今回は、吉野弘さんの『詩集 陽を浴びて』。
吉野さんは、日常の些細なことを詩にしてくれています。
こういう作品を読むと、日常をより丁寧に、より慈しんで過ごせる感覚になっていきます。
サマリー
このエピソードでは、吉野弘の詩『陽を浴びて』の朗読解説が行われており、彼の作品に描かれる情景や感情の豊かさが語られています。円覚寺やある声ある音を通して、日常の風景と深い思索が交差する様子が印象的です。詩集『陽を浴びて』からの朗読解説では、詩に表現された自然との関係や木の存在意義が深く探求されています。特に、偶然が決めた木の位置づけとその受け入れ方についての考察が印象的です。
円覚寺の風景
次じゃあ、円覚寺っていう作品なんですけど、
これあれだな、給料を背に行ってある、給料って丘のことですね。
円覚寺って鎌倉にあるお寺院の中にいた時の、またなんか、見たこと感じたことを書いてくださっている、まあそういうことでございます。
はい、円覚寺。
早春鎌倉円覚寺。
給料を背に緩やかな勾配を持つ広い境台。
三門、音堂、小楼、舎利殿、達中、十数塔のゆったりした淵。
境台を点停して、勾配、白媒が咲き競い、人々が歩む。
双門から奥の庵まで、一筋伸びている石畳の山道。
そこを行き交う人々に混じり、黒いコートの老人が、
二人の婦人に左右の肩を支えられ、不自由な足を引きずり、勾配を上っている。
若者たちが談笑しながら、その老人を足早に追い越していく。
若者たちにほとんど無視されていることで、一層際立つ老いの姿を、
私はなぜかことさら心に留めようとしている。
お父さんは風のように歩く。
次女が小学生の頃、私に言ったことを、私は不意に思い出し苦笑する。
数ヶ月前、駅のホームで失神、混沌した私には、もう風のような身軽さはない。
老人はしばしば立ち止まって、
間近の梅の花の照りを浴び、かいぞえの婦人と談笑している。
その時だけ、歩くことに必要な努力が姿に現れない。
早春、鎌倉、随禄山、遠隔寺、という作品でございます。
日記みたいな詩ですね。
駅のホームで何て書いてありました?
失神、混沌。失神して倒れちゃったんだね。
吉野さん、50代ぐらいに書いてる詩ばっかりだと思いますね。
すごい時間の流れが対比というかね。
右側はすごく早く流れてる若い、広い流れで、
左側の黒いコートの老人のところはすごくゆっくりで、
自分の過去と現在の変遷みたいな。
かつて右だったけど、左なる縁に。
なんか大事なことを教わってるんですね、吉野さんね。
この遠隔寺であった、何も知らないこの老人の方にね、
何かこう、教わってるんですね、これで。
いいな。
ちょっと細かいことですけど、早春鎌倉遠隔寺が始まって、
早春鎌倉瑞六山遠隔寺とかってまだ終わるじゃないですか。
いいですね。
何だろうな、分かんないけど、ちょうど三門から入って、
またまた帰っていきます。一通りしてまた門に出ていきますね。
境内みたいな文章自体が。
ほんとほんと。
ある声ある音の体験
そして教わることも、仏教に関わりがありそうなことさえしてくる。
すごくマップが浮かぶっていうか、
何かそういう視点な感じがしますね。
いいな。
いいですね。息を吸うかのごとくなんか詩を書いてそうですね、吉野さん、ほんと。
日記を書くようにして書いてそうですね、ほんとこれ。
今まで読んできた4ペン全部。
ほんと。
なんていうか、空間と時間をすくい上げて写し取るみたいなことがすごいですね、吉野さんの詩は。
そのまんま?
そのまんますくい上げて写し取るみたいな感じっていうか。
自分ですごく意味が明確に分かるものもあれば分からないものもあって、分からないものも分からないものとして詩にしちゃってるんだよな。
僕は、僕までもそうかもな。
意味が分かったものとかを詩にしてる感覚もある気がしてて。
意味がよく分からないけど何かここにあるから、一旦その光景を絵を描くごとく詩に残しておこうっていう。
そういうのもいいのかみたいな。
なんか、純さんの場合はじゃあ、狩りっていうか獲物を仕留めたら、こんなことがいいと思って獲物を仕留めたら、その確信を詩にするっていう感じに対して、吉野さんはその全体をこの場面っていうか、
場を丸ごとまるっとすくい取ってポンって。
そうそうそうそう。
てる感じ。
いいですよね。
そういうやり方もあるんだ。
僕最近高校で詩の授業させてもらったことあったんですけど、
本当は詩を一緒に作りたいと思ってたんですけど、ちょっと難しいだろうから読むことにしましょうってなっちゃったんですけど、やってみると思いのほかもう好評で、続きやりませんかみたいな話になってて。
じゃあ続きやるんだったら詩作りましょうよみたいなことをちょっと提案してるんですよ今ね。
高校生が詩を作るってなった時に、どうやって勝手に心に抱いちゃってるハードルを下げていけるかっていうところをいろいろ考えてるんですけど、今回この吉野さん読むと本当に日常の光景を作ってことでいいんですみたいな。
それで一回詩を作ってみましょうみたいなとかをやってみてもいいのかもしれないとか思ったり。
救い取り方にその人が出てくると思うから、石畳の描写とか、自分が山を這いていって、両側に梅があって、梅の手入りみたいなことも書いてあったりとか、目に留まったものを映してるだけなんだけど、それって実はすごく個性が出てるっていうか、本当はそこのそれに意識が向いたんだなっていうことがすぐ現れますよね。
そうなんですよ。知ったの、序章詩と序字詩と分けることができて、序章詩って言ってるのは心模様とか自分の感じてることとかを書いていくっていうことなんですね。序字詩って言ってるのはその光景だけを淡々と書いてるんですよ。行動とか行為とか見えてるものとかを淡々と書くだけなんですよ。
さっきの石畳があって、三門があってなんとかがあって、老人が歩いていたってこれ序字詩寄りなんですよ。こっち側には自分の思ってることとかが出てこないじゃないですか。光景だけが書かれてるんで。なので余白の力が強いんですよ。
なので詩になりやすいし、読み手に託されてることも多いから、読み手の取り分も多いというので、光景を書くってことが序字詩になり、勝手に詩的にもなりやすい。詩の力を借りやすいっていうところもある。
面白い。ハードルが低いと思う。
どうしても自分の思いみたいなものって書きすぎちゃうと、詩じゃなくなってくるんですよね。
うちのさんの詩の教科書としてすごくいいですね。そういう意味で本当に。
じゃあちょっと次いきますか。
5つ目。
ある声ある音っていう作品ですね。
はい、読んでいきます。
ある声ある音。
発車合図の笛が駅のホームに響き、電車が静かに動き出すと、隣の座席の若い母親の膝に寝かされた1歳ほどの男の子が仰向いたまままた声を発する。
始めは低く、次第に声を高め、ある高さになったところで、その後ずっと同じ声を発し続けるのだ。
電車が次の駅のホームに滑り込むと、その声は止む。
電車が動き出すと、その子は再び声を発し、次第に声を高め、ある高さの声を保ち続ける。
母親の膝に仰向いたまま微笑んで。
私は気づいた。レールを走る車輪の音をその子は声で真似ていたのだ。
発車して車輪が低いサイレンのように唸り始める。
速度を増すにつれてやや高まり、走行中うねりは切れ目なく続く。
その声を、その音を声でなぞっていたのだ。
レールを走る車輪の音にこんなにも親しく、どこの大人が声で寄り添ったりしただろう。
電車に乗れば足元から必ず湧き上がってくる車輪に、私は何と久しく耳を貸さなかったことか。
私はわずかに身の内が熱くなり、目をつむり、あどけないその子の声と、その声に寄り添われた鉄の車輪の荒い息遣いをその時聞いた。
聞こえるままに素直に聞いた。
という作品でございます。
日常への気づき
なんて優しさあふれる。
いいですね。
めちゃくちゃいいですね。
吉野さん、一日隣にいてほしい。
私が何も考えずにやったことを、このまなざしで救い取って、一冊の本にしてほしい。
ほんとですね。
人生めっちゃ救われると思う。
今の話、面白い話やな。
すごいね。
確かに。
人からの贈り物みたいな。
ほんとですね。
日々。
すごいな。
なんかすごい、自分の何気ない人生がこんなにもう素敵なものだったんだって思わせてもらえそう。
ねえ。
ほんとに。
いやー。
なんかすっごい自分事になっちゃうんですけど、
はい。
うちの息子が鉄音なんですよ。
鉄音ですか。
だからさっきの男の子、まるでうちの息子を見てるみたいな感覚なんですね。
はい。
ブレーキ音がどうとか、やっぱりすごく着目ポイントがマニアックだから。
はいはい。
でね、それを、なんていうか、第三者がこういう眼差しを向けてくれてるっていうことで、なんかすっごい、私までもが、なんていうの、救われるというか、なんかこう、私も寄り添ってもらってるみたいな。
なんか今そういう気持ちになりましたね、この詩を聞いてて。
ですよね。
うちの子も古鉄です。
そうですか。
前世電車だったんじゃないかって思うぐらい電車好きですね。
ほんと、だからすごいわかるな。
え。
いやー、すごいわかるな。
僕本当にもう、ひそかに息子の作品を作り続けてるんですけども。
えー。
まさにこういう作品を作り続けていて。
うわ、めっちゃいい。
うちの子は子供ってだけじゃなくて、さらに障害を持ってたりもするから、なんかでも大事な働きをしているってことを、俺は見逃さないぞって思って、もうそういう目で息子を見てるんですよ。
息子はすでにもう社会に役立っている。働きをしている。
そう思って見てるから。
まあ多分、うちの子に関しては僕拾いやすいんだと思うんですけど。
うーん。
うーん。
価値があるかないかってその、うーん。
受け止め入れてないだけで見逃してる価値ってたくさんあるから、なんか価値がないって言っちゃうのはちょっと変なことなんだよなーと思って。
ひそかにそれに抵抗していきたいなーというものを感じてね、書いてるんですけど。
なんかちょうど、来年のことを考えてて、私自分のね。
ほうほう。
そこで、自分自身にその眼差しを向けてあげようってちょうど思ってたときなんですよ。
うーん。
だから、自分が猫のようにただ生きてるだけで自分には価値があるって思ってあげようって。
うーん。
何か生産性のあることとか何かを生み出すことでないとつい価値がないって自分に
思っているところはないかい?って自分で問いたときに、なんかちょっと思ってるかもって思って。
うーん。
なんかそう、ちょうど思ったところだったなーって。
そしたらじゅんさんの口から同じような眼差しの話が聞けて、わーって思ってました。
いいですねー、それ。
それを何か一つの手段として日記とか詩でこう書いてみるから、そうやってちゃんと受け止められるってことがありそうですよね。
うーん。
ねー。
うーん。
いいなー。
めっちゃホコホコしてますね。
ねー。
ちょっとあの、つい先週ぐらい妻の誕生日だったんですよ。
ねー。
であの、3年日記をプレゼントしてみて。
めっちゃいいじゃないですか。
でその、ちょっと続かないからっていうことになって、じゃあ一緒に書こうっていうことにして。
めっちゃいい、それ。
3年日記なのに、1年目の分と2年目の分、それぞれ、僕と妻それぞれが書くっていう、そういう使い方にちょっと変えて。
めっちゃいい。
やって始めたんですよね。まだ何日目だろう。わかんない。5日目とかそれぐらいだと思うんですけど。
うーん。
なんかこういう感じのことを実感できるような日記になっていけるといいなーと思って、今聞きながら。
なりそう。
ねー。
なり始まってる、もう。きっと。
ねー。
素敵ですね。
詩のテーマと木の位置
じゃあ次はねー、ある市っていう作品にしましょう。
ちょっとあれですね、似てますね。ある声あるごとっていう作品からある市、はい、読んでいきます。
ある市。木の市、それは偶然が決めたものだろう。木高、幹回り、枝の張り方、それは木自身が決めたものだろう。
地上からは見えない根の、緻密な土の抱き方も、ある市に同意したのではない。
同意するより先に、浅い根はまず土をつかまねばならなかった。その木に私は尋ねる。
偶然が決めた君の位置を、君はどのように受け入れたか、木から答えは返ってこない。
過ぎた歳月を、全て樹形で語り、来歴の僧侶だけで立ち、それ以外を語らない木、という作品です。
どうやって語るのか、みたいな。
すごいなあ。
なんか木に語らせるのか、みたいな感じで。
その木が教えてくれることを、私だったらもっと説明したいなあ。
自らと自らの淡い、みたいな言葉とかを使いながら、仕留めに行きたくなっちゃう。
吉野さんはやっぱり、女子子みたいな語り方で、木に語らせるっていうか、
木に語らせるというか、木に語らせるというか、
木に語らせるというか、木に語らせるというか、
やっぱり、女子子みたいな語り方で、木に語らせるっていうか、あり方を。
かっこよ。
かっこよやな、まじで。
すっごいや。
なんかあれですね、例えば、絵を描くときに木を描きたければ、木を描いちゃうじゃないですか。
だけど、吉野さんは多分、木の影を、なんていうの、木を直接描かず、なんていうのかな、
影で木を伝えるみたいな。
今回は木の姿を描いて、それを伝えてるんですけど、
なんていうんだろうな、いいな。
今のすごい表現ですね。
なんかシルエットクイズじゃないけど、なんかなんていうんだろうな、その描きたいことの、
ほら、見てみろ、みたいな感じで、見せびらかすんじゃなくて、
シルエットクイズみたいなストレートを、すごく巧妙に、どういうか、なんていうのかな、精密に描くことで、見せびらかさず、表現するみたいな、たまりませんね。
自信ですね。
24:31
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