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次は、ちょっと戻るんですけど、138ページの、さっきの渡し森のところにちょっと戻るんですね。
で、この、川っていうものが、ちょっとこれ、はずじゃないなと思って、この小説で。
ですね。
一番最後のところ読みますね。
これ、ヴァズ・デーヴァーが言うんです。
この川を愛せよ、そのもとに、そのもとに泊まれ、それに学べ、って言うんですよ。
これ、ちょうどあの眠りが覚めて、まあ、ヴァズ・デーヴァーに出会って、ヴァズ・デーヴァーに、この川を愛せ、この川に留まり、この川に学べ、ってことを言われるんですよね。
で、実際この川から、シッダルタはいろんなことを学んでいく。
で、148ページのところの中盤ぐらいから読みたいんですけど、
シッダルタは言った。
友よ、川は多くの声、非常に多くの声を持っている。
それは王者の声、戦士の声、お牛の声、野鳥の声、散歩の声、探索する者の声、そしてそのほか無数の声を持っているのではないか。
そうだ、とバーズ・デーバーはうなずいた。
生きとし生ける者の声は、すべて川の声の中にあるのだ。
で、とシッダルタは続けた。
もし、この川の幾万の声を同時に聞くことができたら、その時は、その時、川はどんな言葉を発するだろう。
バーズ・デーバーの顔は幸福に満ちて笑った。
彼はシッダルタの方へ身をかがめて、聖語、オウムをその耳にささやいた。
そして、それこそまたシッダルタが聞き得た言葉であったのだ。
というのです。
うんうんうん。
生きとし生ける者の声は、すべて川の中に、川の声の中にある。
そうね、川ね。
遠藤修具作さんの、海川をちょっと彷彿しました。
おおー。
この川って、もう何か。
ねー。
うんうんうん。もう、ただの川、その川じゃないっていうかね。
うんうんうん。
ほんとに。
川にすべての声があるって面白いですね。
面白いね。
うーん。
03:02
絵音経の中に、た即いつ、一即た、ってまあ、あるんですよ。
うーん。
た、いろんな多くのものが、それは即、いつ、一つのもの。
だからここで言うと川、の中にあるんだ。
そして、川は即、多くの声でもあるんだっていう。
うーん。
なんかまさに、その、それが、まあ、描かれているっていう。
うんうんうん。
川にそれを、なんだろうな、見出せてるんですよね。
うーん。
これだから、たまたま今回は川だったけど、
そう。
川じゃないものから見出すことだって、できたりするってことなんですかね。
そういうことだと思うんです。
うーん。
例えば森とかね。
森とかね。
バーズ・デイバーはこれ、最後亡くなるとき森に帰っていくんだよね。
はい。
うーん。だから。
でしたね。
私たちが生まれてくる前の世界だったり、私たちの死後っていうものがよく、
まあ、天って言ったりして空だったり。
はい。
あるいは海だったり、山だったりっていうものが、時に象徴してこう表してくれるものがあると思うんですけれども。
うん。
だから森っていうのはまさになんだろうな、そういう場として森に帰っていったって、なんか書いてくれてるんだと思うんですけど。
うん。
森にももちろん見つけられるし、いろんなところで見つけられるんでしょうね。
ねえ。
例えばあの、こないだ岡正文くんの詩集読んだんですけれども。
はい。
まあ、あれの詩集一つ録ったって、まあ、岡正文くんがそこにいる、の声があるし、岡正文くんが旅で出会った人の声もあるでしょうし。
確かに確かに。
もちろんお父さんとお母さんの声もあるけれども、そこにはお父さんとお母さんの関係があった人の声ももちろん入っているでしょうし、
同じように、同じ境遇で、まあ、悲しんでる名もなき人の声も入っているみたいな感じもあるじゃないですか。
うん。
ねえ。
一人の人生のね、中にも、いろんなものあらゆるものの声が入っているとも言えるのかもしれないってことですね。
まさに。
まさにね。
まさに。いや、それちょっとね、あの、最後の場面でもそれ描かれてるなって書いてあってね。
ああ。
ちょっと、えっとね、えっとね、どこだったかな。ここだ。204ページ、ほんとに最後。
ほんとに最後だ。
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僕の最後が、ほんとにもう、すごい美しい終わり方だなと思ってるんですけど、
こう、ゴビンダとシッダールタがさっき会話しているところのところに戻ってくるんですけど、読むと、ゴビンダがね、
ともシッダールタの顔は、もはや見えなかった。
その代わりに、彼の眼前に彷彿として現れたのは、他の諸々の顔である。
多数の、長く長く連なった、みなぎり流れる本流である、百の顔、千の顔、それらすべては現れてはまた消えた。
しかも、そのすべてが、同時に存在するように思われた。
それらすべては絶えず変化し、更新されていた。
しかし、そのすべてが、シッダールタなのだ。
これまさに、シッダール…中田さんが今言ってくれたように、その人の中にいろんな人が入っているっていうものを、まさに描いてる。
ほんとだ、すっごいね。
すごいよね、同時に存在した。
しかもこれはあれですよね、シッダールタが出会ってきた人っていう具体の人も、もちろん含まれてるかもしれないけど、もっとそういうものじゃなく、
何だろう、時空を超えた、千の顔、百の顔ってことなのかなぁ。
ね。
これからゴヴィンダ、やっぱすごいんですよね。ずっと長く修行してきた人だけあって、
彼もやっぱシッダールタの顔を見て、
そうですね、それを見出したわけで。
まさにシッダールタが顔に見出したことと、しかしものをゴビンダはゴビンダには、シッダールタの顔にそれを見ている。
なるほど、確かにこれは自分が読んでてもそこの掃除域に気づいてなかったなぁ、確かに見出してる。
これ、もうちょっと最後まで読みますね。最後は本当に美しいところだから、ちょっと206ページの真ん中あたりからなんですけど。
ゴヴィンダはなおしばらく、自分が今口に触れたその顔、つい今しがたあらゆる流転、あらゆる聖性、あらゆる存在の舞台であったそのシッダールタの静かな顔、
その顔の上にかがみこんだままでいた、そのかんばせはその表皮の下において戦死万体の深い神秘が再び幕を閉じたあとも無縁であった、
それは静かに微笑んでいた、軽く優しく微笑んでいた、
おそらくは非常に慈悲深く、おそらくは非常に皮肉を帯びて、ちょうど世尊ブッダが微笑まれたのと全く同じように微笑んでいた、
09:03
がくゴビンダは頭を垂れた、なぜとも知らぬ涙が彼の置いた頬を伝って流れた、
衷心からの愛、もっとも謙虚な鋭けいの念がさながら火のように彼の中の、彼の心の中に燃えた、
がく知人、地に届くまで深く、彼は端座している人の前に頭を垂れた、
その人の微笑みは、彼がその生涯において愛したことのあるすべてのもの、
その生涯において彼が敬う愛、仰いだすべてのものを彼に思い起こさせているのであった、と言ってこの小説が、
うん、やっぱり見とっても汲み取れるものがここにあるんですけれども、
どうすかどうすか、なんか、今日読んだ純瀬の中ではどんな感じだったんですか?何が浮かぶんですか?
なんか、ゴビン、シッダアルタが川から大事なことを教わったことを今、ゴビンダはシッダアルタの顔から教わって、
それをゴビンダ、ゴビンダはシッダアルタの顔から見出したわけで、ここからゴビンダの旅が始まっていくんだと思うんですよね。
うんうんうん。
なんか、でもこの微笑みってこれやっぱなんか、この物語の象徴だなぁと思ってて、
うん。
なんかこういう微笑みを残して死にるといいなぁって、なんかやっぱり思ったし、なんか、自分の微笑みって自分は知らないでしょ?
うん、知らないですね。意識もしないですよね、普段ね。
うん、それがまたいいなぁと思って。
あ、確かに自分の顔は自分で唯一見れないですもんね。
うん。
なんか、自分の話してばっかりあれなんですけど、やっぱり父と母の微笑みを残したいっていうのは、まあまさにそういう感じのところがあって、
なんか、この微笑みを彼ら自身は知らないから、僕が引き受けて残したいっていうのもなんかあるし、
12:06
うんうんうん。
自分の微笑みを見逃したくないし、なんか、自分のこういう微笑みを残して死にるといいなっていう、なんか、感じましたね。
そっか、じゅんさんはそれを死という形で残そうとしてるとも言えるってことですかね?
そうですよね。
うん。確かに微笑みだけじゃなくて、例えば笑顔みたいなものとかも、
こちらにしか見れないじゃないですか。その例えば大事な人の笑顔って。
うん。
確かにそれを例えば残していくとかって、こちら側にしかできないことですね。なんて言うんでしょう。
ね。
でもゴビンダはこれを見出したのすごいですよね。顔からですからね。
すごいですね。
これ顔から想起されたものでこれ何ページ書いてんだろうってぐらいの。
すごいですね。
すごくないですか。顔ですよ。
本当に本当になんか。
これ中田さんが想事系だなーって言ってくれたじゃないですか。
顔とね、過去の顔のね。
はい。
これ今日一番最初に紹介した、シッダルタがブッダと話した会話が、
そしてシッダルタが言った言葉が、
自分はブッダの教えの中に起用いないから、言って離れていったってことがこれね、
最後にも全く同じ言葉が書かれてあってゴビンダに語ってるじゃないですか。
私はブッダの生活に依頼を見るっていうね。
これも繰り返されている言葉じゃないですか。
この小説ってずーっと繰り返されている言葉があるんですよね。
うーん。
なんかそれをいろんな観点でこうやってくれているというか、
いろんな文脈においてそれを語り直してくれていて、
っていう感じもあるし、シッダルタはなんだろうな、
やっぱりあの若きブッダと、若い時にブッダと出会って同じことを語ってるって言えるんだけれども、
ゴビンダの時に語ったこととは言葉としては同じなんだけど、
あれは深く感覚しているっていうことでもあるんだと思うんですよね。
深まってるんだと思うんですよね。
その深まりを描いているとも言えるなというか。
確かにね。
まさに言葉じゃなく生活なんだみたいな話とか。
そういう深まりなんだろうかな。
でもやっぱりあれですよね。
この本に書かれていることもやっぱり頭で理解しようとしちゃうと、
15:07
そもそもそういうことじゃないんだよって言ってるこの本のメッセージに、
これ何て言うんですか?
反すると言うか反すると言うかね。
何て言うの?
面白いですよね。
これすらもさ、頭で理解しようとしちゃうと、
でもそれだけではたどり着かないことがあるってことを言ってくれてるんだなって今日改めて思ったし。
うん。
今回知ってあるとか世俗にまみれていて、
その世俗にまみれからこそ、
人間の醜さだったり至らなさだったり弱さだったりということを書く、
得取り直し、そこへのまなざしっていうものを得たから、
最後この微笑みという形で何か現れてきているような気がするんですけれども。
うーん。
うーん。
なんかその繰り返しなのかもしれないなみたいな、
いろんな観点で彼は味わってるんだと思うんですよね。
僕今回話題紹介したかったんだけど紹介しきれなかったんですけど、
お父さんのことを思い出す場面があるんですよね。
はいはいはい。
子供が結局自分の元から離れていっちゃったっていうことを知ってあると自身がね、
自分の子供がわがまな子供が離れていったときに、
ある日川を見たときにお父さんを思い出して。
水面に映ったね。
水面に映ったね。
誰かに似てる、これは父の顔だって言って自分の顔がね。
父を思い出し、
ああそうだ自分もこうやって父の元を離れていってしまったんだって。
確かにね。
っていうことに、
父に対する後悔じゃないけれども、
何か子供を思い出すじゃないですか。
はい。
あの場面を見たときに、
なんだろうな、その、
うんうんうん、確かに。
確かに確かに。
あれもまさに惣事ですもんね。
子供の語りの中のね。
ねえ。
うん。
自分もしてたやんっていう話ですね。
そうそう。
そう。
で、水面を見て、
あれっ、
これ八本木の人も居るじゃないですか。
東村の人が居る。
人が居る。
自分もしてたやんっていう話ですね。 そう、そう。
だからやっぱり なんか
いろんなものの中に自分を見出していく ああ、これは自分だって
うん なんかこう思っていくってことも大事なんだなぁって
小説見ながらね それがこの微笑みにつながっていくんだなっていう
はい。 世俗の人にまみれて
18:00
自分ってものの広角が広がっていって
感じはする。 いいねー。
いやー今回ちょっとずいぶん長くなってしまいました。 ほんとですね。
でも、でもまだまだ語り得るぐらいの このね、ちょっと薄めなんですよね。薄めなん
ですよ。 岩波の文庫にしては。 そうだね。
でもまだ語れるぐらいこの本はあるんですね。 ほんとはね。
またぜひちょっと年を重ねて語り直しましょう。 ですね、ですね。確かに。
ぜひ読んでみてほしいですね。これ興味が持った人は。 そうですと。
読みやすいので比較的あのなんて言うんですか。 めちゃくちゃ読みやすい。
あの本質的に読むと思うと難しいかもしれないですけど、 読みやすいです。感じがあるので。
そして最初から最後まで面白いっていうね。 ほんとですね。
一気に読んじゃうね。 一気に読みました、本当に。
一気に読んでまた読み返すんだろうなって思う本ですね、これは。
いやー長編でしたね、今日は。
面白かったです。
13的にはどうでした?語り尽くせました? 語り尽くすのは難しいか。
ねー語り尽くすことはできないけど、なんだろうなー。
いやー
やっぱり、なんか
この語る場があるということが僕にとってはもうありがたい時間なので、
なんか自分が語りながら
なんかこの自分の
この一肉にしていくっていう気をなんかさせてもらった時間でもあったなと思っていて、
なんか この感覚を大事になんか
生活を歩みたいなって思っています。
今日はじゃあ終わっておきますか? そうですね。
終わっておきましょうか。 ありがとうございました。