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2025-11-22 33:38

#82 妙好人とは?その魅力。妙好人・新蔵の不思議な言動と生き様 / 寿岳文章編『柳宗悦 妙好人論集』朗読解説その1

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今回は、柳宗悦さんの妙好人について書かれた小論を集めた、『妙好人論集』。

妙好人は、無学にも関わらず、仏法の真理を真に体現した人たちのことをいう。
彼らの言動は、常識では不可解に見えるが、その振る舞いに大事な教えが潜んでいる。
今回は、3人の妙好人を取り上げていきたい。

サマリー

今回のエピソードでは、柳宗悦の『妙好人論集』を通じて、浄土真宗における妙好人の概念が紹介されています。特に、新蔵という人物や無名の人々が体現する仏教の教えに基づく純粋な生き様について深く考察されています。このエピソードでは、妙好人と呼ばれる人々の不思議な行動や生き様が探求されています。特に神像という極貧の百姓の経験を通じて、人間の尊厳や仏教の教えがどのように彼の心を形成したかが考察されています。ポッドキャストでは、妙好人・新蔵の考え方や生き様を通じて、苦しみをどう受け止めるか、また社会の構造をどう変えるかというテーマが語られています。特に、新蔵が蚊帳を返却するエピソードを通じて、幸福の本質や物の見方が討論されています。

妙好人の定義
こんにちは。
こんにちは。
今日から聞いて変わりまして、えりちさんでございます。
よろしくお願いします。
お願いします。
じゅんさん、今日の一冊は?
今日はですね、柳宗さんの妙好人論集っていうのを持ってきました。
もう一回言いたいときですか?
妙好人?
妙好人論集。
そうなんです。
いわなみ文庫から出てまして、
寿岳文章さんって方が編集されてて、
柳文義さんととても親しかった人で、
文学者でありながら一緒に民芸活動もされてた方なんですけど、
その方が編集されたものでして、
柳さんが60代になってから、
いろんなところに雑誌やら新聞やらを寄稿した文章があって、
そのうち妙好人について書いた文章だけを集めた本になっていると。
ちなみにもうすでに妙好人って何なんですか?
そうですよね。
妙好人っていうのは仏教の中で、
特に浄土教の中。
もうちょっと言うと浄土新宗。
浄土新宗のことは新宗新宗って呼ぶんですけど、
新宗の日清な信者さんのことなんですね。
を妙好人って言うんですよ。
ただ日清な信者だけなんじゃなくて、
妙好人って逆蓮華を意味するんです。
白い蓮の花。
蓮っていうのは泥の土の中から生まれて、
泥に染まらず清い花を咲かす花ですよね。
それと同じようにこの姿勢の中で、
この俗世の中で略蓮華のように清い心を持った人が現れてくると。
それを妙好人って呼んでるんですね。
こういう煩悩に汚染されてなく平常無垢で純白に生きる人たちがいると。
それを白い蓮に例えて妙好人と言われてるんです。
それもほとんどの方が田舎の方で名もなき方で、
無垢で社会的地位も低く貧しい人たちの中に生まれてくると。
念仏の実践
そうなんです。
興味湧きました。
そうですよね。
新宗の教えっていうのは、前回南無阿弥陀仏で扱ったんですけどね。
もう一言で言うと念仏なんですよ。
南無阿弥陀仏って唱えたらいいっていうことなんですけど、
やっぱりとても簡単なんですけど、
この念仏を実際に信に生きた人っていうのはなかなかいないんです。
なんだけども、この田舎の名もなき無垢の貧しい人の中に、
念仏を信に生きた人がいるということなんです。
というちょっと不思議なんですよね。
不思議な人たちなんですよ。
不思議、純さんは不思議と。
純さんが思うんですね、不思議っていうのは。
それはやっぱり仏教っていうのは、
通常哲学って言われるぐらいすごく論理立てて考え抜かれているものですと。
お経の意味とかも理解していこうと思えば、
知的ないと並になってくるじゃないですか。
でもそんなことを全く知らなくても、
仏教の教えを体現している人がいると。
なるほど。
これをどう受け止めますっていう。
田舎の名もなき人たちですもんね。
でもいても、半分当たり前ですよねって思いますよね。
田舎っていうところが、自然の中に暮らしている人たちっていうところがすごくポイントなのかなっていうふうに感じがします。
ほんとそうですよね。
懐かしいですね、今の浮かんで、
イリスさんと前、図書館でやったガリレー部の言葉、
ガリレーガリ部の言葉を思い出しますね。
神は聖書を2つ作ったっていう話。
一つは聖書。
もう一つは自然。
はい。
だからその自然の方を通じて、真理を体得した人がいるっていうことなんですよね。
そうなんですよ。むしろなんかその、たくさん学んでる人の方が、
帰って退院することから遠のくってことさえあるんじゃないか、みたいなことを柳さんは言ってるっていう。
なるほど。
いいですよね。
いいですよね。
いいですよね。
いいですよね。
いいですね。
いいですよね。
魅惑人の本って少ないんですけど、魅惑人に惹かれた人ってたくさんいて、
僕の敬愛する人で、志村福美さんとかも魅惑人とっても好きですしね。
魅惑人の本自体を書いてる人は、有名な人だとやっぱり鈴木大節と柳宗義さん。
有名だとこのぐらいですかね。
仏教の専門家とかってたくさん書いてるんで、仏教好きな方はもっとたくさん知ってると思いますけど。
でもこの鈴木大節と柳宗義さんもね、2人とも共通して言うのが、
魅惑人の振る舞いとか、彼らが残した言葉を読むと、
もうそれは禅の師匠の言葉を読んでるようだって言うんですよね。
いいですよね。
いいですね。
なるほど。
なんかこの平平大の現代に生きる我々にすごく響きそうな。
そうなんです。
感じがもうしますね。
そうなんですよね。
柳宗義さんこれどこだったかな、どっかのところに書いてあったんだけど、
自分が60代になってから書いてるものばっかりなんで、
病院で寝込みながらこれ書いてますと。
そういうときに、やっぱり魅惑人の話を読みたくなると自分は。
それは魅惑人っていうのは、どんな逆境でも順境として受け取っていくから、
自分をそういうふうにして生きてみたいんだと。
魅惑人のだからそういう振る舞いとかを見るのが、
勉強になるんでしょうね。
なんかこの感覚すぐわかるなと思ってて。
以前カラマーゾフの兄弟、長く扱ったときも、
主人公の有良者の振る舞いっていうのが気になって仕方なかったのもそういう感じで、
普通の人と違う挙動をしたりするから、
聖者と言われる人はこんな振る舞いをするのかみたいな、
そういうのが面白くて読んでたんですけど、
ちょっと近いところありますね。
だから今日ここから3名お話引っ張ってきたんですね。
1人目は新蔵さんっていう方で、
2人目は名前も出てこないおばあちゃんの話で、
3人目はある夫婦の話なんですね。
扱っていきたいなと思ってます。
どんな方々なんでしょう。
じゃあちょっと最初の新蔵さんから扱っていきますね。
ちょっとね、これ妙行人っていうタイトルの文章なんですけど、
新蔵さんの話の前に、妙行人っていうことがどれだけ大事かっていう文章があるんで、
せっかくなんでそこから読んでみますね。
念仏の趣旨を了解するには、了解って了解する、得得するってことですね。
念仏の趣旨を了解するには、
もとより三部教や宗祖たちが残された数々の功長を紐解くことが、
勤用であるが、従用であるが、
それにも増して妙行人の言葉や行実を味わう方が直接的で感銘でよい。
くだくだしい知識などを通さずに、心に自義げに訴えてくるものがあるからである。
上行、器用技、上行に関する一切の文字は、
実は妙行人を生むための準備であったと言っても過言ではあるまい。
って言うんですね。
いろんな難しいお経がたくさん、三部教ってあるけれども、
そんなことよりも、妙行人の言葉や行実、行ったことを味わう方がよいと。
ああいうお経っていうのも、妙行人を生むための準備であったと言ってもいい。
言ってるんですね。
ちょっと続き読むと、
原物集の教えは、一遍承認の述べられたごとく、
千鶴に一切をナムアミダブツの六次に記入することにあって、
そのほかに別に秘儀があるわけではないが、
この六次への記入が、何を人間一生の上に課すかを、
直接に、また最も具体的に示すものこそ、妙行人の生活なのであって、
仏教そのものが、人間の日々の生活の場を離れていないことを示す例としても、
妙行人の行実ほど外説なものはあるまい。
妙行人の振る舞いほど適切なものはあるまい。
同じこと言ってるんですけどね。
仏法、百戦の教えも、万億の言葉もすべて、
妙行人を生むために費やしていると思える。
王政要衆も、先着衆も、強行臣将も、その教えの核心はすべて、
妙行人の中に結晶されているとさえ言えよう。
幸いにも、それらの人々の生活は断片的にも記録されていて、
今日残るものが少なくはない。
私はここにいくつか例を挙げて、いかに妙行人の生活や言葉が、
念仏の教えに適しきったものであるかを語ってみたい。
って話が入るんです。
だから、どうなんですかね。仏教を学ぶ方って、
妙行人意識されてる方どれだけいるんだろうな。
あんまり聞かないですけどね。
妙行人はセットで出てくるんですか?特に浄土神宗では。
そうですね。妙行人って浄土神宗の中から生まれてきてるのがほとんどなんで、
浄土教を学ぶんだったら、妙行人を学んでいく人が多いんでしょうね。
でも普通やっぱりこれは王政要集を学んだり、先着集を学んだり、教養神書を学んだりとか、
こういうお経を学んでいくってことになりがちだと思うんですけど、
こういうのを読むと、そんなことよりも妙行人に意識向けた方が、
よっぽど学びがいがあるんじゃないかって感じがしてきますよね。
自然で生きてる人たちって感じ?
具体的な事例
そうそう。そうなんですよね。
どうしても生きた教えとして学ぶっていうことを考えると、妙行人は外せない感じがありますよね。
この神像さんとか、あるおばあちゃんとか、ある夫婦とか、そういう人たちを取り上げたものが、
集められた本になってるんですかね。
そうなんです、そうなんです。
でもその名もなき人たちも、どうなんでしょうね。
生まれながらにして成人のようかっていうよりかは、
やっぱりいろんなことを経験して、そういうふうになっていったっていうことなんですよ。
その歩みを見ていくっていうことが、やっぱ大事なんですね。
なんですけど、やっぱり残ってないことも多いから、
一人一人がどんな経験をして、どういうふうに変わっていったのかってことは、
なかなか明らかになってないんですよね。
なるほど。
だから本当は研究しがいがある領域だと思いますね。
まあまあ、ちょっと神像さんの話を読んでいきましょうか。
はい。
神像さんなんて面白いっすよ、ほんとに。
もうたまんないですけどね。ちょっといきますね。
はい。
ましょう。
幕末ごろ、武善の国。
武善の国って福岡東部とか大分の北西部あたりなんですけどね。
九州の北部です。
幕末ごろ、武善の国中津郡八富村に神像と呼ぶ極貧の無額な百姓があった。
縁になって一家諸とも神州に帰えして、日々仁王号を唱える身になったが、
かつて外出のみぎり、村の相撲がかかっていたので、神像も見物人の一人に加わった。
ところが、一人の大男の相撲鳥が投げられて大けがをしてしまった。
その時、仲間どもが、
これは必要、見物人の中に穢らわしい人間が紛れ込んでいるためのたたりに違いない、
と言い出して、その人間を探し回った。
ところが、見物人の中に破れた古着を着て、
頭髪を縄で結んだみすぼらしいなりの神像を見つけ、
お前こそ、この得ただと罵って、得た、得た非人の得た、得ただと罵って、
必要、この人間のたたりだということになり、大勢の者が寄ってたかって神像を殴ったり蹴ったりして、ひどい目にあわせた。
神像はようやくその場を逃れて、家に戻ったが、妻に向かって、
今日は力頃にないありがたい御意見をこう思った、と話した。
妻も、それは幸せなこと、早く私にも裾分けして喜ばせてください、と申した。
そこで神像は、相撲上でカクカクのことがあったと話し、
この世で、得たと見間違えられるこの身を、阿弥陀如来と同体にしてくださると常々徴問しておるのに、
歓喜の心も少なく、うとうとしく暮らしている身に、御意見くださったと思うと、
なんとありがたいことではないか、お前も喜んでくれ、と言って、夫婦諸共、歓喜予約して喜びあったという。
暴力と仏教の教え
これで文章終わりなんですよ。
最後何言ってるかよくわからなかったと思うんですけど、なんとなく起きてること伝わりました?
なんとなく、情景は浮かびましたよ。
ある日、相撲してるところに行ったら、御相撲さんがお怪我してしまって、
これは何かの祟りに違いないと。
周囲見回してみたら、みすぼらしいなりをしている神像を見つけて、
こいつだと言って、大勢の人が寄ってたかって神像を殴ったり蹴ったりしたと。
にもかかわらず、神像は家に帰って奥さんに、今日ありがたい御意見をおいてもらったと言ってるんですよ。
ちょっと意味わかんなくないですか。
そうですね。
散々な目にあったってね。
そうそうそう。
うらやるところ。
そう。
これもう一回読むと、
この世で、神像が言ってる言葉。
この世で得たと見間違えられるこの身を、
アミダニョライと同体にしてくださると常々聴聞しておるのに。
って言うんですよ。
世間から避けすまれるこの身ですが、
仏は私をも尊い存在だと言ってくださるんですと。
みたいなことですよね、これね。
アミダニョライと同体にしてくださると常々聴聞しておるのに。
そういうふうにありがたい言葉を聞いているのに、
歓喜の心も少なく、
うとうとしく暮らしている身に、
ご意見くださったと思うと、
なんとありがたいことではないかと。
お前も喜んでくれって。
だからそういうありがたい言葉をもらってるのに、
感謝を忘れていた自分に、
仏は目を覚ませと。
というふうに教えてくださったと。
この出来事は殴られたことすら、
仏からの慈悲なんだ。
ことのように受け止めてるんです、心臓は。
ちょっと意味わからないですよね。
変態ですよね、だいぶ。
変態ですよね。
すごいな。
そうなんですよ。
殴られるとか侮辱されるとかはね、
理不尽な暴力を、
ありがたいって受け止めることなんて到底できないじゃないですか。
その感覚だと。
そうですよね。
むしろそれは、
そんな暴力は許されるわけではないって反発するのが、
自然な気がしてて、
その反発は全く正しいと思うんですよね。
人間の尊厳みたいなことを照らして考えると、
当然の反発。
でもなんで心臓はそれを、
こういうふうに受け止められるのか、
っていうね。
困難こそ、
ありがたいみたいなね。
そうなんですよね。
その感覚ってなんかこう、
本当に自分が病になった時とか、
結構こう、そういう酒がたい不条理な運命の時に、
そうやって治療する感じがあるんですけど、
なんかすごい日常の些細なことじゃないですか。
こんな相撲さん、日常教出ても相撲さんがやられててみたいな。
こんなところまでこういうふうに受け止めるのか、みたいなね。
なんか、あって苦しんで、
それが消化したときに、
ああ、あれがあったからこれに気づけた、みたいなのはあったりしますけど、
心臓さんは、家に帰ってすぐ奥さんに喜んでくれって言える心臓さん?
そうなんですよ。
すごい整ってる。
ほんとねー。
これ読むと、
暴力許されるわけではないっていう、
それってある種倫理とか正義の次元で、
心臓さんの次元って信仰の次元に立ってるっていうかね。
なるほど。
なんかこの信仰の力ってこういうところにあるんじゃないかなって感じがしてくるんですよ。
えりさんおっしゃってくれた通り、この世のあらゆる出来事っていうのが、
自分の理解とか善悪を超えて、仏の計らいの中で起きているんだ。
だから苦しいことも、私を目覚めさせるための仏の言葉なんだっていう、
そういう信仰を持っている。
信仰の力と社会の是正
まあでもなんかこれ、
改めて今回読んでみて、
ちょっと違う見方なんですけど、
こういうの読んでるともう1個大事なテーマがあるなと思ってて、
こういうふうに苦を引き受けられるっていう人は、
より自由に生きられるし、
とても大事なことなんだけれども、
そういう心臓のように、受け止め力でいろんなことが肯定されちゃうと、
世の中の社会を是正するみたいなエネルギーが、
失われていくんじゃないかっていう感じもしてるんですよ。
なるほどね。
わかる気がしますよ。
そうそうそう。
だから普通に、いや怒っていいだろっていうツッコミがあるというか、
そっちはそっちで大事で、みたいな。
でも一方で、やっぱこの信仰の力っていうのか、冷静の力っていうのか、
そういうところ。
自分とか他者とか、自分の感じる善悪みたいなことを超えて、
何か理不尽の中すら慈悲の形で受け止める境地みたいなことも、
片方で大事。
っていうか両方大事なんだよなっていう。
本当にね、なんかすごい今の話聞きながら、
公園で我が子がお友達に、
なんていうのかな、ちっちゃい頃ね、
お砂場で道具をえいって奪われちゃったりとかして、
それに直面したときの気持ちみたいな、
なんかそういうのがワッと、その情景が浮かんだんですよね。
そのときに、奪われるがままに泣く我が子に対して、
親側はいろんな反応があるんですよね。
確かに。
私は割と、泣いてる息子を慰めるみたいな行動に出るんですけど、
別の親御さんはそういう目に遭うと、
やられっぱなしで、うちに使いたいんだ取り返したっていいんだよみたいな。
この子はやられちゃうから、
やられたらやり返せみたいな、
他のママ友の話とかも聞いたりする。
そういう倫理善悪みたいな、
そういうのに直面したな、みたいな。
なるほど、なるほど。
確かにな。
そのとき、確かにいろんな考えがありますよね。
ちょっと心臓みたいなタイプだと、
いいじゃない、あの子が楽しめるんだったらそれでいいじゃない、みたいな。
いいことしたね、みたいなね、
そういう感じとかね。
ハートの話だから今。
そうですよね。
そうなんですよね。
僕、カウンセリング的なこともしてたのでね、
そういうのをしてると、
同じこと思うんですよ。
苦と社会の関係
自分のところにやってくる病んだ人が、
カウンセリングによって、
その人の力で回復していくんだが、
もともとその人がそうなった、
何か社会的な構造みたいなものがあるんだったら、
そっちを是正する動きをしない限り、
いくらでも人が病んでくると。
だからカウンセリングしてるだけだったら、
社会の不正な構造を温存させる働きがあるんじゃないかって思って、
それはよくないだろうって思ってたときがあって、今も思ってますけれども。
個人としては、苦をどう受け止めるかっていう次元で、
こういう振興の話が大事なんだけれども、
社会の話になってくると、
どうやってこの苦をなくせるかっていうか、
もっと構造側を変えにいくっていう、
この両方、ちょっと矛盾しそうな感じがしてて。
自分が需要できちゃうと、
治しにいくっていうエネルギーが消えちゃうような感覚もあり、
でも矛盾せずに同じエネルギーとして、
うまく活用したいな、流したいなっていうのを感じていて、
そういうのもテーマである気がしますね。
新蔵のエピソード
イセリアン氏を胸に迫りますね、早速。
心臓さん。
これ、ちょっと読むつもりなかったんですけど、
心臓のこの文章、続きの文章ちょっと読んでみていいです?
これまた引き続き心臓のエピソードなんですけど、
また村に有徳の彦江門という人があって、
心臓があまり貧乏であるのを気の毒に思い、
ある夏の頃、蚊帳を貸してやると、蚊帳ってあの蚊を守るやつね。
網みたいなやつ。蚊帳を貸してやると、
わずか2、3日して返しに来た。
心臓に貸したのに、彦江門って方は心臓気の毒だと思って、
蚊帳を貸したのに2、3日して帰ってきたと。
なぜ秋まで使わぬかと尋ねると、心臓の優には、
この蚊帳の中に休ませていただいたところ、
あまりよく眠って御恩を忘れて暮らしたことがもったいなく返しに参った。
と言って、また元のごとく蚊に刺されながらも念仏を唱えていたという。
今の伝わりました?
伝わりましたよ。
この蚊の中に休ませていただいたところ、あまりにもよく眠れるんだと。
それはもう、御恩を忘れて暮らしたことの感じがして、それがもったいないって。
だから返しに行きました。
これすごくないですか。
ちょっと物好き。
そんなのお前使っとけばいいじゃないかって。
思っちゃう。
思っちゃいますよね。
これだからちょっと世界観違うんだよね。
心臓さんにとって、
何かの本で感じてたんですけどね、
幸福っていうのはとにかく神物と共にあることなんだっていう感じの幸福感を持ってる人がいて、
心臓さんもそういう感じなんですよ。
念仏を唱えているってことがもう、幸福とかそういう次元じゃない気がするんですけど、
でも真の意味での幸福なんですよ、たぶん。
それが痛みがあろうが。
だから、仏のことを忘れてぐっすり寝れるというよりも、
ちょっとくらい痒くても念仏となれるぐらいのほうが、自分にとってはいいんですっていう。
そういう感じ?
快適の一歩手前が、ちょうどいろんなことを忘れずに戦っていられる自分のちょうどいいポジションみたいな感じですかね。
そうですね。
現代でもね、ちょっと全然次元違いかも言いますけど、
もう何て言うんですか、あえて便利な道具使わずに自分でやろうみたいなね。
あー、ちょっとわかるな。AIにいろいろこう、チャットGPTに頼らずに、
結局やっぱり自分で苦労して紡ぎ出して、文章のほうがいいって思った。
チャットGPTとの距離感、ちょうどいい距離感が収まっていった感じがあるんですけど、私。
それの、ちょっと変態バージョンみたいな。
そうですそうですそうです。
隠されるぐらいのほうがみたいな。
そうなんですよ。
料理するにしても自分で育ててとかね。
農機具もちょっとでかいの使わずにあえて自分で田舎してみてとかね。
そういう感じ。
まあそれはちょっとその方が楽しいって感覚があるからまたちょっと違う話、違う話な気もするが、
まあまあそんなに離れてない話でもあるというか。
こういう感じなんですよね。
面白いなあ。
面白いですね、でもね。
ちょっとじゃあ次のおばあさんの話いきましょうかね。
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