1. 千利休生誕5百年記念作品「茶聖あり」
  2. 第1話 天下人・秀吉の野望支..
2022-06-30 08:33

第1話 天下人・秀吉の野望支えた名プロデューサー【千利休生誕500年 第2部】

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「その日、京都は雷鳴がとどろき、雹(ひょう)が降った」。天正19(1591)年2月28日、天下統一を果たした豊臣秀吉に仕え、茶の湯を究めた千利休が、切腹して果てた。享年70。堺の商家に生まれ、安土桃山時代の武将・織田信長、秀吉の側近として政治的にも絶大な存在感を示したが、秀吉の怒りに触れたという。

政治や武家に通じ、今に至る茶道を大成した千利休は今年が生誕500年になる。多方面の活躍と謎の多い生涯で現代人をも引きつける「茶聖」の魅力に迫る。

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https://www.sankei.com/tag/topic/life_109/

                                                                                       

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00:10
政治や武家に通じ、今に至る茶道を体制した千利休生誕500年を迎えます。
多方面の活躍と、謎の多い生涯で現代人をも引き付ける利休。
その魅力に迫るシリーズ、「茶聖あり千利休生誕500年」を、菅俊介のナレーションでお届けします。
第2部は、戦国時代茶人と名称、政治がどう結びついたのかをたどっていきます。
第1話 天下人 秀吉の野望を支えた名プロデューサー
茶の湯に善の精神を取り入れて和美茶を体制させた千利休。
この利休の茶を天下統一の野望のため最大限利用したのが豊臣秀吉だった。
織田信長が天章十年、1582年の本能寺の編で辞任した後、茶を通じた信長のブレーン、利休を側近とした。
秀吉の政治は劇場型、民衆にどのように移るかを常に意識した、と指摘するのは熊倉勲、日本ミュージアム館長、権力基盤を固めるためのプロデューサーとして欠かせないのが利休だったと話している。
秀吉は民衆の心をつかむため、天章十五年、1587年の京都での北の大茶湯で、公家や大名、庶民まで身分を問わず招えた。
この時に用いられたのが黄金の茶室。床の間や壁など全て金で飾られ、人々の度肝を抜いた。
詫びの世界とは対照的な派手さが際立つが、熊倉さんは利休にとってこれほど面白いものはないと思って作ったのでは、と話す。利休の詫びは陰と陽で成り立ち、黄金の茶室はまさに陽だった。
ただし天下人になると庶民へのアピールも必要なくなった。利休の利用価値は減少し政治的に無力になった。そして天章十九年、1591年2月28日、利休は秀吉に切腹を命じられ、七十年の人生を閉じた。
03:01
利休生誕五百年にあたる今年3月、黄金の茶室が復元された。利休が活躍した京都や大阪ではなく、遥か西方の九州、朝鮮出兵の最前線として築かれた佐賀県唐津市にある名古屋城跡に隣接する県立名古屋城博物館だ。
この博物館の学芸員久野哲夫さんは、名古屋城は戦のイメージがあるが茶の湯や能など文化が花開いた中心でもあったと話す。
秀吉が名古屋城を築いたのは、利休切腹翌年の天章二十年、1592年。城内には黄金の茶室と共に、利休の詫びの世界を竹で表現した質素な荘安茶室も出来た。
朝鮮出兵にあたっては、全国から大名が集められ、高山羽恒、細川忠沖、的の名を三歳、古田織部ら、利休を茶の師とした利休七徹も名を連ねた。戦に備えながらも互いにお手前を披露し、磨き合ったのだろうと久野さんは言う。
黄金の茶室が最初に使われたのは、天章二十年、五月二十八日。同じ月の三日に朝鮮の使徒、漢城、今の僧侶を陥落させて勢いに乗る中、大名を招えた。
翌文禄二年、千五百九十三年五月には、朝鮮出兵の講話で訪れた、中国、敏の直師をもてなした。俗世間を離れて心を清め、仏の世界に近づくことを求めた利休の茶。しかし名古屋城の茶室は、戦時外交の駆け引きの舞台でもあった。
敏の直師はその後、宗安茶室にも招かれた。黄金と宗安という両極端な茶室だが、秀吉としては最高な形でもてなすという意味で矛盾はなかった、と久野さん。相手を最優先に考える点で、利休と思いは同じだったのではないか。
昨日も利休の茶で食事をして、とても愉快で気分がよかった。秀吉は天章二十年、名古屋城から母親にこのような書状を贈っている。利休は前年に切腹しており、利休の茶は利休流に立てられた茶とされる。
この書状について久野さんは、あくまで想像ですが、としながら、天章十五年の秀吉の九州平定との関連を指摘する。既に朝鮮半島や民攻略の構想があり、利休も随行した。
06:19
かつて九州の地で利休に話した朝鮮出兵がついに実現した。秀吉は壮大な名古屋城に陣を構えて、あらためて利休を思い出したのかもしれない。切腹に追い込んだ戒困の城なのか、追暴なのか。秀吉にとって利休は死後も大きな存在であった。
千利休が生きた時代は戦国。茶の湯を通じ、名だたる武将とつながった。茶人と名称、政治がどう結びついたのか。お届けしたのは産経ポッドキャスト茶生有、千利休生誕五百年第2部の第1話。天下人秀吉の野望を支えた名プロデューサーでした。
第2話は、レジェンドの誕生、最角見抜いた織田信長もお伝えします。利休と信長の関わりを紐解きます。なお産経ニュースでは文章、写真やグラフィックでお楽しみいただけます。産経ニュース千利休で検索してください。ナレーターは菅俊介でした。
産経新聞社がお届けする茶生有。最後までお聞きいただきありがとうございます。番組をフォローすると最新エピソードが自動でダウンロードされるので、外出の際にはデータ容量を気にせず楽しめます。番組右上のフォローボタンから是非フォローをお願いします。また、アップルポッドキャストでは高評価とレビューをお待ちしております。
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