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#109 仏の微笑の深み、亀井勝一郎が感じた中宮寺・如意輪観音 / 亀井勝一郎『大和古寺風物詩』朗読解説その4
2026-05-30 18:52

#109 仏の微笑の深み、亀井勝一郎が感じた中宮寺・如意輪観音 / 亀井勝一郎『大和古寺風物詩』朗読解説その4

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今回は、亀井勝一郎さんの『大和古寺風物詩』

奈良大和の古寺巡礼を巡り、亀井が深く感じた名文を読むことで、
仏像や古寺をみる深みに連れて行ってもらえます。

もちろんそれは、仏教の深みに歩むことでもあります。

■本書は、青空文庫にあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001870/files/57496_60805.html

感想

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00:00
じゃあね、次行きますね。中宮寺っていうところに入るんですけども、中宮寺って法隆寺の隣にあるんですね。で、天寺なんですよ。
だいたいその男性用と女性用のこの天寺、セットで立つってこと。必ずセットじゃないんだけどね。
国分寺とかは必ずセットでバーって作られてるし、法隆寺も中宮寺が天寺としてあるという感じなんです。
中宮寺ってね、有名なのがね、検索してもらって見てもらえたらと思うんですけど、如意輪観音像っていうのがあるんですよ。
頭にね、お団子2つ乗ってるような。有名な観音像なんだけど。これについてね、書かれてあるんだけれども、それもね読み応えあるんですけどね、ちょっと今日あえてね、あのね、庭?中宮寺の庭について触れてる文章があって。
僕ちょっとびっくりして。その庭とか、僕行きましたけど全く意識してなかったというか、誰も目も止めないんですよ。庭なんて。中宮寺の庭なんて。でも亀井さんはこの庭がいいとかって言い始めたんですよ。
それがもうまず驚きで。ちょっと読んでいきますね。
私はこの庭をどう形容したらいいか考えてきたが、結局美少の庭と呼ぶのが最もふさわしいようだ。中宮寺の庭は確かに美少している。美少なるはゆえに誰も気づかない。
それは、しぃぼさつの、これしぃぼさつって言ってるのは、中宮寺にある如意輪観音像のことね。それはしぃぼさつの口のあたり、後編に浮かぶ、あるか無きかの美少の余韻かもしれない。恩長かもしれない。
また、白砂の庭に降り注ぐ日光が程よく中和され、それが胴内に反射して、しぃの姿に一層柔軟性を与えていることも考えられる。しぃ像はおそらくこの光を授与として吸収してきたのであろう。
しばしば中宮寺を訪れているうちに、私はこんな感想を抱くようになったが、しかし、遠く離れて心の中でこの天寺を思い浮かべるとき、特に美少のことが一番強く思い出される。
03:00
ぼさつ像も庭もすべて含めて、中宮寺全体が美少の光の中に浮かび上がってくる。そしてそれが次第に一つの思想に結晶していくのである。
私は戦争の終わった秋、この文章を書いている。
二年間というもの、大和を訪れる機会はなかった。
荘園と貴賀の都に住んで、最も同型したものは何かと問われるならば、私は美少だと答えよう。
それは、戦争の現実の中で得られたかと問われるならば、いかんながら否と答えにはならぬ。
さらに、日本の敗戦の理由を問われるならば、美少の喪失にあったと答えたいのだ。
私はこの言葉によって何を求めていたか、必ずしも後編に浮かんだ美少のみではない、精神のある健全な姿を求めていたのだ。
自ら、繊細な心、深い思いやり、隠れた愛情、慈悲、柔軟性、様々な表現を美少という一語に含めて、これを戦乱の巷に求めていたのであった。
そういう日の自分の念頭には常に忠愚寺の寺像があり、光の庭が無限のように浮かび上がっていた。
私にとってそれは美少の泉のごときものであった。
っていう文章なんです。
いや、恐ろしいですね。
恐ろしい文章だな、本当に。
庭を見て。
忠愚寺の庭なんてさ、そんなね、枯れ山水のように作られてるわけじゃないんですよ。
何気ない庭なんですよ。
本当に誰も目を向けない、そういうところに寄せずして生まれた無類の芸術作品を見てるんですよね。
しかもそれが忠愚寺のこの尻簿札と見事に一体してるんだっていう。
あっぱれだ。
本当にこう書いてくれるから、ちょっと忠愚寺も書いて、今度は庭を見てみたいですね。
すごい穏やかでふわらかで、そういう空気が行ってないのに漂ってきました。
06:01
確かにね、法友寺は人がいっぱいなんですけどね。
人がいっぱいって言っても知れてますけどね、本当に。
でも、割と人が多くて忠愚寺になるとちょっと人減りますね、やっぱりね。
だから静かなんですよ。
それでね、ちょっと続き読むとね。
あと、もしそこに懐かしさがあるなら、必ず振り返って別れを惜しむであろう。そうさせる力が五行なのだ。
人間の心は目や表情にも現れるが、後姿にはっきり現れることを忘れてはならぬ。
人は後姿について全く無意識だ。そして何気なくそこに全塾を表すものだ。
後姿は悲しいものである。無情のように生きる者の悲哀、生の疲れ、無限の嘆きを宿しているように思われる。
例外なく、何かしらの人生の重荷を背負っているからであろう。だからこそ懐かしいのではなかろうか。
微笑を持って別れる者は美しい。
なんかなんで涙が出てくるかわかんないんですけど。
人間の心は目や表情にも現れるが、後姿にはっきり現れることを忘れてはならぬ。
人は後姿について全く無意識だ。
そして何気なくそこに全塾を表すものだ。
人とお別れするときに、その人が角曲がるまで見送る人っていらっしゃるじゃない。
09:09
送りする人って後姿見てるじゃないですか。後姿見る人なんですね。
ずっと後姿を見られてる人っていうのは、見てくれてる人の後姿見てないんですよ。
そのことがすごいことだなと思って。
後姿は誰にも見られないから後姿なんだな。
こういうところに人間の愛情みたいなものが象徴されてるんだなって思って。
あと懐かしさね。根源には微笑は自ら沸く泉のごときもの。人工的には作れないって言うもんね。
その根源には必ず懐かしさがある。
その懐かしさがあるから人と別れた後、後行のように振り返って別れをしむのであろうって。
振り返るのは後行なのか。
こういう文章を読むと仏像っていうのは本当は仏なんですよ。仏像は象じゃないんです。あれは仏そのものなんですよ。
だけど僕らは仏を感じることはできない。そこに象があるのを見てるだけでしょ。
仏を感じるっていうのはこういう自分が別れをしむ人の中に見るってことの方が現代には合ってるのかもしれないな。
続き読みましょうかね。
菩薩とは、かかる懐かしさに成就するものに違いない。
慈悲とは、高所より高いところよりの同情心や博愛ではなく、もっと身に詰まされた生のお嘆きであろう。
善をのみ懐かしむのではない。悪をも懐かしむのだ。
いっそ善悪を分別せぬ人間のありのままの姿に身を沈めていくのだといった方がよい。
12:00
すなわち化身の諸作である。化身とは写真である捨て身である。苦痛に違いない。
慈悲の根底にある無限の忍耐、いわば人生を絶えに絶えた挙句、ふとあの微笑が湧くのかもしれぬ。
クゼ観音や中宮寺詩像の微笑は極度に内面化されたものだ。
あの後編を見ていると、何かを言おうとして口御持っているように感じられる。
それは微笑の寸前であると共に道国の寸前でもあるように見受けられる。
菩薩の微笑とは、あるいは道国と一つなのかもしれない。
清算な人生に向かって、思わずわっと泣くほんの少し前に浮かび出る微笑であるのかもしれない。
切り分けてみるんじゃなくて、両方で一つというか。
化身、化身で化ける身って書いてあって、観音様、観音菩薩ってね、33の姿に化身するって言われてるんですよ。
いろんな人たちがいるからね、その人たちに合う姿として化けて現れてきてくれるって。
11面観音もそうだし、千住観音もそうだし、この中宮寺にある乳林観音もそうなんですよ。
なんちゃら観音っていうのは全部観音菩薩の33の化身の姿なんですね。
で、そういう化身っていうのはね、写真、捨て身であるって言うんですよね。
慈悲の根底にある無限の忍苦、言わば人生を絶えに絶えた挙句、ふとあの微笑が湧くのかもしれない。
うーん、あれ柳文義さんの目磁気承認の本扱ったと思うんですよ。
15:07
柳さんもあれ目磁気承認が作った目磁気物と一緒に生きてたじゃないですか。
ね。いやなんか思い出したな。
ああやって、ああやって物像を見るのがいいのかもしれないな。
見るっていうか、そうやって物像と一緒に生きるのがいいのかもしれないな。
なんかこう観光気分で見るときってあんま苦痛感じてる自分じゃないから。
楽しいときに見てるから楽しいモードのときに物像と出会うことって難しいのかもしれない。
だからもうちょっと日常の中に置いといて、日常の中で物像を見るのがいいのかもしれないな。
ちょっと続きを見ますね。
我々はただ後編口の周りに気を取られているが、後編の微笑とはおそらく余韻だ。
菩薩の心を心の奥には七点抜刀の苦悩があり、言うに言われぬ思いがあり、
どうにも致し方なくてあたかも波紋のように浮かべてみたのが微笑なのかもしれない。
それは瞬時にして憤怒の姿ともなり道国の表情とも変わるであろう。
クゼ観音やシー像の微笑は永遠なるものとして刻まれているが、それは同時に刹那だ。
あるかなきかにたちまち消え失せるかもしれぬほんの一瞬を止めたのだ。
人間のこうした力はどこから出てくるのであろうか。
微笑で至難の刹那を、よくぞ菩薩像の後編にとどめたものだ。
実に恐ろしい凶端すべきことである。
いいですね。
あのにょみりん観音の美しい微笑の柔らかな姿から、
瞬時にして憤怒の姿や道国の表情を見ているっていう。
そういうところまで行くんだな、亀井和一郎さんは。
18:06
必ずしも仏像じゃないといけない理由はないんですけどね。
仏像にそれを見ずして他のものにそれを見れればそれでいいんですけどね。
後姿に仏が見れれば。
確定ですね。
そうなんです。
こういうのが中時にこれでございました。
ちょっと法輪寺も扱いたいんですよ。
なので次ちょっと法輪寺に行きますね。
18:52

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