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ここまでちょっと時間が経っちゃいましたけど、詩を紹介せず終わるわけにはいかない。
そうですね。
あと書きだけでここまで。
でも詩も確かにね、ここまで聞くとね、ちょっと出会いたいって気持ちになってますよ。
そうですよね。ちょっと行きましょうか。
詩もね、僕いくつか付箋を張ってきて、どうしようかな。ちょっと僕が一番好きな詩言っていいですか。
道でバッタリっていう詩です。
バッタリ、カタカナで書いてますけど、道でバッタリ。
すごい短い詩です。読みます。
道でバッタリ 道でバッタリ 出会ったよ
何気なく 出会ったよ
そして両方とも 知らん顔で通り過ぎたよ
でも僕にとって これは世の中がひっくり返ることだよ
あれから何遍も この道を歩いたよ
でももう一度も 会わなかったよ
と書いてますね。
前半をね、出会ったよと、両方とも知らん顔で通り過ぎたよ。
でも僕にとっては これは世の中がひっくり返ることだよ
あれから何遍も この道を歩いたよ
でももう一度も 会わなかったよ
12歳が書いたとは思えない。本当に。
すごいですね。
僕も日常を美しんでいきたいって、大事にしていきたいってもちろん思ってますけど、
それってつまるところ、この世の中の一回性っていうものを感覚することですよね。
一回しかないっていう。
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すべてこの瞬間一回しかないっていうことを感覚することに尽きる気がするんですけど、
でもなんかそれをさ、
ある意味世の中の当たり前の言葉だから入ってこないわけですよ。
一回しかないからとか、今この瞬間って一回しかないからとか。
よく言われますね。
手に垢がついた言葉みたいな感じになっちゃうというか。
でもこれ、死でこうやってね、例えば道で会ったり、出会ったよってこれ言ってくれた方が、
入ってこの真理が入ってくるっていうね。
それが残るんですよ。
これが死とか、この物語の力なんですよね。
逆ちゃ、誰もが分かる言葉でしか書いてないんですよ。
道でばったり会うんですよね。
誰もが知ってるであろうタイプ。
特別なことでもないよね、ある人。
別に道だけじゃないっていう。
道だけじゃない。
今僕がこの家にいるっていうこともすごいことだし、
12歳の子供がもう分かってるっていう、またこれですよ。
この子がすごいとも言えるし、
子供は12歳にしてもう分かってるんですよっていうことでもある。
それが死という形で表現できる子がいたりいなかったりする世界ですね。
そういう世界ですから。
素晴らしいね。
すごいね。
こういうのはね。
もうちょっといきます。
せっかくなんで。
じゃあ、「雪」っていう作品いきますね。
雪。
白い宝石をどんどん空から落っことす。
でも僕たちもらってもしょうがない。
それはすぐに溶かしてしまうもの。
空のように大事にしない。
なのになぜ空は僕たちに雪という宝石を落っことすのかな。
いいですね。絵も描いたんだね。
そうだね。これは誰かが描き足してくれたやつなのかな。
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雪もカタカナなんだね。
そうですね。
これは普通たぶん漢字で描くと思うんですよ。
漢字はちょっと普通の我々の日常的な漢字があるから、
それとちょっと違う、やっぱり知的な言葉に、ちょっと違う言葉にするためにカタカナを用いてるんだと思うんですよ。
普段あなたが思っている雪じゃない雪ってことを表現したいがために、
ちょっと距離をとる。
そう、してるんだと思うんです。
へー。
これどう?平野淳さん。
これねー、好きな。
いやー、僕も詩を書く人間として、雪を見てこれを描けるってことがまずすごいことだなって感じ。
僕たちもらってもしょうがない。それはすぐ溶かしてしまうもん。
空は大事にしてるんですよ。人間と違って。
そうね。
空は大事にしてる。人間は大事にしない。
なのに、なんで空はこんなにも僕たちに宝石と言ってもいいぐらい素敵な雪を落っことし続けてくれるのかっていうふうに。
空は大事にしてないって捉えちゃいそうだね。自分だったらね。
確かにね。
落っことすからね。
でもそれは空が大事にしてるって言われるから、聞いててもぱっとここに何か引っ掛かりがすごく生まれましたね。
やっぱ小石銘さんが後書きに、この子はね、澄み渡った青空に帰っていったのでしたみたいなことを言ってたと思うんですけど。
やっぱり空ってもう一つの世界というか、やっぱり人間とは違う世界であって。
天空からのある意味の慈悲を、絶え間ない慈悲を、なんか私たちは見逃してるっていうこともあるし、
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私たちが大事にできてないっていうことをその至らなさを踏まえてでも注ぎ続けているっていう、
なんか慈悲深さを、雪ということを通じて表現してくれてる。
これなんかやっぱ、ちょっと、そういう世界観を17歳の子が書いたっていうのが衝撃で。
そういう眼差しで雪を見てた。
そして雪と出会ってたんだね、彼らね。
この子の目には、人間の醜さとか至らなさとかっていうものも見えてたっていうことでもあるし、
天空からの慈悲深さっていうのにも見えてた。
すごいですね。
でも我々も、もしかしたら子供の時そう感じてたのかもしれないなと思い出していきたいですね。
感じてなかったとは言い切れないね。
分からないね、確かに。
確かに雪になんかね、惹かれてましたからね。
こういう言葉にはなってなかったかもしれないけどね。
どうしましょう、あともう1個ぐらいありますか。
うーん、そうだな。
じゃあ、部屋いきますね。
部屋。旅から帰り、自分の部屋を見つめてみると、
どこも違っていないのに、何か違うふうに思われる。
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この子やっぱ、だってもうなんか靴尻がね、見るって子供のこの深さを感じる。
雨。
どこも違ってないのに。
これさっき甲子明さんが日記返してたけど、日記から詩に変わったって言ってたじゃないですか。
これ、本当に日記と詩の間ぐらいですよね。
確かにね。日記の一部とも見えるもんね、倍の。
そうそう。
てかもう、さっき君からすると、もう日記と詩の区別なんかないかもしれないぐらい。
日記書いてたら自然と詩になっちゃってた。
これを詩と読むのか日記と読むのか、もうそんなの任せますみたいな。
そんなことは大事じゃないからね。
確かにね。大人がね、頭で強いてるその境界線はあんまなかったかもしれない。
いやね、本当にすごいですね。
この実感。この実感があるからこういう作品が生まれてくる。
切り取るのがすごいね。
そうやって言葉にしてもらえると、たぶん誰もがもしかしたら共有の感覚としてあるものというか。
部屋の方を描くってすごいよね。旅じゃなくてね。
旅のことも描いてるのかもしれない。
その後の部屋まで、部屋を描くっていうのがね。
これね、旅から帰ってきた、いわゆる自分の部屋、外的な部屋とも読めるし、
これは自分の内の内的な部屋とも言えると思うんですよ。
自分の心に帰ってきた。
本来の自分はこうだと思っていたけれども、
そうじゃないのかもしれないと自分で自分のことを思えたっていうふうにも読める。
なんか違うふうに読まれる。
部屋を描くことで帰って、旅についてすごく膨らんでくるんですよ。
旅は一言も触れてないのに旅を感じる。
この旅もだから読み方がいろいろあって、
さっきお母さんの言うように旅が好きでしたかって言ってたから、物理的に行ったんでしょう、きっと。
ということもあるでしょうし、ある意味この人生の旅とも言える。
同じように学校に行って、今日同じように日常生活を過ごしてきたっていう旅。
でもあるのかもしれない。
これはいい思うと思いましたね。
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ぜひ読んで。
読むというか、出会いたいって気持ちになりましたね。
まさふみ君とも出会って、
君って呼んでいいのかわかんないんですけどね、今生きてたらね。
先輩ですけどね。
君でいいんじゃないか。
あとやっぱ大志明さんとか由里子さんの後書きが本当に凄まじいんで、
ぜひ何回も読んでもらって、
自分が苦しい時とか悲しい時の支えになるもんだと思う。
ロングバージョンでしたが、
このあがりで終わっておきましょうか。
ありがとうございました。