそも葛藤するっていうタイトルだから
葛藤してるんだっていうのがあるんだけど
それを打ち消される
だけど打ち消しきれないから何かが残っているとか
そういう代わりに
百年のことを代わりに読むに関しても
代わりには読めないって言うんですよ
だけど読めないって言ってる時には
確かにそこに代わりに読む像が読者の中には
一瞬でも可能性として残されてしまう
みたいなものが常々ある感じがあって
でこの私の音響時代もスーパーの息子も
両方そういう残像というか空白部分に
何かを読み取ってしまうみたいなものが
すごい意識的に書かれている感じがあって
なんかこれはすごい
それこそなんか評論時見てくるというか
友達にとってのこのないという
不在というものについてみたいな
テーマで全然書けそうなんですよ
本当言われると
なんかね最近は結構意識があるんですよね
この音響時代書いた時は
そこまでそういう意識があったかどうか
ちょっと定かではないんですけど
最近はそれこそ
やってる半元の代わりに読む人の
モットーとかもお菓子屋で世界を少しだけ広げる
あれは空洞みたいなものをどうやって作るか
みたいなことを考えてたりするから
なんか意識をしてて
スーパーの息子もなんかよくわからない
区画の中に謎の空いた空間があって
そこに位置が立ってるみたいな
場所の話なんですよね
でもまぁある種意図的に
そういう空洞を作ってみて
何が起きるかっていうのを書いてみようと思って書いてるんだけど
30:05
なんでしょうね
なんでしょうね
スーパーの息子に醸し出される
クライマックスに醸し出されるおかしみとかも含めて
基本的にないなんですよね
そうだと思ってたけどそうじゃなかったとか
ここにあるはずのものがなかったみたいな
そういうスコーンと抜けていく感覚があって
前提部分がスコーンとなかったってなった時に
それこそおかしさを感じるっていう感覚があって
だからそのようにスーパーの息子は今もおっしゃっていただいてましたけど
自覚的にその苦難というか否定されて後に残ってしまうものみたいなものを
ぎゅっと濃縮して反復していくような作品になっていて
それもやっぱり
多分エッセイの方もそういう要素で読んでいくと
また全然変わってくるんだろうなっていう感覚を得たんですよね
2編しかないし
その分量としても本当に最後のところに入ってるんですけど
すごいそこの濃密さとか今後に広がって
作品の体系だったり作家の思想みたいなものに対して迫っていけそうな気配が
すごいあった2編でしたね
自分ではあんまりよくわかってないけど
言われたら確かにそういうのを好んで書いてきてるなっていうのは
この間本屋ライトハウスの関口さんが
この本をお店で読書会を開いてくださって
それを後から音源があったんで聞いたんですけど
最後に何か探してるものとか求めてたものが
最後ないっていうのが
分かってるんだけどつい読んじゃうみたいなことを
ある種オチがあるとすればオチはもう分かってるんだけど
何か読んでるんだっていう
そこでもやっぱりないのはもう手に入らないのは分かって
フレンチトーストが何回来てもないのは読んでくうちに分かってくるわけで
毎回ないんだけどっていうので
分かってるけど何か読んでるんだって言ってたし
それは何か言われてみれば
ある種のまんねりだと思うんだけど
33:00
何かちょっとそれに取り憑かれてるっていうか
そういうところに面白さを僕は感じてるっていうことだと
このスーパーの息子に関しては
去年の夏休み8月ぐらいに書いたんですけど
元はハブの松井さんと約束したのは
それより1年ぐらい前から1本は書き下ろしの小説を書きますって言ってて
いろいろやってたんだけどなかなか書けなくて
あるものがなくせないっていう話を最初書いてたんですよね
何か知らないんだけど何をやってもあるものが
うまくなくせないっていうのを
ある種滑稽さんみたいな話を書こうと思って書いてたんだけど
それはもう全然面白くならなくて
それを捨てて最後これにしたら書けたんですよね
なるほど
面白いですね
このあとがけにもありますけど
最初のブログはおかしなことの見つけ方っていうタイトルでされているけれども
実は見つけてるものがないものみたいなね
面白いなと
あとがけも体重が落ちた話ですからね
無くなる話
無くなるとか無いっていう話
これも後から何とでも僕も言えるんで
その時の心境とは違うかもしれないんだけど
何かがないとか空洞があるとかっていうこと自体が
なんなかったらそれもないんですよね
そうなんですよね
小説のスーパーの息子の話というと
街の中に空洞が空いてるっていうのが
人間が現れる前からそこに空洞があるわけじゃないので
まず区画があって区画の中に何かをあえて残してたり
あったものがなくならない空洞にならないから
そこは要するに意識しないと
ないっていうのは意識しないと気づかないんだけど
ないっていうもの自体がある種人為的なもの
36:04
忘れやすいけどそういうのに目を向けようとしているのかな
ありますね
面白いですね
僕はすごいこの本屋に行くの最初の方に
鳥出翔がたくさん活躍して出てくるのが
割と楽しくて好きなんですけど
今この話しながら思ったのは
鳥出翔はその上でちゃんと何かあるものを探しに行く探偵役だったんだなっていう風に感じて
それもさっきもちょっと陽キャっぽすぎるとこが前面に出してるって言ってましたけど
それで確かに鳥出翔はあるを探しに行くための
人物としても読めそうだなっていうのを今感じました
そうですね
確かに
そうそうそう
なんかやっぱり
それで言うとこれもちょっとこいづけになっちゃうけど
もともと僕が研究してた数学で
何かがないっていうことはいくらでも証明できるんですよ
もしそれが事実だったら
あるって仮定して考えていくとこんな矛盾が生じるから
それはないってことだよって証明
配理法でできるからないは証明できるんだけど
あるっていうことを証明するのが一番難しくて
なるほど
あるっていうのは実際にこういう式を書いて
この式はこれ性質を満たしてるから
こういう性質を持つ式はあるでしょって作らないとわからないんですよ
なるほど
だからそれを言おうと思うと論理でこうだからこうだからっていうのを
実続きで証明していくとないしか絶対言えない
あるって言おうと思ったらジャンプして飛躍したところ
なんでこれ思いついたんですかって言われて
もうちょっとよくわかんないんだけど
こういう式書いてみたらこれがそうだってことがわかった
みたいなことを言わなきゃいけないんで
そういう意味でいうと取手証っていうのは突然現れて
なんかよくわかんないんだけど
どっから出てきたんだかよくわかんないものを
急にボンボンボン出し始めて
確かにそれでもいいねみたいなことを言うから
なるほど
確かにあるっていうのを言うために取手証が出てくるっていうのは
なんかわかりますね
構成的に何役割を果たしてる
でもそれ今の面白いですね
なんかそのエッセイを見直してて
友田さんの書く文章って
飛躍にあふれているようで
あんまり堅実なんですよ
さっきそのオチがわかりきっているみたいなことを
おっしゃってましたけど
もうある意味3行ぐらい読むともう結論が見えてる
39:00
ですけどそこをすごい丁寧に
本当にそれはないんだっていうのを説得するために
ものすごい積み上げていくんですよね
だから最初からないことわかっているはずなのに
あまりに丁寧に論理を組み立てていって
最終的にそれを全部ひっくり返すから
コードが楽さが全然
読み始めと違うところにまで持っていかれて
もしかしたらあるかもしれないで
積み重ねていった結果
最初からこっちはないってわかってるのに
それを丁寧に積み重ねられていくのを
ハラハラと見守っていたら
最終的にやっぱりなかったって思えるっていう
そこは今お話しされてた数学の証明の感じと
ちょっと似てる
似通う部分もあるのかしらっていうのは
ちょっと感じますね
あるんでしょうね
やっぱり自分の中の心地いいっていうか
自然な感じっていうのが
たぶんある時期に
身体に染み込ませた
頭の使い方っていうのが
出てきているのかなと思いますね
いやー面白いな
そうなんですよ
でもこのトリレーショーが
厳密に言うとちょっと違うんですけど
あえて少し強引に言うならば
出てくるのか
一旦ちょっとその登場頻度だったり
影が薄くなっていくきっかけが
個人的にはこの
真ん中らへんの古い吉吉をドトールで読むっていう
ここからな感じがあって
ちょうどこれの前に
1個
本屋一句の連載対決で
いつだって私にはドトールがあったっていう
ドトールの話が入ってくるんですけど
なんかドトールって
すごいんだなってこれを読んで思う
そのドトールに具体的にいる人間たちが
トリレーショーにとって変われるだけの強度を
持ち始めたのがここだった感じがあったんですよ
なんかその後々競馬の話したりする時も
そば屋のおばちゃんに声かけられたりするじゃないですか
ちょっとその本屋へ行きながら
本屋以外でのコミュニケーションの回路が
外部の取り入れ方が徐々に開かれていくというか
妄想の中のトリレーショーが動き回るんじゃなくて
書き手の友達さんが
ちゃんと本屋以外のところも歩いて
何かそこから拾ってくるみたいな
モードにちょっと切り替わっていく感じがあって
それもだからやっぱり連載で読んでる時は
なんか今日は今回出なかったなぁ
トリレーショーみたいな気持ちになってたんですけど
当時で読んでいくと
そうかドトールがあったからだみたいな感覚になって
そう言われてみると確かにそんな感じ
確かにね
42:00
確かに最初の方とかはあんまり他人が出てこないっていうか
自分が見てあと考えて書くっていうことの方が多分多くて
そうですねしばらくはそんな感じ
確かに人と会話してるのが
このトリレーショーが出てくる妄想パートっていうか
フィクションの部分でしか出てこない
それか2個目の連載の2回目とかだと
一応パンケーキ屋さんに行ってやり取りはしてるんですけど
どちらかというと仮説の検証のためのやり取りみたいな形で
ポンと向こうから何か降ってくるみたいな
ではまたちょっと違うのかなみたいなのを
通しで読んでいくとすごいあれこれと考えて
作品集として1作目なんですけど
すごいだから今だと全作品をモーラ的に見れるという意味で言うと
これを読むだけですごいあれこれと
小野さんの方向論だったり考えのどんなところに関心があってみたいなところとかを
すごいあれこれと深読みしたくなるような本にもなっていて
作品集としての良さがすごいあるなと思います
全然あんまり深く意識してないから
毎回ほんと一個一個のやつを精一杯書いて出すので精一杯で
あんまり自分の変化
ただ気持ちの変化があるっていうのはそれは自分でも思ってて
前だとエッセイ書いてるとここで鳥で来るなって来るんです
来たなと思ってさささっと喋らせるとそれでちょっとうまく話がちょっとずれて
続きがかけたりとかしたんだけどある時以降はあんまりここで鳥でだなってならないんですよね
だから出したいしあと結構トリデーショーが出るの楽しみにしてますっていう声を
感想が結構いただくことがあっていつも思ってはいるんですけど
来ないなっていう感じだったので
逆に実際の私が出会ってる人がその代わりに前より出てきてるのかもって言われれば
そっかっていう感じですね
それはそれでもいいかも
だってこの付録を探すっていうのが多分その後の次かな
これとかもある意味トリデーショーがそれまでやっていた何かを探すっていうことを
偶然に合わせたおじいさんが代わりにやってるというのもありますしね
45:06
確かにすごい読み解きですね
いやもう本当にこういう
でもこの本に関してはこういう説明というかよりも絶対に読んだ方が面白い本ってあるので
ぜひ読んでください
ぜひ読んでいただきたいですね
近くの本屋さんかあるいは公共の図書館に買ってくれって言ってもらって
いや本当になんかそう今僕がそういうのが好きなので
なんかちょっとこう真面目にというかあれこれといろいろ理屈を通そうという読み方を今いろいろしてましたけど
単純に本当に最初にも言ったように
気楽にも読めるものでもあるので
そこがやっぱりすごいいいなというか
結構僕もその今月1ヶ月で2冊出したので結構疲れちゃってたんですよ
だからもう何も読めないなと思ってたんですけど
これは読めるんですよ
それはもしかしたら飛躍が少ないからでもあるなというか
堅実に一個一個積み重なっていくからこそ読める
この段落の意味がわかるこの段落の意味がわかるという風に読んでいけて
読み終わった時にはその全部わかってたはずの意味が全部どうでもよくなるというのが繰り返されるので
すごい気持ちよかったんですよね
だからあんまり今最近読めてないなっていう時にもこれを読んでいくと
割となんかそれこそ肩こりが直るじゃないけど
なんか本の読めてなさがちょっと流れていく感じもあるし
だからこそ最後にある小説を面白く読めたかもというか
読む体制がこっちにできて最後いけたんじゃないかみたいなこともちょっと感じたりしたので
確かにね読書とかでも読めなくなっている時に読めるようになるために読む本みたいな
ありますよね
それぞれの人に多分この本を読めば読めなくなったのが一旦ちょっと解消されて
その次読む本が読めるようになるみたいなのもありますよね
そういう本の一冊になるんじゃないかと
それはめちゃめちゃ嬉しいですね
中身が良いとかっていう以外に読むと読めるっていうかなってるっていうのが嬉しいですね
本来しかもなんか本当は今日は一応なるべく内容に触れないようにというか
これから読む人にどう思って格論に入らないように気をつけてはいるんですけど
でも別にネタバレとかあんまりないというか
48:02
なんじゃそりゃっていう話でもある話だと思うので
だからこそある意味再読にも頼るというか
何度でも読み返して面白がれる本でもあるなと思うので
ぜひねまだ今お持ちでない方お読みでない方は
ぜひ確認していただけたらなと思っています
で今どのくらいだ?
あもう結構いい感じですけど
まあちょっと構わずいきますが
今日友田さんとお話しするときなんせその時の話をしたいですっていうのと
一緒にトン座について話したいですということをお話ししていて
これはさっきまでの話とちょっと通じるところがあるというか
その作家としては友田トンの一つの特徴というかとして
ないがあるんだとすると
その作品になっていないものもしくは発表されていないものっていうのも
なんか割と重要なんじゃないかというか
ないに対するスタンスっていうものについて
いろいろ聞いてみたいと思ったときに
作品論に入ってもいいけど
それより前に友田さんがこれまで作っていると公言しつつ
今まだ出ていないものであったり
一旦中断しているものみたいなものに対して
いろいろ聞いてみたら面白いんじゃないかなっていう風に
仮説を立てている
メールいただいたときに
見越しのものとか
駅の水漏れ対策の写真集とか
あとはそれこそこの前の試行錯誤というメールマガジンも
今一旦中断という形になっていたりもするんですけど
その発表したからといって
ある意味それこそご自分でやられているからなんですけど
出さなくてもいいというか
一度引っ込めたり寝かすということに対して
わりと自覚的にやられる
もちろん最初は出す気ではあると思うんですけど
途中で辞めることに対して
あんまり抵抗がないというより
途中で辞める勇敢さがちゃんとある感じがあって
そのあたりどういう
本人としてはただ毎回悔しくてたまらないのか
わりとそこは止めておけばなんとかなるだろうなとか
どういうスタンスなのかなというのをお伺いしたい
多分
自分が個人でやっている話と
人を巻き込んでやっていることとは
ちょっと僕の中でもスタンスが違うと思っていて
人とやり始めたやつは
51:01
途中でっていうのは結構考えて
メルマガに関して言うと
最初は月1ぐらいなら行けるだろうと思ってやってたんだけど
全然行けないっていうのが分かって
全然行けないけど
でも無理してやるかどうかというときに
無理してやられるものよりも
一旦やめた方がみんな嬉しいんだったら
やめたらいいんじゃないかというので
もっと違うやり方
雑誌の代わりに読む人以上に
試行錯誤をもっといろいろ実験したり
不完全に出していけるような場所を作ってみようと
やり始めたっていう趣旨がある
目的があるから目的に照らして
月々に追われてやることで
出せるは出せるかもしれないけど
そうやって試行錯誤してるのかというときに
なってないんだったらごめんなさいと言って
一旦どこかで止めて
仕切り直した方がいいんじゃないかと考えました
そっちに関して言うと
ちょっと後ろめたさというか
続ければ失うものがないかというと
続ければ続けるほど失うものがあるので
考えたときに
一回仕切り直しをしようと
相談をして止めたという
ただそれも
そこまで深刻に考えなくても
ということもあると思うから
深刻に考えすぎなところもあって
というのはありますね
あれはでも最初に始めるときに
エクスキューズがいっぱい書いてある
メルマガの募集の告知の
約束事項みたいなところに
連載は休むこともあるとか
状況によってやめるかもしれないとか
いっぱい書いてあるんですよね
あれは不安の現れでもあるんだけど
それで納得できる人だけが
後続してくれればいいという姿勢で
やめることもあるよという前提でやったから
それは一応いいかなと思って
人とやるという場合に
特に場所を作っている場合は
やると思っていたら
急に存在しなくなるとか
それは迷惑なことだったとか
自分でやっているだけのやつ
マイプロジェクト的なやつは
54:10
確かに三越は撮らないという
ふるさとの三越お祭りを撮る
加工とか
読みと肩こりが治る小説の話
地下鉄の漏水対策の話
全部どれもやりたいなと思っているんだけど
体が一つあったというのと
自分の中での盛り上がりみたいなのが
何かの表紙にワーッと盛り上がって
ちょっと進むかもしれないけど
まとめ上げるところまでは
本当の内緒のプロジェクトはないです
あんまりないような気がする
だいたいは表に
味噌汁の飲める店はやりたい
実現する見通しは全くないけど
言っているし
だいたい何でも言っているから
言ってはいるんですよね
真面目に根を詰めてやればできるタイプの仕事と
そうでない仕事があって
肩こりが治る小説とかも
一気に進む要素みたいなのが
飛び込んできたり
見つけた瞬間はダーッと進められるんだけど
家でずっと
例えば3ヶ月間考え続けたから
答えがわかるとか
そうすると
研究テーマとしては持っておいて
進んだ時に
たたたって進めるみたいな感じで
置いてある感じが
面白いですね
講演するタイミングというか
講演することへの
ハードルの間隔の違いが
自分の中での不思議だったのかな
僕は講演するときは
およそ出来上がりが見えたときに
言うけども
そこは特にまだ見通したくなくても
ひとまずはこういうのを作る
言っておいて
それ次第みたいな
57:00
感覚なのかなって
聞きました
カタゴリが直る小説とかも
あれ自体がオープンプログラム
だから別に
誰が解いてもいいんです
どういう解き方で解いたっていいから
僕は自分でも考えてるけど
あれはある種
問い自体が面白い
解かなくても問い自体が面白いから
そういう意味ではこういう問いがある
なるほど
アイディアとして
講演はするけども
自分のアイディアだぞという囲い込みというよりは
こんな問いを見つけましたみたいな
取り掛かりましょうみたいな感覚がある
僕なりの面白い解き方を考えようという
なんならそれでやっぱり
笑わせたいみたいな気持ちもあるけど
全然違うアプローチの解き方も
あり得ると思うから
それはむしろそういうのが来たら面白いと思って
オープン
なるほど
代わりに読むときも言ってましたもんね
次何代わりに読むんですかってよく言われていたときに
これはオープンソースだからみんな勝手に使って代わりに
おのおで読んでくださいっていうことを
答えるようにしてるみたいな話を前されてて
すごいそれが印象に残ってるんですけど
面白い
それもやっぱり数学の研究通じるところがあると思うんです
数学のやっぱりこういう課題があるとか
こういう分かってない問題があるっていう
問題を提示するっていう仕事と
それをどうやって解くかとか
解き方の理論作るみたいな仕事とどっちもあって
やっぱりいい問題は
共有されてった方がいい
面白いなるほど
そうかそうですよね
面白いななるほどな
それでいくとやっぱり今回の本のタイトルが
ナンセンスの問いなことも
よかったですよね
結果的に最初これどうしようか
って話になって本屋に行くっていうのになる
可能性も多分あったと思うんですけど
本屋に行くって言って
本屋には行ってるけどなっていう
のばかりが入ってるから
本屋に行くんじゃないかもしれないなと思って
それでナンセンスな問いにしたら
松井さんと相談して
検索したら
柿内さんと一緒に対談した
ページがナンセンスな問いで
Googleで検索するとその当時
1:00:01
すでに一番上に出てくるみたいな話になって
じゃあなんかいいかもしれないですね
あんまり手垢がついてない
単語の組み合わせなんじゃないかとか
そうか確かにあの時のトークのタイトル
ナンセンスな問いを真剣に
考え続けるみたいなタイトルでしたよね
そうかそうか
なるほどな
面白いですね
今もあの頃の
会社の哲学の実践で
仲間の一人だと思って話してる
あのトークイベントのアーカイブ販売ページが
今もこの本を気になってる方にうっかり届くかもしれない
届くかもしれない
それこそ注釈入れたいですね
2022年現在友田さんは会社員ではありません
本当ね
そうですよね
でもあの時はまだ
辞めるって決まってないんですかね
5月だったらね
辞めるって決めたのたぶん9月ぐらい
8月それとか
もちろん辞めたいっていうのは
何十年も前から辞めたことなんですけど
本当に辞めるかって言われた時には
まだちょっとっていう感じだった
面白いな
でもなんか色々と
勝手に踏み落ちたり
納得するところも多いお話ですね
今日
何でしょうね
なんかでもね
僕がやり始めたの途中で
中断してるとか辞めてるとかっていうのは
辞めてる話とかも結構
辞めてる話って
何だっけ
名前が出てこなくなっちゃった
テリー・ギリアンが
ドン・キホーテの映画を撮ろうとして
なんか色々災難に見舞われて
頓挫する映画があるんですよ
頓挫するドキュメンタリー
ロスト・イン・ラマンチャー
あれがもう20年以上前の映画なんですけど
最近
ちゃんと映画が完成して
公開されたからやっと完成したんですけど
ああいう映画とか
好きなんですよね
そもそも普段から頓挫するっていう
のが
好きかもしれない
それこそドン・キホーテのように
1:03:01
ちょっと無謀な問いを立てて
その問いがずっと
取り掛かり方も分からないまま
ドンとある感じっていうのが好き
好きなんだと思うんですよ
一般には何かが中断してるとか
達成できないっていうのを
基本はネガティブに捉える
だけど捉え方の問題で
むしろそれがいいみたいな
ふうに捉えてる嫌いが
どこかにある
まだこの問いは残されている
ある種
うまくいってないのが喜劇的になるような
展開を好んでる
なるほどな
面白いですね
面白いな
本当にそのスタンスのまま
ある意味このエッセイも小説も書かれて
いるようなところがあって
それとはいえちゃんと完成形の本として
一冊にまとまっているっていうのが
改めてグッとくる話ですね
ねえでもちょっと
自分で読んでても
ちょっとアホなのかなと
思うときも
ありますけどね
前もこれはお話したんですけど
文章って基本的に
大真面目であることのおかしさ
なんですよね
ある意味こっちも付き合っていくらでも
大真面目に読めるものでもあって
何やねんで笑い飛ばすことも許されているけれども
そのナンセンスな問いに対して
自分も同じくらいの真面目さで取り組もうとしたときに
結構いろいろ突破されるものとか
感じがして
そこがすごい最初からずっと言っている
いろんな読み方ができる部分なのかな
という感じがするので
問いというタイトルがされているからには
それを一つの受け止めて
こちらも真面目にそれに取り組んでみる
みたいなのがあると
面白そうですよね
真面目なんですよね
だから僕自身が
良くも悪くも
1:06:00
ということなんですけど
真面目に
こういう取りに足らないことを
突き詰めて考えるっていうのが
面白いときがあるから
それはそれで
そのときはいい感じで
でもなんかね
真面目でも嫌になっちゃうなっていうときもあります
自分が真面目で
ちょっと変な言い方だけど
真面目だっていうことの方が
非常に不真面目なときがあるんですよ
そうですね
真面目だからいいでしょみたいな風に
ある種それは堕落をしていて
しかも
うまく議論ができないんだけど
ダメになっていくっていうのも
別に真面目にやってなくても
ダメになっていく場合もあって
別にそれがいけないことでも全然ないんだけど
真面目にやった上に
それがダメっていうのが
全然良くないなって思うこともあるから
それって結構
僕なんかは
体全体に昭和が内面化されている部分もあるので
あんま良くないなって思うことなんです
しかも別に昔の人が
すごく真面目なわけでもないんですよ
昔の人が
昔の人が
すごく真面目なわけでもないんですよ
真面目神話みたいなのもあって
昭和のノスタルジーみたいなので
こんなにみんなコツコツ働いたみたいな
映画とかがあったりするじゃないですか
別にそれもある種のお話で
それが全部正しいことでもないし
だけど真面目なものがあるから
だから真面目も有効活用できればいいと思う
なんでどうでもいいことを
逆にここに真面目を全集中させて
逆にここに真面目を全集中させて
もっと普通のことは適当に
適当が良いと思いますよ
なんかすごいそうなんですよね
僕もどちらかというと真面目になってしまうので
僕もどちらかというと真面目になってしまうので
それこそこのポエティックの録音する前に
それこそこのポエティックの録音する前に
青木さんとのオムライスで友田さんがお話されている
ずっと電車の話をしているのを聞いて
このぐらいがいいんだよなと思いつつも
多分そうはできないなと思ったりしてたんですけど
でも真面目にいればいれほど
1:09:00
ある意味不真面目というか
かつてのお話を引き連れていくならば
不正立になってしまうのは
すごい実感としても思っていて
録るに足らないことこそちゃんと真面目に喋った方がいい
っていうのは多分
僕は勝手に友田さんと共有できるスタンスかな
僕は勝手に友田さんと共有できるスタンスかな
なので今日も真面目に話してはいるんですけど
別にその真面目さによって得られるもの何もない
という話しかしてないので
それがいいんじゃないかというか
変に実理があるような話を大真面目にしていくと
多分それはどこかで何かを裏切っていくことになっちゃうんですけど
むしろそうじゃないところで
真面目な話をして
ごまかさないで真面目で言い続けるというのは
ある意味一番アホくさいことでもあるから
それはすごい大事だよなというのも思いますね
また大真面目に捉えてしまうんですけどね
それこそさっき柿内さんが読み解いてくれたみたいに
それこそさっき柿内さんが読み解いてくれたみたいに
こんだけとるに足らないことを言ってるだけなのに
こんだけとるに足らないことを言ってるだけなのに
ある種の
僕の中に共通することとかが
浮き上がってくる
浮き上がってくる
だからずっと続けてやってれば
だからずっと続けてやってれば
いろいろ出てくるんだなっていう
だから一個一個
本当に真剣に何かをやるっていうよりは
ある決まったやり方で
ある決まったやり方で
ずっとこれを継続して考えたり
ずっとこれを継続して考えたり
ずっとこれを継続して考えたりしてるっていうのが
それこそある種の真面目だと思うんですよ
それこそある種の真面目だと思うんですよ
柿内さんの日記も
柿内さんの日記も
4年か5年ぐらい
4年か5年ぐらいから
5年近いですよね
最初はノート
休んだら100円、1000円みたいな
休んだら100円、1000円みたいな
ある種のルールの中でやり始めて
ある種のルールの中でやり始めて
でもこんなに続いてきて
きっと自身の変化が
きっと自身の変化が
あったんじゃないかと思うから
確かに毎日日記書いて公開するのもだいぶナンセンスですからね
確かに毎日日記書いて公開するのもだいぶナンセンスですからね
何やってんだみたいな
なんかでもあれやっぱすごいなと思って
僕は日記は書いてないから
1:12:02
しかもある種の一筆書き的に
柿内さんは書いてて
でもあれが柿内さんには
自分に合ってるっていうのに
そういうことはあるのかな
それこそ毎日書いてると
カッコつけられなくなってくというか
追考の時間も取れなくなってくので
メールマガジンの試行錯誤の話にちょっと絡めて言うと
福島俊さんの連載が
福島俊さんの連載が
結構カチッと批評の話を始めるんだけど
途中で1回倒れてしまって
しまうんでラフに書きますって言ってラフに書いて以降 割とそこからも多分締め切りの余裕がないのか結構ラフながら継続していくっていうのが
終盤後あったんですけど割とあるなんか 僕の日記と
あちこいところがあるというかなんか最初はカチッと完成度を目指してやろうと思っていた けど
もう無理だから 一筆書きにするしかないっていう風に多分諦めた瞬間がどっかにあって
だからなんか多分その若者さんと お話ししている時からずっと僕は日記は作品ではないんだっていうことを
なんか常々言って今もちょっとそれは思ってるんですけど理由としては多分その一筆書き だからというか
なんかある意味ラフスケッチとして日記書いている感じがあって でもなんかそれでいいやって思えたのが一番多かったのかなというか
毎日書くことがやっぱり一番大事なんじゃないかなって感じがするんです 旅する練習かな
のりしろゆうすけさんの小説の中でもそういうその散歩しながら
文字でスケッチしていくみたいなのが出てくるんですけど 僕は別に風景そんなに書かないけどなんかあれに近い感覚
毎回とりあえずこう終作として残しておいて 何かになったらいいし何にならなくてもいいみたいなものとして作ってる感じが
ありますね
さっきの伏見さんの話でいうと 確かに
であのなんかちょっと 締め切りに若干追われて
一記化性に書いているようなやつが逆にあれがすごい良いんだよなぁ いやそうなんですよ
ちょっと言い方が難しいんだけど ある種の
構築された建造物みたいな意味での良さとは違うと思うんだけど
リアルタイムに読んでその瞬間に本当に感じていることがそのままちゃんと
正直に書かれているみたいなと かっこつける時間がないわけですよね
みたいなところがあって 読んでる側からすると非常に近いところで読んでくれている感じが
1:15:08
伝わってくる感じは確かにあったかな と思いますね
でもそっか それでやっぱりそのこうさっきのエッセイと小説だと小説の方が書くのしんどいみたいな話もありましたけど
なんかそれも近いところがあるのかもしれないなと思って なんか小説の構築物やっぱりどうしても構築物だから
なんかある程度しっかりと作らないといけないみたいなのが ある意味とかなんかかっこつけることをしないといけないものとしてやっぱり
あるから それはしんどいよなというか
なんかねそうだから エッセイだったら
書くか書かないかによらずになんか事実らしきものがあるじゃないですか そうですね
だから別に書きたかったらそこ書いてもいいし 分かる範囲で書いておけばあとは細かく書くかどうか
そうですね書かなくても事実は一応ある まあその事実っていうのも怪しいんだけどまぁ一応でもなんとなくここは押して
押しても大丈夫っていうなんかこう輪郭があるんですけど 小説になるとそもそもこの
物理的な通りに建物があるかどうかとかっていうところからして 嘘かもしん嘘っていうか自分の中で勝手に作ってる話だから
そうなると なんか
ちょっと寄りかかる場所がないというか そうすると自分の中で
ある種ちょっと書きつける部分が必要になる時があるかもしれないですね
小説は足場からどう作るかとかどっから持っていくかから問われる感じがやっぱりあるので
そこに自分なりに必然性を持たせないとなかなか書けないような
それこそ去年小山田裕子さんが 代わりに読む人のトークイベントで話してくださった時も
本当のことを書いてるっていう 本当のことっていうところがポイントだと思うんですけど
何かしら自分が本当に経験したと思っていることを 書いてる
そうだよねっていうのは
そうですね
確かにそうですね
格内さんの 日記の話も
でもすごいことだなと思って
一方でエッセイ書いてる時でも 一筆書きみたいにサラサラって書けてここはいいなって思っているところは
ほとんどそのまま残ってたりもするから
逆にこねくり回してるところの方が何回でもこねくり回していつまでたってもいい感じにならなくて
1:18:04
スッと一筆で書いたところの方が直しもほとんどない
そもそもね推考とかって言っても ちょっとよくわかんないところもあるんですよ
エッセイとかって推考されますか?
結構ねあの
音読した時になんかリズムが悪いところとか直したりとか
あんまり説明とか順番とかはあんまり
ただちょっとね笑わせようとしてるから
笑わせるための順番みたいなのは文章の順番とか繋ぎ方みたいなのはあるので
むしろ僕先にメモみたいなのを書いて メモからエッセイを書くんで
僕はエッセイはほぼ日記の延長線上にあると思う 日記よりも真剣勝負だと思っているので
日記以上にエッセイを定めて書いたりする時は一筆書きなんですよ 基本的には
だからそこが途中で詰まってた時に十分に文量があったらそれで完成だし
文量がなかったらもう一回一から書き直すっていう
書き直しもだから全然違う話として書いて 一筆でどこまで行けるかっていうことをずっとこう
意識的にやっていって だから代わりに読む人の創刊準備号に書いたものも基本的に一筆書きで止まったところで
じゃあここでって言うのでお出ししたんですけど あれは嬉しかったのは田村さんからもう一声行けますよねって返ってきて
ある意味そこに継ぎ足していくような書き方を確かしたんですよね だからそれまでの流れはもう変えずにそこからもう一踏ん張りだけして先に進んでみようっていう書き方で書き継いだので
なんかその 普段の一筆書きで行けるところまで行くっていうのにプラスで
いやその一筆書きはもうちょっと先まで行けるって 焚きつけられたことを
大変失礼 でもそれはすごいだからなんか自分としては嬉しくて
なんか1回もう無理だって思ったところからもう1回行った方が変なとこまで行けるなっていうのもすごい手応えにもなったので
なんかそれ以降は1回一筆書きで書いて そこで止めちゃうけど止めてからもう1回書くでそこで止めたところが後で自分でも分かれるぐらいに変わっちゃってもいいから
もう一個であそこで書いていくみたいなことを ちょっとなんかあそこで覚えた感じがする
それはすごいだから感謝している なんかねあれをいただいた時に前半からもう面白くて
途中でポンポンって進んでいくところでもう一歩は行ける
要するに読者からすると次が何かわかんないんだけど これはまだ何か言い足りないところがあるんじゃないかと思って
1:21:07
それでもう一声お願いしますみたいな あれだから嬉しかったんですよ
それがそういうのがあるなと 日記はだから絶対そこで終わるんですけど
そんなもう一声行けるとこっていうのが面白かったです
なるほど
それやっぱだから書きなえさんは 1日にやっぱり毎日結構な量を書いてるから
なんかある種速度が出ている そうですね だと思うんですよ
だからこう 電車で言うと走ってる状態でずっと
これが1回ブレーキ踏んできちっと停止しているところからだとよっこいしょってなる 最初の車輪がグリってなると重いから走ってる状態だから
そうするとなんならこうやってこうパーって帰って捨ててもう一回パーって帰っても 速度が出てるから多分
でもそれすごい良いことだ 良い状態だなと思う
でもわかった今僕トンザの話を何で友田さんとしたかったのかっていうのが 今ようやくわかったんですけど
僕はだから今止まっちゃうと次の歩き出しが面倒くさそうすぎて怖いみたいなところもちょっとあるんですよ
友田さんの創作って外から見てると毎回よっこいしょから始めている感じがあって
どうやったらよっこいしょから始められますかというか どうやったら立ち止まってもまた歩き出せるみたいな風になるんだろうかみたいなことが
自分としては結構驚きと不思議なのかもしれないなって今思いました
よっこいしょは僕は別に知ってないんです
だからいくつかの問いをずっと頭のこの辺でぼやぼやぼやぼやずっとふら下げてあって
何かが来た時にひょっとしてこれをこの話に使えるんじゃないかっていうのは常駐してるからそれに来たときにずっと考えてて
見つけたらそれについてちょっと考えてアウトプットがあればちょこちょこっとメモとか整理したものが書かれて
またこの辺ずっと常駐してるんです
なるほど面白いですね
肩こりのやつとかも多分普通の人が旗から見てると言ってるだけで何も多分してるようには見えてないと思うんですけど
ノートとかにあと思ったらその日に肩こりの話でこんな話を見たとかこういう風に考えれば
肩こりが治るんじゃないかとかいうメモがいっぱい取ってあって
あと iphone のメモも肩こりとかって書いてメモが取ってあったりして
だからちょっとずつ進んでるんですよね
1:24:02
面白いですねそうか
やりたい気持ちさえなくならなければ常にずっと常駐って
動いてはいる
逆にやりたい気持ちがなくなったらそれはもう別にやらなくていい話だから
逆に忘れてるようなので急にまた常駐に戻るものもあると思うんですよ
飛び込んできたものがこんなのあるんだったらもうちょっと考えてみよう
それはそうですねそれも心が動かされるから
アプリで終了させたつもりが急にまた常駐になってたり
なんか飛び込んできて心が動かされたから常駐になってるから
やっぱそれもよっこいしょは必要ないですよ
そうですね
そうですよねだから
別に締め切りがある仕事じゃないからその肩こりのやつとか
締め切りがあるやつの向き合い方はまたもうちょっと違うと思うんですよ
あるいは毎日のようにやらなきゃいけないとか
ルーティンでやってることはちょっと違うと思うんだけど
それ以外は
だからねよっこいしょが必要になるって言ったら例えば
毎日料理してたのにしばらく料理しなくなるとか
その種のことは多分僕にも同じようになると思うんです
確かに料理はそうですね
そういう意味では僕最近個人のウェブサイトに
雑記帳っていうのをちょっと書いてたんだけど
あれがまずによっこいしょがいる場合があって
またちょっともう放置してますが
だからやっぱルーティン化しないと最初よっこいしょになるもん
だから結局どっかにちょこっと書くっていうので
ツイッターがやっぱり楽だから戻っちゃったりして
っていうのがそうなんですよね
いつまでツイッターにいるかっていうのもね
この間柿内さんがトークでも聞いてくれたんですけど
悩んでるところなんですね
でもあれもいろんな反応があって
周りからなんでそんなことに悩む人がいますかって
呆れられたんですよ
そうなんだって悩みは一つですね
そうですね
最近ツイッターだとそれこそ友田さんが
村上原家の新刊に三柴さんと一緒に並んでる話題は
すごい元気が出ましたね
久々になんかいいなツイッターって出ました
いやあれはね三柴さんも言ってたけど
柑橘牌片手に行列のところに行ったら
1:27:02
報道陣の人たちが僕らからわさーっと引いていって
ほとんど取材を受けないっていう
新宿のキノクニア書店で日付から0時から販売なんですね
そこにいろんな人が行列してて報道陣もわーっと行って
っていうところに友田さんと三柴さんが
柑橘牌片手に並んでたと
なんかやっぱみんな文学はもっと真面目に
受け止めねばならないのっていう謎の
それもそんな昔からあるわけでもなく
謎のいつからか形成された
夜なんだからお酒ぐらい飲んでるでしょとか
別になんて言うんだろうね
お酒飲んで暴れてるんだったら
排除してもいいと思うんだけど
別にお酒飲んで楽しく喋ってるんだから
楽しそうな人にインタビューすればいいなと思うんだけど
それちゃんとある意味大きく取り上げられたら
ある意味その小説感としての
凝り固まってるものがほぐされる感じもあって
すごい明るそうなのも思いますけど
勝手に枠を決めて
この枠外のものは違うってやってるから
だったら取材に来なきゃいけない
いや知らないけど
取材はしていただいたらいいと思うんですけど
いやそれもすごいだから面白かったなと思う
なんなら村上春樹はもう0時とか寝てますから
絶対寝てますよね
次の日も朝早く起きて走らなきゃいけない
酒飲んで寝てますけど
僕らの酒飲んでちょうどいいぐらいだろうって
いやーいい話だな
ということで多分ねもうずいぶん
だいぶ喋りましたね
だいぶ1時間半ぐらい喋りましたね
いや面白かった
ということで改めてこの友田さんの
単調ナンセンスの問い
羽生さんから出ておりますので
ぜひぜひ皆さんチェックしてみてください
チェックしてみてください
というのとあとその他にお知らせ等ともしあれ
僕はすごいぼんやりと6月頃に聞かされている
代わりに読む人の
マウンモジシテの創刊語について
少し聞けたらと思っています
6月末になると思うんですけど
代わりに読む人という一人出版社と
同じ名前の雑誌の去年
柿内さんにも寄稿してもらった
創刊準備号というのを出して
今年の6月末に創刊語が出ます
1:30:01
特集テーマはちょっとお楽しみということで
ただ創刊語でそのテーマなのか
そのキーワードかっていう
ちょっと多分驚きと同時に
納得感もあるような気もします
それしかないなと思ったので
ぜひお楽しみにということと
あとはその雑誌の中で
これから読む五島明星っていう
連載小特集というのを
準備号でもやってて
これも今回も載って
また何人かの人に五島明星を読んで
書いてもらっているというのと
あと去年読んだ
この1年4回っていうのを
寄稿者に紹介してもらうというページと
大きくその3本だけで
雑誌になってまして
柿内さんの今回の創刊が
なるほど
大量にもう勘弁してくれっていうぐらい
書いてもらったので
またねちょっと創刊準備号との感じが変わる
変わった感じで
楽しみにしていてください
いつ頃その平和だったりは
出てくる予定なんですか
そうですね5月の分振りのあたりか
5月末ぐらいには
告知をしようかなと思います
いやーとても楽しみです
それもねまたちょっと出た頃に
お話しさせてください
ということで
ポイエティックラジオ
本日のお相手は
私柿内聡吾と友田とんでした
どうもありがとうございました
01:31:47

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