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2026-03-21 35:10

#99 ボードレールのドラクロア論、遠近法が生まれた画家の本能 / 小林秀雄『近代絵画』朗読解説その2

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今回は、小林秀雄さんの『近代絵画』

日本でも人気の19世紀の芸術家8人の列伝。
ボードレール、萌音、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ピカソ。
ぜひ美術館にいく前後に聴くと良いかもしれません。
絵画と親しくなれる言葉が詰まっています。

感想

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それで、その近代の社会っていうのは、いろんなものが分化していって、専門の仕事が生まれてきてっていう、そういう傾向に進んでいったから、
絵画、芸術っていうのも同じなんだということを言ってるんですよ。それで、小林秀雄さんは、ここからボードレールの話に入っていくんですけれども、
なんでボードレールをこれ最初に持ってきているのか。彼は詩人なのに、なんで持ってきているのかっていうと、
これ二つあって、一つは、そういう芸術の革新運動みたいなものは、
まず、詩人から現れたんじゃないかってことを言っているんですよ。
それで、ボードレールを取り上げていると。もう一つは、ボードレールって、詩を書いただけじゃなくて、
その芸術批評っていうことをしてるんですね。 ドラクロ・アロンだったり、
ワーグ・ナーロンだったり、いろんな芸術批評をしているんです。
当時、ドラクワとかマネとかっていった革新的な画家たちの本質を最初に見抜いた批評家がボードレールだろうと。
だから、近代絵画を解き明かす出発点としてふさわしいのが、ボードレールなんだっていうこともあって、
これボードレールから入ってるんですよ。 なんで、ボードレールが当時書いたドラクロ・アロンとか、
そういうことを解説してくれてるんです、小林秀夫さんが。 そこもちょっと面白いんですよ。
へぇー、ドラクロ・アロン。
ドラクロは民衆を導く自由の女神。 自由の女神だ、こういうの。
そうそう、フランス革命を描いた、こういう絵を描いた人なんですけれども、
小林秀夫さんが、ボードレールが描いたドラクロ・アロンを要約してくれてるんですね。
地流の要約だが、彼はこういう意味のことを言っている。 世人はドラクロアの歴史家に扱われた劇的な主題に心を奪われているから、
ドラクロアの新しい才能を見損なってしまうのである。 そういう人たちはドラクロアの絵を遠くから見てみるといい。
何を描いているか、描いているのか分からぬくらい離れて、絵を見てみたまえ。
たちまちドラクロアの色彩の魔術というものが諸君の目に明らかになるだろう。 この場合諸君の目に映じた
純粋な色彩の魅力は、絵の主題の面白さとは全くその厳選をことにしたものであって、 絵に近寄ってみて、絵の主題が了解できても、
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主題はこの色彩の魅力に何者も加えず、またこの魅力から何者も奪うことができぬ、と諸君は感ずるであろう。
この主題と無関係な色彩の調和こそ、画家の思想の心髄、精髄なのである。 思想といっても、これはもちろん当時の、もちろん常識的な意味でのあれこれの思想を言うのではない。
諸君を夢見させ、考えさせる色彩の力を言うのである。
って言うんですよ。
すごいですね。 すごいなぁ。もう絵の見方がちょっと違うんだなボードレール。
だって何が描かれているか、ガッて見て、見るじゃないですか。 ねぇ、でもボードレールは多分気づいていったんでしょうね。なんか
これは、色彩の調和がすごいって。
遠くから離れてみたら、よりその凄さがもうわかるって。
ドラクラはもうほぼ近代、近代の人ですけど、
ドラクワの近代性っていうのは、やっぱ主題じゃなくて、その色彩の調和にあるんだってことをボードレールが見抜いているんですね。
なんでそれを言ってるかっていうと、この後、モネ・セザンヌ・ゴッホって続いていく19世紀の画家たちっていうのは、
やっぱりこの色彩でどうやって美しい絵を作っていくかっていうことに、どんどんどんどん比重が寄っていくんですよ。
主題じゃなくて。 今までは主題が大事なんだったんだけど、主題から離れていくってことが起きてくる。
なるほど。
それでね、その色彩は何かっていうと、色彩の調和こそ、画家の思想の精髄なのである。
思想と言っても、これはもちろん常識的な意味でのあれこれの思想を言うのではない。
諸君に夢見させ、考えさせる色彩の力を言うのである。
主題が、あれこれ見るものに夢見させ、考えさせるのではないんだ。
色彩の力が君たちに夢を見させ、考えさせるんだってことを言っている。
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確かに、色彩を扱う芸術家って絵画ですもんね。
そうなんですよ。
ね。
うん。
なるほど。
これね、この本には描かれてないんですけど、確か、僕の記憶では、やっぱりね、写真ができたのって19世紀なんですよ。
19世紀半ばなんですよ。
うんうんうん。
で、これはあんまりにも大きいんですよ、画家たちにとっては。
うーん。
だって写実っていうふうに、ずっとそのままをもう描いていくってことをやってきたのに、写真ができてしまったら、もう写真でいいじゃんってなっちゃう。
うんうん。
ってなってきたら、じゃあ俺たちは何なんだってことになってくる。
絵とは何なんだってことになってくる。
うんうん。
で、そうすると、やっぱり色彩の話になってくるんですよ。
なるほど。
色彩を使って、どう描くかってことが大事になってくる。
なるほど。
うーん。
でね、もうちょっとこのボードレールのドラクロアを読んでいくとね。
ドラクロアは情熱を情熱的に愛するといった性質の画家ではあるが、それにも関わらず、ドラクロアのパレットほど最新に、微妙に整頓されたパレットを自分は他の画家に見たことがない。
まるで花束のように配置された彼のパレットの上の色を眺めながら自分は考える。
この画家はこれらの様々な色彩の一つ一つのいわば感情値というものに関してどんなに鋭い自覚を持っているだろう。
これらの色彩を最新に組み合わせて統一ある大きな調和を作り出すこの画家の仕事には、音楽家や数学者の手順に大変よく似たものがあるのではなかろうか。
この普段の練習と軽量とによって、ある名状しがたい確実さを与えられた画家の感情が現れる。それが彼の思想である。
って言うんです。
これはドラクロアは情熱に任せて筆を動かしていたわけではないんだってことを言ってるんですよ。
ボードレールは。音楽家が音符を並べて和音を作る。あるいは数学者が数式を組み合わせて何かを証明していくかのように、すごく普段の練習と軽量とによって描いてんだと。
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そういうふうにして、名状しがたい感情を確実に表現していった。
なんかね、この音楽家や数学者の手順に大変よく似たものがあるっていう、これがずっと続いていくんですよ。
だから、どっちかというと芸術って完成だと思われてるじゃないですか。
いや、そうだと思うんですけど、その通りなんですけど、全部が全部完成だけじゃないっていうか、やっぱり計算されたものがあるわけですよ。
宇宙の普遍的な法則、美の法則みたいな、そういうところに迫ってる感じがしますよね。
確かに確かに。だって黄金比みたいなものがあるわけですもんね。
なんかそこを見出したくて、数学者たちとか音楽家も宇宙が奏でているこの普遍的な美を得とって、それを音楽にしたりとか。
その時限で同じ時限で絵画、画家たちもそれを追求して自分にできることを追求しているっていうその中、そこに同じ姿勢を見て見つけているんですね。
フランス語でメチエって言葉があるんですよね。メチエ、画家のメチエとかって言ったりよくしますけど、メチエっていうのは職人の技なんです。職人の職人地みたいな、経験地みたいな、その技術のことを言ってるんですね。
だからこの絵とこの色とこの色は混ぜてはいけない。この色とこの色はこういう配分で混ぜて、水分量がこうであるとこういう美しい色が生まれてくるんだみたいな、やっぱりそういうものが蓄積されてるんですよね。画家のメチエとして。
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だから相当にそういう側面があるっていう。それでね、ドラクロアのそういう色彩の力っていうこととかがもう一つの近代の現れなんだってことを言ってるんですけれども、クールベっていう画家がいるんですけれども、
クールベなんかから言わせるとね、ドラクロアの絵っていうのはね、絵に描いた文学なんだってことを言うんですよ。つまりあれは絵じゃなくて文学だって言ってるんですよ。これはね、非難してるんですよ。
ボードレールはドラクロアにある近代性、特に色彩の魔術師だってところを見抜いているんだけれども、クールベから見ると、ドラクロアっていうのはやっぱり主題がとらわれてるっていうことを言ってるんですよ。
まだ、主題が歴史的なこととか過去のことにとらわれてるってことを言ってるんですよ。もっと自由に描いていいっていうことをクールベは思ってるわけなんですよね。
クールベに影響を受けたマネとかも含めて、どんどんどんどん自分の描きたいことを描いていくようになってくるんですよ。主題から、いろんな過去のこういう絵を描かないといけないっていう常識から外れていって。
クールベは、「俺は肩から羽の生えた人間など見たことがない。だから天使なんか描かないのさ。」とか言ったりしてるんですよ。そういう、もうちょっと考え方も近代的になってきているっていうところにあるんですね。
それでね、ボードレールはマネについても論じていて、彼がマネに、ボードレールがマネにどういうことを見ていたかっていうところもちょっと読んでみたいんです。
ボードレールがマネに認めた新しいリアリズムとは、ボードレール自身のシノリアリズムと同じ性質のものを指すのであって、要するに知人の近代的な人生支配の考えに基づいている。
これ、ボードレールがマネを論じてるんですけれども、マネの新しさっていうものは、ボードレール自身のシノ新しさでもある。同じ性質のことを言ってるんですね。
ボードレールも新しい詩を作っていった人なんですよ。その本質っていうのは、マネたちの挑んでいるものと同じ性質なんだって。
どういうことなのかっていうと、伝統や約束の力を出し、感情や思想の誘惑に抵抗し、純粋な意識を持って人生に臨めば、知人は彼のいわゆる人生という象徴の森を横切るはずである。
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それは彼に言わせれば、夜のごとく、あるいは光のごとく果てしなく広がり、色も香りも物の音も互いに応え合う。
これちょっと難しいよな、何言ってるか。
これあれなんだよな。ずっと何を言ってるかっていうと、さっきから同じこと言ってるんですけど、社会的な常識とか、歴史的な意味みたいなものとか、そういうレッテルみたいなものをすべて剥ぎ取っていってるんですね、近代の画家たちは。
で、ボードレールって悪の花っていう作品が代表作で、その作品の中にコレスポンダンスっていう有名な言葉があるんですよ。
日本語に訳すと万物称王っていう風に訳されるんですけれども、
それは、さっき言った象徴の森を横切るはずであるって言ったのがまさにそれの話で、そういう今までの常識とかしがらみとかっていうものをすべて剥ぎ取った後に、万物が互いに響き合ってるっていう世界が現れてくるだろう。
それが象徴の森、それがコレスポンダンスのことなんですね。
それは夜のごとく、あるいは光のごとく果てしなく広がり、色も香りも物の音も互いに応え合う。
そういう世界に行かないといけないってことを言ってるんです。
なんか言わんとすることは、分かるっていうか伝わってくるっていうか。
だからちょっとこれ続き読むと、死の自立性を回復するためには、死魂の光が、通人や約束によって形作られているすべての対象を破壊してしまうことがまず必要であるって言うんですよ。
絵も、絵が主題から離れて、絵の自立性を回復するのが近代の動き。
死も同じで、ボードレールっていうのは、死から死でないものをそぎ落としていくってことをした人なんですね。
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それが死の自立性を回復するために必要なんだって。
何をそぎ落としているかっていうと、今までの通言とか約束。約束って言っているみたいなことだと思うんですよ。
今までの常識やレッテルっていうものをそぎ落としてやっていくっていう。
そういうことをまずすることが、自立性を回復するために必要なんだよって。
本当に大事なことを言ってるんだと思うんですよ。
真っさらでいるって難しいですもんね。
ちょっと同じように言えないかもしれないですが、例えば、僕は詩を書いていて、
僕がそもそも好きな文学って、やっぱり明治大正昭和なんですよ。
このラジオでもそういう本ばかり扱っていて、僕が書いている詩っていうのは、やっぱりちょっと古い形式なんですよ。
でも今の現代史手帳とかに載っている詩とか、今その詩の中原中谷翔とか、そういうものを取っている人たちっていうのは、やっぱり今の最先端の詩を書いているって感じがするんですよ。
全然形式が違う。
それはなんだろうな、それが詩の自立性かどうかはわからないんだけれども、今までにないものを作り出そうとして、そういうものになっていってる。
だから僕は初めて、今の現代史手帳とかに載っている詩を読んだ時に、なんかちょっとよくわかんないなみたいな感じになるんですよね。
でも新しいことをしていくと、やっぱり受け止められないんだと思うんですよね。
でもボードレールっていうのは、やっぱり自分で詩人で自分もそういうことを試みていたから、絵画に起きているそういう革新的な動きもやっぱり見抜けることができて、
そこをちゃんとこうやって批評家として論じてくれるから、多くの人が受け止められるようになってきているっていう。
そういう大事な役割を果たしたのがボードレールなんですよね。
なるほどね。
破壊と再生じゃないけど、そういう何事にも通ずることですよね。
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そういう新しい概念を、古い名をぶち壊した新しい概念を生み出すって。
やっぱりそういう解釈を助ける人の存在が必要になってくるというか。
そうなんですよね。
今日セザンヌ紹介しますけど、セザンヌなんかも本当に最後もう裁判ね、亡くなる直前に評価され始めて、時代が追いついたというか。
ってことさえ起きるんですよね。だからね。
ここにすごい大事な言葉が書いてあるんですけれども。
絵は外にある主題の価値を示さない、額縁の中にある色の魅惑の組織自体を指す。
ってことを言うんですよ。
さっきドラクロで説明したことですね。
どうやって色彩を組み立てていくかっていうこととかに、だんだん意識が寄っていくから、新しい技法みたいなものが生まれたりしてくるわけなんですね。
その技法もこういう観点で捉えていくと、とても面白くて。
例えば遠近法の話に入っていくんですね。遠近法自体はルネサンスに生まれてるんですけれども。
もうちょっと前ですね。14世紀から16世紀に生まれてるんで。
それもどう捉えるか。ここ読んでみると面白いんですよ。ちょっと読んでみますね。
子供は遠近法を使って絵は描かぬ。近くにいる犬が遠くにある家より大きく見えるからといって、犬を家より大きくは描かない。
だからといって遠近法を知らなかった中世紀の画家たちが子供だったわけではない。彼らはそんなものを発明する必要を認めなかったのである。
中世紀は決して幼稚な名神の時代ではなかった。神によって定められた世界の合理的な秩序は理性に照らして自明な確実なものだという深い確信に人々が生きていた時代である。
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画家たちにとって聖書はもちろん伝説でも宗教文学でもなかった。動かすことのできぬ歴史的な事実の記録であった。そういう秩序や事実をできるだけ忠実に表すのが画家の任務だった。
そういう時代に人間の視点の位置によって大きいものが小さく見えたり小さなものが大きく見えたりとするようなことが何が面白いことだったろう。存在の秩序を視覚のイリュージョンに変えるようなことは思いも及ばなかったことだろう。
ルネサンス期に現れた遠近法という技法はやはりその時代の人間性の開放という思想の上に立ったものだった。
ちょっと伝わりました?
絵においては、近くにいる犬の方が遠くにある家よりも大きく描きますよね。それが遠近法ですよね。
でもそれって存在の秩序からすると視覚のイリュージョンなわけですよ。だって存在としては家の方が大きいわけだから。
そんなことを中世の人からしてみたら何が面白いんだろうってことになるわけです。
でもルネサンス期から新しいものが生まれてきていて、ルネサンス期に現れた遠近法という技法はやはりその時代の人間性の開放という思想の上に立ったものだったってことを言うんですよ。
これすごくないですか。
遠近法って2次元のものに立体感を出すために作られた技法だって捉えるのは技術論の話なんですよね。
ここで言われているのはそれに留まらない人間の態度の変化というか思想のことを話してくれていて、
あれは人間性の開放という思想がどんどん際立ってきたから出てきてるんだよってことを言っている。
絵っていうものは、そんな決められた秩序の通りに描くものでなくて、自分の感じたままのことを描いていいんだって。
自分の感性を大事にしていいんだっていう、そういう人間性の開放っていうことなんだと思うんですけども。
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そんなこと気づきもしない。
そうなんですよね。
なるほどな。
でもそうですよね。
聖書っていうものはもう伝説でも宗教文学でもなかった。
動かすことのできぬ歴史的な事実の記録だった。
そういう秩序は事実をできるだけ忠実に映すのが画家の任務だったって。
そりゃそうでしょ。
だから遠近法なんかどうでもいいんですよ。
でもそれがだんだんだんだんこの中世の宗教的な世界観が崩れ始めてきて、
あれって。
そうなるとそれは画家の任務も変わってきますよね。
もっと人間性の開放ってことが極まってきた時に、こういう技法が生まれてきたんだって。
続きを読むと、パオロ・ウッチェロってこれね、15世紀のイタリアの画家でマルニ・サンスキの画家なんですよ。
パオロ・ウッチェロは苦心した遠近法の成功した自分の絵を見て、あまりの美しさに感動して夜も眠れなかったと言う。
家が犬より大きいのは本当だ。
目の教えるところは嘘である。
しかし、本当が大血で嘘がこんなに美しいなら、画家として嘘の方を選ぶ自由が自分にはあるだろう。
まあ、そんな風にはウッチェロは考えていなかったであろう。
世間の通念に従って宗教画を描いていたであろうが、彼のうちの画家の本能は、勝手に反宗教的に、
というのは、つまりは普遍的な精神の確立性を捨てて、個別的な視覚の不安定な喜びを目指して進んだと考えていい。
ウッチェロの喜びを味わい知った画家たちには、忠誠の絵は、目で描いたというよりむしろ頭で描かれていたということが実にはっきりわかったであろう。
これは面白くないですか。
ウッチェロはね、これどういうことだろう。
意図してやったというよりかは、もう画家の本能みたいなもので生まれてきてしまった。
自分で描いて自分でびっくりしてるんですよ。
ああ、なんて美しい絵だ。
でもこれいい絵って妙ですね。
この忠誠の絵は目で描いたというよりむしろ頭で描かれたってことが実にはっきりわかったであろう。
そうですよね。頭で描くんですよ。やっぱり聖書を頭で理解して知ってることを描くってことなんでしょうね。
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でも遠近法とか印象主義たちも、目で描いてるんですよ。個人の感覚で描いてるんですよ。
そっちを優先してるって。
いやこれすごいな。パオロ・ウッチェロの感動面白いな。
なんかウッチェロは、いろいろなしがらみとか、こうねばならぬみたいな、こうあるべきみたいな鳥籠の中にいた鳥だったウッチェロが、外の世界に出てこんなに広いのかって喜んでる。
水を得た魚みたいな気持ちになってるみたいな。
なんかそういう感動がすごい伝わってくる。
やっほー。
感動が。
いや萌実さん素晴らしい例えで、ほんとそうなんでしょうね。
いいですよね。
これ、あまりの美しさに感動して夜も眠れなかったって。
衝撃だったろうな。
つくづく僕、芸術作品ってこうであらねばならないなと思ってるんですよ。
自分で描いたもので、自分で驚いて自分で感動するっていうね。
こうですよね。
常識にとらわれなくていいっていうことが大事。
大事なんですけど大事じゃないというか。
僕としては、自分で驚いて自分で感動するってこのことが大事な気がしていて。
自分が描かねばならない作品があって、自分が描かねばならない作品があって。
自分が生み出さないといけない作品があるだろうから、それを見たときにそういうことになってくる。
そういう感動になってくると思うんですよね。
だからそれが、別にそこは常識の範囲でも別にいいと思うし、
でも常識から外れた方がそういうことが生まれやすいっていうことなんだとは思うんですよね。
感動にまでね。
感動するとやっぱり近くの外から来る感じっていうかね。
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っていうのがこれボードレールのショーでございました。
面白い。
いいですよね。
ちょっと振り返ってくると、レンブラントもそうだし、このパウロ・ウィッチェロもそうだし、
なんかね、画家の本能、本来持ってる。
それが常識を打ち破っていって、自分がもう貧しくなってでもそういうのを打ち破っていって、感動してるっていう。
なんか絵画がそういう歩みをね、全体でこう歴史というかね、そういう歩みをたどってきたんだなっていうのが、
なんか改めて、この視点で見るとすごく面白いなって。
美術の教科書とかでもしかしたらたどってるのかもしれないんですけど、
でもなんか平泳で終わってたものがすごく鮮やかに入ってきました。
これちょっと何回も言っちゃうんですけど、
中世の宗教画と近代のインキンゴを取り入れた絵って全然違うじゃないですか。
本当に感動したんだろうなって思ってる。
全然違うから。
マジで感動したんだろうな。
ちょっと時代を追わさせてもらった感じありますね。
ありますね。
開いたのも沸き立ったほうなんですが。
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