今回は、亀井勝一郎さんの『大和古寺風物詩』
奈良大和の古寺巡礼を巡り、亀井が深く感じた名文を読むことで、
仏像や古寺をみる深みに連れて行ってもらえます。
もちろんそれは、仏教の深みに歩むことでもあります。
■本書は、青空文庫にあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001870/files/57496_60805.html
感想
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サマリー
本エピソードでは、亀井勝一郎氏の『大和古寺風物詩』を朗読・解説。近代人の比較癖が信仰や愛情を歪め、博物館における美術品鑑賞が空虚な寂しさを生むと指摘する。古寺巡礼から得られる「憂い」は、仏像や経典の多さにもかかわらず救われない人間の苦悩と向き合うことから生じ、最終的には自己の宿命を受け入れ、進むべき道へ身を投じることの重要性を示唆している。
近代人の比較癖と信仰・愛情の歪み
これちょっと、文章続き、一旦ここで一区切りなんだけど、またちょっと続くんですね、文章がね。
読むとね、戦争の最中、僕は宗教的喜悦心について考え続けてきた。
宗教的喜悦についてね、考えてきたと。 喜悦の心ってことを考えてきたと。
唯一者への全て喜悦、この情熱が、いかんながら僕にあっては不安定なのである。
って言うんですよ。 そうですよね。
現代人に喜悦なんてものないですよね。 信仰心なんてないですよね。本当はね、安易にないって言えないってところに行くんだけどね。
意識上ないですよね。
ないと思う。
で、亀勝立夫さんってちょっと前の時代じゃない? だから
亀勝立夫さんでもってしてもね、いかんながら僕にあって不安定なのであるって言うんですよ。
大使産業の念に、大使をね、産業する。 例え、敬う。
の念に偽りがあるとは思っていないが、 当時の人たちは大使をずっと産業してきてたから、仰ぎ続けてきたから。
そこに偽りがあるとは思っていないが、しかしそれをただ一筋の道として進むことを阻むものがあるのだ。
僕は時々、陶器収集家として著名なある友人を訪れ、様々な陶器を見せてもらうのだが、
僕はそれらを比較し鑑賞する。 必ず比較するのだ。
この比較癖が頑固な習性となって、 僕らの信仰や愛情を知らず知らずのうちに歪めているのではなかろうか。
一つの茶碗を熱愛し、このただ一つに命を傾けるだけの時間を持たぬ。
他の2、3の茶碗を手に取って、素早く比較し、比較において味わうという態度には、近代人の致命的な弱点が潜んでいるのではなかろうか、と言うんです。
うんと、そうですよね。 僕、ある有名なラジオを聞いてて、その人がね、いろんな宗教、宗教を勉強しててね、本当に深い知性を持った方で、
本当にいろんな宗教を比較した後に、自分がどっかに入るかもしれないとかって言ってたんだけどね、
比較から信仰ってないんですよ。生まれないんですよ。 本当はね。
信ずるも愛するも比較から生まれるもんじゃないんですよね。 本当は苦悩から生まれるんですよね。
愛もそうですよね。 比較して、こっちの人の方が自分の価値観合うな、だからこの人にしようって。
これ恋愛ですもんね。 本当の愛情ってそういうもんじゃないんですよね。
子供生まれるともう愛するしかないから、そういうとこで本当に初めて愛を感じますよね、僕らね。
まあこの比較癖ですよ。
芸術批評、文学批評に関してもね、結局比較してそのものを捉えていくってものがやっぱあるからね、フェーズとしては。
でもね、それでいけるところってたかが知れてるんでしょうね。
本当は、それを愛しないと生まれてこないものがあるんですね。 見えてこないものがあるんですよね。
前回小橋平夫さんの美を求める心、思い出しますね。 同じこと言ってましたね。
愛することなんですって言ってましたもんね、結局。
博物館の空虚さと愛情の分散
もうちょっと続きを言いますね。
僕は近頃、博物館についてますます疑惑を抱くようになった。
便利といえばこれほど便利なものはない。
わずかの時間で尊い遺品を数々接することができる。
しかし僕らは博物館の中で何かしら不幸ではないか。
東京の国立博物館でも奈良博物館でも法隆寺宝物殿でも、ふっと空虚な寂しさを感じることがある。
病院の廊下を歩いているような寂しさだ。
僕は初め、それが何に由来するかわからなかった。
古物が本来そのあるべき仏殿から離れて、美術品としてガラスケースに遊兵された時の寂しさは無論ある。
だがケースに陳列してそれほど不自然に見えないはずの工芸品にしても、博物館にあると急に白々しくなる。
この空虚とは何か、寂しさとは何か。
僕は近頃になって、それが愛情の分散であることにはっきり思い当たった。
つまり、博物館とは愛情の分散を強いるように作られた近代の不幸なのではなかろうか、と言うんです。
工芸品もさ、やっぱり使われてなんぼのもんなんでしょう。
使われてこそ美しさがあるんでしょう。陽の美ってそういうことですけど。
その人と一緒に生きて、その茶碗を愛してっていうところに生まれてくるからいいんですよね。
でも博物館にはそういうのがないんですよね。
だから虚しさ寂しさを感じているんでしょうね。
やっぱりさっき僕が話した話と一緒なんだろうな。
本当は工芸品というのもね、工芸館、博物館で見るのもいいんだけど、
誰かの人の家に行って、日々それを愛用している作品を見ることがいいんでしょうね。
自分の家がだからやっぱり博物館に足りるんですね。むしろ真の。
そういうことになってきますね。
いいですね。河合勝頼さんの文章本当にいいですよね。
いいですね。
本当にちょっとバイブルにしたいっていうのがなんか伝わってきます?
うん。伝わってきましたよ。
古寺巡礼から得られる「憂い」と人間の苦悩
ちょっと法隆寺の最後の文章を読んで、一旦ちょっと一区切りしたいなと思ってます。
ちょっと他にもまだ法隆寺とか読んでいきたいんですけどね。
ちょっと読んでいきますね。
大和古寺を巡るに従って私の心に起こった憂いとは、つまりこうだ。
大々の祖先が龍血の跡を見て廻るものの不安といったらよいか。
なぜこんなに多くの仏像が存在するのだろう。
三千年の間諸仏の諸々の神仏現れて、人々の祈りに応え、また美しい祈願の果ての姿となって著述している。
かくも見事な崇高な古仏がたくさん並んでいて、しかも人間はいつまでも救われぬ存在として続いてきた。
どちらを向いても仏像の山、万観の経典である。
古来、幾百人の聖剣、聖なる賢者は人間のため道を解き、血を流した。
今、我々はその墓場を訪れ、どうかしてこの現世の大苦難の抜け切る道を示し給えと祈るのであるか。
そして、素晴らしい啓示や教えに接し、日々その言葉を用いるのではあるが、苦難はさらに倍化し、人間はどこへ行くべきかを知らない。
お天を受け継ぐとは、つまりは地獄を受け継ぐことなのか。
はじめ、お天はその甘美と夢に酔って我らを誘うであろう。
だが、汝ら固有の宿命に準是よ、という追放の宣言がその最後の言葉となるのではながろうか。
かくも無数の仏像を祀って、幾千万の人間が祈って、さらにまた苦しんでゆく。
仏様の数が多いだけ、それだけ人間の苦しみも多かったのであろう。
一区の像、一基の塔、その礎には全て人間の悲痛が白骨と化して埋もれているのであろう。
久しい歳月を経た後、山と小路を巡り、
傑光な美術品であるなどと見物して歩いているのは、実に呑気なことである。
と言って終わるのです。
宿命の受容と自己の道
いいですね。
お天を受け継ぐとは、つまりは地獄を受け継ぐことなのか。
これ何々なのかって言ってるのは何々なんだって言ってるんですよね。
文学者の何々かって言ってるのは何々であるって言ってるんですよ。
何々であるって言ったら受け取れないから何々なのかって言ってるんですけどね。
はじめ古典は、その甘美と夢によって我らを誘うであろうって。
文学読んでも、芸術見ても、仏像見ても、その甘美と夢によって僕らを誘うわけですよね。
ああ美しい、ああなんて美しいって。
だが、何じら固有の宿命に準是よという追放の宣言が、その最後の言葉となるではなかろうかって言うんですよ。
立つべき出口はここなんですよね。
準是よって。
安心して深出を得よって。
真っ向から時代に向かって深く傷つけって言ってるわけですよね。
追放の宣言が去れとここから。
己の行くべき道、行くべき場所へ身を投じよ、捨てみせよ。
そんなところですかね。
次章への予告
一区切りしましょう。
次は中宮寺っていうところ、法隆寺を隣にあるんですけど、ちょっと読みたいと思ってます。
一旦区切りつけましょう。
13:09
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