今回は、柳宗悦さんの『南無阿弥陀仏』。
南無阿弥陀仏というたった六字に、どれほどの悲願、温かい響きが込められているか。
柳宗悦さんの美文を通じて、仏の世界に触れていきましょう。
サマリー
このエピソードでは、南無阿弥陀仏の「南無」に秘められた意味や、柳宗悦の「奇妙」について、また自力・他力の考え方を深く探求しています。自力と他力を通じて、自己を捨て去ることの重要性が語られ、最終的には全ての道が一つの頂きに至ることが示されています。また、自力と他力の関係や浄土教における民藝の不思議な美しさについても議論されています。特に柳宗悦による民藝の記述を通じて、芸術と職人の仕事に見られる美の重要性が強調されています。さらに、自力と他力の概念を通じて浄土教の深さが探求され、南無阿弥陀仏の意味や六輪仏の役割について考察され、仏の音の世界に触れることが重要視されています。
南無の意味探究
それでね、ちょっと一旦次の話題行きたいんですけど、
南無阿弥陀仏の南無っていうことは扱ってないので、ちょっとそれを扱いたいんですよ。
あー確かに。阿弥陀の方扱ったね。阿弥陀仏のね。
そうなんです。一応南無ってところにも触れておきたいなと思って。
南無って一般的にはさ、帰江するって言われてるよね。
で、別の本とか読むとね、帰るに夜じゃなくて帰るに命って書いて、奇妙っていう風に言う時とかもあるんですよ。
へー。
で、柳さんは、南無っていうのは奇妙なんだっていうことを言ってるんですよ。
ほうほうほうほう。
で、ここも帰江じゃなくて奇妙っていう言葉を選んでるところに、やっぱりちょっと違うんだと思うんですよね。
前回もそういう話ありましたね。
そうそう。それで、ちょっとそこの部分読んでみていいですか?
はい。
奇妙とは必強、己を捨て去ることである。
何者か大いなる者に命を投げ討つとしても、または無情な者に召され己を捧げるとしても、
または命の源に帰り行くとしても、いずれも己を捨て去ることが南無である。
って言うんですよ。
おおー。己を捨て去る。
そう。そうなんですよ。
へー。
面白い。
ちょっとニュアンス違うくないですか?
うーん、そうだね。
奇江って言うとさ、やっぱりえって寄りどころっていう感じじゃん。
帰るところでもあるし、寄りどころでもあるっていう、そういうニュアンスじゃないですか。
はい。
でもこの奇妙ってなった時に、この奇妙にも命に帰るとか、いろんな言い方があるんだけど、捉え方があるんだけど、
柳さんは命を投げ打つことである。命を投げ打つ。己を捨て去ることである。って、そういうこと言うわけなんですよ。
うーん。
面白いね、なんか。
なんか帰っていくみたいなイメージとはまたちょっと違って、捨てるとか手放すとか。
そうなんだよね。
うーん。
とにかく自力ってものをもう廃絶する。自分でやろうとすることを徹底的に手放していくっていう。
はあはあ、確かに。だって己がいなくなるんだから自力もないもんね。
そうなんですよ。
うーん。
柳さんがその、罪深さ、罪の場から始まるんだって言ってた要素とかも、やっぱここには入ってるんだと思ってて。
うーん。
自分の至らなさを痛感するがゆえに、自分を手放すことができるっていう。
うーん。
自力と他力の道
なるほどね。
うーん。ナムってそんな考えたことなかったな。
うーん。
でね、ちょっとそれを踏まえて、ちょっといよいよクライマックス入っていくんですけど。
うーん。
結構後半の章に自力と足りきっていう章があってですね。
まあ、そろそろこれ虫目に入っていってる段階なんですよ。
はあ、虫目だなあ。
そうなんですよ。この段階だからこそ、語られてくる話ができて。
確かに聞きたいわ、この段階の。自力と足りき、気になる。
ちょっと読んでみますね。
待ってましたって感じですね。
ちょっと美しいんでね、もうバーって読んじゃいたいんですけれども、読んでいきます。
はい。
1ページ半ぐらい読むんですけど。
はい。
自らの力に立ち得る者は自力の道を歩いてよい。
力ざる者は足りき道に身を任せねばならぬ。
この二道が人間のために準備せられたことは、いかにありがたいことであろう。
だが、人間の業のいたすところか。
自力、足りきの二道に道を分けたとき。
互いに争いが起こり、妬みが現れ、やがては布尻が聞こえ尻づけが始まったのである。
そして、己の道のみが真の道であるとか、他より勝るとか、他では救われぬとか、今も諦めは絶えぬ。
人間は宗派のためにどんなにしばしば血なまぐさい争いを繰り返したかわからぬ。
だがこの二道は、同じ山を一つは右から登り、一つは左から登るのと同じ意味がありはしまいか。
人間の性情により、境遇により、いずれかを選ぶに至るまでではないのか。
登る道が異なるにつれ、見る光景も違い、道の良し悪しも違うであろう。
道のりとても同じではあるまい。
右の道は決して左の道とは言えぬ。
しかし、そんな際は道の途中にある時の事柄に過ぎまい。
残時、登るにつれて視野に入る天望は近寄ってくるのである。
そうして、ついに峰に達する時、二つの道は途絶え、一つの頂に結ばれてしまう。
その時、前に開ける光景は全て同じになっていることに気づくであろう。
自力、他力と分けるのは、我々がまだ道の途中にある時に過ぎない。
もしも、妬みやそしりが心に起こるなら、
自らがまだ道を徹していない証拠だと変えりみてよくはないか。
道の途中にあるものが、その優劣を論じたとて、どれだけの意味があろう。
人々は、その名数に応じて、いずれかの道を選んでよい。
ただ、くれぐれも留意すべきは、途中で旅を終えてはいけない。
また、途中で頂きに来たと思い謝ってもいけない。
また、自分の道のみが誰にとっても唯一のものだと思い過ごしてはいけない。
ただ、己に適するいずれかの道を選ぶべきである。
しかも、終わりまで登り切ることが慣用である。
そうして、道は異なるとも、頂きは常に一つだと知ってよい。
その時、無駄な争いはなくなるであろう。
そうして進んでは、このように異なる二つの道が与えられている、
その節離に感謝を捧げるであろう。
その時こそは、お互いがお互いを尊び、
敬う心に溶きあうであろう。
自己を捨て去る重要性
って書いてるんです。
いいね。
ずっと読んでないんですけどね。
一旦、拭き取っておきましょう。
確かにじゅんさんも読んでて、気持ち良さだったね。
本当美しいですね。
ここまでいろいろ語ってきてね、
我々も結局全員たりきでいいじゃないかって話しましたけれどもね。
でも、自力で歩めるものは自力で歩んでいいんですって。
そうだよね。そこが面白いね。
二つの道で同じ山の頂きを目指しているんだと。
自力を否定してるものでもない。
そうそう。
興味深いところが、
山の頂きは同じだろうっていうこの例えに、
これなんですよ。
これちょっと飛んだところに全く同じ言葉で、
一文だけなんで読みますけどね。
だが、たりきの一道を徹したということは、
やがて自力の一道にそれが開口してくることをも示すのである。
たりきの道を尽くし切ったことによって、
自力の道と相対した姿をこのステージに見ないわけにはいかぬ。
ステージにって一辺のことなんですけど。
って言うんですよね。
たりきの一道を徹したということは、
自力の道と相対するのであると。
これ不思議じゃないですか。
めっちゃ不思議。
だって自力もたりきも一見対照的でありながらも、
それぞれ徹するなら同じ境地にたどり着くと。
うん。
これ受け取れないんじゃないかな。
どういうこと?ってなってる。
だって自力の人はさ、これだけドフックしてきたのに、
うん。
苦行も厳しい戒律も守ってやってきたのに、
なんで人物つないでるやつと同じつないでなあかんねん。
なんでそんなやつと同じ境地だと言われなあかんねん。
っていうことになるんじゃないですか。って思って。
なるよね、なるよね。
だからこの同じ境地って言われてるのが、
すごいことだと思ってて。
いや、この表現面白いよな。
面白いよね。
たりきの山が登るってどういうことかもちょっと気になるよね。
自力はイメージしやすいじゃないですか。
修行してひたすら心理をみたいなのは。
そうだよね。
たりきで念仏唱えるで山を登って頂に近づいていくっていうのは、
どういうことを意味しているのかとか。
うん、うん、うん。
面白いなと。
よりたりきになってきた話なのか。
うん。
なんなんだろうなあみたいな。
そうなんです。そうなんですよね。
うん。
うん。
これその共通して、
その自力もたりきもいずれも、
結局我を捨て去ることなんですよ。
さっきのナムの。
うん。
我を捨て去って、
その真の自己に変える。
その一点においては同じなんですよね。
その仏に変えるというか。
なるほど。
その一点においては同じ。
うん。
だから自力は、
自分の煩悩と向き合って、
自分の煩悩を手放していくっていうことによって、
こうなんていうかな、
自分の中に眠ってる仏と出会っていくっていう。
うんうんうん。
別の本で書いてたのは、
自分の中の大を発見していく道だ。
自力はって。
大、大きい。
大、それは仏を発見するってことなんだと思うんですよ。
自分の中に宿ってる。
うーん。
でもたりきっていうのは、
自分の中にある性を発見していく。
これも結局、
そのたりきっていうのは、
自分の罪深さ、至らなさってことを、
徹底的に痛感することによって、
仏が来てくれる。
性になればなるほど、
外にある大の偉大さに気づいていくっていう、
なんかそういう、
はいはいはい。
そういうルートで。
ほう。
うん。
なるほど。
なるほどって言ったけど、
すごいなぁ。
俺もちょっと、
わかってるようでわかってないっていうか。
まあでも、どうだろう。
自分の身近なところで引き寄せると、
詩を書くことって、
その自力に見えるんですよ。
自分で書いてね、
なんか言葉を紡いでね。
そうそう。
それは、
その詩の書き方をさ、
学んでみたりとか、
詩にもさ、
技法があるわけだからさ、
その技法を学んでみたりとかして、
詩の書く力を磨いていくっていうね、
自力と他力の関係
そういう側面であると思うんですよ。
だから自力の側面だと思ってるんですけど、
でも、
やっぱり書いていくと、
その、
言葉に欠かせてもらっているっていう、
感じになってくる、
いうのは、
足利きなんですよね。
うん。
うん。
まあ芸術ってそういう側面あると思うんですけど、
うん。
だから、
なんか似てんですよね、
そういう意味でね。
うん。
うん。
こうやって一つの道をひたすら、
突き進むイメージなのかな、
それとも今じゅんさんが言ったのって、
どっちかって自力と足利きが行ったり来たりしてるから、
ああ、なるほど、なるほど。
こうやっていくイメージなのかなとかね。
ええ、確かにね。
放送が広がるというか。
そうだよね。
うん。
うん。
確かに、
一度こそに徹しろって言ってるけども、
どうなんですかね、
僕ら自分の気質に合ったものを、
自分なりにこう選んでいって、
うん。
ねえ、
やり続けていったら、
自分に合うものをやり続けていったら、
どれをやってもたどり着くのかもしれないですよね。
民藝の不思議と美しさ
確かにね。
うん。
頂きが同じであるってことがまず大事なことなんだね。
うん。
うん。
味わい深いね。
ね。
そしたらちょっといよいよ最後なんですけど、
あの、民芸の話をちょっと触れて終わりたいなと思ってまして、
はい。
えーと、もうこれほぼ一番最初のところに戻ってくるんですけどもね、
あの、この民芸の記述っていうのはもう柳さん固有の記述だから、
ちょっとここを扱っておきたいなと思ってるんですよ。
はい。
うん。
ちょっと読んでみますね。
はい。
民芸の世界に来ると色々不思議なことに出会うが、
一番心を惹かれるのは、
誰が何をどう作ろうと、そのまま皆美しくなってしまう場合があることである。
拙くとも拙いままで美しく作ってしまうような不思議が起こってくることである。
つまり、醜いものなどが現れる、帰縁がなくなる時がある。
って書いてるんですね。
はい。
うん。
誰が何を作ろうと、そのまま皆美しくなってしまう。
拙くとも拙いままで美しく作ってしまうような不思議が起こってくる。
って言うんですね。
いいね。
で、この不思議の謎は、
浄土門にあるのではないか。っていうことなんですよ。
こんなふうに捉えるかと思ったね。
痺れましたね。
すごい痺れますな。
不思議ね。
個人的には大事なテーマなので、余計。
不思議。
いいですね、浄土門と。
もうちょっと読んでいきますよ。
偉い芸術家にならなければ、美しいものは埋めぬとなると、
職人には何も期待ができなくなる。
そうして民芸品に美しさが現れる期限はなくなってしまう。
しかるに事実はそうではない。
工人たちは別に偉い芸術家にはなり得ずとも、
なり得ないままにしばしば見事なものを作る。
それどころか、芸術家にすら容易に表せぬ美しささえ表すに至る。
このことは何を語るのか。
助かる資格があって助かるのではなく、
そんな資格もないままで助かるのである。
こういう不思議な事実をどう説明したらよいか。
って言うんですよ。
普通、芸術中の偉大な芸術家が偉大な作品を作る。
美しい作品を作る。
それだとすると偉大な芸術家以外は美しいものを埋めぬじゃないかと。
作れないじゃないかと。
そうなったら民芸品に美しさって現れる期限がなくなる。
でも民芸品には民芸品の美しさがある。
それはどういうことなのかって言うと、
その民芸の工人たちには別に偉い芸術家になってない。
なってないのに、なってないままにしばしば見事なものを作ると。
偉大な芸術家にすら容易に表せぬ美しささえ表すと。
この不思議をどう説明したらよいのか。
これはもうまるで助かる資格があって助かるのではなく、
そんな資格もないままで助かるって。
ここと似てはいませんかって。
浄土教の教え
その念仏王の話ってこと?
そうそう。
ある人に資格があって、ある人にないっていうことではない。
そういう、あの彼と似てるんじゃないかってことか。
そうなんですよね。
これちょっと、そこ具体でどういうことかって述べてるところがあるんですけど。
確かに聞きたいかもしれないです。
読んでみますよ。
ぼんぷたる後人たちから、どうして成仏している品物が生まれてくるのか。
仕事を見ていると、そこには心と手との数限りない反復があることがわかる。
ありがたいことに、この繰り返しは才能の才を消滅させる。
下手でも下手でなくなる。
下手でも下手でなくなる。
この繰り返しで品物は浄土に連れて行かれる。
この働きこそは、念仏と同じ不思議を生む。
なぜなら、これで事故を離れ事故を超える。
あるいは事故が働きそのものに乗り移ると言ってよい。
自分でやって自分でなくなる。
この繰り返しの動作と年々の生命とは似て、似ないようで大いに似たところがある。
生命には我が入ってはなるまい。後人の働きにも我が残ってはならぬ。
この我を晒しめるものは他念であり反復である。
って言うんです。
ちょっともうちょっと読んじゃおうかな。
でもどうだろう。
もうちょっと読んでみるか。
考えると後人たちは知らずして聖名をしながら仕事をしているとも言える。
焼物師が六郎を何回も何回も回すその音は、
ナムアミダブツナムアムダブツと言っている音である。
他のことではあるまい。
反復という聖名がなくなると後人たちは元の梵府に泊まる。
何者をも美しくは作れない。
浄土門の教えはここでも虚言でないと知れる。
誠に不思議な縁であるが民芸品、いわば下凡の器が、
梵府浄仏を説く浄土教に私をいや近づかしめる仲立ちとなったのである。
って言うんです。
いいね。
ちょっとあれだな、すごいことが言われすぎて。
そうだよね。
一旦流しで読んだんですけど、絶対ちょっと味わいません?
味わいましょう。
読みたいな、こんなに読みたいなと思うことないですね。
僕は今手元にないから。
読みたいですね。
ここだけでも読んでほしい、本当に。
味わいましょう。
最初の一つ二つのところだけでもいいんですよ。
一章二章だけでもいいんですよ本当に。
もう一回ね。
梵府たる後人たちからどうして浄仏している品物が生まれてくるのか。
これだから品物にも浄仏している品物としていない品物があるって。
そこね、すごいよ。
そんな考え方します?みたいな。
そうなんです。
だから普通の僧侶、優れた僧侶の人たちであっても、
おそらくこの浄土門の師っていうのは人間に適用される人間のためのものだと思ってるけれども、
柳さんは人間のためだけではないと思ってるんですよ。
もうそれは実に物にまで適用されていくべき真理なのだって。
柳さんは思ってるんですよね。
これが素晴らしい。
人間が作ったものなのかな。
人間というものを介して何か出来上がってくるものに適用されるのかな。
またちょっと違うのかもしれないね。
どうなんでしょうね。
深そうだね。
人間に全く触れてない、例えば自然であってもそれは浄仏されているとか、
そういう話もしていきそうだけどね。
なるほどね。
ちょっとわからないけど。
でもそういうふうにね。
ぜひぜひ。
仕事を見ているとそこには心と手の数限りない反復があることがわかるって。
ありがたいことにこの繰り返しは才能の才を消滅させる。
下手でも下手でなくなる。
この繰り返しで品物は浄土に連れていかれると。
この働きこそは年々の念仏と同じ不思議を生む。
それも不思議な言いましたよね。心ともの。
心と手との数限りない反復。
心と手か。手の数限りない反復。聞いたことないね。
ろくろの話がでもわかりやすかったですね。
確かにね。
ずっとさ、もうやっていって無心になるっていうか、
志村福美さんとかもさ、織物やってると無心になるみたいな感じっていうかさ、
日記で雪がバーっと私の中に入ってきてみたいな、雪の精霊たちがみたいな、
なんかああいうなんだろうな、無心になっていくみたいなものがきっとあって、
だからその心も手も数限りない反復があって、
だからその心も手も数限りない反復があると不思議な世界に入っていくと。
で、それがなんかあれなんだよね。
だから念仏を唱えてるとやっぱ似てるんだってこと言ってんだよね。
何か無心になっていく、我を捨てるような入り口に入っていく、
なんかキーみたいなものが似てるのかな、念仏を唱えるみたいな。
心と手の往復みたいな話を。
この反復、繰り返しが。
反復。
念仏も反復なんですか?
念仏も反復。年々の念仏ってこれ年々って時々刻々のって意味だと思うんですよね。
だから何回も何回も念仏を唱えていくって。
まあ念仏もね本当はね触れてないけど1年1回でいいのか他年多い方がいいのかってね、なんかこういうバトルもあるらしいんですよ。
まあいいじゃないですかそれは一旦ね。
でもたりきの一堂を徹するっていうのはさ、多分1回だけじゃないでしょう。
徹するっていうんだからさ、もう何回も何回も唱えるんじゃない?
なるほどね。
っていうその繰り返し。
面白いなあ。
浄土教の探求
人によっては修行に見えるよね。
人によっては自力の修行にも見えるよねきっとね。
そうなんですよ。
でもやっぱそういう側面あるんじゃないですか。
でも仮にそこまでね修行できない、念仏も1回しか唱えなかった、それでも大丈夫。
神論は言うんでしょうね。
そっかそっか。
唱えなくても大丈夫なんだからね。
唱えなくても大丈夫なんだもんね。
たったこの数虚だけでもむちゃくちゃ、味わい深いんですけど。
そうですよね。
あともうこれ素敵だなと思ったのがさ、この六輪仏はね、
何回も何回も回すその音は南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言っている音であるっていう。
これはたまんない。
映像浮かび回すもん、なんか音も聞こえてくるような感じがする。
すごいですね。
これ、これもさっきね、前回ちょっと扱った神論に至ると、
聖名ではなく門名、仏の名を聞くことに至るっていうのは、まさにこれじゃないですかね。
そう聞こえなくても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏っていう音が至るところで鳴ってくれてるんですよね。
なるほどね。
なるほどね。
蝉の鳴き声、蝉の鳴き声、蝉の鳴き声。
なるほどね。
蝉の鳴き声一つとっても、こぼりいたする声も。
これはいいですね。
何か人間を称えてるような感じもするし。
でも大げさな感じじゃないのもいいな。いや、いいっすね。
いいっすね、しか。
いいですね。ということでございました。扱えたかったことすべて読み終わりました。
自力と他力の考察
どうでした?扱ってみて。
いやーそうですよね、本当に。
いろんな学びがありましたね、本当に。もうちょっと言い尽くせないほどの学びがありました。
なんか僕、そうだな、なんかその、こういう仏の世界に触れていけばいくほど、このレンズで世界を見れるようになっていくっていう、これがいいんですよね、やっぱね、素晴らしいことだと思ってて。
例えば、俺は聖書を読みは読むほど、やっぱ文学のさ、ドストエフスキーの深みがわかってくるみたいなところと同じように、
例えば石森みちこさんなんかもさ、苦害浄土って言ったりとかさ、
そのあそこの浄土の意味合いがグッとこう深まって入ってきたりとか、
石森みちこさんのタイトルに奥土って本とかもあるんだけど、あれももう浄土教、浄土門の言葉なんだよね、とかね、
なんかそういう今まで流してた言葉とかも、グッと入ってくるみたいなこととかが起きたりするのも、僕的にはすごい面白いし、
なんだろうな、その、やっぱり仏像を見たり雷合図見たりすると、この話を思い出してきたりして、
なんかまたそういうものともうまく親しくなれる感じもしてくるし、
でも究極的にはやっぱり最後読んだこの、いろんな音に生みた仏っていうふうなことを感じるとか、
仏の光を感じてくるようになるみたいなこととか、
そういうものがやっぱり近づいていく読書体験だったと思うんですよね。
本当に最高です。
最高。
中田さんは何か印象に残ったものとか一つ挙げるとすると。
いやー、なんか自力と他力みたいな考え方は、まあ言葉としては知っているけど、
改めてすごく考えさせられた人たくさんいたんじゃないですかね、私もその一人。
皆さんの自分の今の生き方とか仕事とかに引き寄せて考えても、
何か気づきがあるんじゃないかな。
しかもそれが今日扱ったように一つの頂きに目指して繋がっているみたいな話ですって、
どういうことみたいな、なんか。
なんかそれがいいですね。
それがいいなと思ったらどういうことってことを言ってくれる先人がいるっていうことのありがたさというか。
なんかそんなものを今言いながら感じましたね。
絶対読むぞと。これは絶対読もうと。
これがシンプルな感想です。
嬉しいな。いや本当に、そのためにやってるみたいなとこありますから、本当嬉しいです。
全部読みたいですね。
本当に。
もうネルマンも死ぬほど読みたいものでした。
読み返したくなるだろうね、何かこう年を重ねてくると。
素晴らしかったです。
100分で名著でね、新欄扱っている多端にしを扱っている回があるんですよね。
あれのラストにね、井住さんがまた素晴らしいこと言っててね。
なんかね、自分はこの番組の最後で言うありがとうございますっていう言葉をね、
生身だぶつだと思って言いたいと思うんですよ。
いいね。
でもそれぞれこれ聞いてくれてる人も自分の今の営みとかやってることの中に
あるかもしれないと思って見に行ってみると面白いかもしれないですね。
その一挙手、一挙手の。
一挙手のことをね、見に行ってみると面白いかもしれないですね。
あるかもしれないと思って見に行ってみると面白いかもしれないですね。
その一挙手、一挙足の一言一言の中にね。
きっとあるんでしょうね、この話で一緒にも。
素晴らしいね。
素晴らしい。
なんで、生だぶだぶつを込めて今回もありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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