今回は、小林秀雄さんの『ゴッホの手紙』。
小林秀雄さんはゴッホの「烏のいる麦畑」という絵に感動しました。
彼はゴッホの絵から何を感じたのか。この本から感動が伝わってきます。
ゴッホの関連の本を何冊も読んできましたが、この本が最も良い本かもしれません。
いや、ゴッホだけに限らず、芸術批評においても、この本を外すことはできないほど、芸術批評の魅力が詰まった本だと感じています。
サマリー
小林秀夫の『ゴッホの手紙』は、ゴッホの絵画や手紙を通じて、彼の生き方や作品の魅力を深く掘り下げる内容です。このポッドキャストでは、ゴッホの手紙がどのように彼の芸術を支え、受容されてきたのかを探ります。本エピソードでは、小林秀夫がゴッホの手紙を通じて彼の内面や人柄を探求し、彼が抱えていた苦悩や志について話します。また、ゴッホの絵画や手紙に込められた精神性や、彼に影響を与えた人物についても触れています。
ゴッホの手紙と絵の魅力
こんにちは。
こんにちは。
今日はですね、こちらの本ですね。小林秀雄さんの『ゴッホの手紙』っていう本になります。
これちょっと僕が持っているのは単行本なんですけれども、文庫本でも出てますね。
単行本の方が、絵がところどころ入ってたりしてて、絵が大きいんで単行本は魅力なんですけれども、文庫本でも全然いいと思います。
ゴッホの手紙。
ゴッホの絵、見られたこととか、よく展覧会されてますけど、ありますか?
そうですね、原画に触れたことはないかもしれないですね。
最近だと、なんかイマーシブミュージアムみたいな感じ。
確かに。
AIとかそういう技術で出されるような、それもなんか体験しましたけど、原画はどっかで見たのかな。
今ちょうど2025年から3カ年かけて、また全国でゴッホの企画展をやっていくっていうのも走ってて、大人気ですけどね。
ちょうど神戸でやってる時期なんですけど、すごい人気みたいですね。
ゴッホの絵って、絵単体だけで感動すると思うんですよ。
人によってはね、ゴッホの絵なんてそんなに上手くなくて、絵だけで味わうもんじゃなくて、やっぱ手紙見ないと絵に感動できないっていう人結構いるんですよ。
でもね、絵単体でもやっぱ感動するだけの力あると思ってて。
小林秀夫さんもこれ最初に、なんでこのゴッホの手紙ってこの本をね、まとめ上げてこの文章を書くようになったかっていうと、
ゴッホが亡くなる数日前に描かれたカラスのいる麦畑っていう有名な作品があって、その絵を見た時にものすごい感動したって話が最初にあるのね。
それが誰の絵かわからなくて、誰の絵だ誰の絵だって聞いて回って、ゴッホの絵だったってことが知るわけなんですよね。
だからまず絵だけでも十分感動するっていう風に思ってんのね。
でも絵に感動する体験ってちょっとねやっぱり難しいんだと思うの。
やっぱ音楽とかの方がやっぱり開かれている芸術だなぁと思っていて、
音楽は本当に知識もいらないし文脈も知らないしくても十分すごく入ってくるし、これは自分のために書かれた曲だって思えると思う人多いと思うんですよね。
なんだけどなかなか絵画をそういう風に感じることってやっぱり少ない気がしてて、
その違いっていうのはやっぱり音楽は自動的でもなんか入ってくるっていうところがあり、
絵画ってやっぱりこっちから掴みに行かないとなかなか生まれてこないものでもあるんだよね。
そういう違いがあって、だからこそゴッホの手紙っていうのがすごく大事で、
ゴッホの絵っていうのはこれだけ有名になったのもやっぱりこの手紙があったからなんですよ。
絵単体ではやっぱり売れなくて、やっぱり亡くなった後、弟さんの奥さんがすごく尽力してくださって、
この手紙と絵とセットで手紙があったからこれだけ世界中で愛されるようになったっていうところがあるんですよ。
で、小林英夫さんはこの手紙のことを、これは告白文学だって言ってるんですよ。
一つの文学なんですね。膨大な量があるわけ。
僕も持ってるんですけど、こんな辞書みたいな分厚いやつが3冊ぐらいあって、
すごい分厚いんですけど、これは一つの文学だって言っててね。
小林英夫さん、この本には書かれてないんだけど、ゴッホについての講演の中でね、
結局文学っていうのはね、ロマン主義以降、近代以降の文学っていうのはみんな告白文学なんだってこと言うんですよ。
告白文学としてのゴッホの手紙
自分がどういうことを信じてるかとか、どういうことを感じてるかってことを告白しているっていうね。
自己開示みたいな感じですか?
この告白っていう言葉が、奥が深い使い方をしてるんですよ。
ドストエフスキーとかだって、いろんな登場人物を書いてやってるじゃないかって言うんだけど、
結局はその登場人物を通じて、全部自分を告白してるんだってこと言うわけですよね。
ここで言ってる告白っていうのは、誰にも打ち明けていないことを何か他者に打ち明けるっていう、いわゆるこういう一般的な告白というよりかは、
何か自分が自分として生きるために戦う、そういう言葉みたいなニュアンスがあるんですよ。
そういう言葉が綴られているのが真の告白なんだっていう。
だから自分の話を聞いてくれとか言って、そういうことは別につまらない。
そんなものはつまらない。そんな告白文学はつまらない。
本当の文学、本当の芸術っていうのは、常に自分との戦いから生まれてくるんだっていうことを言っていて、
ごっこの手紙っていうのは、その中でも立派で偉大な告白文学なんですって、そういうこと言ってるんですよね。
だからこの手紙単体だけで、何かね、ちょっと来るものがあるやっぱり。すごい。
一つの文学としてすごく染みるところがあるし、その手紙を通じて立ち現れてくるごっこの生き様っていう、
そういう一つの広く言うと芸術もあるし、そういうことを踏まえた上で絵を見るとまた違った意味合いが立ち現れてくるので、
そういう味合い方もできるしっていうので、やっぱりそういう意味でもごっこの手紙って大事なんですよね。
なんかあれですね、絵は手紙から入ってくる体験だけど、
手紙を重ね合わせて得ることで、全体性が増すというか、
ピースが保管してくれる、そういう感じがしますね。360度から来るみたいな。
ちょっと味わってみたいな、両方で。
なんかね、小林一夫さんごっこにまつわることで面白いエピソードがあって、
これもこの本には書かれてないことなんだけど、小林一夫さんってね、さっき言ったカラスのいる麦畑っていうのを感動したんですけれどもね、
それは複製なんですよ。小林一夫さんってこの本を書くときに、ずっと複製というか写真を見てこれを書いたんですよ。
本物を見てないんですよ。
それでね、こんな本を出版しちゃったから、いろんなご縁をいただいて、本物のごっこの絵を見ることができたんですよ。
でもね、そのときにはね、感動しなかったって言うんですよ。面白いですよね。
偽物か本物かってことはね、そんなに大事なんだけど大事なことじゃないってことなんですよ。
似たようなお話をね、岡本太郎さんもね、言っててね、ひかそって本があるんですけどね、
そこで岡本太郎も言ってたのは、パレに行ったときセザンヌの絵を見てものすごく感動したんだと。
で、もう一回見に行ったときに、何にも感動しなかったって言うんですよ。
だから芸術っていう体験はね、絵の中にあるんじゃなくて、やっぱり絵を通じて自分が何を見てるのか、
僕は絵に感動したんじゃなくて、絵を通じてそのとき自分と出会ってたんだっていうことを言ってるんですよ。
面白いなぁと思って。
絵を通じてエッセンスっていうかその本質の部分に到達して、そこに震えてるんでしょうね、きっとなんか。
だからね、一回見たからいいや、知ってる、もういいやとかじゃないんですよ。文学って芸術って。
むしろ昔何も感じなかったものに、今何か感じるっていいじゃないですか。
いい体験ですよね。
むしろそうやって再開するために、まず1回目見に行く、読みに行くっていうものがあっていいと思うんですよね。
そう。
ね。
で、なんかゴッホ、今回ゴッホの手紙改めて再読していて、なんか自分なりに今感じるゴッホの魅力って何かっていうと、
なんかね、アウトサイダーっていう生き方かもなぁって感じてるんですよ。
コリン・ウィルソンっていう方がね、アウトサイダーっていう本を出したんですけどもね、そこには本当にヘリングウェイだったりサルトルだったりドステフスキーだったりゴッホだったり、いろんな方がたくさん登場してくるんですけどもね。
なんかね、やっぱそれ見てても感じたんですけど、ある社会秩序の中で自らの意思を否定して生きているっていうことっていうのが癌で、
なんかね、自分が自分として生きていくには、時にその社会秩序をぶち破っていく必要性があるっていうね。
こういう生き方をゴッホは望んでたわけじゃないんだが、まあでも体現してたっていうね。
そこに魅力をやっぱ感じてしまう。
自分がやっぱ社会秩序の中で生きてきたっていうことに対して、自分の道を歩み出そうとしているっていうフェーズでもあるから、自分自身が。
だからやっぱりこういうゴッホの生き様に来るものがあるっていう。
なんかそれがやっぱりゴッホの魅力だなーって今はね、なんか感じてるんですよ。
なんかそんなのも今日ちょっと一緒に感じれたらいいなーと思ってます。
ちょっと前置きが長くなっちゃうんですけど、ゴッホって本当にもう世界中で愛されてるからいろんな本が出てるんですよ。
たくさん魅力的な本がある中で、この小林秀夫さんのゴッホの本の魅力っていうのも最初にちょっと話しておきたいなと思っていて。
ちょっと改めて読んでみて感じたことなんですけれども、
まず一つはね、小林秀夫さんが訳してるっていうところですね。
小林秀夫さん自ら訳した言葉で読めるっていうのはやっぱ魅力ですね。
ゴッホの手紙ってさっきも言ったように、本当に膨大な量があって、
本当、辞書みたいって言いましたけど、僕も辞書代わりに使ってるんですよ。
全部読めない。研究者代わりに全部読めない。
だから気になった一節をもうちょっと前後含めて読みたいなって思うときに、本当に辞書代わりに使ってるぐらいなんですよ。
全部読めないんですよ。
小林秀夫さんがこうやって膨大な手紙の中から感動した部分、重要な部分を引っ張ってきてくれてるんですよね。
それだけでもありがたいですよね。
どこを引っ張るかっていうこともすごく大事なことなんで。
小林秀夫さん、その手紙を引用しながら一つの電気を作ってるっていうね。
すごいなと思いましたね、それも。
電気なんですね。
写真を挟みながら、絵を挟みながら入れてくれてるんで、すごく絵と一緒に味わえていけるっていう、そういう体験ができる本なんですよね。
図書館にも手紙を引っ張られたりしてますけど、ああいうのはあくまで絵に添える程度なので、
ちゃんと手紙の世界に入っていくってなったら、これぐらいのボリュームがないとちょっとやっぱり難しくて。
ごっこの手紙の世界に入るためにはすごくいいなって感じたのが一つですね。
もう一つはね、やっぱり小林秀夫さんがゴッホをどう感じてたか。
日本におけるゴッホの受容
ゴッホをどう捉えてるかっていう、これがこの文章に触れられるっていうのがやっぱりいいですよね。
あの小林秀夫さんですよ。いまだに日本一の批評家って言っていいんじゃないかなって思ってますけども。
僕はやっぱり小林秀夫さんがゴッホに何を感じてたかって、そこの文章を読んだ時に、
すっごいなあ、この人ってやっぱり感じましたね。
ここまでゴッホのことを深く感じ取る人がいるのかって。
ちょっとそれに打ちひしがれてました。何かいい意味で。
もう叶わないと思って本当に。
僕もなんか自分で今ある芸術家さんの文章をたくさん書き始めてるんですけど、
こんな文章書けないわって、まあ当たり前なんですけど。
感動したなあ。
なんかそれがやっぱりこの本の魅力だなあって感じてました。
めちゃくちゃ楽しみですよ。
ありがとうですよね。
日本におけるゴッホの需要ってね、結構この本大きいんじゃないかなって思いますけどね。
小林秀夫さんがもう時代の人だったから。
もともとゴッホが初めて入ってきたのって、1911年に白樺っていう文芸芸術同人誌があるんですけどね。
そこだって一応言われてるんですよ。
この白樺ってもうね、ものすごい大事な働きをしてるんですよ。
ここに関わってた人たちって名だったる作家たちで。
柳森義さんも入ってる。
しがなおや、武者の孔二、三重厚、有嶋武雄とかね、もうそうそうたるメンバーが作ってた同人誌で。
日本にロダンだったり、セザンヌだったり、ウィリアム・ブレイクだったりってことがこの白樺によって紹介されて。
そこにゴッホも紹介されたんですよ、この白樺で。
面白いのがね、この時もね、ゴッホの紹介がね、絵じゃなくて手紙から入ってるんですよ。
手紙の翻訳が白樺でされてたんですよね。
で、まあそのゴッホの芸術家の生き様が、とぼしの文学者だったり芸術家たちを熱狂させたっていう。
それで日本においてゴッホの存在が知られて、
しきばりゅうざぶろさんっていう精神科医の方がいらっしゃるんですけどもね。
この方も白樺の方と親しかったんですけど、
その方が1930年代にゴッホを翻訳したりとか、精神科医の立場でゴッホの障害とか病だったりっていう観点を述べた本が出始めて、
1951年に小林秀夫さんがこのゴッホの手紙を書いたっていう。
これはゴッホの精神とか人生そのものを批評した。小林秀夫さん批評家だから。
批評家っていうのは本質をつかむってことなんですよ。
小林秀夫さんなりにゴッホの人生、ゴッホの精神の深みを書いてくれたっていうものなんですよね。
このしきばりゅうざぶろさんの文献をお借りしながら小林秀夫さんが書いたんですけど。
ゴッホの手紙の魅力
それがあってそこから本当にいろんな方がゴッホのことを研究されたり書かれたりということが起きていったんじゃないかなと思いますね。
良いです。
ゴッホ研究っていろんなことをされてるからね、最新の本を読むのと昔の本を読むのでね、
ちょっといろんなことがね、ファクトが違ってくるんですけどね。
それはね、粗末っちゃ粗末、大事っちゃ大事なんですけどね。
狭末なことで言えば狭末というかね。
小林秀夫さんの批評願に触れるっていうのは、1951年に書かれた本とはゆえ、良いです。やっぱり。
小林秀夫さんが何を感じたかっていうのに触れることは実に良いです。
ちょっと前段がいつもで長くなってしまって恐縮なんですけど。
いえいえ、もうなんかこう聞きとして語る純粋な熱量がむちゃくちゃ伝わってきたから楽しみになりません。
僕は好きなんですよ。
好きがめちゃくちゃ溢れてた。
じゃあ、ちょっと読んでいきましょうかね。
えっとね、まずね、ゴッホがね、画家になることを決意した27歳ぐらいの時なんですけど。
オランダとかにいて、まずいろんな人の絵を模写したりとか、デッサンたくさん描いてる時期なんですけどね。
未礼の絵をたくさん模写してるんですよね。
そのときの話からちょっと入っていきたいんです。
いきなりゴッホの言葉、味わってもいいんですけどね、ちょっと凄ましいから、
一旦小林秀夫さんが書いた文章を読んでみたいなと思います。
いろんな人物の名前出てくるんですけどね、わからなくていいです。
ちょっと気になさらず。
でね、未礼の木をつなぐ男っていう作品があるんですよ。
で、それに関することが書かれてあって、
ちょっとね、よかったらリスナーの方も検索してもらって、
エリさんにも見せますけど、画面上。
これですか、今。
そうそうそうそう。
これね。
この絵に関することです。
ちょっと読んでいきますね。
有名な木をつなぐ男が描かれたとき、
テオドールルソーはこう言ったそうである。
未礼は自分に頼る者たちのために働いている。
ちょうど花や実をつけすぎる木のように体を弱らせている。
子供たちを生かしておくために自分を使い果たしている。
野生の頑丈な幹に開花した若枝をつなぎ、
ベルギリウスのように考えている。
ダフニスよ、なしの木をつなげ、
汝の孫たち、その実を食うべし。
これが未礼の経験なペシミズムである。
ここから小林玉生さんの言葉ですね。
これが未礼の経験なペシミズムである。
どんなにゴホはこういうペシミズムを求めていたろう。
愛する妻を持ち、九人の子供の父親となり、
彼らのためになしの木をつなぎ、
彼らのために自分の実を使い果たす。
ゴホがどんなにそういうものを望んでいたか、
僕はそれを疑うことができない。
この留宗の言葉を未礼伝に読むゴホの心を、
僕は想像している。
彼が牧師になりたかったのは、
説教がしたかったからではない。
ただ、他人のために取るに足らぬ我が身を使い果たしたかったからだ。
彼は寺院と一緒に、
最も求めるところの少ない貧しい家庭生活を営みたいと
恋願ったのであって、
自分を英雄だなぞと夢にも思ったことはない。
しかしことごとく失敗した。
自分になしの木もつなげぬとはいかなる天理によるのか、
そういう悲しみが彼の手紙の荒々しい調子の中に混じり、
一瞬、異様な音調をなしているのである。
という言葉なんです。
伝わりました?
言わんとしている。
ゴホの源を知りたくなりました。
ゴホの源をね。
境遇。
そうですよね。
それを言わしめている境遇について、私全然知らないので、
なんでそう思うんだろうって。
そうですよね。
ゴホってね、画家になりたくてなったっていう人じゃないんですよ。
27歳で画家を志すんですけれども、
それまでいろんなことに失敗しちゃってきてるんですよね。
ゴホって狂気の画家だって言われるんだけれども、
本人の内面はね、とっても敬虔な、誠実な良心を持った人なんですよ。
もともとプロテスタントのお家に生まれてきているから、
ゴッホの内面の探求
イエス・キリストを愛していたし、
彼のように貧しい人たちのために使いたかったっていう。
だから牧師になろうとしたりし、伝道師になろうともしたし、
なんだけれども、いろんなところで失敗しちゃうんですよね。
失敗しちゃうっていうかね、ゴホがね、
ゴホってちょっと難しい方だったんですよ。
今で言うとね、やっぱり発達障害とかね、
そういう特性があったんだと思うんですよ。
いろんな病も抱えてたし。
だから、やっぱり他者がゴホと付き合うのってすごく難しくて、
あの弟ですら一緒に住むのはやっぱり難しかったんですよ。
ゴホをとても愛してた人なんですけれども。
っていう人なんですよ。
分かりやすいのがね、ベルギーの炭鉱の地で、
伝道師の見習いみたいなことをしていた時期があるんですよ。
でももうすさまじくて振る舞いが。
自分と着てる衣服さえもう上げちゃうわけ。
もうそこまで極端にやっちゃうと困っちゃうの。
周りの伝道師の人たちからすると。
だからもうそれはさすがにやりすぎだって言って。
どこがやりすぎなんですかって怒ったりするわけ。
だからもう一緒にやっていけないから、
もうごめんなさい無理ですって言って。
いろんなことを試みても断られちゃったりして。
でそこで最終的に弟に
兄さん絵を描くのはどうだろうかって言って
そうだってなって絵を描くようになったっていう人なんですよ。
だから
まあなりたくてなったわけじゃないんだけども。
でも彼が絵を通じてなしたかったことっていうのはずっと変わってなくて。
こういうイエスのように生きたかった人でもあったっていう人なんですよ。
でそこにはなんだろうな。
やっぱり自分も本当は人と仲良くなりたかったし。
けれどもそうやって生きることができなかったっていう
自分との戦いがあって
そういう悲しみがたくさん綴られているのがこの手紙なんだっていう。
そういう調子がこういう絵にも現れてるんだっていう。
じゃあ9人の子をもって
ひとたぶさせたかったのはミレーの話なんですね。
それを絶望して、そういう眼差しでこの絵を
自分もそういう人生を痛い気持ちで、絶望する気持ちで見てるっていうこと。
ゴッホの言葉の深さ
そうなんです。そうなんですよ。
これいい言葉なんですよね。
さっきのね、9人の子供の父親となり、
彼らのために梨の木をつなぎ、
彼らのために自分の身を使い果たす。
ごほがどんなにそういうものを望んでいたか。
彼が牧師になりたかったのは説教がしたかったからではない。
ただ他人のために取りに足らぬ我が身を使い果たしたかったからだって。
なんだけどもそういうふうになかなかできなかった。
ことごとく失敗した。自分に梨の木もつなげぬとはいかなる天理に酔うものか。
そういう悲しみが、彼の手紙の荒々しい調子の中に混じり、
一瞬ような音調となっているのである。
いいですよね。
めちゃくちゃ純粋な、
差し出したい気持ちと、
抱えている現実と。
ごほの手紙の文章を読んでみたいんですけどね。
近藤寺の手紙の文章。
この文章がね、ごほの手紙の中で一番好きな言葉なんですけどね。
ちょっと読んでみますよ。
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