今回は、柳宗悦さんの『木喰上人』。
木喰上人は、死後100年を経て、柳宗悦によって見出された大事な上人です。
木喰上人がつくった仏像を見た感動を、柳宗悦さんが見事に言葉で肉迫する名文を味わい、
仏との関係性を深めてみたいと思います。
サマリー
このエピソードでは、柳宗悦による仏像の微笑みの深い意味や、その微笑みが人間の運命に与える影響が語られています。また、仏教の教えや神の救いについても触れ、信仰から得られる幸福感や存在について考察されています。柳宗悦の『木喰上人』の朗読解説では、仏像が語りかける神の存在や善悪の理解が深まります。人々は日常生活の中で神の愛に包まれながら、生きる意味や許しの重要性について考えています。
仏像の微笑みの解釈
じゃあ、ちょっと続きを見ますね。
あなたはあるものに向かって微笑むのでもなく、またその微笑みにあるものを示そうとするのでもない。
すべてがその前に無差別であり、しかも差別なきその姿にすべての差別を迎えている。
その微笑みは移りゆく時間を持たぬ。
ある時に笑うのでなく、また時に移るものに笑うのでもあらぬ。
その微笑みにおいて時に流れるものを時なき境に生かそうとするのである。
すべてのものはその変わりなき微笑みにおいてまた不滅にされる。
それにそこには絶対な境地が漂う。
示される心はあらゆる二限界に無関心である。
すべての対立の世界から超絶として離脱する。
しかも、いかにそれが密な関わりをすべてに結んでくるであろう。
うーん、という文章なんですね。
信仰と幸福の関係
すべてがその前に無差別であり、しかも差別なきその姿にすべての差別を迎えている。
これは般若心経みたいな感じですね。
えー。
色即勢空、空即勢色。
すべてがその前に無差別であり、しかも差別なきその姿にすべての差別を迎えている。
後半の差別っていうのはすべての区別、違いみたいなものでしょうけどね。
すべてが無差別であり、かつ差別である。すべてが分かれてあり、かつ分かれていないのである。
色みたい。色のグラデーションというか。
うーん、いやーこの文章すごいなー。
ちょっと続き読みますか。
あなたは人類が浄土に帰るのを眺めては微笑んでいる。
だが人間のすべてが地獄に落ちてもその顔を曇らしはしないのだ。
否、捨てられるすべての霊をその微笑みにおいて拾い取ろうとしている。
私は私の運命がどうなるのかをよく知らない。
だがどうなろうともあなたの微笑みに変わりがないことだけはもう確かだ。
そうしてその微笑みに受け取られているという私の運命だけは確かだ。
私はあなたの傍らに立ってこの幸福を感じている。
って言うんです。
いいですね。
なんか信仰ってこと、こういうことだよな。
私はあなたの傍らに立ってその幸福を感じているって言うじゃないですか。
これをね、浄福って言うんですよね。
清い福って書いて浄福って言葉があるんですよ。
それは仏の加護による幸せのことを浄福って言うんですね。
なんていい言葉だって思ってね浄福って。
信仰による幸福のことを浄福。
ちょっと言葉にならないですね。
ちょっと次読んでいきましょうかね。
おお、あなたもあなた自身の運命がどうなるかを知らないのだ。
だが知らないその運命への完全な制御はあなたの微笑みの中に果たされているのだ。
歳月は静かにあなたの体を滅ぼすかもしれない。
しかし微笑みながら朽ちていくその微笑みを止めさせることはできないのだ。
あなたはあなたのすべての敵をその笑顔において迎えてしまう。
どんな力もその前には力がないのだ。
運命があなたを変えうるのではなくあなたが運命を変えてしまう。
すべての人類も自然も今あなたの微笑みの内に抱かれているのだ。
あなたもあなた自身の運命がどうなるかを知らないのだ。
だがその知らないその運命への完全な制御があなたの微笑みの中に果たされているのだ。
これ、運命に完全に従っている、任せているっていう感じなんですね。
未来どうなるか不確定ですけど、なおもう勝負はついているっていう。
何て言うんですかね。もうね。
歳月は静かにあなたの体を滅ぼすかもしれない。
しかし微笑みながら朽ちていくその微笑みをやめさせることはできないのだ。
いい文章ですね。
そこらへんまでは、私が自然に対して感じたことがものすごく重なるなっていう風に聞いてたんですよ。
でもその次ぐらいに、電が今度うちに入ってくる、表現が出てくる。
待ってると思うんですけど。
もうちょっと読んでもらっていいですか。
続き。
あなたはあなたのすべての敵をその笑顔において迎えてしまう。
どんな力もその前には力がないのだ。
運命があなたを変えうるのではなく、あなたが運命を変えてしまう。
すべての人類も自然も今、あなたの微笑みのうちに抱かれているのだ。
すごい。
何て言うんでしょうね。
存在そのものみたいな、あること、何て言うんでしょうね。
そのものの、決心というか、実在化させたものが、させた表現が、お笑みの目的物なのか。
そうですね。この前半は朽ちていくっていうのは、この無邪気物そのもののことを言っていて、
後半は仏そのもののことを言ってくれているっていう。
なんかすごく多次元、多次元な感じがしますね。
お笑みながら朽ちていくその微笑みをやめさせることはできないのだっていうのって、
亡くなって自分の大切な人の微笑みを彷彿しちゃいますね。こういう文章を読むとね。
いやー、いい文章だな。
ちょっと、もうちょっと読みますね。
あなたを眺めるとき、誰でも同じ微笑みに誘われていく。
誰がそれを禁じえよう。私たちが禁じても、あなたが禁じないのだ。
いかに抵抗しても、あなたの笑顔の前には無益なのだ。なぜならその抵抗をも、笑顔で受けてしまうからだ。
少しは怒ってくれるかと思っても、その予想が当たる場合がない。
手のつきようがないと言って、あなたを打ちつけあいても、なお一人でその微笑みを続けているのだ。
世界の力もあなたの顔を乱すに足りない。否、乱れないその顔に、この世における全ての乱れが受けられていくのだ。
隠して全てのものは、その微笑みの世界へと入っていくのだ。否、入らないものは一つもないのだ。
なぜなら入らない場合でも、同じ微笑みに受け取られてしまっているからである。
もう、面白いなあ。なんかこれ、お経みたいになって言ってる。
柳さん、お経をかけますね。
すごいなあ。
言葉で表現すると、それを否、否定するしか表せない領域のことを言ってるっていうか、
言葉に収まる、表現し得るものを言うんだけど、それを否ってしないと実が表せない。
なるほど。その通りだな、それ。
だから、すごい否、否、否、否出てきてますね。
本当、言葉足りないことを否っていう言葉を使うことによって迫っていってる文章ですね。
ここに柳さんの美しい文章を感じますね。
すごいなあ、本当に。
もうちょっと読んでいきますね。
私はあなたの微笑みから逃げることはどうしてもできない。
逃げてもその微笑みの最中で逃げているに過ぎないからだ。
昔、中世紀の人が、神を出るもんは神に入るもんだという意味の言葉を残した。
同じその真理があなたの像にまざまざと刻まれている。
私がどうかしてあなたを見ないようにと目を閉じてもそれは虎王なのだ。
あなたの微笑みを受けつつ目を閉じているに過ぎないからだ。
あなたの微笑みにおける摂取は限りない力だと言わねばならない。
私たちはどんなにあなたに背を向けてももうその微笑みの中に救われてしまっている。
離れようという私の行為よりも離さないというあなたの行為がいつも先なのだ。
それゆえ私はあなたからどうあっても離れられない関係にあるのだ。
神の救いの教え
否、離れようとすればするほど離れていないことが意識されるばかりだ。
たとえあなたから離れないということを私が忘却し得たとしてもやはりその忘却の瞬間があなたの微笑みの瞬間であるのをどうしよう。
私はあなたによって神の見救いが何を意味するかを学びつつあるのだ。
小柳さんが今までこの33、34歳になるまで宗教哲学者として名調をたくさん書いてきているんですよね。
宗教とその真理とかね、神についてとかね、そういうところの学んできたことと今まさに経験していることが本当に結ばれて書かれている感がしてきますね。
この神を出る門は神に入る門だという言葉を言う意味の言葉を残した。
昔中世紀の人があって、これ誰かわかんなくて、なんかね検索したんだけど出てこなくて、多分おそらくどうなんだろうな、マイスター・エッグハルトとかだったんじゃないかなっていう気がなんとなくしているんですけど直感的には。
いい言葉ですね。神を出る門は神に入る門だって。離れようとしてもお前は神の内にいるのだって。
それをこの微笑みの中から感じてるんですね。微笑みから逃げても私は微笑みの中に生きているって。いいですね。
すごい。パラドックスって言うんですかね、こういう。
親みたい。なんかね、逃げようとした人が思い知るみたいな。
お前が神を信じるか信じないかとかはどっちでもよくて、信じなくてもいるんですみたいな。
お前が愛情を受けてきたと感じなくても別にかまわないんです。愛情はもうあるんですって。
生きているということがもう愛情の内にあることなんですって。
今のユウさんの言葉もすごくいいですね。
スッと入る。
これちょっと最後だな。ちょっとだけ長いけど最後まで読んでみますね。
読者よ、それも名も知れぬ一彫刻だと感化してはならない。そこに包まれた秘儀を見る者は、神を見る幸を受けているのだ。
神宗はミダに救済の請願があると私たちに教えている。
同じその教えが合掌するこの仏像において、生き生きと説かれているのではないか。
私たちの運命はその仏像が放つ微笑みのように、神からあふれる救いの中に受け取られているのだ。
神が誰がどうなろうとも、彼の救いにおいて全てを固く抱いているのだ。
不情な私たちは地獄に落ちる身でもあろう。だが落ちるその刹那においても、神の愛に変わりはないのだ。
否、落ちるよりも前に既に固く神の救いに引き取られているのだ。
愚にして濁る私たちは救われる身とはならないのだ。しかし救われないという事実よりも、救いたいという神の志の力がより強いのだ。
そうして神から離れる瞬間はいつも神が離さないとする瞬間よりも遅くくるのだ。
神の存在と仏像の力
かくして一切の衆生万有は神の救いの中に受け取られている。多くの者は神の存在を否むであろう。
しかし神はいないという私たちの声よりも、神がいるという神自身の声の方がいつも先に響いている。
神の存在に時間はない。時間の世界は彼よりも後にくる。
ちょうど菩薩の微笑みがそれを見る私の心の働きよりも先にあるのと同じである。
世界のすべての現象はその微笑みに先んじて起こることはできない。しかもその微笑みは不動である。
それゆえ、よし私たちが仏像を捨て去ることに成功しても、その成功は微笑みつつある世界の中で果たされるに過ぎない。
大いなる悪とても神の善を破ることはできない。すべての悪が神の善の中で起こるに過ぎないからだ。
私が悪によって神に逆らおうとしても、もう遅すぎるのだ。なぜなら、それよりも前に既に神の愛に抱かれてしまっているからである。
私の前にある自像本は書く私に教え、私に語る。
やっぱり柳さんに見出されるために作られた仏像みたいな感じもするし。
読者よから始まる、読者に向けた文章がここから始まるけれども、ここから仏って言わず神って言うんですよね。
ちょっとだからなんだろう、本当にあらゆる宗教を超えたことを言わんとしている。
いいですね。読者よ、それを名も知れぬ一彫刻だと感化してはならない。
そこに包まれた秘儀を見る者は、神を見る幸を受けているのだ。
いいですね。感化したくないですね。見過ごしたくないですね。
こういう仕事をしてみたいなーって思いましたよ、今回。
柳さんが人々が感化している中に、感化してはならぬものをこうやって拾って、世に差し出していくっていうのが柳さんの仕事でしょう。
まだまだあるでしょう、感化していることきっとって思って。
善悪を超えた理解
そうですね。
なんか、悪の前に善があるみたいな。
そのことわりも、なんかこういうふうに表現してくれて、
なるほどなーって思いました。
なんか、善と悪ってつい、同じ天秤に載ってるような、
善と悪、反対言葉が悪。
善の反対言葉が悪で、その2つは同じ天秤に載った言葉のような捉えだったんですけど、
今の文章を聞いてたら、あ、そうか。
善が、もう悪は包んでいて、その1個上の次元にあるんだ。
なあ。
で、その善と神を、
善っていう言葉が神に引き上げられたような感覚になったんですけど、
善とか悪とか身近な例で言うと、
善玉筋、悪玉筋みたいな、超精細筋みたいなところ。
面白い。
そう、なんか私は意識、なんか連れてかれて、
そう思うと、先に人間が生まれて生きているってことは、
善玉筋のほうが優位に働いてくれていて、
生まれてるってことだから、もう先に善になれていて、
その後、悪玉筋に偏っちゃって病気になって死んじゃうことはあるかもしれないけど、
生まれたってことは、先に生きたっていうことは、
善玉筋の働きで生かされたっていうことが先に来るんだ、みたいな。
そういう感じが、身近な例で、
面白い。
文章から。
柳さんって不二の世界ってよく言うんですよね。
不二。
不二?
不二つない世界。
現実を超越しているってことですかね。
善悪を超えた善、みたいなね。
なるほど。
善の意味がちょっと違うんですよね。
こういうのね、僕一番端的に感じるのは、
石森美智子さんの《苦害浄土》っていう本で、
小片松さんっていう人が書いた実相は、
私だったら、あの本とかもそうなんですけど、
ああいう話を思い出しますね、やっぱり。
あれは、熊本のミナマタ病っていう話があって、
あれ自体は、人間が資本主義の中で作ったものから生まれてきてるんですよね。
で、窒素工場から窒素を流し続けて、
悪って分かってた、悪性があるって分かってたけど流し続けてしまって、
で、魚がそれを食べ、その魚を人間が食べ、
人間が病になるっていう。
それに対して、被害者だったミナマタ病患者たちは、窒素工場に対して、
窒素工場って国の援助も受けてたから、
国とかに対して働きかけていくっていう、
長い戦いが始まるんですよ、そこからね。
でも最終的にどういう境地に行くかっていうと、
岡田真人さんなんかは、いや私が窒素だったんだっていう。
私もまた、窒素工場が作ってるペットボトルとかを活用していたから、
私も必要としていてしまった人間であると。
だからもう、あなたたちを許そうと思うっていう、
家族たちを殺されたけれども、それでもなお許そうと思うっていう話になっていくんですよね。
だから私たちは、許された上で生かされてるんですねっていう話になってくるんですよ。
これがね、善悪を超えた善の象徴だなぁと思ってね。
よくその境地に至るなぁってね、感動するんですよね。
だから、本当に激しい憎しみとか悪を感じた人から生まれてくる、
本当に許しっていう名の善。
仏を言いますね、本当にね。
今日この辺りにしておきましょうかね。
濃厚でしたね。
濃厚でしたね。
浄飲が。
仏像を見た体験を言葉にしてくれた文章いっぱいあって、
志村あくめさんとかも素晴らしい文章残してましたし、
でもやっぱこの柳さんの文章やっぱすごいですね。
これ以上にない文章だなぁって思いますね。
なんか仏像見る機会があったら、この文章ちょっとね、
読んで仏像見に行くのもいいかもしれないですね。
本当ですね。ただ見てるんじゃもったいない。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
じゃあまた。
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