ようこそ、socialhive WAITING CAFE 点描の孤~。
ここは東京文京区、HONGO3丁目駅の裏にある法律事務所併設シェアオフィス、socialhiveHONGOのメンバーが立ち寄るWAITING CAFEです。
毎週この時間のWAITING CAFEは、決まってメンバーの誰かがフラッと立ち寄って面白い話をしてくださるんです。
まるで世界の見え方がほんのちょっと変わってしまうような、そんな話が聞こえてくるかもしれません。
socialhive WAITING CAFE 点描の孤~、新しい当たり前をデザインする実践者たちの日常。
本日のご来店者は、前回に引き続き株式会社ニイラの和賀さんです。
じゃあ、和賀さんについて話していきましょうか。
なんか家族について話したいみたいなのをちょっと言ってましたけど、確かに家族ってそもそも何なんですかね?
ね。だから、私が今仕事してるのもすごい家族の影響があって、
で、なんていうのかな、そういう話をすると、ある意味ではポジティブな文脈っていうよりは、ネガティブな文脈の方が、
ウケる。ウケるっていうのは、笑うじゃなくて、世の中的に良いイメージを、良いイメージじゃないなんてうまく言えないんですけど、
なんか悲しい悲劇文脈の方が、より伝わりやすかったりしませんか?
確かに確かに。
まあニュース見ててもそうだけど、ポジティブなニュースなんて流れないじゃないですか。
そうですね。
不思議なぐらい。
たまになんか上野動物園で、動物の赤ちゃんが生まれましたとか。
そうそうそう、そういうのはまあ稀にあるけど、毎日事故や事件や、まあもしくは戦争の話が当たり前で、悲しい文脈がすべて。
確かに。
私自身も、私の原点は母の病気でって言った時に、普通に聞いている側の人たちの表情が、ああってなるんですよ。
ああは何が壊れてるんですか?
ああ、かわいそうっていう感じ?
悲劇文脈に入っちゃうんですね。
入っちゃうんです、スイッチ入っちゃうんですよ。
ところがですよ、私は全然そういう感覚がないんですよね。
今で言えば、ヤングケアラーという言葉があるけど、そういう言葉も全くないし。
だから、ごめん、期待させてるかもしれないけど、そういう話にはいかないよって思いながら話すんです。
で、まあ文化的に、自分の不幸な話は比較的受け入れてもらえるけど、そうじゃないポジティブな話って、ちょっともう何でも自慢になっちゃう。
確かに。逆にそういうのを言うのをはばかられるみたいなポジティブな話が。
例えば、家族が仲いいんですよとか、あとは、そうは言っても私は全然苦労しなかったんですよねとか、じゃあいいじゃんみたいな、なんかそれ以上興味を持ってもらえなかったりとかするっていうのが、やっぱり悲劇文脈じゃないと注目されなかったりとか、
悲劇文脈じゃないとっていう、なんか割と見えない縛りがあるような気がしてて、それは私がちょっとエソ曲がりなのかもしれないんですけど、
元〇〇、元〇〇っていうことの当事者性っていうのはすごく大事だと思うんだけど、全然当事者性がない人がやってもいいんじゃないって思ってる。
当事者性っていうのは?
例えば、元ヤングゲアラーでしたとか、あとは元依存症患者でしたとか、それはその人のアイデンティティだからってするつもりはないんだけど、
そこだけで話が進むよりは、もっといろんな立ち位置の人が混ざり合うほうが、私はいいんじゃないかな、健全なんじゃないかなって。
全てが悲劇文脈はちょっと違う。
そのいろんな人が混ざってるほうが、どんな状態になるって感じてますか?
やっぱり、物事って解釈じゃないかなと思ってて、受け止め方とか、考え方とか、感情とか。
一つの物事でも、10人いれば10人違う観点があって解釈があるから、もっと自由でいいんじゃないかなと思うんだけど、
悲劇テーマだと、そこに縛られちゃうみたいな。同調圧力っていうか。
悲劇文脈じゃないことが起きたときに、何かが起きちゃうみたいな。
なんか、共感圧みたいな。そういうことって結構こう、理由が。
人間だからね、やっぱり自分が安全だからこそ、そうじゃない人の話も聞けるんだろうし、それどころじゃなければ、そんな話耳に入ってもこないと思うけど、
でも、だからこそ、分けちゃうことの怖さみたいなのはあるなって。
なるほど。
だって、分かんないじゃないですか。自分がどうなるかなんて。
確かに。その中の文脈ってやっぱり強く出ちゃうというか、だから家族っていうのも、家族って仲いいもんだよねとか、そうあらねばならないとか。
ありますよね、やっぱりね。私もあります。
その中で、悲劇文脈なのか、楽しい文脈なのか、そこに縛られていきちゃうみたいな。
けどもっと家族っていうのも、自由でいいんじゃないみたいな。
そう。自分が子育てしてて思うのは、やっぱり今2人が19と21なんですよね。
そうすると、0歳から小学校上がるまでと、小学校上がってから高学年とか、やっぱりその年数ごとで舞台が変わっていくっていうか、
子供のサイズも如実に大きくなっていくわけって、そうすると関係性も変化するし。
だけどどっちかっていうと、親子感っていうのは不動のものだったり、どっちかいうと所有物みたいになっちゃったりする親子関係とかもあったり、
やっぱり相談者のお話聞いてるとたくさんあって、変化していかない関係ってちょっと窮屈だなあって、親子だからこそ。
家族の関係性すら固定されるみたいな。
そうそうそうそう。親だから子だから、例えば介護の話で言うと、親側が子供に見てもらうのが当たり前とか、
でもそのお子さんはシングルだったりして、じゃあそのお子さん、例えば50代60代だって、親の介護を終えた後、この人はどうなるのとか、
なんかそういう、ちょっと目を離してみたら、違う側面っていろんなふうにあるんだけど、家族ってすごく限定的になっちゃうなあ。
家族の形にも今言ったみたいに、全然住人通路というか全然違う形があるのに、くぐり方としては家族みたいな。
そう、血がつながってるとかつながってないとか、それは事実なんですけど、それ全然全部否定するつもりはないんだけど、どこかでも窮屈感はある。
そうですね。
私自身は別に家族に何か問題が、問題がっつったら変ですけど、自分のこれまで生まれて生きてきた中で家族で困らされたって経験はないけど、
でも家族相談とかやってますって言うと、なんか家族に問題あったのって言われるんですよね。
相談やってる側もそういう文脈に見られちゃうんですね。
そう、だから悲劇テーマが必要なんだって。
ごめん、そこもないわみたいな。
勝手にそこがワンセットになってるんですね。
そうなんですよね。福祉とか医療とかってやっぱりそうやって見られてるんだなって。
確かに確かに。でもそういう文脈で確かにおっしゃってる方多いですよね。
そのご家族でこういうのがあってとか、それ自体は悪いことではないと思うんですけど。
それは事実じゃないですか。事実になんか悲劇をやたらに載せる気がする。
それはあなたの解釈だよね、みたいな。
当人は実はそう思ってないみたいな。
ただ、こともあったりするかもしれないし、そう、なんかその違和感はすごく。
もっと上手くいかなくて当然っていうスタンスが生まれたら楽になる人多いなーとか。
皆さんそれぞれの家族とはっていうのがあるはずですけど、ある程度固定化された見方っていうのがある?
ある。すごくある。それで苦しんでる人も多い。
あと、まあ比較?比較してますよね、常に。
例えば、うちは上手くいってないけど、あの人は上手くいってていいなーとか。
あとは、夫婦間で揉め事のひとつになる義理の両親との付き合い方とかも。
でも、うちはとか、義理親はみたいな、分ける。
まあ分けるのも分かるし、私もそう思うところもあるけど、でも一人の人として付き合ってみるっていう感覚よりは、家族っていうまとまりなのかなーとか。
似てることを喜んだり喜ばなかったり、不思議な関係性だなーとか。
確かに。不思議ですね。
うん、不思議。
何でみんな思ってそう行動するんですかね、家族。
家族は大事だし、素敵なこと、素敵なもの存在、愛おしいとか、もちろんありますよね。
すごいあるんだけど、どこか冷静な目を持ってたりとかもいいんじゃないかなーとか。
でも、それだけで本人が見ようとしても、やっぱり何かことが起きたときに、さっき和田さんも自分自身だって見れなかったときみたいなのがあるから、
みんないろんな目を持って支えてくれる人が周りにいるっていうのはすごいありがたいんだろうなーって聞いてて思いますね。
友達とか、職場の人だったりするかもしれないし、あとは意外と年齢違った方が全然違う考え方してたりとか。
私なんか今、10歳ぐらい離れてる年下の人と付き合いすることがなんか多いんですよね。
あとは大学生の人と話したりする時間があったりすると、やっぱり若いからいい、年だからダメっていうことではなく、
全然全然ジェネレーションが違うって、こんなに違うんだなーって。
一個一個が新しかったりとか。
新鮮な感じだね。
そうそうそうそう。そういう感覚って大事だなーって。
なんか視点とか見方が変わるみたいな。
そうそうそう。アハ体験が自然にできる。
確かにね。
それはやっぱりどっちかっていうと、自分が専門職でやってるから私に相談してくださいっていうのが正解なんだろうけど、
そうじゃなくて身近な人からのサポートの方が意外と大切だったりするっていうのは思いますよね。
そうですね。身近な方からのサポートありがたいですよね。
うん。やっぱりいつもそばにいて、自分が安心できる間に話せるのが一番いい。
それでもどうしても周りにいなければちょっと我がさんいるよ。
とかあとなんか、例えば制度を利用するとか、福祉制度とか、どこの病院どんな風にかかったらいいかとか、
そういう時はね、利用してもらえたらいいけど、本当に一期一会っていうか、そういう場面だけ登場すればいいんじゃないかな。
専門職の仕事をしてる人間としては。
もちろん友人知人とはまた違うけど。
家族。家族ってなんなんでしょうね。改めてよくわかんなくなってきましたけど。
でもなんか認識なんだろうなみたいなのも。
その人自身も。
あと期待しているものとか。
そっか、期待するものでもあるんですね。
うん。与えてくれるものだったりもするだろうし。
なんかどんな期待を持ってる人が多いなとか感じますか?
親子関係においてとか、夫婦間とかも、仲良くしていたいすごいイメージは高いところにあるとしたらイメージとして、
その手前にある日々の関係性にはあんまり目を向けない。
はいはい。
だから夫婦仲良くしたいのに全然仲良くない状況があって、
でも本当は夫婦仲良くしたいのに日々LINEでしか会話しないとか。
それは目と目を見て話そうよみたいな。
確かに。
同じ家に住んでLINE飲むんですか?
とか、業務連絡みたいなLINEになってるとか。
承知しました。
そういう普段のコミュニケーションの先に理想の形が立ち現れるんだろうけど、
日々の努力はないままに仲良くなりたいとか、それは無理だよねみたいな。
あと親子関係でも過去のことを、
例えば私は今51歳ですけど、