エイリフ・フロムの愛するということの中でね
愛をいくつかのタイプに分けてるんですよ。
対象別に分けてるんですよ。
そこにはどういうふうに分けてるかっていうと
愛の対象を兄弟愛と母性愛
つまり親から子への愛と異性愛と
自己愛と神への愛っていう5つに分けてるんですね。
一番最初に兄弟愛から始まるんですよ。
でね、この兄弟愛って言ってるのって
普通はこの肉親の兄や姉や弟や妹やってこの兄弟のことを考えるんだけれども
フロムはね、そこでね、ちょっとこんなこと書いてるんですよ。
あらゆるタイプの愛の根底にある最も基本的な愛は兄弟愛である
私の言う兄弟愛とは
あらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、理解のことであり
その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである
兄弟愛とは人類全体に対する愛であり
その特徴は排他的なところが全くないことである
つまりこれ隣人愛のこと言ってるんですよ。
だから全ての根底にあるって言ってるんですね。
兄弟愛っていうのは狭い兄弟愛なのではなくて
人類みんな兄弟まで行くから隣人愛まで本当は行くんですね。
なんかすごくフラットで女王みたいなものもなく
そうなんですよ。
フラットな感じがしますね。
これあらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、理解って言ってるんですね。
だからやっぱり家族であっても一人の人間として
まず配慮ができているのか尊重ができているのか
理解しようとできているのか
これ責任ってレスポンセビリティだから応答ってことだと思うんですよ。
だから応答できているのかって。
応答って言うのは見逃さないってことだと思うんですよ。
あなたのことを決して見逃さないっていうことだと思うんですよ。
そういう応答ができているのかっていう。
そういうことが大事なんでしょうね。
ちょっと続き読んでいきましょうか。
この辺ぐらいからすごい良いんですよ。
濃くなってくるんですよ。
ちょっと読んでいきますね。
この書簡を書いた頃、23、4歳と推定される
倉田氏が新南王をどの程度読んでいたか明らかではない。
出家とその弟子の思想は次第に熟しつつあったと想像されるが
右の書簡はその感情内容においてかなり新蘭的である点は注目されてよい。
短二章の一節に次のような言葉がある。
短二章って新蘭の言葉が書いてあるやつですね。
新蘭は父母の公養のためとて
一遍にても念仏もしたることは未だそうらわず
そのゆえは一切の愚情は
皆もてよよ少女の父母兄弟なり
いずれもいずれもその順次
生に仏になりて助け候うべきなり
って言ってるんですね。
これ何言ってるかっていうと
新蘭は亡き父母の供養のために念仏したことは一度もないと
なぜなら全ての生き物は
過去世において皆自分の父母兄弟であったからであると
だから特定の親だけを特別扱いせず
全ての人が救われるべきなのだと
なるほど
いうふうに書いてある
こことすごく響き合いますよねと神さんが言ってるんですね
これちょっと続きを見ますね
これは供養の否定ではない
供養って親孝行のこととかですね
供養するっていうこととか
これは供養の否定ではない
むしろ供養に伴うエゴイズムの否定である
キリスト教に言う隣人への愛のために
全てを父母のごとく愛しようという発願による
この大いなる仏の愛によって
父母をも包摂せんというのである
我がの愛ではなく
如来の慈悲による父母への供養という形をとる
したがって外形的には父母によそよそしいように見えるかもしれぬ
キリストがその母マリアを偶した態度もこれに似ている
彼は母を女よと呼び
母よと親しく呼ぶことはなかった
って言うんですね
いいですよね
いいですね
ちょっと寂しい感じもあるけど
如来の慈悲による
人だなとも頭では理解します
そうなんですよね
アマプラでイエスキリストの生涯という
イギリスで作られたテレビドラマが見れるんですよ
僕も何回も見てるんですけど
マリアのシーンがあって母マリアの回があるんですよ
それでキリストが母よと呼ばず女よと呼ぶところがあるんですよ
そのテレビドラマの中では
母マリアはとても悲しそうな顔をしてるんですよ
やっぱりね
僕ら真似して自分のお母さんのことを女よと呼ばなくていいと思うんですよ
そこが大事なんじゃなくて
母であっても一人の隣人としてせしようではないか
そういうことだと思うんですよ
その心があったら別にお母さんと呼んでいいと思うんですよ
わかりやすくそういう風にしてるだけでね
でもこれ考えさせられるのはそこなんだよな
本人にとって悲しむようなことであったりとか
本人の期待に応えられないわけじゃないですか
だからその事実はちゃんと示さないといけないというかね
こっちの態度でもって
もちろんお母さんも一人の人間だから未熟なところもあると思うし
だけどもそこをちゃんと
この如来の慈悲でもって関わりにいくんだっていう
いいですよね
息子から女よと呼ばれたところを想像しながら
全然想像つかないとか思いながら
聞いてましたけどいいですね
ちょっと続きを見ますか
言うまでもなく
ねえ 手を
手挙げ感があります
もうなんか 巻き渡そうって気になる
これ事故の無力を知るとか事故の至らなさ 愚かさを知るってことが本当に難しいんだと思うんですよ
だから これ宗教は家族を捨てることを要請するんですね
それは人間にとって不可能だから その不可能を成せって あえて成せと迫るから初めて人間は事故の無力を知るだろうと
その事故の無力を知ることが 信仰の母体になるんですね 信仰の始まりになるんですね
なるほどなぁと思って
なんとかしようとするうちはそれはエゴイズムですよね
そうなんですよ 自力なんですよ
まあこれ家族を捨てることの理由ってこれだけじゃないですけどね もちろんね宗派によっていろいろあるわけだし
例えばキリスト教修道場に入っていくっていうのはどっちかというと 神のみを愛するっていうことのために
伴侶を持たないということですからね それは
つまりは隣人愛を体現するためなんですよね 神を愛するってことはつまり
隣人を愛するってことだから
いやなんか僕も友人に 神父の方とか
牧師の方とかいるんですけど 会いに行った時に教会に泊まらせてもらって
話したりしたんだけど もう教会に住んでるし
そもそも家がね
うん でお金も教会のお金だし
なんかやっぱり 僕初めて話した時
自分の価値観とまるっきり違うんだなっていうか
ちょっと感じたんですよね 何処に感じたんですか
なんかもう ちょっと待ってください家ないんですかみたいな
みたいなこととか僕質問したんですよ 若い時 教会に住んでるんですかここでも仕事場ですよね
家は?みたいな 金は?ない? 教会のお金 じゃあ自分のお金ないんですかみたいな
とか 結婚したくないんですかみたいな
みんなが家族なんで え?みたいな
一つ一つ違って
すごい新鮮だったんですよ
最後亡くなる時もそこの教会でね 最後見取られて亡くなっていくしね
ちょっと続きを見ますか もう最後ですね
考えてみると人間というものは不思議なものだ 愛することによって家族を作る
結婚は家族の第一の奇跡である しかもこうして作り上げたものが
やがて自己の漆黒になる漆黒ってアシカセのことですね 家族というものは人間にとって宿命的な悲劇かもしれない
家族制度の法権性を政治的に法律的に解決しようと思い込むのは滑稽ではないか
仮にそれができたとしても家族そのもののを持つ漆黒は永久になくならぬであろう
少なくとも絶えず孤立することを欲する精神にとっては 恋愛する男女は育診の家を離れて
自らの家を作り上げようとする そして幸運新しい家族を抱えてまた同じような苦しみを繰り返すのである
家の問題家族の問題は人間性にとっては不可否な永久的な悲劇かもしれない って言って終わるんです
おー
これどうですかねその文学も時代のアンチテーズのように生まれてくるから
家族こそが良いものだっていうね家族こそが喜びなんだって普通は考えてるんだけども それって依存してませんかっていうものがあり
家族は実は本当は精神からすると悲劇なんですよ 悲劇かもしれないんですよっていうことを言いたいからまあこういう文章になっているのかなぁってなんか
ちょっと想像してるんですけれども
この悲劇はただ単に悲劇というよりかは 究極的な精神の独立性っていうものを
その崇高さについて迫りたいって亀井さんは思っているからこういうふうに書いてるんだ と思うんですよ
うん
いいですね
僕もでも自分の親との関係を考えてみたときに やっぱり良好になっているのは
自分の両親が 僕のことをやっぱり一人の人間として尊敬してくれてるってことを
感じるからなんですよね
さっきフロムのとこで挙げた応答 何でしたっけ応答配慮
尊重理解ですよね やっぱり両親が僕に対するそれをやっぱりすごく感じる
僕もまた同じように 親をそのようになんか感じてるから
なんか一段深まった隣人愛になったんだなって
今度でも僕はまた自分の息子をちゃんと関われるかっていう
そういう試練が訪れるんだと思います まだないんですけど
うん それで言うとこの文章に書いてあるそのなんていうのずっと地図つなぎでこう
代々つながっていく ここでは悲劇かもしれないで永久的な悲劇かもしれないと結ばれてるけれども
みんなそれを抱えて ますもんねそのたてに命の糧とっていうのか
うーんそうだねー なんかこないだ学校に
なんかこの 特別支援学級の子に向けて教育の方針みたいなもの希望とかあれば書いてくださいみたいな
紙が渡されたから僕そこに書いたんだけども なんかね障害持ってるとその人の助けがないと
生きていけないじゃないですか そのことがもうすごく大事な心理をもう僕は表現していると思ってるんだけども
でも一人の人間として自立するってことを考えたときに なんかね人がサポートするということによって甘えが生じるっていう場面を
なんか僕見てきている気がするんですよ もううん
これすごい難しくて本人に甘えを甘えさせたくない その自分でやるべきことはちゃんと自分でやって
自立に向けてできることを増やしていかないといけないという側面もやっぱりあると思っ ていて
だからその助けてもらわないといけない側面と自分でできることを増やしていけない いかないといけないっていうこの両方をちゃんと見て関わってほしい
じゃないとどんどん甘えていくって言う
そうねー そうなんだよなんか不正と母性両方なんか
大事に関わるみたいな感覚なんですけど自分としては
ねー
その塩梅が やっぱ正解はなくてそうなんだよね
うんそのね依存この文章を扱ってる中にもなんだっけ 家族の依存みたいな話が出てきたけど甘えっていうのはまさにね
依存のことだと思うし 本当にそのさじ加減というのかな
難しいなーって子育てしてすごく思いますねそうだよねー それはね自分を立している
自分自身の中で考えても難しいなんていうの子育てだけじゃなくて
自分なるほど読んでいく 自己教育ですね
だからこう入れ子状にトリオシカみたいに入れ子状になってて 確かに確かにうん
うん そのダイナミクスを上手くねー
なんかこうするといいですよねー 僕もなんか今人生のフェーズとしては不正を取り返すって感じがしてるんですよ
自分に対してもっと厳しくするっていう なんかそういうフェーズ入ってるんですよねなんか一旦その授業するみたいなところ
行き過ぎちゃった気がしてて あーなんかぬるいのではないかって思うようになり始めて
ほんとそう いや一緒です私も同じかもしれないタイミングが フェーズっていうかねそうもうちょっと不正男性性
を使って切り開いていくというかね 自分が進んでいくっていうところを強化しないと
なんでもかんでも授業にちょっと傾いていたな っていうふうに思って履歴しようと思っていったところ
いやこの辺なんか全然言語化できないんですけど ちょっと言語化してみたいですよねその不正と母性の両立とか
あーやりたいやりたい 多分ちょっと具体ケースをいくつか使いながらなんかこう
その妙を なんか掴めるといいなぁ
なんか答えとかなんかスッキリするところに着地するとかっていうところは目指せない かもしれないけどただこう言語化して
眺めてみたい
ねー いやーちょっと脱線しましたが僕ねこれねなんか改めてでもフロムの愛するということを
ずっと思い浮かべてて その
これね精神はやっぱり独立を 求めるってその通りなんだけども
フロムはさでもこのこの愛するということの中でさ 成熟その未成熟ないと対比して成熟したいって話をするわけじゃないですか
それはさ その二人は一人になりしかも二人であり続けるみたいなこと言うわけですよ
そうしていくわけですよね そう
だから
そういう意味でなんかそういう愛の次元というか愛のつながり方っていうか
っていうのもあるわけで
うん なんかそういうのも
もっと何か試みてみたいなーって感じしますよね なんかそれを一生こうなんていうのかな
更新し続けるっていうかアップデートし続けるのが 人生なのかなぁって愛するということを読むと
うん だから行きつ戻りつはするんですよなんか
揺らぎながら 頼りながら
男性生徒女性生の話で言えば なんか自分の中の男性生徒女性生をこう行ったり来たり揺らぎながらでもそこが
まあ統合的になって次のフェーズに行くみたいなことを 一生やり続けるのかってことなのかなぁとか
うん
いやー そんなところですかね