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2021-10-25 58:48

第六十九回 【Wonder Wall(後編)】 ゲスト:柿内午後

人文界隈周縁のPUNPEEと5lack との呼び声が高い柿内正午+午後の兄弟雑談の後編。(前編は10月11日配信の第六十七回をお聴きください。)
前編での柿内正午が制作中のZINE 『会社員の哲学』の構想まわりの話から、社会について語ることの困難などへと話題は移り──

00:28
おかえりなさい。
ただいまー。
なんか、社会を語ることの困難みたいなのが、
なんかもうちょっと話したいなって気持ちに、今、煙草吸ってて、なってきたんだけど。
うん、そうしましょう。
なんか、今、個人的に書き仕事の収入源を増やしたいっていう、不純な動機があるんだけど、
なんかそれで、この前ビッグイシューがライター募集してるの見つけてさ、
でまぁ、なんか専攻としてなんか、書きたいこととか、主に社会問題についてなんだけど、
なんかビッグイシューで書きたいことについて、700字から800字ぐらいで書いて提出してください、みたいな課題があって、
でまぁ、割と社会問題みたいなのって関心あるじゃん、僕ら。
そうだね。
シリーズケアを開く、読んでるし。
そうだね、シリーズケアを開く読んでるからね。
なんかこの前、障害者のリアルを開くゼミっていう、
私の身体はままならないっていう本を読んだんだけど、
なんかやっぱりその社会問題とかを語る上で、かなり重要になってくれるのが、当事者性っていうのが一個あると思う。
うん、そうだね。
なんかやっぱり部外者は黙っとれみたいな雰囲気があるというか、
一方でなんかその障害を巡るモデルっていうのが、
医学モデル、障害っていうのが皮膚の内にあるっていう、
その人の内側に障害っていうものが存在するっていう医学モデルから、
80年代頃から、社会の環境とその人の間に障害っていうのは存在するっていう、
社会モデルに移行してきたっていう話を、
熊谷さんとかがいろんなところで言ってるんだけど、
なんかそういう障害モデルの変化っていうのに、
なんか語りが対応してないんじゃないかっていう、
03:03
違和感というかがあって、
そういう障害の捉え方っていうのが変わってきてるにも関わらず、
語りの次元においてはその個人の語りというか、
当事者の語りっていうものしかなんかまだ、
受け入れられてないんじゃないかなっていうのがあって、
私の身体はままならない。
いろんな人の講演とか、講演記録とか、
寄稿した論文とかエッセイとかが入ってるんだけど、
一人だけそのゼミに参加した、
特に何の当事者でもないゼミに参加して感じたことを書くみたいな人がいて、
なんかそれすごいなんか必要なことというか、
めちゃくちゃ勇気がいることだと思うし、
なんか間違える可能性とかっていうのもすごいあるとは思うんだけど、
なんか大事なことだなって。
そうだね。
なんかその、障害者をめぐる困難の一つに、
やっぱり他者からの眼差しっていうのがあると思ってて、
やっぱりなんだろうな、車椅子で街移動してたら、
それだけでなんかちょっとみんなから見られるみたいな、
そういうのってなんかもう当たり前みたいになってるかもしれないけど、
当事者からしたら。
それでもなんかやっぱり一つの困難ではあるというか、
そうだね。小さい積み重ねでね。
そうそうそうそう。
なんかそういう、車椅子の人いたら見ちゃうみたいな、
そういうところからなんか更新していかなきゃいけないんじゃないかなみたいな。
そうだね。
でもなんか具体的にどうとかはちょっとわからないんだけど。
でもそうなんだよ、なんかね、
非常に難しい話なんだけど、
でもなんか僕は、僕なりに試してみてるのは、
僕は街で一番の素人っていう称号をね、勝手に自称してるんだけど、
割と本気で大事だなと思っていて、
その街で一番の素人っていう言葉に何を込めてるかっていうと、
専門性を持っている人間ではないですよっていうエクスキューズであるっていうのがまず一つで、
例えばその社会学的なものを考えるときに、
ツケヤキバの知識で物を語ってもな、みたいな気持ちを、
ある意味自分に対しての免罪符として、
06:01
でもまあ素人、素人語り、素人のよた話として喋ること自体はいいんじゃないっていう、
勢いをつけるための素人という自称であるっていう面と、
もう一つはあらゆる言葉に対して基本的に当事者ではないっていう、
もう一つのエクスキューズもあって、
専門値でもなく、思っているわけでもなく、
何かしらのイシューに対する当事者性みたいなものを持っているわけでもない文外観である全き素人が、
でもその全き素人としての語りっていうものが、
実は足りてないんじゃないかというか、
素人は口を出すなっていう時のその抑圧によってむしろ、
当事者の困難であったりとか、
社会的な困難みたいなものって、
割と硬着状態に落ちてしまうんじゃないかっていう、
今は割と当事者が、これまで声を持ってこなかった当事者が声を持つようになったという意味で、
まだもうしばらくはその当事者性みたいなものが一つ大きな救いだったりとか、
効果を持つものとしてあり得ると思うんだけど、
どっかのタイミングで、今度はまた当事者というものに対するある意味、
大きな勝ちづけみたいなところに対して反動というか反省が来るんじゃないかなというか、
結局ある意味その専門家みたいなものっていうのは、
専門家以外は口を出しちゃいけないみたいな風潮によって、
ある意味廃れていったというか、指示を基盤を失っていってしまったわけじゃないかというものと、
たぶん同じことが起こるんじゃないかなというか、
だから実はそこで当事者性っていうものをあんまり特権視しないで、
素人がどう語れるかとか、っていうところを試行錯誤しない限りは、
あんまりこう、何も変わらなさそうだなっていう気持ちで、
なんかものを書いてるんだなっていうのを改めて今思った。
なんか素人は黙ってて的な雰囲気っていうのが、
09:03
素人だから黙ってていいとか、
よくわからないからよくわからないうちは何もしなくてもいいみたいな面在府として、
機能してるっていう問題があると思って、
なんかそれとは別になんだろうな、
そこから当事者の語りとかっていうのをあんまり特権視しなくてもいいとは個人的には思えなくて、
結局なんだろうな、そういうマイノリティを巡る語りっていうのが、
マジョリティによって支配されてしまったら、
振り出しに戻るというか、意味がなくなってしまう。
それは間違いない。
その辺の塩梅が難しいよなって。
でも当事者性っていうものを、
とにかくすごい大事にしなきゃいけないものっていうふうにしていくとさ、
当事者性ってマイノリティだけのものじゃないじゃない?
言葉の厳密な定義があまりわかってないまま言うから、
間違った印象になっちゃうかもしれないんだけど、
当事者が考えていることが大事なんだっていうときに、
実は今一番声を奪われているというか、一番声が拾われにくい当事者って、
マジョリティ側の当事者性だと思うんだよ。
そこの声が拾われ、本来はそこの当事者性をちゃんと拾って、
点検して、批判して、組み替えていかないことには、
それこそさっきの車椅子に対する眼差しみたいなものも含めて、
あんまり変わっていかないと思っていて、
当事者の声を拾って、それに対して、
それはかけがえのないものなんですよって肯定していくっていう作業は、
そこまで一般化できる話は本来ないんだよ。
マイノリティの声を社会化する、課題を社会化するためには必要な方法論なんだけど、
あんまりそれをことさらに万能薬みたいな形で使っていくと、
むしろ反動の便利な道具になりかねないというか、
12:06
今、わりと起こっているような出来事って、
そういう、ある意味その当事者性というもののものと、
何ていうのかな、ある意味、振り返らないで済んでしまう特権性っていうものを、
マジョリティ側がどんどん強めていっている事態に見えている。
実は、本当は個別具体的な当事者研究みたいなものって、
個々人が一人一人やらなきゃいけない話だと思うんだけど、
今のアプローチの中だと、なかなか自分ごとになる人とならない人との差が
決定的にでかいんだよなっていうところで、
なんかね、わりとモヤモヤしてるんだよね。
障害の社会モデルっていう捉え方にとては、
マジョリティの方も障害を作り出す当事者であるみたいな。
逆に言うと、健常も社会モデルなわけじゃない。
だから、なんでそれが普通だとされてるんだっけみたいなところの問い返しで、
タス側も含めての論理展開にしていかないと、
あんまり、残念ながら大きく良い方向に変えていくみたいなイメージが湧かないんだよなというか、
少ないけれども困ってる人がいますで、声を上げて、
一人も取り残さないように社会を設計し直そうという動き自体は必要なんだけど、
とはいえ、ある意味そこで面倒事が増える人たちの方が多くなるわけじゃないみたいな時に、
その人たちのモチベーション作りというか、
15:00
率先して迷惑を分け合えるようなマインドセットを作るには、
タス側から見えている論理だったり、当事者性みたいなものを割とちゃんと言語化して、
そこに言語化すれば、すぐにそこに疑問に溢れていることなんて、すぐボロが出るだろうから、
それを専門家でもないのに、ツケヤキバの知識で語るとすぐにつまらないかったり、
間違ったりするかもっていう恐れがあるけれども、実はそこで言語化してみないことには、
どこで間違えているかっていうことが見えないんじゃないのかなというか、そこ見えないと、
一回間違ってみないと正せなくないみたいな、常に黙っていれば間違い続けていても、
黙認されているというか、認められてしまっているっていうのがマジョリティの特権なんですけど、
マジョリティ側がきちんと今の自分の立場っていうのを言語化して、それを点検するっていう作業をしないことには、
あんま変わらなくないみたいなことなのかなっていう。
確かにね、黙っている、そっか、黙ってられるのが特権なんだね。
そうそうそうそうそうそうそう。
なんかそうなるとあれかな、なんかカンギレムとか、風光とかバトラーみたいな形になっていくのかな。
そうだね。
どうぞ。
当事者の語りって何ていうのかな、社会を改善していくというか、
そういうものを直接の目的としてないんじゃないか、みたいなのはまずあるけど。
そうだね、そもそも個人のためのアプローチだからね。
うん、やっぱり語ることによって生じる弁体とか、みたいなのをためにやってるのかな、みたいな。
そもそも当事者の語りにかなりの程度専門値の見解というか考え方とか思考の枠組みっていうのが入り込んでるなっていうのも、
うん、そうだね。
なんかすごいよく感じることで、なんかそうなってくると当事者性っていうのは何だろうなって。
18:02
うん、なるほどね。
なんかレビー招待型認知症の人がその私の身体を学ばないって出てきたんだけど、
なんかその人が、なんていうのかな、いろんなとこから引っ張りだこというか、
あの、誤作動する脳とかっていうのを医学省院からも出してたんだけど、
なんかその人ってやっぱり50歳とかでレビー招待型認知症になっちゃって、
なんか医学論文とか自分で読んですごい詳しいんだよ、自分よく。
うんうん、なるほど。
で、なんかその試験とかも踏まえて、なんか誤解を解いていったりとか、自分の経験を語ったりとかなんだけど、
自分の経験を語るだけじゃダメなのかなってちょっと思ったりとか、
なるほどね、そっかそっか。
結局そのなんか、当事者性だけで受け入れられてるわけじゃないんだなというか、
なんかそういう正しい医学的な知識とか、最近の研究成果とかも踏まえることによって、
なんか、ああそうなんだってみんなから思われてるんじゃないかなというか、
そうだね。
単純に私はこう思うとかこう感じるとかって言うだけだとなんかまだ届かないのかなっていう。
確かに今それこそ、その僕がさっきまで話してたことってさ、
割と当事者性と専門性みたいなものを、ある意味あんまり区別しないで喋ってたんだけど、
今だから割と当事者性っていうものの専門家じゃないけど、
あんまり実際にその個別具体的な個人っていうものから、ある意味ちょっと乖離したものとして、
当事者性って言葉だったり枠組みがあるみたいなことなのかもなーってちょっと思ったね。
そうね。
当事者の語りがなんか結構専門家のディスクールに残って組み立てられてるというか、
そういうふうに授業されてるような印象を受けなくもない。
なるほどね。面白いね。
21:00
いやでもそれ難しいね。難しいね。
なんかそれこそ西洋哲学で言うと、
植民地に対する言説の在り方みたいなところと、
割と同じようなことが起こってる感じがするというか、
それが肯定的なものであれ否定的なものであれ、
ある意味、西洋の価値観から植民地を語ること自体に疑問があるみたいなのが、
一個だっくりポストコロニアルって言われてるような文章の中での、
一個の気分の格子なわけじゃない。
それで言うと当事者性って言葉で今、
盛り上がっている在り方っていうのは、
どこかのタイミングで、
ネイティブアメリカン人生の教えみたいな、
言説に対する反省みたいなものが起こってくる気がするというか、
未開人と言われてたような人たちの方が、
実は平和的な相互浮上的な社会を作っていたんだみたいな、
一つの他社のロマンカーズというか、
結局のところオリエンタリズム。
都合のいい何かを他社に投影して、
自分たちで自己満足していってるだけだっていう話があると思っていて、
ネイティブアメリカンの世界観みたいな、
チャーマニックな世界観みたいなものから、
誰かしらの人生の真理っぽいものを見出したがるみたいな、
ヒッピーカルチャーにおける一つのお約束みたいなものにも、
割と反省の対象になっていると思っていて、
マイノリティの当事者としての言葉っていうものが、
そういう専門性だったり社会性みたいなところの、
意義ある言葉として読み換えられて留守していくっていうことは、
24:03
もしかしたらカスタネダがロンファンの言葉として紹介したような、
ネイティブアメリカンの世界観みたいなものを、
アメリカの若者がくったくなく受け入れてしまうのに似たような、
結局のところ他者性みたいなものを、
ちょっと賄賞化して自分たちに理解ができる、
社会側の言葉として理解ができるものとして、
勝手な形に加工して受け入れてしまっているもので、
あり得るんじゃないかみたいなところがあるのかなって、
いうことを思いつつ、
謎の例えが今入っちゃった。
当事者性っていうのがどこにあるかっていうのを、
一回考えてみるべきかもしれないね。
今だからその言葉が一人歩きして、
当事者性という言葉の当事者どこにいるんだっけみたいな、
本来はそれこそ一人一人の個別性みたいなものに
フォーカスを当てるための枠組みだったんじゃないかなって思うんだけど、
むずいな。
行き過ぎた社会モデルからの寄り戻しというか、
全て社会構築的に障害というものもあるんだっていう考え方にしすぎてしまうと、
個別具体的な個人の側の自己効力感というか、
結局何も自分はできないというか、
周りとの関係性の中で勝手に決定づけられていくものであって、
自分一人では何も変えていくことができないとか、
何かこの社会の構造に対して働きかけることができないんじゃないかっていう
無力化に対する諸法戦として、
そういう当事者の声をそのまま聞いていくっていう実践は
生まれてきてるんじゃないかなって思うから、
またそれが社会の側に寄っていってしまってるような感じがあるのかしらないのかしらみたいな
27:09
ところが、あんまり最近は読めてないからわからないけれども、
あるのかな?
どうなのかな?
どうなのかなっていう感じかな。
難しいよね。
エンパワーメントしていきたい。
そうだね。
最近はずっと通勤の時にレイジャー・ゲインスト・ザ・マシーンに聞いてる。
なるほどね。
テキサス・パワーパックを聞きながら通勤してる。
いいね。怒りと共にね。
そうそうそう。
どうしようかな。2時間近く喋ってるね。
なんか一個相談したいことがあって、
読み書きのことなんだけど、
最近書けそうなことについて読まなきゃなみたいな気持ちがあって。
なるほどね。
なるほどね。はいはいはい。
なんかやっぱりその、そもそも前提として読書量とかって有限じゃん。
時間もそうだし、お金とかでも。
なんかそうなった時に、結構書けないことってあって、
例えば僕だったら、分析哲学とか結構興味があるんだけど、
分析哲学の本2、3冊読んでも、分析哲学って言ったことあんま書けないというか。
なるほど、なるほど。
なんかそしたら書けることについて読んだほうがよくないみたいな思いがあるんだけど、
どうなんやろうな。
どうなんやろうな。
どうなんやろうな。
読むことが書くことの手段化してるみたいな話?
うん、しつつある。
なるほどね。
今は割とそれこそ書く時期、書く方にフォーカスを当てたいというか、
30:04
注力したい時期なんかなって今の話を聞いてると思うから、
書くこと側にウェイトを置いて読むことも、
今日の冒頭あたりに話してたけど、
オファーを受けたらそのオファーに合わせて読む本だったり聞く音が変わっていくみたいな話があったけど、
特にオファーないうちからその準備をしてるというか、
自分がこういう文章を書くなみたいなところでその準備をしてる状態なんかなっていう風に思って、
それは別に、ただ読みたいモードの時にはただ読めばいいし、
書く方に比重が置かれてる時は書くことに従属するような読み方をするで、
その時々の体調によって読み方、書き方も変わるよねっていう感じなのかなっていう風にはざっくり思っているから、
基本的には今は書くモードだと諦めて書くことに寄与するような本を読めばいいんじゃないのかなみたいなことは思うけど、
でも割と僕はね、このパンデミックになってから以降割と経済とか社会の話をがっつり書くぞって思って、
マルクスばっかり読んでた結果具合悪くなったから、
具合悪くなりそうになったタイミングで無理やり全然違う本を読むっていうことだけ気をつけていればいいんじゃないかって。
自分で勝手に書く本を捨てる時ってさ、締め切りがないからさ。
そうそうそう、永遠にやれちゃうからね。
あんまりね、そこにハマりすぎるとあんまり楽しくなくなってくる。
そうね。
だから締め切り決めるのがいいんじゃない?
だから会社の哲学は締め切り決めずにね、この2年ぐらいずるずるやってるから具合悪くなっちゃったから、
次の秋の11月の東京の文庫に出すぞって決めた瞬間に、あと2ヶ月しか書けないっていう状況を強制的に作ることで、
ある意味自分の中に有限性をさらに設定して、そこまでは存分に考えても大丈夫みたいなモードを整えていく。
うん。
そういう意味で自分で本の形作って発表する、同人誌作るとかっていう功能は、
33:03
実はそういう上手に考え事とか読書とか書くことを中断するためにあるんだなというか。
なるほど。
確かにね、それはいいかも。
そうそう。
ウェブバイトだと直せちゃうじゃん。紙に印刷するとそこで終わるから、マジで終わるから。
そういう区切りを強制的に作るのがオススメ。
なんかその区切りことのさ、怖さみたいなのに対する意識みたいなのが最近変わってさ、
その前までは区切るというか、そうやって焦って書くというか、無理に書いたことによって、
なんかちょっと恥ずかしいとか間違ってること書いちゃってたらどうしようみたいな怖さがあったんだけど、
もう一回書けばええやんって。
そうなんだよ。
そういう風に最近は思うようになった。
そうなんだよ。
なんか世の中の本って結構そういう風に書かれてたりするんだよね。
そうだね、版を重ねていくからね。
そうっていうか同じ本の中でも、その筋道自体がやっぱり技術されてるみたいな。
そうだね。
なんか最初から正解、これが言いたいというか、これが正解で、みたいなものがあって書かれてる本ってそんなにないな。
そうだね。
別にそういうものだったらあれだもんね。
そういう意味で言うと思想書とかは序文だけ読めば一番まとまってんじゃん。
だからその本の結論というかこういうことが言いたかったみたいなアイディアって最初にまとまってるから、
そこ読めば割とこう十分というか綺麗にまとまってて、
そういう意味だと20ページぐらいあれば十分なんだよね、あらゆる本は。
でもそこにその筋道を作るためのこう格闘みたいなものが残りの200ページ、300ページに入ってるみたいなところがあるから、
なんかそういうもんなんだよね、確かに本っていうのはね。
そう、なんか書くことって真なる命題を生み出すことではないのかっていう。
そうだね。
それが結構大事だよね。
なんか論文とか論文というかとはまた全然違う話なんだけど、
やっぱりその分量というかさ、書くことを技術の積み重ねで厚みを出していくみたいなのってやっぱかっけえなって最近思って。
36:13
小島信夫のことなんだけど。
なるほどね。まさに最たるものだね。
そう、あれ一体どうやってんの?
でもそうなんだよね。
あのスタイルって本当に無敵というか、あれってなんていうのかな、マスターしたら何本でも書けそうな感じがする上に、
読んでる側からしても小島信夫の文章って読めば読むほど面白くなっていくんだよね。
そうなんだよね。
読むほど響きが豊かになっていったり、なんか情景の厚みが増していったりとか、これ一番強い文章やろって思う。
そうなんだよ。小島信夫は俺が文脈だというか、俺がコンテクストだっていう態度だからね。
そう、あのね、文脈の作り方というか、どうやってるんだろうって。
すごいよね。
でもなんか若干プルストを読む生活にも同じようなところがあるというか、
今日はこういう本読んでましたみたいな記述が1年間積み重なっていくことによってさ、
8ヶ月目とかに読んだ本の引用部分だけ読んでもさ、なんでここを引用するに至ったかみたいな、
この動きがさ、読者にもわかるというかさ、
これ4ヶ月前のあの本とちょっと内容被ってるというか、
なんか補足するような響き合うところがあるから書きない正午にも響いたんやなみたいな。
なんかそういう、多分意図せずだけど、文脈をちゃんと生み出せてるというか。
なんかこれが日記の面白さかっていうのをちょっと思った。
なるほどね。そうなんだよね。日記は割と誰しも小島信夫的な方法を意図せずしてやれちゃう方なんだよね。
書くことを自分の中で制御しすぎると、
自分がなんでこれを面白いと思ったかっていうのを説明するために膨大な労力と文量が必要になってくるというか、
そうだね。
でもなんかああいうふうに書き継いでいくことによって、
39:04
なんかその日の印象だけ本当にぺって書いたとしても、
自動的にというか、ちゃんと意味づけがなされていくっていう。
そうだね。
そういう序述のスタイルもあるんだなっていう。
秘伝のソースみたいなね。
うん、どんどんね。
やっていく。どんどん深みが増していくやつね。
ああいうね、どんどん美味しくなっていく書き方って理想だよね。
そうだね。
それをだから日記みたいに毎日ただとりあえず書くっていうやり方じゃなくて、
ある程度の方向性を持ったりとか、それこそ一つのテーマを設定してやれるかっていうところが、
今たぶん僕が次何やろうかなって思っているときにやろうとしていることで。
たぶん会社への手続はだから一冊目は割とすごい薄味ソースなんだけど、
なんかちょっとずつ吸ってちょっとずつバージョンアップさせていって。
ああ、なるほど。
5年後ぐらいにはプロレスと読む生活と同じくらいの厚みになっているみたいな。
感じにしてもいいなって思って。
そういうね、ライフワーク的な態度で取り組むのって大事だよね。
だからやっぱり完成形があるというかさ、本って形になるとなんとなくそれで固定されたものになっちゃうけど、
実はそんなことないんだなっていう気になっておくのって結構大事だなって思った。
結構ピリを打つのって何にせよ大変というか、どっかしらで何かしら切断しないといけなくなるんだけど、
なんとなく切れちゃいましたというか、それこそだから小島信夫みたいに
締め切り前日の夜から書き始めて、締め切りが来たから書き終えるみたいなスタイルが、
実は何か一つの書き上げることよりも、
常に考え続けて書き続けることの方が重要なんじゃないかみたいなことを考えると、
完成させ方というかパッケージの仕方って実はそこまで重要じゃないのかもなというか。
特に小島信夫とか読んでるとしてくるよね。
うん、書きながら考える感じね。
自分の話になっちゃうんだけど、今のところまとまった分量で書いたのが、
時代告知の美術とマゾヒズム関連の文章なんだけど、
42:05
なんかそれって結構いろんな広がりができそうだなって思ってて、
なんか無理やりキリスト教とマゾヒズムを結びつけて考えることもできなくはないし、
だからなんか塾の思想ではあるから、キリスト教っていうのも。
テストの流行時にお互い場になってお互いを打ち打ち続けるみたいな集団とか出てきたりとか。
そうそう、あるからそこから接続することもできるし、
フロイトのマゾヒズム分析では罪悪感とか罪障感っていうのが元にあるみたいな。
なるほど。
それでキリスト教の罪の概念の歴史とか、
罪を許す制度としての国会の歴史みたいなのとも関連づけられるかなみたいな。
なるほどね。
どこから手をつけたらいいか。
そうなんだよね。
一個書くとすごいいろいろ広がっちゃうからね。
うん。
多分最初から辻蔑した手で整理して書こうとすると、
書けないというかその拡散具合をある意味絞っていかないといけないじゃん。
そうだね。
一層拡散させてワンテーマずつどんどん書いていって、
とりあえずそのまま出しておいて、何かまとめる時に順番考えるとか、
重複している部分は消すとかっていう作業を別ですればいいのかなっていう風に最近は考えていて。
だから同じ話を何回もするんだけど、その時の行き先が出発点はいつも一緒なんだけど、
そこから接続させる先をどんどん書いていくっていうのを何個も何個も書いておいて、
別にそれを後からまとめるとしたらまとめる時に、
だぶってる部分を適当に整えるみたいな書き方の方が書ける気がしたんだよね。
会社の手続きはもともと最初から整理整頓させた調達で書こうと思ったら全然書けなくて、
自分がつまんなくなっちゃって知ってることしか書かないから、
ワンテーマについてベーって書いても同じことでまた同じように書いてみたいなことをやった後に、
同じことを話しているところをそれ消してまとめるみたいな書き方にしたら案外できたから。
なんか一個それを蓄積するような書き方をしながらちゃんと一つの一本にまとめるみたいなやり方をするには、
45:07
最初から一本の流れを作るんじゃなくて、
とにかく同じだなって薄々気づきながらも全部書いちゃうっていう。
散らかし続ける。
一旦散らかすっていうのがありだなって気づいたよ。
それは面白いね。
何個か関心が散らかってるときにさ、
それぞれ個別に突き詰めなきゃいけないような気がしてたけど、
並行してちょっとずつでもいいのか別に。
別にそれでいいんじゃないのかなっていう気が。
あとやっぱり秩序とかってさ、
書き手じゃなくて読み手が見出すものだったり、
モスプレなっていろいろ本読んでると思うというか、
散らかしっぱなしの本でも読む側としてはなんとなくそこにまとまりを
それこそだから日記とかはそうだと思うんだけど、
勝手に見出していけちゃうみたいなところで。
割とだから全部そういう書き方でいいんじゃないのかなと。
エクリチュールね。
なんかセルトの日常的実践のポイエティックもさ、
多分本当に書きながら作った本だよね。
全体として見るとよくわかんない本なんだよあれ。
衝立てとか構成も含めて。
結局何だったのってなるから。
つまんない批評みたいにさ、
8割方要約で済ましようとするとさ、
すごい困る本というかさ、要約できないんだよね。
だって称ごとに特に関連性ないんだもん。
セルトがいろいろ思いつきましたっていう本でしかないから。
でもそれが良かったりするんだよね。
それは面白かった。
全体として読むと何となく雰囲気として伝わるものがあるじゃん。
それこそさっきのカシャミツブ学の多くの部分を日常的実践のポイエティックに追っているんだけど、
自分一人が転覆できない状況下っていうものを、
そのミクロな目線では逆手にとって自分を利するような形で、
読み換えてしまうとか書き換えてしまうみたいなことを、
どんどんやっていけるぞみたいなところっていうのが、
まず1個その大枠その全体を通した雰囲気として伝わってくるところでまずあって、
割と1冊の本としてはそれで十分だと思うし、
48:01
とはいえ日常的実践のポイエティックはどちらかっているからこそ、
そこから風光の権力論みたいなところだけじゃなくて、
セルト自身の宣教師みたいなバックグラウンドから生まれる、
自らの信仰と相入れない、全く自分が何を教えてもつき勝手に解釈されてしまうっていう、
ある意味その密了される側の、誤読される側としてのその信仰のあり方とか、
もしくはその絶対に自分の行動では理解できない他者っていうものを、
どのように理解しないままに需要できるかみたいなところとかっていうのを、
割とセルトの問題意識としてある感じも読み解けたりして、
ってなると結構、それこそセルトのあの本を読んだ後に受け取るものっていうものが、
すでにとっちらかってたりするんだよね。
でも割とでもそれすごいとっちらかってはいるんだけれども、
何かしらのそこに秩序があるような気が、読んでる間はしてくるし、
実際に何かしらあるような気がするから、自分の中で秩序だって整理しようという、
欲望も生まれてくるしみたいなところが、やっぱり面白いところだったりするから、
なんか、散らかして、散らかすの大事。
なるほど。散らかしてこ。
うん、散らかすの大事だったんだよね。
とはいえ書くとさ、見えちゃうからさ、整頓したくなるじゃん。
うん。
なんかね、一つこのポッドキャストをやっててよかったなっていうのは、
喋ってるとさ、どっちらかあるじゃん。
確かにね。
だって今日もそれこそ何だろう、何かしら最初はジングルの話をしましょうっていうのだけ決めて、
読むとか書くとかの話もできたらなみたいなところをぼんやりとありつつもさ、
今日の話とかも今振り返ってみると多分こう、結局何だったんだっけみたいな。
聞いてる人とかもう訳わからんくなってる。
そうそう、訳わからんのじゃないかなみたいな。
でもまあ、とはいえ毎回自分たちで思うんだよ。
うわ、めっちゃどちらかっちゃったとか思うんだけど、
後から音声チェックで聞き直すと案外聞けるものになってたりとか、
聞く側は、聞く側はそんなに真面目に聞かないから、
なんかこう飛び込んできて面白そうな話のとこだけ聞いてたりするから、
なんだかんだでそこを読み解いてくれたりとかっていうのが生まれてくるみたいなことをやれるから、
人とこうやって喋るの、なんかとりあえず喋り楽しんしちゃうのって、
どんなに綺麗にやろうとしてもちらかっちゃうなとか、
51:00
まとめられないなみたいなことをなんか諦めるというか、
自分はこの程度のちらかり具合なんだっていう気持ちになれるっていう。
いやー大事だね。ちらかす練習になるね。
そうそう、結構それ大事だなっていう気はしてる。
なんかその個人的な実感としてさ、
なんか書きすぎるのも良くないなっていうのがあって、
なんかやっぱりその、僕の場合無理に毎日書こうとかすると、
なんかやっぱり無理に書いてるなっていうのが分かるんだよね、文章から。
なるほどね。
なんか、例えば詩とかもあれって書こうと思って書けるもんじゃなくて、
やっぱり無理に書こうとしても言葉が痩せていくというか、
なんかそういう感覚があるから、なんかあんまりね、
よう書けばいいってもんでもないなっていうのがあったけど、
とはいえ、なんか書かないと書けないっていうジレンマがあるから、
どうしたもんかなと思ってたけど、
まあ書けないうちは喋ってちらかしてみるっていうのは一つの解決策かも。
そうだね、そうかもしれない。
そうなんだよ。
結構いいんじゃないかと思います。
だいたい喋り散らかしておくとそのまま満足してさ、忘れちゃうから喋ったことって、
録音しとくと後で聞き返して、
あ、そうだこんなこと考えてたんだ、みたいな。
しかもなんか意外と思ってたよりまとまってるぞってそのまま書けたりするからね。
なるほど。
なんかね、ただこうちゃんと散らかせるってまた変な言い方だけど、
ちゃんと散らかすことができるおしゃべりってなかなかね、難しい。
やっぱり相手によるというか。
そうなんだよ。
どうしても綺麗に道筋をつけたくなる。
会議みたいな、しっかりと答えだったり結論見えたものを仮でもいいから出して、
みたいな喋り方を、やっぱりなんだかんだで特にね、
働きだすと慣れてきちゃうからね。
なんかドリンクバーだけで永遠に喋り続けるみたいな時の、
拡散だけしてほったらかしみたいな喋り方って結構ね。
54:00
結構ね。
あとね、文脈を共有してるっていう信頼感がある相手じゃないと、
そうだね。
散らかせないから。
そうだね。
今だって当たり前のようにシェルトを呼んでる。
知ってるからだけど、相手が呼んでることを。
相手が呼んでることを。
これでシェルトってさ、どういう人で、みたいな。
地上とキリスのポイエティブっていう本があってさ、みたいなとこから始めるとしたら、
なんかあんまり散らかせないじゃん。
そうだね。
ケアを開くっていうのがあってさーって。
確かに。
なんかね、難しい。
誰とでも散らかせるわけじゃないっていう。
ね、確かにそれはそうかも。
なんか読書会とか。
うん、読書会。
その、読書会を一緒にした人とかって結構、
なんか散らかせるようになるなーっていう実感があって最近。
あーなるほど。
そっか、1個だって読書会の場合は1冊の本っていう文脈を設定させてるからね。
そうそうそう。
で、なんかある程度読みも共有してるから。
うんうんうん。
なんかこの前読んだ本から、なんか発展してった問題意識なんだけどさーみたいな話を、
もう何の前向きもなくて出せるというか。
なるほどなるほど。
この前なんか、モダニズム芸術についての本を読んできたんだけど、
モダニズムのハードコアっていう本。
一緒に読んだ人に対してはさ、
やっぱりリテラリズム芸術ってさーっていう話の出しができるわけ。
はいはいはい。
ここで言ってもさ、ん?って。
そうだね、今何言ってるの?
リテラリズムについて散らかすことはできないけど、
セルフォーについては散らかせるみたいな。
そうだね。
いろいろね、散らかしどころを増やしていきたい。
いやー本当にそれ大事だよね。
うんうん、散らかしどころを増やしていきたいね。
というところで、
これ多分休憩時間を削っても、
割と超大作になっちゃったから、
録音は一旦ここまでにしとくか。
あー本当だ。2時間ぐらい。
2時間ぐらい喋っちゃった。
2時間ぐらい喋っちゃった。
まあじゃあ、
結局今の話だったから、
57:02
まあ後で聞き返せば分かるんだろうけど、
ちょっと待つね。
なんかね、結構いろいろ無責任に喋っちゃったから、
いや、いいんじゃない?
聞き流してほしいな。
真剣に説明してほしい。
まあそうだね、本当に結構本当に、
でもね、最近思うんだけどね、
適当に喋って、
適当に喋っても真面目に真剣に全力で喋っても、
そこまで大きく変わんないから、
自分の薄っぺらさとか自分の危険の浅さとかは。
だからもう、なんか真面目な人が聞いてくれたら、
ちゃんとその真面目な人に怒られたいなって思うんだよね。
あー、本当だよ。
意外と怒ってくれないんだよね。
怒られるの怖いわ。
いや、分かるけど、分かるけど、
でもなかなかそういう気持ちでいます。
ところで、
どんどんつらかして、
どんどんつらかして、怒られて、
ちゃんとたまに整理してっていう風にできればと思いますので。
よろしくお願いします。
よし、そんなことで、
今回は素敵なホエーティクラジオのテーマ曲を作って、
くださったGOGOさんをお迎えしてのお作りでございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
58:48

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