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#111 家族とどう向き合うべきか / 亀井勝一郎「家族といふもの」朗読解説
2026-06-21 48:37

#111 家族とどう向き合うべきか / 亀井勝一郎「家族といふもの」朗読解説

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今回は、亀井勝一郎さんの「家族というもの」

子として、親として、家族とどう向き合えばよいのか、
亀井さんの文章と共に考えていきたいと思います。

■本文は、青空文庫にあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001870/files/58919_66324.html

Youtubeでは、動画視聴できます。
 

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サマリー

今回のエピソードでは、亀井勝一郎の随筆「家族というもの」を朗読し、その内容について深く考察しています。冒頭では、青年期に自我に目覚めると家族から孤立し始めるという精神の独立の性質について触れ、これは家族制度自体の罪ではなく、精神が本質的に単一性を帯び、複数性から独立しようとする意志を持つためだと解説されます。親子の愛を失わなくとも、成人期には家族の中で「よそよそしい態度」をとるようになり、人間は家族によって初めて孤独を感じるという指摘がなされます。さらに、フランスの鉄人の言葉を引用し、妻を得ることでかえって孤独が深まるという逆説的な見解を紹介。出家もまた、精神の単一性を確保しようとする欲求であり、家族への反逆であると述べられています。 後半では、倉田百造の書簡を引用し、親への愛と隣人愛の間に生じる葛藤や、親から距離を置くことで初めて親を愛せるようになるという考えが示されます。これは、親の愛に伴うエゴイズムの否定であり、仏の慈悲による供養という形をとることで、外見上はよそよそしく見えるかもしれないが、それが真の愛の形であると論じられます。また、エゴイズムの否定が自己の孤立を招き、同時にその孤立願望自体もエゴイズムである可能性が指摘され、善悪の判断や家族愛のあり方について深い問いを投げかけます。最終的に、家族は人間にとって宿命的な悲劇かもしれないとしつつも、究極的な精神の独立性と崇高さについて考察し、愛することによって家族を作りながらも、それが自己の足枷となるという人間の不思議さと、その中で揺れ動きながらも統合を目指していく人生のダイナミズムについて語られています。

亀井勝一郎「家族というもの」の紹介と精神の独立
こんにちは。 今日はですね、亀井勝一郎さんの ある随筆を一緒に味わいたいと思ってますと。
で、タイトルは、「家族というもの」っていう 随筆になってます。
はい、いいんですよ、これが。
パパ族?
家族。
家族というもの?
そうそうそう、家族というものね。
家族について亀井さんが書いてくれてるんだけど、 すごくいい文章で。
文章自体は短くて、読むと10分前後ぐらいで 読めちゃうぐらいなんですよ。
なので今日一応全部一緒に読んでみたいなと思っていて、
途中途中ちょっと区切って、お互い感じたことを 話したりとかしながら味わっていけたらなと思っております。
亀井勝一郎さんの文章ね、多くがもう著作権切れていて、 青空文庫に上がってるんですね。
なので今日、YouTubeの方では画面共有して、 文字見ながら味わえるようにしたいなと思ってます。
ただこれ文章自体は難しくないんですよ。
なので全然文字見なくても理解できるんで、 耳だけでも全然問題ないと思います。
いいですね。
一応でも画面共有していきますね。
これ今見えてますか?
見れてます。
文字見えるかな?ちょっと見にくかったらあれですが。
見えますよ。
見えます?
これね、ここでもう終わりなんですよ。
だから短い文章。
じゃあ、読んでいきますね。
はい。
青年時代に自我に目覚むるにつれて、 人は次第に家族から孤立すざるを得ないようになる。
自分の友情、恋愛、愚道については、 良心は必ずしも良き教師ではない。
むしろ敵対者として現れる場合が多いであろう。
これは家族制度そのものの罪とのみは言えない。
どのように自由な家族であっても、 青年はひとたびは離反するであろう。
独立せんとする精神にとっては、 与えられたものはすべて不満足なのだ。
これは精神形成の性質から言って不可否のことと思われる。
なぜなら、精神はその本質上、 単一性を帯びたもので、
いかなる種類の都等、複数性からも 独立せんとする意志であるからだ。
そして、家族がその最初の抵抗物として意識される。
っていう。
一旦ここで区切りたいと思います。
はい。
ということなんです。
まずね。
そう。
家族という話に対して、
この魂の、精神の独立っていう話を 入ってきてるんですね。
これは家族制度そのものの罪とのみは言えない。
って言ってるんですね。
だから家族の罪。
罪というか至らなさ。
いろんな家族があると思うんでね。
孤独感と伴侶、そして心の出家
家族の至らなさによって、 違反することもあると思うけれども、
でもそれだけじゃないと。
いかに親しい家族であっても、 子はいずれ違反するんだと。
なぜなら、精神の本質、本性は 独立することにあるからだ。
っていうことを言ってるんですね。
いいですよね。
いいですね。
自分も親の子としても感じるし、
今、我々も子供がいるから、
その子供がいずれ独立するっていう この親の気持ちとしても、
この家族については考えてみたいんですよね。
ずっと聞きながらあるモチーフが浮かんでて、
木みたいな植物?
木みたいなイメージが浮かんでて、
どんぐりみたいなイメージが浮かんでて、
子供を一度しっかり離れて、種を飛ばして、
そこで一人の子として、そのどんぐりは生えて、
その地って生きていかなきゃいけないみたいな。
そこの本質とつながるんじゃないかな。
そうなんですよ、そうなんですよ。
いつまでもお母さんの気に、親の気にくっついてるわけにはいかないというか。
そうなんですよね。
その子をその子にさせないといけないっていうね。
ちょっとじゃあ続き読んでいきますね。
強い精神ほど孤立する。
たとい父母への愛を失わなくとも。
これあれだね、たとい子が父母への愛を失わなくともってことですね。
たとい父母への愛を失わなくとも、
なんとなくよそよそしい態度を取るようになる。
家族の中のいわば違法人となるのが成人期だ。
肉親の理解を得られないとすれば、
なおさらの子と孤立する。
人間に初めて孤独感を与えるのは、
その家族だと言っていいかもしれない。
フランスのある鉄人は、
神は人間を孤独にするために妻を与え給うたとさえ言っている。
危険なことのように見えるが、
精神はそれが精神である限り、
常に一であらねばならぬものであり、
二の複数はすでに致命的なものである。
家族とは精神にとって一の悲劇に違いない。
フランスのある鉄人は、
神は人間を孤独にするために妻を与え給うたとさえ言っている。
すごい言葉ですね。
逆説を感じますね。
普通、妻を得れば孤独が癒えると思うじゃないですか。
だけど実際には、
伴侶と共に生きることで、
かえって誰とも一つにはなれないという孤独の深さが現わるんだと。
いうことを言っているんですよね。
これを思うとね、
さっき読んでた、
違法人となるのが成人期だって言ってるけれども、
何も成人期だけの話をしてるんじゃないんですよね。
人間の精神が、
本質的に孤独なんだって話は、
大人になってからもずっとあるんですね。
この伴侶の話をしてるぐらいなんで。
ちょっと続きを読んでいきましょうか。
古来、我が国に行われた出家も、
宗教的意味を持つのは無論だが、
その単一性の純粋な確保によって、
仏に直結せんとする病みがたい欲求であったと言える。
自我の目覚むるにつれて、
青年はすでに心の出家を始めたとみてよい。
家族への反逆であり、否定であり、破壊である。
人は恋を得るとともに、
自分の家がもはや自分の家ではないように思うものだ。
家での危険は必ず内在するとみてよい。
親の愛にとっては、
耐えがたいことかもしれないが、
親もまた一度はこの苦さをへなければなるまい。
人間の孤立、そのために家族の受ける人痛のようなものだから。
と言うんですね。
身の苦しみみたいな。
ここを読むと、エイリヒ・フロムの
愛するということを思い出します。
あそこでも未成熟な愛というのは、
支配と服従の関係にあって依存を生むんだという話がある。
なんで起きるのかというと、
親の権力欲だったり所有欲だったりということを
満たしたいからなんだという話が出てくる。
本当は親としてもそういうものと向き合わないと
真に手放すというか、
そういうことが難しいんでしょうね。
母性の悪母的な側面の
振り込むというか、飲み込んでしまう。
いつまでも離さないで、
含んでいたいみたいなものがあったりとか、
父性の方の差し出さずにいられないというか、
手を差し伸べずにいられないみたいな。
そういうのも感じますね。
ちょっと続きを読んでいきましょうか。
こっからいいんですよ。
これも画面休止してる。これでもう終わりなんですけどね。
いきますね。
環境と意思、倉田百造の書簡に見る親への葛藤
環境は人を決定するという。
しかし、人は資格自動的なものではない。
強き意思にとっては、
環境は常に否定され変革されねばならぬものだ。
才能ある者は恵まれた環境にも安住しない。
第一、そんなものはありえないと意識する。
おそらく一生外、心の憩う場所はないかもしれないのだ。
倉田百造の若き日の書簡集
青春の息のあとを最近読んでいて、
こんな十回にぶつかった。
ここから倉田さんの文章の引用ですね。
私はこの頃はどうも私の両親の家にいるのが
アンイジーで仕方がないのです。
両親を親しくそばに見ていると
胸が圧しつけられるようです。
私はあなた母親思いの優しい人に申するのは少し恥ずかしいけれど
どうも親を愛せることはできません。
そしてまた母の本能的愛で
偏愛的に濃く愛されるのが不安になって落ち着かれません。
それで面白い顔を親に見せることはできず
そのために両親の心の傷つくのを見るのがまた辛いのです。
私はこの頃つくづく出家の要求を感じます。
私はひとたび隣人の関係に立たなくては
親を愛することができないように思います。
昔から聖者たちに出家する者の多かったのは
家族というものと隣人の愛というものとの間にある
生計があるためと思われます。
って書いてあるんですよ。
なかなかいい文章ですよね。
共感する人多い気がする。
いいですね、これね。
私自身、親と距離的に離れて暮らしていることが
二十歳以降多いから
そこに救われてるなっていう感じ。
隣人の関係でいられているなっていうような感じになって
でも里帰り出産とかで
実家にひとたびいると
やっぱり親は母親たる振る舞い
心配で立ち上げてくれたり
親の愛としてするんだけれども
それがちょっと負担というか
私が自分のやり方でやりたいとか
そういうものの間にジレンマがあったりしたから
ここの部分
分かるなって思います。
それがもう一つの愛の形なんですよね。
だから距離を取るっていうこととかが
愛の表現だもんな、距離感とかも。
適切なというか
これ倉田百造さんってね
1981年に生まれた作家で
《出家とその弟子》っていう代表作があるんですよ。
これがもう
僕いつか文学レッスンで扱いたいなと思ってるんですけど
新蘭を題材にした物語になっていて
当時大賞ぐらいに出てるのかな
大ベストセラーになってるんですよ。
世界中で翻訳されてて
中国とかフランスとかにも翻訳されてて
ロマン・ロランが大絶賛したっていうことで有名なんですけどね。
上勝郎さんも新蘭の本を書いてたりするぐらいだから
倉田百造さんのことずいぶん読んでてね
引用してて
倉田百造さんの《出家とその弟子》も面白くて
あれは倉田百造さんなりの新蘭像で
そこには仏教のエッセンスだけじゃなくて
キリスト教のエッセンス入ってるんですよ。
というのが浄土教とキリスト教ってとっても近いんですよ。
もともとの仏教って自力の仏教だったから
自分が修行して悟りに向かうっていう話だけど
浄土教だけは大気に入っていくから
救済型に入っていくんですね。
だからキリスト教と近いんですよ。
倉田さんの文章も隣人って言葉が出てきてるのは
出家と弟子にもたくさんキリスト教の言葉が出てくるんですよ。
だからそういうキリスト教と浄土教が
一つになっていくような境地で書かれているっていうね
そういう本なんですよ。
だからいいですよね。
私はひとたび隣人の関係に立たなくては
親を愛することができないように思います。
これすごいですよね。
昔から聖人たちに出家するものが多かったのは
家族というものと隣人の愛というものとの間にある
障害、妨げがあるためと思われます。
なるほど。
なんか急に視点を引き上げてくる感覚がありますね。
家族と隣人の愛をはっきり分けることによって
そこを引っ絡まって家族への思いとかを
ぐちゃぐちゃさせちゃう。
で、悩んだり苦しんだりとか
してしまうような気がするんだけれども
こうやって家族と隣人の愛っていうのを隣に並べて
そこに並べることで自分は選択できるようになるっていうか
距離感を選択できるんだなっていう視点に達させてもらう感じが
で、これさっきも話したけど
兄弟愛、隣人愛、そして仏の慈悲
エイリフ・フロムの愛するということの中でね
愛をいくつかのタイプに分けてるんですよ。
対象別に分けてるんですよ。
そこにはどういうふうに分けてるかっていうと
愛の対象を兄弟愛と母性愛
つまり親から子への愛と異性愛と
自己愛と神への愛っていう5つに分けてるんですね。
一番最初に兄弟愛から始まるんですよ。
でね、この兄弟愛って言ってるのって
普通はこの肉親の兄や姉や弟や妹やってこの兄弟のことを考えるんだけれども
フロムはね、そこでね、ちょっとこんなこと書いてるんですよ。
あらゆるタイプの愛の根底にある最も基本的な愛は兄弟愛である
私の言う兄弟愛とは
あらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、理解のことであり
その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである
兄弟愛とは人類全体に対する愛であり
その特徴は排他的なところが全くないことである
つまりこれ隣人愛のこと言ってるんですよ。
だから全ての根底にあるって言ってるんですね。
兄弟愛っていうのは狭い兄弟愛なのではなくて
人類みんな兄弟まで行くから隣人愛まで本当は行くんですね。
なんかすごくフラットで女王みたいなものもなく
そうなんですよ。
フラットな感じがしますね。
これあらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、理解って言ってるんですね。
だからやっぱり家族であっても一人の人間として
まず配慮ができているのか尊重ができているのか
理解しようとできているのか
これ責任ってレスポンセビリティだから応答ってことだと思うんですよ。
だから応答できているのかって。
応答って言うのは見逃さないってことだと思うんですよ。
あなたのことを決して見逃さないっていうことだと思うんですよ。
そういう応答ができているのかっていう。
そういうことが大事なんでしょうね。
ちょっと続き読んでいきましょうか。
この辺ぐらいからすごい良いんですよ。
濃くなってくるんですよ。
ちょっと読んでいきますね。
この書簡を書いた頃、23、4歳と推定される
倉田氏が新南王をどの程度読んでいたか明らかではない。
出家とその弟子の思想は次第に熟しつつあったと想像されるが
右の書簡はその感情内容においてかなり新蘭的である点は注目されてよい。
短二章の一節に次のような言葉がある。
短二章って新蘭の言葉が書いてあるやつですね。
新蘭は父母の公養のためとて
一遍にても念仏もしたることは未だそうらわず
そのゆえは一切の愚情は
皆もてよよ少女の父母兄弟なり
いずれもいずれもその順次
生に仏になりて助け候うべきなり
って言ってるんですね。
これ何言ってるかっていうと
新蘭は亡き父母の供養のために念仏したことは一度もないと
なぜなら全ての生き物は
過去世において皆自分の父母兄弟であったからであると
だから特定の親だけを特別扱いせず
全ての人が救われるべきなのだと
なるほど
いうふうに書いてある
こことすごく響き合いますよねと神さんが言ってるんですね
これちょっと続きを見ますね
これは供養の否定ではない
供養って親孝行のこととかですね
供養するっていうこととか
これは供養の否定ではない
むしろ供養に伴うエゴイズムの否定である
キリスト教に言う隣人への愛のために
全てを父母のごとく愛しようという発願による
この大いなる仏の愛によって
父母をも包摂せんというのである
我がの愛ではなく
如来の慈悲による父母への供養という形をとる
したがって外形的には父母によそよそしいように見えるかもしれぬ
キリストがその母マリアを偶した態度もこれに似ている
彼は母を女よと呼び
母よと親しく呼ぶことはなかった
って言うんですね
いいですよね
いいですね
ちょっと寂しい感じもあるけど
如来の慈悲による
人だなとも頭では理解します
そうなんですよね
アマプラでイエスキリストの生涯という
イギリスで作られたテレビドラマが見れるんですよ
僕も何回も見てるんですけど
マリアのシーンがあって母マリアの回があるんですよ
それでキリストが母よと呼ばず女よと呼ぶところがあるんですよ
そのテレビドラマの中では
母マリアはとても悲しそうな顔をしてるんですよ
やっぱりね
僕ら真似して自分のお母さんのことを女よと呼ばなくていいと思うんですよ
そこが大事なんじゃなくて
母であっても一人の隣人としてせしようではないか
そういうことだと思うんですよ
その心があったら別にお母さんと呼んでいいと思うんですよ
わかりやすくそういう風にしてるだけでね
でもこれ考えさせられるのはそこなんだよな
本人にとって悲しむようなことであったりとか
本人の期待に応えられないわけじゃないですか
だからその事実はちゃんと示さないといけないというかね
こっちの態度でもって
もちろんお母さんも一人の人間だから未熟なところもあると思うし
だけどもそこをちゃんと
この如来の慈悲でもって関わりにいくんだっていう
いいですよね
息子から女よと呼ばれたところを想像しながら
全然想像つかないとか思いながら
聞いてましたけどいいですね
ちょっと続きを見ますか
言うまでもなく
家族の悲劇と自己のエゴイズム
家族の持つエゴイズムを否定したからである
家族とは
愚道の最も大きな障害かもしれない
隣人への愛と家族のエゴイズムとは
必ず衝突するであろう
父母や妻子を愛するようには
隣人を愛せることはできがたい
できがたいのだ
愛のエゴイズムを否定することによって
自己は家族のただなかに孤立するのである
同時にそれが自己のエゴイズムであることも考えねばなるまい
って書いてあると
これ今まで話してきたようなことが書かれてあるわけですよね
でね
これちょっとドキッとしたのは
最後の一文でね
同時に
それが自己のエゴイズムであることも考えねばなるまい
ってことなんですよ
もう一度前から読むと
愛のエゴイズムを否定することによって
自己は家族のただなかに孤立するのであると
それはいいですよね
そうしましょうと
同時にそれが自己のエゴイズムであることも考えねばなるまい
って言うんですよ
これちょっと何気ない一言なんですけど
すごいこと言っていて
家族愛はエゴイズムなんだって言って
孤立したがる
精神もまた
エゴなのではないか
って言ってるんですよ
なかなか深い
ですよこれね
難しい問題だなこれなんか
でも
例えば家族であっても距離を取るっていうことでね
自分はそういう風な
関わり方を取れてるんだっていう優越感に入ってしまったりすると
それはエゴだろうと
いうこととかはあるしね
そういうことかな
難しいなこれどこまでをエゴイズムなのかっていうのが難しい問題だなこれだから
なんか
自分のエゴをいかに
可愛い
なのかみたいなところなのかなって思い立ったことがあって
エゴっていうものの役割の中にエゴがなくなってしまったら
道端に困ってる石ころと自分の我が子が
どっちが大事かっていう選別すらできなくなるというか
だからなんか大事にしたいって思ったものを素直に大事にするのが
いいのかなって思って生きてるんですけど
なんだろうな
なんかそこのところ
突かれてるような文章だなと思いながら
これに触れて
そうだよね
いやこれが新蘭はね
どこまで行ってもエゴイズムなんですって多分考えるんでしょうね
いや新蘭さんそう言いますけれども
やっぱり
距離をとって親を愛するっていう形もね
これ一つの僕のもうエゴイズムを超えた関わりなんですって
言いたくなると思うんですよ
だけども
新蘭から言わせると
その
所詮人間が考える範囲は
全てエゴイズムなのである
って捉えちゃうから
もうそれをね
需要するところに
至るしかなく
彼は
最終を持つんですよね
なるほど
そうね
必然なんていうか人間である以上
エゴイズムあっての人間というか
無いってことは無いんだもんな
そうなんですよね
囚わっているものだからね
あなたがこれは善なる行いだと思っているけれども
その善は果たして人間が決めれることができるんだろうか
判断することができるんだろうかって新蘭さん言うんですよ
これでもほんと深い話ですよね
良いと思っていたことが
思わぬところで誰かにとっては
悪いってこともあるわけじゃないですか
もののけ姫のエボシのようにとか
そうなんだよな
新蘭さんはそこまで行くから
善悪の判断とかはできないんだって
だから自分はどこまで行っても
悪の可能性を秘めている人間なんだっていう
私は
ちょっと続き読んでいきましょうか
全ての宗教は家族を捨てることを要請する
人としてこれは不可能であろう
不可能をあえてなぜと迫るのだ
キリストはこれを迫り門と名付けた
この絶対死難の要請の前に
人は初めて事故の無力を知るであろう そして無力を知ること自体が信仰の母体となる
って言うんですね これは良い文章ですね
宗教の要請と人間の無力、そして愛の探求
ねえ 手を
手挙げ感があります
もうなんか 巻き渡そうって気になる
これ事故の無力を知るとか事故の至らなさ 愚かさを知るってことが本当に難しいんだと思うんですよ
だから これ宗教は家族を捨てることを要請するんですね
それは人間にとって不可能だから その不可能を成せって あえて成せと迫るから初めて人間は事故の無力を知るだろうと
その事故の無力を知ることが 信仰の母体になるんですね 信仰の始まりになるんですね
なるほどなぁと思って
なんとかしようとするうちはそれはエゴイズムですよね
そうなんですよ 自力なんですよ
まあこれ家族を捨てることの理由ってこれだけじゃないですけどね もちろんね宗派によっていろいろあるわけだし
例えばキリスト教修道場に入っていくっていうのはどっちかというと 神のみを愛するっていうことのために
伴侶を持たないということですからね それは
つまりは隣人愛を体現するためなんですよね 神を愛するってことはつまり
隣人を愛するってことだから
いやなんか僕も友人に 神父の方とか
牧師の方とかいるんですけど 会いに行った時に教会に泊まらせてもらって
話したりしたんだけど もう教会に住んでるし
そもそも家がね
うん でお金も教会のお金だし
なんかやっぱり 僕初めて話した時
自分の価値観とまるっきり違うんだなっていうか
ちょっと感じたんですよね 何処に感じたんですか
なんかもう ちょっと待ってください家ないんですかみたいな
みたいなこととか僕質問したんですよ 若い時 教会に住んでるんですかここでも仕事場ですよね
家は?みたいな 金は?ない? 教会のお金 じゃあ自分のお金ないんですかみたいな
とか 結婚したくないんですかみたいな
みんなが家族なんで え?みたいな
一つ一つ違って
すごい新鮮だったんですよ
最後亡くなる時もそこの教会でね 最後見取られて亡くなっていくしね
ちょっと続きを見ますか もう最後ですね
考えてみると人間というものは不思議なものだ 愛することによって家族を作る
結婚は家族の第一の奇跡である しかもこうして作り上げたものが
やがて自己の漆黒になる漆黒ってアシカセのことですね 家族というものは人間にとって宿命的な悲劇かもしれない
家族制度の法権性を政治的に法律的に解決しようと思い込むのは滑稽ではないか
仮にそれができたとしても家族そのもののを持つ漆黒は永久になくならぬであろう
少なくとも絶えず孤立することを欲する精神にとっては 恋愛する男女は育診の家を離れて
自らの家を作り上げようとする そして幸運新しい家族を抱えてまた同じような苦しみを繰り返すのである
家の問題家族の問題は人間性にとっては不可否な永久的な悲劇かもしれない って言って終わるんです
おー
これどうですかねその文学も時代のアンチテーズのように生まれてくるから
家族こそが良いものだっていうね家族こそが喜びなんだって普通は考えてるんだけども それって依存してませんかっていうものがあり
家族は実は本当は精神からすると悲劇なんですよ 悲劇かもしれないんですよっていうことを言いたいからまあこういう文章になっているのかなぁってなんか
ちょっと想像してるんですけれども
この悲劇はただ単に悲劇というよりかは 究極的な精神の独立性っていうものを
その崇高さについて迫りたいって亀井さんは思っているからこういうふうに書いてるんだ と思うんですよ
うん
いいですね
僕もでも自分の親との関係を考えてみたときに やっぱり良好になっているのは
自分の両親が 僕のことをやっぱり一人の人間として尊敬してくれてるってことを
感じるからなんですよね
さっきフロムのとこで挙げた応答 何でしたっけ応答配慮
尊重理解ですよね やっぱり両親が僕に対するそれをやっぱりすごく感じる
僕もまた同じように 親をそのようになんか感じてるから
なんか一段深まった隣人愛になったんだなって
今度でも僕はまた自分の息子をちゃんと関われるかっていう
そういう試練が訪れるんだと思います まだないんですけど
うん それで言うとこの文章に書いてあるそのなんていうのずっと地図つなぎでこう
代々つながっていく ここでは悲劇かもしれないで永久的な悲劇かもしれないと結ばれてるけれども
みんなそれを抱えて ますもんねそのたてに命の糧とっていうのか
うーんそうだねー なんかこないだ学校に
なんかこの 特別支援学級の子に向けて教育の方針みたいなもの希望とかあれば書いてくださいみたいな
紙が渡されたから僕そこに書いたんだけども なんかね障害持ってるとその人の助けがないと
生きていけないじゃないですか そのことがもうすごく大事な心理をもう僕は表現していると思ってるんだけども
でも一人の人間として自立するってことを考えたときに なんかね人がサポートするということによって甘えが生じるっていう場面を
なんか僕見てきている気がするんですよ もううん
これすごい難しくて本人に甘えを甘えさせたくない その自分でやるべきことはちゃんと自分でやって
自立に向けてできることを増やしていかないといけないという側面もやっぱりあると思っ ていて
だからその助けてもらわないといけない側面と自分でできることを増やしていけない いかないといけないっていうこの両方をちゃんと見て関わってほしい
じゃないとどんどん甘えていくって言う
そうねー そうなんだよなんか不正と母性両方なんか
大事に関わるみたいな感覚なんですけど自分としては
ねー
その塩梅が やっぱ正解はなくてそうなんだよね
うんそのね依存この文章を扱ってる中にもなんだっけ 家族の依存みたいな話が出てきたけど甘えっていうのはまさにね
依存のことだと思うし 本当にそのさじ加減というのかな
難しいなーって子育てしてすごく思いますねそうだよねー それはね自分を立している
自分自身の中で考えても難しいなんていうの子育てだけじゃなくて
自分なるほど読んでいく 自己教育ですね
だからこう入れ子状にトリオシカみたいに入れ子状になってて 確かに確かにうん
うん そのダイナミクスを上手くねー
なんかこうするといいですよねー 僕もなんか今人生のフェーズとしては不正を取り返すって感じがしてるんですよ
自分に対してもっと厳しくするっていう なんかそういうフェーズ入ってるんですよねなんか一旦その授業するみたいなところ
行き過ぎちゃった気がしてて あーなんかぬるいのではないかって思うようになり始めて
ほんとそう いや一緒です私も同じかもしれないタイミングが フェーズっていうかねそうもうちょっと不正男性性
を使って切り開いていくというかね 自分が進んでいくっていうところを強化しないと
なんでもかんでも授業にちょっと傾いていたな っていうふうに思って履歴しようと思っていったところ
いやこの辺なんか全然言語化できないんですけど ちょっと言語化してみたいですよねその不正と母性の両立とか
あーやりたいやりたい 多分ちょっと具体ケースをいくつか使いながらなんかこう
その妙を なんか掴めるといいなぁ
なんか答えとかなんかスッキリするところに着地するとかっていうところは目指せない かもしれないけどただこう言語化して
眺めてみたい
ねー いやーちょっと脱線しましたが僕ねこれねなんか改めてでもフロムの愛するということを
ずっと思い浮かべてて その
これね精神はやっぱり独立を 求めるってその通りなんだけども
フロムはさでもこのこの愛するということの中でさ 成熟その未成熟ないと対比して成熟したいって話をするわけじゃないですか
それはさ その二人は一人になりしかも二人であり続けるみたいなこと言うわけですよ
そうしていくわけですよね そう
だから
そういう意味でなんかそういう愛の次元というか愛のつながり方っていうか
っていうのもあるわけで
うん なんかそういうのも
もっと何か試みてみたいなーって感じしますよね なんかそれを一生こうなんていうのかな
更新し続けるっていうかアップデートし続けるのが 人生なのかなぁって愛するということを読むと
うん だから行きつ戻りつはするんですよなんか
揺らぎながら 頼りながら
男性生徒女性生の話で言えば なんか自分の中の男性生徒女性生をこう行ったり来たり揺らぎながらでもそこが
まあ統合的になって次のフェーズに行くみたいなことを 一生やり続けるのかってことなのかなぁとか
うん
いやー そんなところですかね
家族との向き合い方と人生のダイナミズム
はい ちょっとあの意外でした家族というものっていうタイトルから
やっぱりこうなんていうの悲劇かもしれないってとこに結ばれると思わなかったから そうですよね
あったかい話っていうかそういうのかなと思ったら 逆側から覗けたのが良かったです
ねっ いいですねー
うん 色々
ありがとうございます ありがとうございました
じゃあまた次回
48:37

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