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#103 美・芸術をみる態度、芸術がわかるとはどういうことか / 小林秀雄「美を求める心」朗読解説その1
2026-04-18 29:11

#103 美・芸術をみる態度、芸術がわかるとはどういうことか / 小林秀雄「美を求める心」朗読解説その1

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今回は、小林秀雄さんの「美を求める心」という講演録になります。

よい美、芸術入門の本になります。
入門でもあり、本質でもあるため、
芸術を観る時も、芸術をつくる時も、この本に立ち返りたい思いがします。

感想

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サマリー

本エピソードでは、小林秀雄の「美を求める心」を読み解き、芸術を鑑賞する際の根本的な態度について考察します。筆者は、芸術を「わかる」「わからない」という知的な理解で捉えるのではなく、まず「感じる」こと、そして対象に「愛情」を持って向き合うことの重要性を説きます。言葉による分析や好奇心から一歩進み、対象と沈黙のうちに向き合うことで、初めて芸術の本質的な美しさに触れることができると論じています。

芸術鑑賞の誤解と小林秀雄の提言
小林秀雄さん、こんにちは。
こんにちは。
今日の本なんですけど、小林秀雄さんの本に行ってたんですよ、ちょっと。
よく考えたら小林秀雄さん3連続になっちゃったなと思って。
いえいえ、もうウェルカムでございます。
小林秀雄さんの、今日はね、美を求める心っていう、これ方言記録なんですけども、これをちょっと一緒に味わっていきたいなと思っております。
はい。
読めるのはね、文庫本で考えるヒント3っていうものに収録されてます。
はい。
結構、この本自体、読みやすい文章ばっかり載ってるんで、前回使って近代絵画とかってちょっと難しいんですけれども、こっちは読みやすいと思います。
で、この美を求める心って短いんですよ、10ページぐらいしかなくて。
公演なんで、広告調だからわかりやすいし、すごくいい応援記録になってて。
僕もね、ここに書かれていることをほとんど自分が詩の授業とかするときに話してることだなと思って。
ここから喋ってたんだな、自分はと思って。びっくりしました、久しぶりに読んでみたら。
なんで、すごく芸術入門としてもいい文章ですね。
ちょっとじゃあ読んでいきますね。
はい。
もうちょっといきなり冒頭から読んでいきたいと思います。
近頃は展覧会や音楽会が盛んに開かれて、絵を見たり音楽を聞いたりする人々の数も急に増えてきた様子です。
そのためでしょうか、若い人たちからよく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。
近頃の絵や音楽は難しくてよくわからぬ。
ああいうものがわかるようになるにはどういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいかという質問が大変多いのです。
私は、美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも何も考えずにたくさん見たり聞いたりすることが第一だといつも答えています。
極端に言えば、絵や音楽をわかるとかわからないとかというものがもう間違っているのです。
絵は目で見て楽しむものだ。音楽は耳で聞いて感動するものだ。
頭でわかるとかわからないとか言うべき筋のものではありますまい。
まず何を置いても見ることです。聞くことです。
そういうと、そんなことはわかりきった話だと読者は言うでしょう。
ところが、私はそれはちっともわかりきった話ではない。
読者はおそらくこのことをよくよく考えて見たことはないだろうと言いたいのです。
というところから始まるんです。
いいですよね。
いいですね。
伝わりました?何だか言っていることを。
伝わりました。質問者の方の気持ちもわかるというか。
そうですよね。
そうなんです。
そうですよね。
やっぱり一生懸命解釈しようと絵を見てたし、一生懸命解釈しようと音楽を聞いてた私もいるなって思うから。
そうですよね。
これはDon't think, feelということだと思うんですよ。
やっぱり理解が感動を遠ざけてしまうということがあるんだと思うんですよ。
だからまず感じろということだと思うんですね。
なんだけれども、理解していくことと感動することが一緒になって起こることもあるんだと思うんですよ。
小林英夫さんのゴッホの手紙とかってまさにそうだったなって自分としては思っていて。
やっぱり絵単体だけだとよくわからなかったことが多かったんだけれども、ゴッホの手紙を理解させてもらうと絵がものすごく感動的になって感じれることがあるってこともあるじゃないですか。
いやまさに。
だからこれやっぱり近代絵画の、前回の近代絵画の冒頭にも話した記録もあるんですけれども、
一旦まずは何も理解せず感じるってことでいいと思うんですよね。
感じることで何も起きなかった時に理解していくこともありだとは思っているんだけれども、
その理解の仕方っていうものがあるんだと思うんですよね。
何を理解していくか。
すごいそう思います。
すごいそう思う。
なんか一つメガネをかけるっていうか、理解のメガネをかけてもう一度見ると、そのフィルターを通って入ってくるものの角度が変わるというか、
なんかそれこそ感動のところに、そのフィルターのおかげで届くというかさ。
そういうのあるんじゃないですか。
うん、ありますあります。
これ僕やっぱり普通に洋楽聴くとかJ-POP聴くとかっていう感覚に例える方が結構近しいと思っていて、
例えば洋楽聴くとするじゃないですか。で、歌詞の意味わかんないんだけれども、めちゃくちゃいい曲だなって感じると。
で、歌詞調べてみたら、歌詞があんまりなんかこう、自分的には好みじゃなかったと。
ってなったりとか、その歌ってるアーティストの人柄みたいなものが、なんかちょっと自分の人と違ったみたいなこととかもあり得るじゃないですか。
でもそういうのって、なんか一旦もう横に置いて、そのメロディーを愛することってできると思うんですよ。やっぱり。
自分はやっぱり、でもとはいえこのメロディーが好きなんだよな、この曲好きなんだよなって言って、自分のものにすることできると思うんですよね。
なんかちょっとこういう感覚にあると思っていて。で、もちろん歌詞を理解したら、歌詞めちゃくちゃいいじゃんってなって、よりその曲がより好きになっていくみたいなことももちろんあるしっていう、なんかこういうことかなと思ってるんですよね。
うん、確かに確かに。
ただ、これって、J-POPとか今の音楽って大衆芸術みたいなもんでして、文学で言うと大衆文学、エンタメ文学みたいなもんでして、もうちょっと純文学の世界があるわけじゃないですか。
音楽の世界にもクラシックがあるわけじゃないですか。
こういう個展と向き合うとすると、わかんねーなーみたいなことになってくるから、どうしても頭で理解するって方向になりがちだよねって、そういう罠があるんだとは思うんですよね。
そういう時に、どういう風にしていくかっていうことだと思うんですよ。
これちょっとこの後、小林師匠さんがたくさん話してくれるから、そこで一緒に見ていけたらと思うんですけど、いいですよね。
ぜひ読んでいきますね。
はい。
「見る」ことの本当の意味と努力
あ、そうね。だから読者はわかりきった話だと言うでしょうと、ところが私はそれはちっともわかりきった話ではない。読者はおそらくそのことをよくよく考えてみたことはないだろうと言いたいのですと。
昔の絵は見ればよくわかるが、近頃の絵は、例えばピカソの絵を見ても何が何やらさっぱりわからないと諸君はやはり言いたいでしょう。
それなら私はこう言います。諸君が昔風の絵を見てわかるというのは、そういう絵を諸君の目が見慣れているということでしょう。
ピカソの絵がわからないというのは、それが見慣れぬ形をしているからでしょう。見慣れてこれば諸君はもうわからないなどとは言わなくなるでしょう。
だから目を慣らすことが第一だというのです。頭を働かすより目を働かすことが大事だというのです。
見るとか聞くとかいうことを簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞こえてくるし、特に見ようとしなくても目の前にあるものは目に見える。
耳の遠い人もあり、近眼の人もあるが、そういうのは病気で健康な目や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは誰にでもできる優しいことだ。
頭で考えることは難しいかもしれないし、考えるのには努力がいるが、見たり聞いたりすることに何の努力がいようか。そんなふうに考えがちなものですが、それは間違いです。
見ることも聞くことも考えることと同じように難しい、努力を要する仕事なのです。
これどういう努力がいるのかっていう、見たり聞いたりすることの鍛錬ってどういうことなのかという形ますけどね。
そうですよね。
まずはたくさん見る。そういうこと言ってるんですけどね。その通りなんでしょうけどね。
でもそれはそうですよね。確かに。なんかこれは結構共通していろんな方が言ってる気しますね。
坂崎おつろうさんっていう美術シーカーの方も、絵とは何かって本の中で、とにかくたくさん見ることだっていうことを言ってて、
その時にいいものばっかりを見るんじゃなくて、やっぱり下手なやつも見に行かないといけないんだみたいなことを言ってるんですよ。
なんかそういう曲と曲をちゃんと味わいに行くってことをして、初めて全体感がつかめたりとか、みたいなこともできるから、ちゃんと曲に振らないといけないって。
音楽、クラシック理解しようと思ったら、クラシック以外も一つのでかい音楽のフィールドとしては味わいに行ったほうがいいし、みたいなことなんだと思うんですよ。
うんうんうん。
なるほど。
感じるってことが大事ですね。
これどういう努力がいるのかって、この後小林裕生さんが語ってくれるんですけれども、
これ語ってくれていること以外にたくさんある気がしてて、改めて言うんなんですけど。
これちょっとやっぱり、なんか我々も考えないとなーと思ってたんですよ。
へーって語ってくれてるんですか。
この後ね、読んでいきましょうかね。
次期に口を聞く。
これはどこのライターだ。何昼か。いくらだ。
それでおしまいです。
黙って一分間も眺めた人はいない。つまらぬ話をするなだとは言わないでください。
諸君は試みに黙ってライターの形を一分間眺めてみるといい。
一分間にどれほどたくさんのものが目に見えてくるか驚くでしょう。
そしてライターの形だけを黙って見つめる一分間がどれほど長いものになるかに驚くでしょう。
って言うんですね。
一分間も何かを眺めたことないかもしれないです。
そうですよね。
そうなんですよね。
まずは一分間眺めろと。
いいですよね。
いいですね。
いいですね。美術館行って一分間眺めてほしいんですよ。だから。
企画展、特別展行っちゃうと人が多すぎて一分間も見てられないんですよ。
確かに。
これが悲しいとこなんですよね。
そうですね。
常設展。常設展オススメですけどね。
本当に特別展やってるときの常設展ってめちゃくちゃガラガラですからね。
そうですね。
ここなんですね。
まあまあまあ。いいですよ。特別展でも気にせずね。
眺めればいい。
一分間眺めたらいいもん。気にしたら負けだからもう。
ちょっと続き読みますか。
はい。
見ることは喋ることではない。言葉は目の邪魔になるものです。
例えば諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。
見るとそれはスミレの花だとわかる。
なんだスミレの花かと思った瞬間に諸君はもう花の形も色も見るのを止めてしまうでしょう。
諸君は心の中でおしゃべりしたのです。
スミレの花というのが諸君の心の内に入ってこれば諸君はもう目を閉じるのです。
それほど黙ってものを見るということは難しいことです。
スミレの花だとわかるということは花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。
言葉の邪魔の入らぬ花の美しい感じをそのまま持ち続け花を黙って見続けていれば
花は諸君にかつて見たこともなかったような美しさをそれこそ限りなく明かすでしょう。
画家は皆そういう風に花を見ているのです。
何年も何年も同じ花を見て描いているのです。
そうして出来上がった花の絵はやはり画家が花を見たような見方で見なければ何もならない。
絵は画家が黙って見た美しい花の感じを表しているのです。
花の名前などを表しているのではありません。
何か妙なものは何だろうと思って諸君は注意して見ます。
その妙なものの名前が知りたくて見るのです。
何だスミレの花だったのかとわかればもう見ません。
これは好奇心であって画家が見ることではありません。
画家が花を見るのは好奇心からではない。
花への愛情です。
沈黙と美の力
愛情ですから平凡なスミレの花だと分かりきっている花を見て見飽きないのです。
好奇心からピカスの展覧会なぞへ出かけていっても何にもなりません。
わかりやすいですね。
すごくよくわかります。
スミレの花なんだねって終わっちゃうのがよくわかります。
そこからがスタートなんですね。
それを一体横に置いて見ていくと。
なかなか難しいんですよね。
そうなんだよな。
エイルとかで話を聞くときにジャッジメントありの聞くとなしの聞くと分けて話してて。
まさにジャッジメントなしの聞くと同じことなんだよな。
そうですね。
思うことはあるんだけど頭で考えていることは一体横に置いて見るっていうね。
もう見た瞬間にそれが何かって定義付けちゃったりとか、
その概念が働いちゃうっていうかそこと結びつきが働いちゃうから、
そうするとそれはね、何か理性の仕業だし、自我の働きだし、
何かそこにこう、そっちの旋律に行っちゃうっていうか。
だけどそこを沈めてというか置いといて、ただ見る、ただ聞くみたいなことって本当にこう、
最初は意識しないと。意識しても難しいし。
やっぱ自動運転でそうなっちゃうっていうか。
そうね、そうなんですよ。
なんかやっぱモードを切り替えないといけないんですよね。
そのいつものモードとはね、やっぱね。
いいですね、好奇心で見るんじゃなくて愛情で見てるみたいなところ。
そうなんですよね。
ほんと来ちゃったな。
ほんとよくわかりますよね。
僕もほんと昔、23歳ぐらいの時かな、パリに1週間ぐらい、2週間かな、行って、
パリにあるルーブルだったりオルセイだったり、いろんな美術館見たんですけどね、
好奇心で見てたところ大きかったな。
なんか、おお、これが噂の、みたいな。
ゴッホの絵か、みたいな。
いやそうなりますよ、でも。なっちゃうでしょ。
なんか有名な絵を見たってことで満足しちゃってるんですよね。
つまらぬものですね、ほんとね。
いやー難しい、でも。やっぱそうなっちゃう、人間。
続き気になりますなって言ってるんですか。
続きね。
美しい自然を眺め、あるいは美しい絵を眺めて感動した時、
その感動はとても言葉で言い合わせないと思った経験は誰にでもあるでしょう。
諸君は何とも言えず美しいと言うでしょう。
この何とも言えないものこそ、絵描きは諸君の目を通じて、
直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。
音楽は諸君の耳から入って、まっすぐに諸君の心に至り、
それを涙出せるものだ。
美しいものは諸君を黙らせます。
美には人を沈黙させる力があるのです。
これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。
絵や音楽が本当にわかるということは、
そういう沈黙の力に耐える経験をよく味わうことにほかなりません。
ですから、絵や音楽についてたくさんの知識を持ち、
さまざまな意見を吐ける人が必ずしも絵や音楽がわかった人とは限りません。
わかるという言葉にもいろいろな意味がある。
人間はさまざまなわかり方をするものだからです。
絵や音楽がわかるというのは、絵や音楽を感じることです。
愛することです。
って言うんです。
わかるという言葉にもいろいろあるみたいな言いまくりがありましたけど。
わかってそれをたくさん話す人がわかっているとは限らないみたいな、
そんなこと言ってましたよね。
言ってましたね。
なんかそこは言いたくなっちゃうのもしかしたら、
わかってほしい人なのかもとか。
わかってほしいがうずくと、自分のわかっていることを言いたくなるっていうか。
なのかなとか。
黙らせる力があるとかね。
対象への没入と霊的態度
美には人を黙らせる力がある。
名言ですね、これほんとに。
なんか感受するっていうことは、受け取ることだから、そこには発する隙を与えないっていうか。
改めてそういうものなのかもって思ったりしましたね。
すぐに言葉に置き換えられないっていうか。
そうなんですよ。
だからこういう美術関係の本を読むときに、やっぱりこの沈黙に行った後、言葉を紡いでいるのか、
そこに至らず言葉を述べているのかってやっぱり全然違うと思うんですよ。
小林優さんの5本の手紙とか読んだときに、ほんとにやっぱり沈黙に至ったと思うんですよ。
至ってからあれを書いてるんだと思うんですよ。
これなんかわかりますね。
僕も最近、面白いことしてて、アンソロジーみたいな、いろんな人が書いている文章を一つにしたやつをパッと読んで、
どの人が自分の求めている人かっていう。
僕は一旦沈黙に至った人を何とか求めてるんですよっていうのをパッパッパって読まずして判断してるんですよ。
間違ってるかもしれないんですけれども、間違ってることもあると思うんですけど、なんとなく自分の中でちょっと判断してるんですよ。
それは文字読んでないんですよ。文字の形を見てるんですよ。
文字の形で、あれ、この人もしかしたらなんかありそうみたいなことを思って、初めて読んで、ない場合もあるし、ある場合もあるしっていう。
なんかね、トレーニングをね、ちょっと自ずとなんかするようになってきちゃったんですけど。
じゅうさんそれ特殊能力使ってますね。
ほんとですね。
でもなんか共鳴する部分があったりとか、おって響き合うところがあって止まるんでしょうね、このパッパッパ見ながら。
そうなんですよね。
面白い。
でもそういうのだいたいあってそう。なんか頭で考える前の判断、手の判断とか、身体に任せてる感じとか、目とか身体に任せてる感じって、すごいあってそう。
私もなんかその黙らせる力があるのところはすごい、この間鯨と一緒に泳いできて、帰ってきたらみんなにどうだったってやっぱ感想を聞かれるわけですよ。
なんだけど、とてもとても何か言葉で、ああ、どこだったみたいなことが出てこなくて。
そうなんだよね。
なんかこう、すごいありきたりなことを言っちゃうというか、すごくたどかい以上の言葉が出ないというか、なんか頑張って言ってご親僕みたいだったみたいな。
なんかそのぐらいしか出てこないんですよね。
そうそう。なんかそんな言葉になると結構結論になっちゃうんですよ。
そうなんですよね。そっから芸術家の仕事が始まってくるんですよね。いいですよね。でも本当そういう経験をするところから芸術家の仕事って始まってくるから。
そういうことなんですよね。
それをだから何か作品にね、絵とか音楽とか、何か作品という形でこう表現。もちろんそれは文学とかもそうなのかもしれないけど、
感受したものをそのまんまね、表現出すっていうことができるのが芸術家の仕事なんだろうな。
これちょっと思い出したんですけど、何年前だったかな。
3年か4年ぐらい前のときに、高橋岩尾先生っていうシュタイナー教育を日本に広めてくれた方がいらっしゃって、その方の講演を聞いてたときに、霊的態度っていう話をしてくださってたんですよ。
芸術鑑賞と同じ話をしてるって僕は思ったんですよ、そのとき。
そのとき霊的態度っていうことで高橋岩先生が話してくれてたことは、その目の前にある対象のことを対象の中に自分が入っていくんですって言うんですよ。
今私の目の前にマイクがあります。このマイクの中に入っていくんですって。
そうするとマイクがどういう風な背景で生まれてきたのか、このマイクは今何を私たちに語ろうとしてくれているのか、このマイクはなぜこういう風な形で存在してくれているのかっていうことを感じるんですってことなんですよ。
そうしたらね、入り終わった後は文化しちゃって分かれちゃってるけれども、でもかつてその中に入ったからもうそのマイクと自分は無関係ではなくなっていると、みたいなことを言ってたんですよね。
めっちゃ分かるな。私は色の中に入っていく、それこそその対象を色にして、黄色がテーマの日だったら黄色の中に入っていって、黄色のように振る舞ってみる、やっていくと黄色ってものが分かってくるみたいな、そういうワークショップをやっていて、まさにそういうことだなってすごい。
なるほど。
黄色と青じゃ全然振る舞いが違うから、そういうのを体得していくというか。
えりさん面白いワークやってますね、ほんとね。参加したいな。
ね、やりたいですね。
いやー、それ礼的態度っていう風に表現されてるんですね。
そうなんですよ。それはもう愛情って言ってましたね、高橋和先生もやっぱり。
なるほど。
人間もそうなんですよね。その人の中に入っていって、その人のことを感じて、その人が今どういう思いで存在してくれてるのかっていうのを感じていくんだって。
話を聞くっていうね、えりの皆さんがやってる態度はまさにそれですよね。
ねー。
また芸術、絵もね、そんな感じでね、絵の世界の中に入っていくとかね。
絵の場合、描かれてるものが画面の中にいろいろあるから、どこに入るかでまた、なんか味わいもいろいろ味わいそうだし、
なんかそういう視点で、色のことはそうやってワークショップでやってるものの、絵をそういう視点で見たことなかったなとか、今ちょっと気づきました、ちょっと。
うん。
なんか画面の端っこに描かれているものとかにもそうやって入っていってみるとか、なんかそういう風に改めてちょっと今度何かでやってみようって、なんか今思いました。
うんうん。
面白いかも。
彫像とかもほんとそんな感じですし。
彫像?
うん。
彫像って何のことって言ってます?
あ、彫刻。ごめんなさい、彫刻。
あ、彫刻ね。
彫刻もほんと全ての芸術に得ますね。文学もそうだし、その中に入っていくってね。
うんうんうん。
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